第11話「戒めの檻」
帰り道を歩きながら、アイはラミウの表情を横目で窺った。
ラミウは黙ったまま、呆然と前を見つめている。
(ラミウ、なんだか元気がないみたい。僕が変なこと言っちゃったかな)
アイはラミウの気持ちになって、必死に理由を考えた。
原因は先ほどの会話の中にあるのだろうと、言われたことを思い出してみる。
(僕の言葉でラミウが揺れる……これってどういう意味だろう。グラグラしてるようには見えなかったけど)
素直で裏表の無いアイにとって、ラミウが語る小難しい比喩は通じていないようだ。
自分の知識と常識に則り、アイはラミウの立場になって考えてみる。
(そうだ、きっとお腹が空いてるんだ。隠れ家に帰ったらナマズを捌いて、ラミウにいっぱい食べさせてあげよう)
そこまで考えたところで、アイは大事なことに気付いて立ち止まる。
突然止まったアイを見て、ラミウもゆっくりと振り返った。
「アイ、急に止まってどうしたの?」
「――どうしよう。上流に籠罠を仕掛けたままだ」
頭を抱えるアイに対し、ラミウは至極どうでもいいと言った様子で息を吐いた。
「いいよ、そんなの明日にしよう。仕掛けて時間も経ってないし、捕れても一匹かそこらだよ」
「駄目だよ。ラミウにナマズを食べさせなきゃ。お腹が空くとラミウの心が悲しいままだ」
アイの物言いに対し、ラミウは眉間に皺を寄せた。
「なにそれ。まるで私が食い意地張ってるみたいに言う」
「だってそうでしょ? お腹が空くから不安になったり、悲しいことばかり考えるんだ」
意味不明な持論を一息に語るなり、アイはラミウにタライと木桶を押し付ける。
「戻って籠を回収してくる。十分くらいで戻るから、ラミウはナイフを出しておいて!」
そうしてアイは、ラミウの制止を一切聞かずに全力で来た道を駆け戻った。
「アイー! ちゃんと十分で戻って来てよー! 戻らなかったらナマズのお腹は全部私が食べるからねー!」
隠れ家から川の上流まで、片道で三十分は掛かる距離だ。
十分で戻るというアイの言葉を賭けのネタとして楽しみながら、ラミウはひとりで帰路に就いた。
「十分なんて冗談だよね? 言葉通りに帰ってきたら、すごいって飛び跳ねて拍手しちゃうかも」
ラミウは出入り口のハッチを閉め、石段を降り、水晶灯をひとつ灯す。
そして、隅に積まれた荷物の中からナイフを一本取り出すと、切っ先を指で軽くなぞった。
「あれ、ちょっとだけ刃こぼれしてるかな……」
ラミウはナイフを片手に持ったまま、ガラクタ入れと化している木箱の中を覗き込んだ。
(砥石はどこにあったっけ。ナマズはヌルヌルで切りにくいし、一応研いでおこうかな)
木箱の中に手を滑り込ませ、ラミウは必死に砥石を探す。
ふと、背後で大きな影が揺らめき、ラミウの手元が暗くなった。
「――はっ!」
驚いて後ろを向くと、古いシーツの天蓋に大きな影が透けている。
「誰かいるの……? 一体誰っ!?」
「俺だ。声を聞きゃ誰か分かるだろう」
砥石を探すのに集中していて、気配に気付くのが遅れてしまった。
嫌というほど聞き慣れた声に、ラミウの震えが止まらない。
「ダルシットおじさん? 待って……っ、今天蓋を開けるから……!」
持っていたナイフを後ろ手に隠し、片手で天蓋を恐る恐る捲る。
薄暗い地下路に立っていたのは、ラミウにとって、この世の誰よりも恐ろしい存在。
「よう、ラミウ。暫く会わない内に、随分と良い暮らししてんじゃねぇか」
「ダルシットおじさん……っ、こんな所に来るなんて珍しいね」
ダルシットはラミウの顔を覗き込み、酒臭い吐息を吹きかけた。
あまりの臭いにラミウは目を閉じ、顔をしかめる。
「うっ……私に何か用?」
「暫く顔を見てねぇからよぉ。地下路中を探し回ったんだぜぇ?」
