第48話「赤羊峰へ」
煙と青衛護路衆たちが赤羊峰へと旅立つ日がやって来た。
苦楽を共にした同志たちや、郷の者たちに見送られ、煙と青衛護路衆は山門を抜けて山へと向かう。
战斗羊に選ばれた煙は絢爛な衣装を身に纏い、神として神輿に乗せられた。
素肌の上には金糸の刺繍が施された赤い衣を纏い、肩には長い披帛を掛けている。
同志や郷の者たちは天女か何かを見つめるように、美しい煙を惚けた眼差しで見送った。
対する青衛護路衆たちは、普段の道着に厚手の半臂。
足には厚手の革靴を履き、雪が入らないように脛の辺りで脚絆をきつく巻いている。
今年、神輿を担ぐために選ばれた青衛護路衆は総勢三名。
数が普段より少ないのは、焔と善宝が抜けたからだろうか。
前棒を岳がひとりで担ぎ、後棒を小満と阿鼠が担ぐ。
煙は神輿の小窓を開け、前を歩く岳へと声を掛けた。
「岳、重たくないか? 体調の方は大丈夫か?」
岳は背後を振り返り、神輿の中の煙を見る。
この極寒にもかかわらず、岳は額に汗を浮かべて身体から湯気を上げていた。
「大丈夫だ。山の空気が綺麗なせいか、調子が良いくらいだぜ」
「しんどくなったらいつでも言え……うぬは最近、体調が芳しくないのだからな」
「……俺も一応、怒面地獄門を会得してんだ。これしき重くも何ともねぇよ」
そう語る岳は落ち着いていて、強がっている様子はない。
おそらく、本当に苦にもしていないのだろう。
一方、後棒を担ぐ小満と阿鼠のふたりは、既に息を荒げていた。
「はぁ、はぁ、重たいよぉー! 肩に棒が食い込んで痛いーっ!」
「岳……ちょっと歩くのが早すぎるぞ……! おれたちのことも考えてくれよ……!」
岳の背が飛び抜けて高いせいで、神輿は後ろへ大きく傾き、その重さが後方のふたりの肩にのしかかる。
中にいる煙にいたっては、床に座れず背面の壁に寄りかかっている状態だ。
「岳、こいつらの言うことはごもっともなのだ。登り坂なのも相まって、神輿が傾き過ぎている」
「おっと、考えなしに前を担いで悪かったな。次の休憩で前後を変えよう」
神輿を地面に降ろせるのは、各所に点在する関所のみ。
中の煙に至っては、関所以外で神輿から出ることは許されていない。
関所には郷の者たちが数人待機し、軽食やお茶を振る舞ってくれる。
しかし、赤羊峰へ近づくにつれて、関所は次第に無人と化していく。
「うう……父ちゃん、母ちゃん……饅頭屋を継げなくてごめんよぉ……」
「泣くなよ小満……お前んとこは兄弟が沢山いるだろう。饅頭屋なら誰かしらが継いでくれるだろうさ」
峠をゆっくりと登りながら、小満と阿鼠は郷を横目に涙を零した。
自分が大役に選ばれることなど、予想だにしていなかったのだ。
おそらく、未だに覚悟も何も決まっていないのだろう。
ふたりの男の嗚咽を背に、煙は表情を曇らせる。
(かなり空気が重たいのだ……窓を開けて外でも見よう……)
煙も神輿の小窓から、遠ざかる郷を眺める。
郷を歩く人々の中に、会いたい弟の姿はない。
幼い頃に母と歩いた大通りも、弟と共に足しげく通った桃園も――
青春を過ごした霧恩寺さえも、遠い景色となっていく。
「焔……結局、最後まで会うことは叶わなかったな……」
無意識に呟いたひとり言が、唐突に煙の涙を誘った。
煙は神輿の小窓を閉めて、頬を伝い落ちる涙を拭う。
战斗羊に選ばれた者が嗚咽を上げるなど以ての外だ。
揺れる心を鎮めるために、煙は静かに目を閉じた。
(空気のように当たり前だった男の気配を感じない。一人とは、これほどまでに物寂しいものだったのだな……)
煙は孤独に痛む胸を抑える。
まるで心にぽっかりと穴が開いてしまったかのようだ。
