第50話「生生不息」
背後に迫る気配に気付き、小満は咄嗟に振り返る。
しかし、時はすでに遅く――
黒い影は牙を剥き、小満の肩へと食らいついた。
「うわああぁぁあああーーーーっ!?」
噛みつかれた小満は半狂乱になって叫ぶが、黒い影は我関せず。
真っ赤な鮮血が飛沫を上げ、白い大地を汚していく。
突然の事態に霊廟は一時騒然となるが、小満と仲の良い阿鼠が助けに行こうと飛び出した。
「小満っ!!」
阿鼠は雪を蹴り上げて、小満のもとへ猛然と駆ける。
鉄扇を腰から抜くや否や、異形に狙いを定めた。
「化け物め、小満を離せ! 喜面紅宴っ!!」
怒りと共に練り上げたセルエネルギーを鉄扇に込めて、阿鼠は黒い影の頭を突く。
しかし、突き出した鉄扇は何の手応えもないまま、ぴたりと止まってしまった。
「なっ――」
一体どういうことだろうか。
恐ろしく鋭い血塗れの牙が、鉄扇を易々と噛み止めていた。
空洞と化した黒い目の奥には、夥しい数の羽虫が蠢き、鼓動と共に血が溢れ出す。
阿鼠は目の前の標的を見て、改めてその異様な姿に恐れを抱いた。
目の前の異形は一見すると、人の姿を成しているが――
体表に皮膚は一切なく、剥き出しの肉の塊そのもの。
体毛かと思われたそれも、よく見れば植物のツタのようだ。
阿鼠は全身を震わせながら、鉄扇を握る手に力を込めた。
「あれ……!? ど……どうして……! セルが鉄扇に流れていない……っ!?」
セルエネルギーの蒼い光は、獰植物の身体を分解する特性を持つ。
目の前の標的が獰植物なら、セルエネルギーを流した鉄扇に触れるのを嫌がるはず。
それなのに、それなのにだ――
どれだけ闘志を込めようとも、鉄扇は蒼く閃かない。
阿鼠は激しく震えながら、目の前の異形を恐る恐る見上げる。
異形は鉄扇を無言で噛み止めたまま、阿鼠を品定めするように見下ろしていた。
あまりの恐ろしさに、阿鼠は立ったまま小便を漏らしてしまう。
「なんでだよ……っ! どうしてセルが練れないんだぁっ!?」
半狂乱に叫ぶ阿鼠の顔を見て、異形は口角を上げてくつくつと笑った。
長い舌で阿鼠の腕ごと鉄扇を絡め取ると、笑みを浮かべたまま大きく口を開く。
紙を破くような音と共に頬が裂けていくその姿は、間違いなく生きた人間のものではない。
「うぅっ、うわあぁっ! 腕を離せっ! やめろ……醜い顔をおれに寄せるなぁぁーーっ!!」
阿鼠は慌てて逃げようとするが、異形の長い両腕が彼の全身を捕らえて離さない。
あっという間に異形は阿鼠の頭を頬張り、蛇のように飲み込んでいく。
最初こそ、阿鼠は悲鳴を上げて藻掻いていたが――
必死な抵抗も空しく、異形の固く鋭い牙で簡単に頭蓋を砕かれてしまう。
阿鼠は暫く痙攣して、なすすべもなく力尽きた。
その間、口の端から零れた脳漿が足元に倒れた小満へと降り注ぐ。
肩に傷を負った小満も、霊廟の中で立ち尽くす煙と岳も――
同志が目の前で喰われる様を目の当たりにして、誰一人身動きが取れずにいた。
『……美味しくない。肉付きが悪くて食いでがないぞ……』
そしてふと、異形の口から飛び出した人語に岳と煙の金縛りが解ける。
ふたりは腰から鉄扇を抜き、いつでも舞えるよう身構えた。
異形は霊廟のふたりを見て、不思議そうに首を傾げる。
『はて……あやつらは何故こちらに来ない。まったく最近の若いもんは……呼んでやらねば分からんのか?』
異形は両腕を交差させると、顔を拭うように下から上へと滑らせていく。
忽ち羊の顔は、苦悶と恐怖に歪んだ阿鼠の泣き面へと成り変わった。
その面相は、喜怒哀楽では形容できない純粋な恐怖と苦痛そのもの――
『煙、岳……どちらでもいいから助けてくれええぇぇーーっ! 誰かおれの手を引っ張って、郷へ連れて帰ってくれよぉぉーっ!!』