ダルシットは土足で隠れ家へ上がり込むと、無遠慮に周囲をくまなく見回す。
その様子は、まるで何かを探しているかのようだ。
「珍しいな。アイザークは一緒じゃないのか」
「ナマズを獲りに出かけてる。十分もしたら戻って来るよ」
「十分か……ちと短ぇが、仕方ねぇな」
呟くなり、ダルシットはラミウの頬を殴りつけた。
「――きゃうっ!」
ラミウは勢いよく壁にぶつかり、毛布の上へと倒れ込む。
「ガハハッ、子犬みたいに可愛い声で鳴きやがる!」
「痛いっ……おじさんっ、急に何をするの……っ!?」
ダルシットは倒れたラミウの顎を掴み、体重をかけて馬乗りになった。
「うぐっ、んうう……っ! どいてっ、重たくて息が出来ないよ……っ!」
「はっ、ガキの癖に調子に乗りやがって! 小賢しい邪魔者がいねぇ内に、立場ってもんを教えてやるよ!」
ラミウは息苦しさに喘ぎながら、小さな手でダルシットの胸を必死に叩く。
迫る上体を押し退けようにも、壁のようでビクともしない。
「嫌だっ、離れてよっ! 大声を出して人を呼ぶよっ!?」
「呼んでみろよ。どうせ誰も来やしねぇさぁっ!」
固く握った巨大な拳が、ラミウ目がけて何度も容赦なく襲い掛かった。
次第にラミウの意識が霞み、抵抗する力を失っていく。
「グヘヘッ……こうしてると、お前の母親を思い出すぜ。あいつも今のお前のように、必死に泣いて抗っていたなぁ!」
「はぁっ、はぁっ……おじさんなんかにっ……お母さんの何が分かるって言うの……っ!?」
「傍で見てたんだから分かるさ。小さなお前を育てる為に、俺の顔色を伺って頭を垂れてたんだからよぉっ!」
ダルシットから放たれた予想だにしない発言に、ラミウは言葉を失った。
荒い息を繰り返しながら、その言葉に聞き入ってしまう。
「――だがな、せっかく苦労して手に入れたのに、あの女っ……病気で早々に死にやがって!」
「そんな……苦労して手に入れたって、どういう意味? お母さんにはお父さんがいるんだよ!?」
「お父さんがいたの間違いだろう。倫理観のないこんな街じゃあ、未亡人なんて食い放題だっ!」
ラミウはもう、何も知らない子供ではない――
ダルシットが吐く言葉の意味を、嫌でも理解してしまう。
「嫌だ……もうやめて……! 私、もう何も知りたくないよ……!」
「はははっ、俺は本当に可哀想な男だぜ。だが同時に、辛抱強い男でもある!」
「お願いだからっ、これ以上何も言わないでぇっ!」
「お前がここまで大きくなるのを、ずっと待っていたのだからなぁっ!」
襲い来るであろう更なる暴力を覚悟して、ラミウは固く目を瞑った。
その瞬間、石段の上で重いハッチがゆっくりと開く音がする。
「――ラミウ?」
ラミウは音のした方へ視線を向けた。
石段の上には、呆然と立ち尽くすアイの姿。
ほんの僅かな静寂の後、状況を一目で把握したのか、アイは途端に血相を変えた。
「この野郎っ、ラミウに何をしてるんだぁぁーーっ!!」
アイはかつてないほどの大声で叫ぶなり、石段を大股で駆け降りる。
そして、そのまま勢いを付けてダルシットの身体を蹴り飛ばした。
「ぐふっ―― どわあああっ!」
不意打ちを食らったダルシットは、天蓋を破いて巻き込みながら、隠れ家の外へと吹っ飛んでいく。
アイはすかさずラミウに飛びつき、上体を慎重に抱え起こした。
ラミウは顔を伏せたまま、アイの顔を見ようとしない。
「ラミウっ、大丈夫!? あの男に何かされたの!?」
「はぁ、はぁ……大丈夫……ほんの少し殴られただけ……」
ほんの少しとラミウは自分で言うものの、殴られた頬は赤黒く腫れ、口の端が切れていた。
大切な人を傷つけられて、アイの表情が激しい怒りで歪んでいく。
「……っ、すぐに頬を水で冷やそう。僕の肩につかまって、転ばないように立ち上がって」
