第51話「共騎行」
赤羊峰を覆う霧が、珍しく薄く棚引く夜。
厚い雲の向こう側で、天を揺蕩う蒼い薔薇が水晶灯のように輝いている。
焔と春梅は互いに無言で前を見据え、共に頂上を目指していた。
「空気が冷たい……姉さん……今頃、凍えてないかな……」
幼い頃の煙はよく、焔を布団の中に招いて夜伽話をしてくれた。
聞かせてくれる内容は、煙が战斗羊として戦う、夢いっぱいの冒険活劇。
――正義の心を持つ战斗羊は、助けを呼べば駆けつけるのだ。
赤羊峰にて耳を澄ませ、人々の声を聞いている。
助けての声を聞くや否や、黒い髪を風に靡かせ、蹄を鳴らして駆けつける。
――どんな時でも人類の味方……まさに真の英雄である。
布団の中で肩を寄せ合い、楽しそうに語る煙を見て、焔の内心は複雑であった。
大勢の見知らぬ他人のために、命を賭すなど正気ではないと幼いながらに思っていたから。
煙は昔から、誰かのために自らを犠牲にすることを厭わなかった。
焔自身、煙に相当甘やかされたと思っている。
焔は煙と大雪の中を歩いた日のことを思い出す。
――焔、うぬは小さいから、我の身体を風除けにしろ。
焔の数歩先を歩みながら、煙は笑ってそう言った。
姉さんの身長も、僕とそんなに変わらないじゃないかと言葉を返したのも覚えている。
――でも、うぬは大事な大事な弟だから。姉である我が守ってやらねばならぬのだ。
誰の影響を受けたのか、やけに仰々しい一人称。
転びそうになりながら、深い雪の中を大股に歩く。
勇ましい姉の背を追うように、後ろを歩くのが好きだった。
煙が踏み固めてくれた道を歩くと、心丈夫になれたから。
雪のない夏は影を踏み、秋は落ち葉を踏んで歩く。
息を弾ませて駆ける煙を、数歩後ろで追いながら。
煙の進む速度に合わせて、決して置いて行かれないように――
「はぁっ、はぁっ……穆焔さん。もう少しだけ……歩く速度を抑えてくれませんか……っ!?」
不意に声を掛けられて、焔は立ち止まり振り返った。
春梅が息を切らしながら、駆け足で焔の背へと追いつく。
「あ……ごめんね。置いて行きそうになってたかな……?」
「げほっ、けほっ……はぁっ、あなたの歩幅が大きいから……はぁっ……こっちはまるでランニングです……っ!」
まるで壁に縋るように、春梅は焔の背に両手を預けて暫し呼吸を整えた。
雪深い夜の峠は、身体の小さな女にとって、かなり厳しい道のりのようだ。
(困るな……自分のペースで歩けないのは。置いていくわけにもいかないし)
焔は春梅を見下ろしながら、どうすればいいか考えた。
彼女を運んでやる義理などないので、彼女自身で対処できる方法を。
「向かい風が吹いてるから、僕を風除けにしていいよ。上へ行くほど雪が深いから、僕が踏んだところを歩いてくれ」
「……ありがとうございます。優しいですね……まるで周兄さまみたい……」
春梅の言葉に焔は戸惑う。
他人から優しいなどと言われたのは、この時が初めてだったから。
「優しくなんか、ないと思う……僕はただ――」
姉がしてくれたことを、自分より弱い他人に返しているだけ。
勝手に弱って動けなくなって、足手纏いになるよりはマシだ。
「そんな気はなくとも、行動が人なりを作りますから。……お返しに私も気に掛けてあげます」
春梅は鞄から厚手のタオルを取り出すと、焔の額に押し当てた。
突然顔を覆われて、焔は驚き後ずさる。
「びっくりした。何のつもり?」
「汗をかいているようでしたから。服が汗で濡れてしまうと、身体が冷えて危険です」
綺麗なタオルが血で汚れるのを厭わずに、春梅は焔の汗を拭う。
タオルが鎖の食い込んで裂けた傷に触れ、首に鋭い痛みが走った。
「――う……っ」
同時に、首を締め付けていた鎖の感触が蘇る。
焔は息苦しさを覚え、春梅の手からタオルをそっと奪い取った。
「……はぁっ、はぁ……ありがとう。あとは自分で拭けるから……っ」
柔らかな口調とは裏腹に、焔の表情は切羽詰まったように歪んでいた。
眉間に深い皺を刻み、肩で息をする姿には明らかに余裕がない。
「体調が優れないようですね……。少し座って休みますか?」
「いや……具合が悪いのはもう慣れてる……。ここ最近、ずっとこうなんだ……」
節々が痛むほどの熱に、目が潤むほど激しい頭痛。
全身が火照り汗が止まらず、そこはかとなく吐き気もする。
一度横になって眠ってしまえば、再び立ち上がれそうにない。
焔は着ていたウインドブレーカーと、汗まみれのインナーを立て続けに脱いだ。
露わになった身体から白い湯気が立ち昇り、冷たい夜気に溶けていく。