異形は霊廟に顔を向け、煙と岳を名指しして助けを乞う。
その面相や声色まで、何もかもが阿鼠そのものだ。
『どうしよう……こんな姿になっちゃったら、二度と郷へは戻れない! 父さんや母さんに顔向けできない! こんなんじゃ生きていけないよぉぉっ!!』
阿鼠の声で慟哭しながら、異形は左右に首を振る。
首が折れんばかりの勢いで、ツタのような体毛を振り乱して。
『全部っ、すべて善宝のせいだ! 善宝を殺した焔のせい! おれだって、きっと今頃は幸せになれたはずなのに……!』
異形は腕を天にかざし、鋭い蹄を喚く顔面に押し当てた。
そしてゆっくり力を込めて、阿鼠の両目を突き潰す。
『ああぁぁ嫌だっ、いやだぁぁぁぁっ、いはっ、ひひゃは、うひゃひゃひゃひゃひゃひゃひゃひゃひゃひゃひゃひゃひゃひゃっ!』
断末魔と高笑いが混ざり合った咆哮は、煙と岳のいる霊廟にまで響き渡った。
煙は思わず顔を背けて、両手で耳を塞いでしまう。
異形の様子を間近で見ていた小満も、すっかり怯えて立ち上がれない。
情けなく地面を這うように、霊廟に向けて逃げようと藻掻く。
「あっ、阿鼠……! そんなぁっ、うわあああーーんっ!」
小満の無様な姿を見て、異形は鋭い牙を覗かせた。
嫌悪を剥き出した相貌に、阿鼠の面相は消え失せている。
『情けない……無様に背を見せて逃げ出すとは。脂身ばかりで気色も悪い。下々の者へ譲ろうか』
異形は全身を震わせて四つん這いになると、自らのツタで全身を覆いつくした。
そして、まるで灼熱のマグマのように血肉を沸き立たせながら、巨大な怪物へと変貌していく。
その姿はまさに、赤羊峰に現れる赤黒い毛並みの英雄のよう。
巨大化した異形は赤黒い体毛を震わせて、天に向かって口を開いた。
『メヘヘヘヘヘヘヘェェェェェーーーーッ!!!!』
星空の中で揺蕩う青薔薇を睨みながら、異形はまるで慟哭するように咆哮する。
すると、どうだろう――
異形の咆哮に呼応するように、周辺の山々は次第に轟音を立て始めた。
その咆哮が峰周辺の根雪を割り、巨大な雪崩を引き起こしたのだ。
そして、雪が雪崩れて露出した大地から、眠っていた獰植物たちが次々と姿を現す。
「うわぁっ、獰植物……!? こんなに沢山っ……嫌だぁっ、誰か助けてくれぇぇーー!」
肩に深手を負っている上、腰が抜けて歩けない――
そんな状態で逃げられるわけもなく、小満は瞬く間に獰植物に捕らえられてしまった。
獰植物たちは久しぶりの獲物に歓喜しているのか、牙を鳴らして忙しなく啼いた。
肥えた四肢に爪を立て、弛んだ腹へ牙を食い込ませては、樹皮を剥ぐように贅肉を喰らう。
『よく聞け。雪解けまでの貴重な供物だ。殺してしまわぬよう大切に喰え』
獰植物たちは異形の言葉に従っているのか、小満の胸から上には決して手を付けない。
そのせいか、あれだけ厚みのあった脂肪はすっかり喰いつくされて、胸骨の下から傷ひとつない内臓が覗く有様である。
「痛いよぉ、もうやめてくれよぉー……殺すならさっさと殺してくれぇぇ……っ!」
自らの心臓が激しく鼓動する様を間近で眺めながら、小満は身体に生じる違和感に気付いた。
「なんで……どうして、いつまで経っても死ねないんだよぉぉ……っ! おいらの腸……こんなに太くて長かったかぁぁ……!?」
引きずり出された腸が、喰われる傍から再生している。
何十体もの獰植物が貪っているにも関わらずだ。
大腸に至っては小満自身の体積を上回るほどに増殖している。
とっくに喰われたであろう両脚の断面からは、腕や手指が樹木のように生えていた。
最早、小満の身体は四肢や五体といった人らしい概念から外れてしまっている。
黒い異形や獰植物たちの方がまだ、生物の秩序を保った形状をしているほどだ。