ラミウはアイの手を取って、血に濡れた顔をゆっくりと上げる。
その瞬間、ラミウの視界はアイの肩越しに迫る影を捉えていた。
「アイ、危ない! 後ろから来てる!」
アイが咄嗟に振り向くと同時に、ダルシットはアイの頭を片手で掴む。
そしてそのまま、渾身の力でアイの頭を石造りの壁へと叩きつけた。
「――っがあっ!」
脳を揺らす衝撃と共に、アイの視界に閃光が走る。
アイは壁に身体を預け、ズルズルと力なく倒れ込んだ。
「ガハハッ、まだまだ寝るには早い時間だぜぇっ!?」
ダルシットの猛攻は止まることを知らない。
アイの首を両手で掴んで頭上へと高く持ち上げると、壁に押し付けて締め上げる。
「アイ……! そんなっ、もうやめてぇっ!」
「ぐっ、ううっ……! ラミウ……早く逃げてっ……!」
とてもじゃないが、アイの力ではダルシットから逃れられない。
アイは両腕でダルシットの腕を掴み、喘ぎながらも必死に藻掻く。
「おじさんっ、お願いだから手を離して! このままじゃアイが死んじゃうよっ!」
「ああ、死ねばいいさ! 前から目障りで気に入らなかった!」
ラミウは状況を打開すべく、必死に周囲を何度も見回す。
ダルシットの行動に気が動転する中で、どこかにあるはずの〈ある物〉を探した。
「殺してやる……っ、お前だけは許さんぞアイザーク……! お前なんぞに俺のラミウを盗られてたまるかぁぁっ!」
「ふっ、ぐうぅっ……ラミウは……っ、お前の物なんか、じゃない……っ!」
ラミウはまるで、狂った動物のように四つん這いで這いまわった。
中身が散らばった木箱の中を、捲れ上がった絨毯の中を、すべてひっくり返していく。
(確かここら辺……っ、倒れた拍子に落としたはず!)
そして一刻を争う中で、ラミウはついに〈ある物〉を見つけた。
破れ落ちた天蓋の下で、光るナイフの切っ先を――
「……いいやっ、ラミウは俺の物だ! 俺がずっと狙って来たんだ!」
ラミウがナイフに向かって駆け出すと同時に、ダルシットは喚き散らした。
「ラミウも、ラミウの母親も! 欲しいものを手に入れる為なら、兄だってこの手で殺してやった!」
勢いのままに吐き捨てられたその言葉は、ラミウの境遇と苦悩の根源。
すなわち、今日に至るまで伏せられてきた父の死の真相、真実である。
ラミウはナイフを両手で掴み、憎しみを胸に抱いたまま、ダルシットの背へと突進した。
「アイから手を離せぇっ! ダルシットォォーーーーっ!!」
殺気に気付いたダルシットは、勢いよく振り返る。
背後には、今まさに刃を突き立てんとするラミウの姿。
ナイフの切っ先を躱そうと、ダルシットは咄嗟に巨体を翻した。
その拍子に、ダルシットの手がアイの首から完全に離れる。
「……げほっ、駄目だラミウ……! キミは殺しちゃ――」
自由になったアイはダルシットの脇をすり抜けて、突進するラミウの前に立ちはだかった。
そして、あろうことか切っ先に向けて、自ら右腕を振り上げる。
「――ぐああぁっ!」
鋭い刃は勢いのまま、アイの手首を貫通した。
溢れた血液が柄を伝って、ラミウの両手を赤く染める。
「はぁ……はぁ……アイ、どうして……!?」
あまりのことにラミウは顔を青くして、狼狽えながらも視線をナイフからアイへと向けた。
「なんで……なんでよっ! どうしてアイツを庇ったりしたの!?」
「ぐ……庇ったんじゃない……。僕はラミウに……誰かを殺させたくなかったんだ……っ!」
アイは左手をラミウの両手に重ねると、固まった指を一本ずつ力任せに外していく。
ラミウが完全にナイフから手を離したところで、アイは柄を強く握り、一息に刃を引き抜いた。
「うがあああぁっ!」
溢れ出た血が足元に血だまりを作る。
ラミウは動揺しながらも、アイの血だまりの中に〈黒い何か〉が蠢くのを見た。