肌の表面が冷えると共に、身体に籠っていた熱が僅かに引いた。
「……多分、二日酔いか何かだと思う。毎日頭が割れそうになるほど、苦い酒を飲まされたから」
「苦いお酒……? 桃の甘いお酒ではなく?」
「白酒だと思う。灼熱感が続くから、裸でも寒くなかったんだ」
話しながら、焔は両手でインナーを束ねて雑巾のように強く絞った。
勢いよく滴る汗を見た春梅が、慌てた様子で一歩飛び退く。
「暑いわけがないと思ってましたが、説得力がありますね。ちなみに今も暑いんですか?」
「うん……でも、これを着たら流石に風邪引いちゃうよね?」
「そうですね。捨てていくのもなんですし……ジッパーバッグがありますから、この中に入れておいてください」
春梅は背負った鞄から透明な袋を取り出すと、口を開けて焔に差し出す。
焔はインナーを小さく畳み、袋の中へと押し込んだ。
「苦くて、度数の高いお酒……それも透明に澄んでいると……」
「消毒とか生薬みたいな……とにかく、苦くて舌に残る変な味だ」
「んー……桃花酒にも似たような灼熱感があるけど、強い甘さが特徴だし……」
少しひとりで考えて、春梅は何を思ったのか――
袋の口を筒状に絞ると、鼻を近づけて匂いを嗅いだ。
あまりにも自然な一連の動作に、焔は止める間もなく固まってしまう。
「わっ、わあぁっ! 春梅さん……お前、狂ったのかっ!? どうしてそんなことするんだよっ!」
「――っはぁっ。やっぱり、郷の人特有の甘い香りがまったくしない……!」
袋の中のインナーに続き、焔に貸したタオルにも――
春梅は鼻を押し当て、大きく息を吸い込んだ。
焔にとって、とてもじゃないが気分のいい状況ではない。
羞恥以上に恐怖の方が勝ってしまう。
「やめてくれよ、春梅さん。そんなもの……僕の目の前で嗅がないで……」
「穆焔さん! 私ともう一度キスしませんか!? あなたの舌下を舐めさせてっ!」
それでも春梅は引かず、焔の胸に縋って迫る。
焔は目を据え、春梅を正面から睨み下した。
「……お前、本当にいい加減にしろよ。口に舌を入れたら最後、次は根本から噛み切ってやる」
堪忍袋の緒が切れた焔は、両手で春梅の肩を掴む。
一触即発の空気の中、春梅と焔は睨み合う。
その時、真夜中にも関わらず、周辺の木々から鳥の群れが一斉に飛び立った。
同時に、激しい轟音と共に大地が揺れはじめる。
「――なんだ、地震か!?」
「穆焔さん、あれを見てください! 赤羊峰の辺りで雪崩が起きてます!」
春梅は焔の肩越しに、赤羊峰を指差した。
頂上から崩れた雪が、白い雪煙を上げて峰を滑り落ちていく。
揺れの余波は、ふたりのいる場所にも及んでいた。
足元の根雪に亀裂が走り、周囲の雪原が次々と盛り上がる。
「まずい……穆焔さん、先の関所まで駆け抜けましょう! 何か嫌な予感がします!」
「そうだね。はぐれないように僕の腕を掴んで!」
半ば春梅を引きずりながら、焔は峠を全速力で駆ける。
雪庇を踏み抜かないよう注意しながら、可能な限り最短の道筋を選んで。
その時、峠を駆ける焔の視界の端で、積もった雪が大きく弾けた。
「うわああっ、穆焔さんっ! どうしようっ、獰植物たちが起きだしてるっ!」
割れた根雪の隙間から、冬眠していた獰植物たちが次々と這い出してくる。
白い雪原のあちこちで蠢く影を横目に、焔は速度を緩めることなく駆け抜けた。
「今の揺れで起きたのか!? 戦ってる時間も体力も、僕たちには残されてないぞっ!」
全速力で山道を登る焔の前方に、朱塗りの関所が飛び込んでくる。
背後では獰植物たちが雪を掻き分け、ふたりを追いかけてきている。
「春梅さん、舌を噛まないように歯を食いしばって!」
焔は走る勢いを殺さぬまま春梅の腰と膝裏に腕を回し、その身体を横抱きに抱え上げた。
数歩踏み込んで関所との距離を詰めると、深く腰を落として雪を踏みしめる。
「えっ、ちょっと――」
次の瞬間、焔は地面を強く蹴った。
腰を捻る勢いに合わせて両腕を振り上げ、春梅の身体を関所の屋根目掛けて一気に放り投げる。
「うきゃああっ!?」
春梅の身体は勢いよく大きな弧を描いて宙を舞う。
そして、そのまま屋根に積もった柔らかな雪へ尻から強かに落下した。
その姿を確認するや否や、焔も関所の屋根に手を掛ける。
最初に崖を登った時の要領で、壁の僅かな窪みに指を掛け、両腕に渾身の力を込めた。
腕力で身体を引き上げながら、脚で関所の壁を蹴る。
屋根の縁に膝を掛け、積もった雪を蹴散らして、焔は何とか屋根の上へ登り切った。
(よし、だいぶ握力も戻ってきてる。疲れはあるけど戦えるぞ!)