神輿は重苦しい空気の中を、ゆっくり着実に進んでいく。
そうして、郷を出て一時間ほど経った頃――
煙を乗せた神輿は最初の関所へと辿り着いた。
「いらっしゃい、郷の新しい英雄さんたち。赤い羽衣とお神酒をどうぞ」
煙は岳の手を借りて、狭い神輿から這うように出る。
関所では郷の女たちが、甘い酒を振る舞ってくれた。
「玄慈老師から賜った桃花酒です。飲めば忽ち元気が出ますよ」
大きな器になみなみと注がれた、甘い香りを放つ酒。
半強制的に飲まされるそれは、ひとくち飲めば喉を焼くような灼熱感と共に、身体を芯から温めてくれる。
「美味しい……岳も飲むのだ。ポカポカになるぞ」
「いいや、俺は水だけでいい。酒なんて飲んだらぶっ倒れちまうかもだからな」
「そうか? 寒くなって後悔しても知らないぞ?」
どんどん下がる気温の中で、大量に振る舞われる菓子や酒。
関所で待機する者たちは、口を揃えてこう言った。
――赤羊峰の霊廟へ行くのならば、熱い桃花酒は欠かせない。
戦士たちは関所に辿り着くたび、振る舞われた酒を一杯呷り、温まりながら頂上を目指した。
「ねえ阿鼠、不思議と神輿が重くないね。おれ、もしかして酔っぱらっちゃってるのかなぁ」
「ああ、確かに不思議だよなぁ。これだけの距離を歩いているのに、全然足が痛くないよ」
岳と交代し、前棒を担ぐ小満と阿鼠の会話を聞いて、煙もそれとなく自身の胸元へと目を落とす。
山中は極寒であるにもかかわらず、煙の肌には玉のような汗が浮いていた。
(蒸し暑い……まるで夏の台所のようだ……)
霊廟が間近に見える頃には、絹の衣装が汗ですっかり濡れそぼる。
煙は神輿の中で披帛と羽衣を脱ぎ、胸元を指でつまんで仰いだ。
小窓を開けると、冷たい外気が肌を掠めて心地いい。
煙は上気した顔を窓に寄せ、神輿周辺の景色を見る。
濃い霧の中に聳えるのは、荘厳で巨大な赤い霊廟。
屋根を突き破るようにして、巨大な暗黒星石の塔が聳えている。
(なんだこの塔……表面に妙な模様が刻まれている。セルエネルギーを流すためのものだろうか?)
雪深くなるこの季節は、大地からのセル供給も弱まるのだろうか。
暗黒星石は光を放つことなく、漆黒を湛えて沈黙したまま。
煙がぼんやり口を開けて、外の様子を眺めていると――
「煙、もうすぐ霊廟に到着するから、脱いだ披帛を纏っておけよ」
後棒を担いでいる岳に、唐突に声を掛けられる。
「……なんで脱いでるって分かったのだ」
「それくらい気配で何となく分かるさ。ほら、霊廟の入り口はもうすぐそこだぞ。あと数分で着いちまう」
「わわぁっ、待てっ……急かすな! 焦ると上手く着れないのだっ!」
煙は披帛の裏表を正し、元通りに纏おうと躍起になる。
そして、慌てて着替える最中でふと、披帛の金糸が光を受けて輝いていることに気が付いた。
「なんだ……? 妙に眩しいのだ」
煙は小窓へと目を移し、あまりの光景の美しさに圧倒されて息を呑んだ。
尾根から望む広大な雲海が、黄昏の陽を受けて金色に輝いている。
雲の下にある桃花郷では、このような景色は見たことがない。
「すごい……まるで天上の世だ……これが战斗羊の望む景色……!」
生まれて初めて目の当たりにする美しすぎる光景は、これまで胸に渦巻いていた不安を簡単に払拭してしまう。
まるで催眠にかけられたように、皆一様に夕日を眺め、恍惚とした微笑みを浮かべた。
そしてついに、煙を乗せた神輿は、青衛護路衆たちの手で無事に霊廟内へと担ぎ込まれる。
その光景はまさに、神となった戦士たちが極楽へと至る姿そのものであった。
(焔……何故うぬはこの場にいないのだ。この光景をうぬの隣で、並んで共に見たかったのだ……!)