「ガハハッ、同士討ちたぁ憐れなもんだっ! いい気味だぜ、アイザーク!」
「はぁ……はぁ……ここはまるで戒めの檻だ……! 弱い人ほど奪われて……心を滅茶苦茶に汚されるっ……!」
床に落ちた血だまりから、黒い粒子が音を立てて沸き立ち、アイの足へと纏わりつく。
「アイ……!? あなたの足に黒いものが、何かがあなたに集まって――」
「ごめんねラミウ。僕は結局弱いから……力に頼るしか方法がないんだ」
アイは傷ついた右腕を、頭上に高く突き上げる。
「エグゾスケルトン起動―― エンゲージッ!」
ポッカリと開いた傷口から、鮮血と共に黒い粒子が迸る。
血液から外界へと飛び出した粒子は、瞬く間に自己増殖を繰り返して、アイの全身を包み込んだ。
「アイ……その身体……! あなたは一体、何者なの……!?」
粒子は意志を持つかのように、幾何学的な装甲を形作り、アイそのものを異形の怪物へと変貌させる。
変わり果てたアイの姿は〈暗黒の羊〉そのものだった。
頭部から伸びる二本の角に、偶蹄目を思わせる鋭い蹄――
「僕はアイ……アイザーク。〈魂の器〉を身に纏う、機戦羊と呼ばれる者!」
怪物に姿を変えたアイは、ダルシットを冷たく睨みつけた。
アイの全身に刻まれた刺青が、鼓動と共に蒼く明滅を繰り返す。
「こんな環境に甘んじて、自らの立ち位置を変えようとしない。進むことすら諦めて、奪うことばかり考える……。醜く腐敗したお前なんかが、ラミウを汚す権利はない!」
「ひいいっ、何者なんだぁお前はよぉぉっ! 機戦羊って、まさかお前……〈軍の羊〉かぁっ!?」
混乱するダルシットの言葉に対し、怪物は落ち着いて静かに呟いた。
「――分からない。自分が本当は何者なのか。人間なのか、怪物なのか」
そして、あどけなさを残した〈アイ〉の声で、低く淡々と冷酷に言い切る。
「分かるのは……お前が僕の敵だってことだ。お前は僕がこの手で消す!」
怪物は両腕を顔の前で交差させ、薙ぎ払うように空を切った。
吹きすさぶ一陣の風が、ラミウの前髪を揺らした瞬間――
凄まじい衝撃波と共に、ダルシットの姿が赤い霧となって掻き消える。
四方八方に飛び散った血が、隠れ家の天井を染め上げて、雨のように床へと降り注いだ。
「きゃああぁっ!」
悲鳴を上げるラミウを血の雨から庇うように、怪物が全身で覆い被さる。
「アイ……あなた、本当にアイなんだよね……?」
ラミウの言葉を肯定するかのように、怪物は静かに頷いた。
「――ラミウ」
聞き慣れたいつものアイの声で、怪物がラミウに向けて囁く。
「ラミウ、僕の変異が解ける前に、一刻も早くここから逃げよう」
「ここから逃げる……スラム街から? これから夜が深くなるのに?」
ラミウの言葉に怪物が頷く。
「この姿なら滝を登れる。ラミウを逃がせるのは今しかないんだ」
怪物は懇願するかのように、ラミウの額に自らの鼻先を擦りつけた。
外骨格から僅かに伝わる体温が、ラミウの心に不自然な安堵をもたらしていく。
「アイ……私怖いよ……! だって私、ここ以外の世界なんて知らないもの……!」
「ここより怖い場所なんてない。こんな所に居続けたら、ラミウはいつか殺されてしまう」
「今から外に出るなんて危険過ぎるよ! 夜は獰植物が狂暴になる!」
怯えるラミウを落ち着かせるように、怪物は額をラミウに合わせた。
「違うよラミウ。危険なのは外でも、ましてや獰植物でもない」
アイの声で話す怪物は、心の中を見透かすように、ラミウの瞳を真正面から見つめ続ける。
「本当に危険な存在は……綺麗なキミを汚そうとする、汚くて醜い人間たちだ」
ラミウはハッと息を飲み、大きく瞳を見開いた。
目の前の怪物が〈アイ〉ならば、共に行く以外に他はない。
ラミウは怪物――
アイの首に両腕を回し、力いっぱい抱き締めた。