少し自信を取り戻した焔は、両手を強く握る。
一方、投げられた春梅は、あまりの勢いに激しく目を回していた。
「はふ……穆焔さん、私……空を飛んだの初めてです……」
「投げてごめんね。獰植物たちが通り過ぎるまで、ここで静かに伏せていよう」
しかし、ひと息つく暇もない。
目覚めた獰植物たちが、関所の真下を次から次へと通過していく。
焔は雪に埋もれた春梅のもとへ身を滑り込ませると、彼女の身体を隠すように覆い被さった。
そのまま屋根の上へ低く伏せ、獰植物たちが通り過ぎるのを待つ。
「……んっ、ふぅ、ぐ……ううっ……!」
うつ伏せの春梅が低く呻き、身を捩じらせた。
焔は背後から、春梅の口を手のひらで覆う。
「声を抑えて、居場所がバレる」
「だって、重っ……身体潰れるっ……そんなに体重、かけないでよ……っ!」
百キロ以上の重さが背にのしかかっているのだ。
息ができず、藻掻いてしまうのも無理はない。
「あぁっ!? ごめんね! 何も考えず乗っちゃってた……っ!」
焔は慌てて腰を上げ、春梅の背に乗る体重を逃がした。
春梅は深呼吸を繰り返し、焔を恨めしそうに睨みつける。
しかし、背後の焔は、まるで叱られた大型犬のよう――
申し訳なさそうに眉を下げる姿が、雄々しい恵体にそぐわず、春梅は思わず笑ってしまう。
「……ふふっ、あははっ。何その顔。怒られたみたいにシュンとして」
「怒られるようなことをしちゃったからだよ。だから今は叱られ待ちかな」
「穆焔さんって面白いですね。鬼みたいに怖ければ、心根は穏やかで意外と優しい」
「そう? 面白いかな。いつも真面目なつもりだけど」
先程までの剣幕はすっかり消え、焔の表情には元の穏やかさが戻っている。
「それに……私の方こそ、ごめんなさい。さっきは変なこと言って。あなたが何を飲まされたのか、どうしてもすぐに確かめたくて」
「うん、僕も頭に血が昇ってた。事情があるって分かってたけど」
焔は瞼を震わせ、眼下の春梅へ言葉を落とす。
小さな声で、胸の内をぽつりぽつりと。
「怖いんだ……好きじゃない人に迫られるのが。戒壇での日々を思い出して……息が詰まって苦しくなる……」
言葉を紡ぐうちに、焔の両目から涙が零れ落ちる。
「毎日、毎日、イくか死ぬかを迫られて……地獄のような場所だった……。戻りたくない……あそこには二度と……」
英雄と呼ばれた男が、声を震わせて泣いている――
身体こそ成人男性より大きい彼だが、中身は未だ十七歳の子供である。
戒壇での仕打ちは焔の心に深い傷を与えていた。
分厚い筋肉に覆われた肉体を、内側から激しく震わせるほど。
「……ごめんなさい。本当に……すぐに助けてあげられなくて」
罪悪感を覚えながら、春梅は焔の手を強く握る。
背に当たる胸は熱く火照っているのに、指先は妙に冷え切っていた。
「穆焔さん……いいえ、焔さん。私があなたを頼ったのは、あなたが煙さんを愛してるから」
「な……っ、急に何を言い出すんだよ」
「恥ずかしがらなくても大丈夫。あなたには、私と同じ思いをしてほしくない」
「――春梅さんと同じ思いを……?」
「あの頃の私は勇気がなくて、周兄さんを救えなかった。だけど……せめて魂だけは、きちんと弔ってあげたくて……」
春梅の言葉を遮るように、関所の壁に何かが当たる音がする。
焔はゆっくり身を起こし、屋根の下を覗き見た。
関所の壁際には、馬ほどの大きさの獰植物が一匹。