「うわぁ、うははっ、すごい、すごいや! おいらが増えるっ、増え続けるっ……あははっ、あは、あははははははっ!」
自らの傷を修復して無限に増殖していく姿は、まるで醜い植物のよう――
異様な姿に生まれ変わった身体を見て、小満はついに狂ってしまった。
「……っくそ!」
岳は隣に立つ煙の腕を掴み、惨状を背にして霊廟の入り口へと走る。
霊廟を境に赤羊峰へ続く山道は背の高い柵で仕切られており、来た道を戻るには門を通る他ない。
「煙、今すぐ下山しよう! 来た道を全力で駆け戻るぞ!」
「そんな……奴は战斗羊かも……我々が霊廟を離れていいのか……!?」
「あいつは战斗羊なんかじゃない! あれはどう見ても人類の敵だっ!」
ふたりは考えるよりも先に、霊廟の門を抜けた。
岳は傍らに置かれた閂に手を掛け、門を封鎖しようとする。
「岳、ちょっと待て! 周りをよく見ろっ!」
しかし、そんな岳を煙が慌てて制止した。
霊廟から郷への道は、獰植物たちによって包囲されていたのだ。
『はははははっ、逃げようとしても無駄だ! 者共よ、供物を捕らえて献上せよ!』
遙か背後の赤羊峰から、異形の声が高らかに響く。
その瞬間、待っていたと言わんばかりに、獰植物たちは挙ってふたりに襲い掛かった。
「おらおら退けよっ! 喜面紅宴ッ!!」
岳は鉄扇にセルを込め、激しい刺突で獰植物たちをハチの巣にした。
煙は岳に続くため、闘志を燃やしてセルエネルギーを練る。
しかし、いくら闘志を燃やしても、鉄扇にセルが流れない。
「岳、我もセルがまったく練れないのだ! 鉄扇が蒼く閃かない!」
「阿鼠も似たようなこと言ってたな……! その症状はいつからだ!?」
「分からない……昨晩までは何の異常もなかったのだ! 寝る前までは水晶灯だって灯せていた!」
獰植物たちをいなしながら、煙と岳は互いに思考を巡らせる。
「じゃあなんだ、異常が出たのは今朝からか!? お前らさては、酒にでも酔ってんじゃねぇだろうな!」
「……そう言えば岳は、今朝から桃花酒を一滴も飲んでないのだ! もてなされた菓子も食べていない!」
しかし、あれは霧恩寺が英雄たちを励ますために用意したものだ。
郷が一丸となって英雄たちの足を引っ張るなど考えられない。
そこまで考えて煙はふと、異形が獰植物たちに向けた発言のひとつを思い出す。
――……雪解けまでの貴重な供物だ。殺してしまわぬよう大切に喰え。
あの時、異形は確かに小満のことを〈貴重な供物〉と言い放った。
喰われても死なない小満の身体も、明らかに人間離れしていた。
「我らが供物……そんなはずは……」
煙は手に持った鉄扇で、自らの腕を掻き切ってみた。
真っ赤な鮮血が腕を伝い、肘から滴り落ちていく。
しかし、それはたった数秒のこと。
ぱっくりと割れた傷口は、忽ち綺麗に塞がってしまった。
「……おかしいっ、何故すぐに傷が治るのだ……!? これじゃあまるで――」
狼狽える煙の隙を突いて、獰植物が煙に向かって飛び掛かる。
岳は咄嗟に煙の身体を抱え、再び門の内側へと飛び込んだ。
間一髪で、ふたりは獰植物の牙を躱すことができた。
しかし、後を追って霊廟に飛び込んだ獰植物が、門扉の狭い隙間に挟まってしまう。
「――くそっ、化け物めが! このままじゃ中に押し入られるぞ!」
「何かないか!? この場を打開する方法が!」
煙は何か使えるものはないかと、必死に周囲を見回す。
そしてふと、霊廟の中央に鎮座する暗黒星石の塔を見た。
屋内では柱のようにも見えるそれは、天井を貫いて霊廟の外へと突き出ている。
まるで塔の周辺に、後から施設を建てたようだ――
煙は霊廟へ入る時から、この塔の存在を気にしていた。
一体、何のために造られたものなのかと。
「岳、この塔にセルを流してみてくれ! 何か仕掛けが作動するはずだ!」
