第54話「お兄ちゃん」
■更新お知らせ
作者はアストロジカ第三章:ソウル支部編のために韓国旅行へ取材に行ってます。
(ソウル支部はまだまだ先だが今から取材に行くんだ……)
暫くは水曜更新のみです。
白銀の大地に血の花が咲く。
雲間から月が姿を現すと同時に、赤羊峰を覆っていた濃い霧が晴れていった。
そして――
宙を舞った周の身体が、力なく雪原へと落ちていく。
战斗羊の断末魔は、春梅の耳にも届いていた。
春梅は背後を振り返り、落下する周の姿を見る。
「……っ、周お兄様!」
春梅は赤羊峰の頂上に岳を残し、周の元へ駆け出した。
頂きに聳える黒い塔に縋りながら、岳は信じられないものを見るように春梅の背を睨む。
「くそっ、どいつもこいつも俺を置いて行きやがってっ! 俺ってホントにモテねぇよなぁ……っ!」
岳は悪態をつきながらも、暗黒星石の塔にセルを流す準備を始めた。
身体を擦りつけるようにして表面に積もった雪を落とし、残された右手を押し当てた。
「――接続!!」
周の身体が春梅の腕の中へ落ちるのと、赤羊峰全体にセルが流れたのは、ほぼ同時であった。
春梅に抱かれた周の身体を除き、地を這うセル光の波紋に触れた動植物たちは、一瞬で塵となっていく。
焔が馬代わりにした小さな動植物も、喰われてもなお膨張を続けていた小満も――
(岳……彼はどうしてセルエネルギーを練れるんだろうか。まさか桃花酒を飲んでないのか?)
息も絶え絶えに横たわりながら、焔は山頂の岳を見つめる。
浅い呼吸を繰り返すたび、体内に埋まった鉄扇が僅かに揺れ、胸の奥に激痛が走っていた。
(少しヤバいな……怒面を解除したら失血死するかも……)
焔は全身を強く力んだまま、少し離れた場所から春梅を見る。
周の上体を胸に抱き、しゃくりあげながら泣く彼女に、いつもの冷静さは残っていない。
「お兄様、うわああんっ、おに……お兄ちゃん……っ、おにいちゃああーーーーんっ!」
かしこまったお兄様から、幼い頃のようなお兄ちゃんへ――
春梅はまるで子供のように、周の胸に顔を擦りつけて泣いていた。
頭上に響く泣き声を聞いて、周はゆっくりと目を見開いた。
涙に濡れた女の顔を、焦点の定まらない瞳がぼんやりと見つめる。
『――春……梅……?』
「お兄ちゃん……会いたかったよう……ずっと、ずっと会いたかったの……」
自らを見下ろし涙を零すは、見知らぬ大人の女の姿。
それなのに、泣きじゃくる顔には幼かった妹の面影がある。
『どうしたんだ……お前、また誰かに揶揄われて泣いてるのか……?』
战斗羊――
周は春梅の頬に手を伸ばした。
しかし、その腕は肘から先が失われている。
妹の涙に触れることなく、腕の断面が虚しく宙を撫でるだけ。
「お兄ちゃん、私……お兄ちゃんに謝りたかった……! あの日、あの時……笑顔でお兄ちゃんを見送れなくて、悲しませちゃってごめんなさい……!」
『ああ……あれは本当にうるさかった……俺を呼ぶお前と母さんの声が、神輿の中まで聞こえてたから……』
「お兄ちゃん、私……お兄ちゃんを迎えに来たの。お母さんの待つチベットへ帰ろう?」
周は驚いたように目を見開き、春梅を見上げる。
『迎えに来た……この俺を、赤羊峰の霊廟まで……?』
高く麗しい周の声に、地を這うような低い声が重なった。
「うん……お兄ちゃん……そして、歴代の战斗羊さん……今までの長いお勤め、本当にお疲れ様でした……!」
周の胸に顔を埋めて、春梅は絞り出すように礼を告げた。
「お兄ちゃん……もう戦わなくていいよ。頑張り続けなくていい。ネパールとの国境付近に、ツァルカっていう名前の村があるの……」
家族を战斗羊として送った遺族が集まる小さな村。
大自然の中に存在する、人とネオフェネックが共存する長閑な楽園。
春には必ず雪解けを迎え、色とりどりの花々が咲き――
夏には蜜蜂が忙しなく飛び交い、村人たちの笑い声が絶え間なく響く。
「お兄ちゃんが眠るのは、英雄も何も関係ない……村でひとつの共同墓地。オートマタマザーの歌声が奏でる、愛の喜びが響く場所……」
春梅の語る〈オートマタマザー〉とは――
文明から隔絶された集落にて、人を導く機械人形。
サンテックス軍が管理を放棄した土地では、失われた秩序を守るために、このような存在が配備されていることが多い。
オートマタマザーやファザーと呼ばれる彼らは、獰植物の蔓延る地にて、信仰対象同然の存在であった。
人より長い命を持ち、歴史を歌にして伝え続ける。
〈めでたし、めでたし〉のその先の、遙か未来の子孫まで。
战斗羊の御霊にとって、その誘いは希望でしかない。
春梅の言葉を聞いた周の瞳から、赤い涙が流れ落ちた。
家族の元へ帰ることのできない战斗羊に、迎えが来たのは初めてのことだったからだ。
『俺も……私も帰っていいのか? 家族たちの待つ平穏な家に――』
「もちろん。ツァルカ村の人たちが……いつまでも、いつまでも見守るから……」
春梅は涙を拭いながら小さく笑った。
战斗羊は静かに息を吐き、蒼い薔薇の輝く空を見上げる。
身を焦がすほどの激しい闘志は、責任と共に燃え尽きていた。
空っぽになった战斗羊の心に残されたのは、寂しい、帰りたいという原初の願望のみ。
战斗羊の両の目から、赤い涙が滝のように零れていく。
『ああ、俺の戦いは終わったのか。身も心も、本当にヘトヘトにくたびれたぞ……』
呟かれた声と自嘲混じりの笑い声は、まるで木々の騒めきのよう。
地を這うような低い声たちが、周の声に重なるように静かに震えて泣いていた。
『春梅……俺を……私たちを村に運んでくれ……。この身を形作る数多の御霊を、一人残らず楽園へ――』
「うん、一緒に行こうね……家族たちの待つ、ツァルカ村へ……!」
周が力尽きるように目を閉じた瞬間、異形を包む繭が割れた。
巨大な赤黒い毛皮の異形は、裸の煙を抱えたまま、形を崩して蕩けていく。
赤羊峰の英雄伝説は、英雄たちの魂の帰還で幕を降ろした。
そう、誰しもがそう思った――
その時だった。
塔に縋りついていた岳が、腹の底から声を張り上げる。
「おいっ、お前ら後ろを見ろ! なんかヤベェのが迫ってるぞ!」
割れた繭の中から無数の触手が伸び、焔と春梅、周の身体に襲い掛かった。
触手は三人を絡め取ると、巨大な繭玉の中へと引きずり込む。
「岳、そのまま塔にセルを流し続けろっ! 最悪ひとりで逃げてくれっ!」
繭の中でひしめき合う、無数の触手たち――
四方八方から押し寄せる凄まじい圧に、焔は咄嗟に両腕で頭を守った。
「ぐっ……!」
蠕動する触手に押し潰されそうになるたび、埋まった鉄扇が体内で軋む。
焔は怒面を解くこともできず、全身に力を込めたまま、ただ圧迫に耐え続けた。