壁を登ろうとしているのか、鉤爪で何度も壁を引っ掻いていた。
「……血の匂いに反応してるのかな。あいつ、僕らに気付いているみたい」
「一匹だけのようですし……降りてふたりで戦いますか?」
焔は腰から鉄扇を抜き、獰植物へ向けて開く。
しかし、無言で暫し考えた後、獰植物と自らの身体を交互に見やった。
やがて何かを思いついたように、焔は再び鉄扇を閉じる。
「いいや、ここは倒すのではなく――」
焔は屋根を蹴り、獰植物の背へ一気に飛び掛かった。
突然の行動に、春梅は驚いて小さな悲鳴を上げる。
「ちょ……っ、焔さん!? 一体何をしてるんですか!」
「大丈夫っ! こいつを何とか手懐けてみるよ!」
背後からの襲撃に、獰植物が甲高い咆哮を上げた。
自らの背に乗る焔の身体を振り落とそうと、激しく左右に身を捩る。
「ぐっ……このっ……大人しく、しろっ!」
焔は両脚で獰植物の胴を挟み込み、首にあたる部分へ両腕を回した。
暴れる動きに合わせて腕へ力を込め、太い首を渾身の力で締め上げる。
「ぬおおおおーーっ! 怒面、地獄門っ!」
突如として強まる腕の力――
強烈な締め付けに、獰植物が狂ったように跳ね上がった。
それでも焔は全身の力を緩めない。
獰植物が暴れるたびに両腕を首へ深く食い込ませ、締め上げる力を強めていく。
やがて、獰植物の動きが目に見えて鈍り始めた。
激しく振り回していた頭が下がり、荒々しかった抵抗も次第に弱まっていく。
「……そう、そのまま大人しくしてろ。僕の言うことを聞いてくれ」
獰植物は僅かに抵抗を続けているものの、締め上げられるのを警戒しているのか、先程よりも大人しくなった。
焔は獰植物の首に腕を回したまま、屋根の上にいる春梅を振り返る。
「よし、春梅さんも早く乗って! 赤羊峰までコイツに連れて行ってもらおう!」
「正気ですか!? 獰植物に乗るなんて聞いたことありません!」
「大丈夫、ほら早く! 僕の背中にでもしがみついて!」
春梅は屋根から飛び降り、恐る恐る獰植物の背によじ登る。
そして前傾姿勢の焔に覆いかぶさるようにして、その分厚い胴へ両腕を回した。
しかし、いくら腕を伸ばしても指先が腹の前まで届かない。
何とか掴まろうと五指を伸ばすも、焔の脇腹をわしゃわしゃと撫で回すばかり。
「あははははっ、やめてっ! お腹はくすぐったいよっ! うお……やばい、力が抜ける……っ!」
「どうしよう……! あなたの身体が大きすぎて、前まで腕が回らないですっ!」
「他に掴めるとこはない!? 首以外で、腰とかさ!」
焔は僅かに腰を上げ、出発に備えて騎乗の体勢を取る。
しかし、その腰回りも春梅の腕では抱え込めそうにない。
困り果てた春梅は視線を落とし、すぐ目の前にある焔の太腿へ両腕を回してしがみついた。
「大丈夫です! 焔さんの脚を掴みましたっ!」
「うん……そこなら大丈夫そうだね。振り落とされないよう慎重に行こう!」
「あの、絶対におならしないでくださいっ! 私の顔……っ、あなたのお尻の傍にあるんで!」
「…………」
今すぐ蹴落としてしまおうか――
そんなことを思いながらも、片腕を獰植物の首へ回したまま、焔は腰から鉄扇を抜く。
そして、鉄扇に微量のセルエネルギーを流し、獰植物の脇腹を軽く打った。
獰植物は小さく呻くと、雪を蹴り上げて走り出す。
焔と春梅を背に乗せたまま、赤羊峰の頂を目指して。