「仕掛けっ!? なんでそんなことを知ってんだよ!」
「希華から聞いたことがある! インダスの聖地にも暗黒星石の塔があって、獰植物たちを寄せ付けないと!」
セルを流すための導脈紋が施されている以上、ただの柱であるはずがない。
おそらく明確な目的があって、霊廟に備わっているのだろう――
岳は考えるよりも先に、暗黒星石の塔に自らの両手を押し当てた。
「物は試しだっ!接続ッ!」
忽ち、岳の両手からセルエネルギーが迸り、暗黒星石に刻まれた紋が塔身を駆け上がるように次々と蒼く輝く。
やがてセル光が四角錐状の頂部へ到達した瞬間、塔は大きな衝撃波を放ち、周辺に蔓延る獰植物たちを一瞬のうちに吹き飛ばす。
門扉に挟まれた獰植物たちなど一溜まりもない。
塔のそばに立つ煙までも、吹き飛ばされそうになるほどだ。
「く……っ、岳の奴……なんて量のセルエネルギーだ……! こんな量は規格外なのだ!」
煙は岳の腰に縋りついて、顔を上げて表情を窺う。
岳自身も信じられない様子で、自らの手から迸るセルエネルギーに驚愕している。
「岳……っ、うぬの力は一体なんだ……!?」
「分からない……だけどよぉ、煙……! あの化け物の後ろに聳える、峰の頂上を見てみろよ」
煙は視線を外へ移す。
すると、霊廟から峰の頂上へと続くように、地面が所々蒼く輝いていた。
「なんだ……あの光は……?」
煙は目を凝らし、点々と続く光を注視する。
蒼く輝いているのは、先程の雪崩で根雪が割れて地面が露出した箇所ばかりだ。
しかも、その光はバラバラに点在しているわけではない。
霊廟から赤羊峰の頂上まで、まるで一本の道筋を描くように続いている。
「赤羊峰の頂上に何か見えないか? 雪に埋まっていて、ここからじゃあよく見えないが……」
「見える……四角錐状の黒い石? あれはもしや……塔の先端!?」
赤羊峰の頂上に、霊廟と同じ塔が存在する――
そう確信した煙は、勢いよく岳の顔を見上げる。
岳もまた、同じ結論に辿り着いているようだった。
「多分だが、霊廟の塔は赤羊峰の頂上に繋がっている。深い根雪の下には、暗黒星石の参道か何かが敷かれているんだろう」
「所々輝いているのは、参道に刻まれた導脈紋か! つまりこの塔は起動装置……!」
「おそらく、頂上にこれと同じ塔がある。赤羊峰自体が人類の砦だったんだ!」
赤羊峰の頂上を指差す岳を見て、異形は訝しげに顔を歪める。
『強き者が何故、桃花郷に? 突然変異か何かだろうか?』
そして異形は岳から塔へと視線を移し、蒼く輝く光を見上げた。
『蒼く輝く闘志の光。灯るのを見たのは久しぶりだ』
空洞の眼を僅かに細め、懐かしそうに眺め続ける。
傍で同胞たちが塵になっても我関せずといった様子だ。
一方で、塔にセルを流し込んでいた岳は、自らの両手に抵抗を感じる。
まるで勢いよく迸る水が手のひらに当たり、押し返されているような感覚――
塔に十分なセルエネルギーが充填されたのを確信して、岳はゆっくり両手を離した。
「ああっ、岳……手を離して大丈夫なのか!?」
「多分な。今はこれ以上流し込めねぇ気がするんだ」
塔は両手が離れても尚、蒼い光を放ち続ける。
岳は眼下の煙に目をやり、落ち着いた様子で静かに告げた。
「煙……俺は今から山頂に行って、赤羊峰を灯してくる。あの化け物を倒すには、多分他に方法はない」
「うぬが行くなら我も行く。たとえセルが流せなくとも護衛程度には役立つはずだ」
「いや、今のお前は完全に俺の足手纏いだ。赤羊峰が灯ったら、ひとりで山を駆け降りてくれ」
役立たずと言われたら、煙はそれ以上何も言えない。
桃色の唇を強く噛み、大きな瞳を潤ませる。
「……はは、そんな顔するなよ。嬉しくなっちまうだろうが」
「ふざけるな。真剣に心配しているのに、うぬはどうして喜ぶのだ」
「言えないね。言ったらお前、怒るだろうから」
岳は小さく息を吐き、手のひらで煙の頭を撫でた。
太く短い無骨な指で、額に張り付いた前髪を剥がす。
そして膝を折り身を屈めると、煙の額に顔を寄せた。
煙は咄嗟に目を閉じて、額に当たる熱を感じる。
「もしもこの場に焔がいたら……状況も大分変わったろうな。だけど、今は俺たちしかいない」
「我がいる……我がいるのだ……うぬと一緒に戦えるのは……」
「どちらかが帰れなきゃ意味がない。煙は郷へ戻ったら、今夜見たことを玄慈老師に包み隠さず話すんだ」
気配が遠のくのを感じ、煙は再び目を開く。
岳は霊廟を後にして、外へと歩き出していた。
残された煙が出来ることは、自身の無力を呪うことだけ。
「まただ……いつも肝心な時に何も出来ないっ! ふたりに並んでいたはずなのに、いつも差がついて追いつけない……!」
言ったらお前、怒るだろうから――
言葉に込められた感情に、気付かないほど子供ではない。
愛しいから、好きだから、守らねばならない存在だから。
非力だから、女だから、傍にいるだけで気が散るほどの役立たずだから。
「我はもう、ふたりの隣に立つことさえも許されないのか……!」
守ってくれなんて望んでいない。
けして、強がりなどではない。
「ただ我は……焔と岳の隣に立って同じ景色が見たかったのだ!」
志を共にした友と、未来に向かって歩き続ける――
今更、夢に気付いたところで関係は元に戻らない。
煙が立ち尽くす間にも、岳の背中は赤羊峰の頂上へ向かって遠ざかっていく。
やがてその姿を呑み込むように、何十体もの獰植物が一斉に岳へと襲い掛かった。
岳は鉄扇を閃かせ、鋭い牙を剥く獰植物を相手に奥義を繰り出す。
「がはははっ、テメェらその程度かよ! 俺の目を抉った熊より弱ぇわっ!」
鋭い牙や爪を受け、身体を少しずつ削られながらも、着実に一歩ずつ前へと進む。
顔に怒の面を浮かべ、全身を血で汚していく様は、まるで地獄の鬼のよう。
しかし、岳の無双もそう長くは続かない。
敵の数が多すぎるのか、足取りは徐々に重くなる。
一体を打ち倒せば二体が群がり、振り払う度に新たな個体が岳へと飛び掛かるのだ。
化け物でもない限り、その顔に疲労が滲むのは当たり前だ。
(山頂の塔に届きさえすれば、セルさえ流せばこっちのもんだ!)
満身創痍になりながらも、前へ進む足だけは決して止めない。
四つん這いになりながら、頂上へ続く石段を必死の形相で這い上がる。
『……はははははっ、そんな成りでは人か獣か分からんなぁ』
その時、遙か頭上から嘲笑う声――
血に霞む視線の先に、黒い異形が立ちはだかる。
『人間にしてはやるではないか。お前が今年の战斗羊か?』
「いいや……俺はただの護路衆さ……テメェこそ……まさか自分が战斗羊なんて言わねぇよなぁ……!?」
『そのまさかだ。私が伝説の战斗羊。赤羊峰を護る英雄神である』
「……クソみたいな伝説だな。獰植物を従えて、郷の人間を襲うなんて。どうしようもない邪神だぜ」
战斗羊と名乗った異形は、無言のまま岳を見下ろす。
そして小さく舌打ちすると、巨大な蹄で岳の背を思い切り踏み潰した。
「――ぐおおっ!? うっ……ぐふっ……っ!」
熟れて落ちた実が潰れるかの如く、岳の口から大量の血が堰を切って噴き出る。
振り解こうにも、背中を押さえつける蹄はびくともしない。
岳は血に濡れた歯を食いしばり、辛うじて異形を睨み上げた。
『战斗羊でなくて何よりだ。セルを有する強き者は、弄り殺す他に使い道がないからな』
「がはっ……はぁ……っ、俺が強き者だって……!? 俺は末期のコンセミアだ……決して強くなんかない……!」
『コンセミア……さてはお前、酒も菓子も食わなかったな? ったく……郷は何故こんな出来損ないを、赤羊峰に送ったのだ!』
――玄慈老師もついに耄碌してしまったか。
異形が何気なく呟いた名に、朦朧としていた岳の意識が覚醒した。
「おい……まさか本当に、あの酒と菓子に秘密があるのか……!? 煙たちがセルを練れない理由が……!」
『秘密も何も、私に対する郷からの配慮だ。供物を体内に取り込む上で、同類は実に馴染みやすい』
さも当たり前と言わんばかりに、異形は冷静に淡々と答える。
おそらく奴の言葉の中に、嘘偽りなどないのだろう。
郷と異形との結託を感じ取り、岳の全身から力が抜けていく。
「それじゃあ、俺たちはテメェの餌ってことか……とんだ茶番もいい所だ……」
『英雄の私と同化するのだ。恐怖に打ち勝つ意思強き者を战斗羊は歓迎する』
赤黒い毛並みを振り乱し、異形は天に向けて咆哮する。
異形が岳にトドメを刺そうと前足を高く上げた瞬間――
「待て! 今年の战斗羊はこの我なのだ! そんな弱者は放っておいて、まずは我の相手をしろっ!」
絢爛な披帛を翻しながら煙が颯爽と岳の前に割り込んだ。
「煙……っ!? 馬鹿野郎っ……どうして此処に来ちまったんだよ……っ!」
「我が人ではないからだ! 桃花酒を飲んだ我の身体は、既に醜い化け物と同じ!」
煙は鉄扇で手のひらを掻き切り、裂けた傷口を岳と異形に見せつける。
血液の中で黒い粒子が僅かに蠢き、裂けた傷は忽ち塞がっていく。
「どうだ……これで文句はないだろう! 喰らうのならば我を喰らえっ!」
『はははっ、美しく凛々しい顔立ちだな。体臭からしてお前は女か?』
「だったらどうする。我こそ郷に選ばれし战斗羊……桃花郷の英雄、穆煙なのだ」
異形は暫し無言のまま、煙を見つめて考える。
この状況下に割り込んで、まったく臆さないその姿は、言葉の通り英雄そのもの――
『ははっ、ははははっ! こいつは良い……まさか女が战斗羊とは、何とも素晴らしい話ではないか!』
異形は上機嫌に笑いながら、煙の乱入を歓迎した。
少なくとも、足元の岳への興味は完全に失われたようだ。
『峰で暮らして随分経つが、こんなことは初めてだ! どれ……少し品定めをさせてくれ』
異形は身体からツタを延ばし、煙の四肢を傷つけないよう拘束する。
『お前が纏う花嫁衣裳は、玄慈老師の意匠かな』
「……知らん。もしもそうなら老師の趣味は最悪だ。どこまでも我を馬鹿にしている」
『ぐふっ、ぐふふふっ! その通り……何から何まで滑稽の極みだ! 女を娶る日が来ようとは、私自身も驚愕だぞ!』
「うぬが我を娶るだと? 気色悪い冗談も大概にしろ! 我はうぬにとって餌でしかない!」
『確かにお前は餌でしかないが、女の身体は使いようだ。沢山の子を産ませれば、新鮮な血肉が食い放題だ』
異形の言葉に動揺してか、煙の肌に汗が滲む。
足元の岳は血相を変えて、異形に向かって怒号を放った。
「テメェッ、そんなこと俺が許さねぇぞっ! 煙の身体に乱暴したら、俺がテメェをブチ殺してやるっ!」
「黙るのだ岳っ!! 我らの会話に口を挟むなっ!!」
煙自身に強く制され、岳は思わず口を噤む。
そして怒りに顔を歪め、岳は拳で大地を強く殴った。
「なんだよ……なんなんだよ、このクソがぁっ……っ!!」
背後から聞こえる岳の荒い息遣いから、悔しさが痛いほど伝わってくる。
彼の想いを無駄にはしまいと、煙は真っ直ぐ異形を見据えた。
化け物相手に孕まされるなど、恐ろしく感じないわけがない。
それでも今、この場で岳を救えるのは一人しかいない。
煙は震えそうになる指先を握り込み、静かに腹を括る。
「わかった……すべてお前の言う通りにする。その代わり、岳の命だけは見逃してくれるか?」
『いいだろう。この男は見逃してやる。ただしこいつを逃がすのは、私たちの媾合が終わってからだ』