心から強く望んでも、煙の気持ちは届かない。
(ああ、焔……焔は今頃、何処で何をしているのだろうか……)
煙がそう強く思う最中、霧深き曇天の桃花郷では――
焔は春梅と共に霧恩寺を抜け出し、赤羊峰へと向かっていた。
「春梅さん、山門から離れてるよ! このままでは郷に出てしまう!」
「山門には見張りがいますから! 念のために今日は抜け道を行きます!」
焔は春梅の後を追い、暗闇が満ちる竹林を駆ける。
この竹林は、郷の地盤を固める為に植えられたものだ。
竹林は桃花郷の周辺を覆っているため、霧恩寺から郷まで、人目を避けて進むのに適していた。
焔は倒れてしまわないように、竹から竹へと縋りつきながら、必死に春梅を追いかける。
「はぁっ……待って……! 走ると足が縺れそうだ……っ!」
「リハビリだと思って頑張ってください! 郷を出られたら一回休憩を入れますんで!」
焔は自らの太腿を手のひらで打つ。
半月もの間、鎖で柱に拘束されていたのだ。
鍛え抜かれた身体であっても、なかなか上手く動かない。
「それにしても、キミから貰った服は凄いね。軽くて薄いのに温かいし、関節の動きを邪魔しない」
「スポーツ用品店で買ったものです。安くて丈夫で素晴らしいでしょう」
特に焔を驚かせたのが、服が水を弾くこと。
まるで蝋でも塗ったかのように、雪や水滴が滑り落ちる。
春梅の服も似たような素材で出来ていることから、珍しいものではないようだ。
「穆焔さん、こっちです。桃園の裏に抜け道があります」
春梅が向かうのは、焔もよく知る桃園への道。
泉や桃の木を乗り越えて、暗闇が満ちる奥へと進む。
水晶灯で照らさなければ歩けないほどの暗闇だが、春梅は気にする様子もない。
「そっちの崖は危険だよ。昔、土砂崩れがあった場所だ」
「ええ、知ってます。ここが外への抜け道ですから……!」
「ここが道……!? こんな誰も来ないような場所が……!?」
困惑する焔の顔を見て、春梅は思わず笑ってしまう。
「あははっ、穆焔さんったら面白い。誰も来ないから抜け道として機能しているんですよ」
「そういうものなのかな。言われてみたら……確かにキミの言う通りかも……」
十数年前、土砂崩れと共に何匹もの獰植物が桃花郷に侵入した。
焔の父親である穆燎が英雄視されるきっかけとなった場所であるが、郷の者たちは今でもこの場所を恐れているのか、あまり此処には立ち寄らない。
(この桃園は、僕と姉さんの秘密の場所だと思っていたけど……)
外界へと繋がる抜け道だったなんて――
春梅により明かされた事実に、焔は複雑な心境になる。
戒壇から持ち出した水晶灯で、春梅は桃園の果てを照らした。
土砂崩れの跡はなだらかな傾斜となっており、切り立った崖へと続いている。
「よし……誰もいない! 上でロープを準備するので、少しだけ待っていてくださいね」
春梅は軽く助走をつけて、土砂崩れの跡を駆け抜けた。
その勢いのまま崖の出っ張りを片手で掴むと、窪みに足をかけて崖上へと飛び上がる。
あまりにも慣れた身のこなしから、彼女がこの道を何度か使っていることが窺えた。
焔は思わず他人事のように、感心の声を上げてしまう。
「すごい、ロープも使わずに登りきった。まるで雑技団の芸みたいだ」
「私の真似をして登ってきて。ロープはあくまでも落下した時の命綱程度に考えてください」
話しながら春梅は、岩棚に隠してあったロープを降ろす。
焔はロープを右手に掴み、目の前に切り立つ崖壁を見上げた。
「ホールドとスタンスを上手く使って、勢いで上まで登るんです。そこの出っ張りを手で掴んで、窪みを足で思い切り蹴るっ」
「……真似してみるよ。ロープは腰に結んどこうかな」
焔は崖壁の凹凸を見つめ、頭の中で何度かイメージを繰り返す。
そして大きく息を吸い、助走をつけてなだらかな傾斜を駆け登った。
春梅が登ったのと同じ順序で、出っ張りに手を掛けて窪みを蹴る。
「――ああっ!?」
しかし、蹴り込みが甘かったのか、身体を崖上まで押し上げることができない。
どうにか両手だけは崖の縁に届いたものの、そのまま宙ぶらりんになってしまった。
「ナイスファイトです! そのまま離さずに頑張ってくださいっ!」
春梅はすぐさまロープを掴み、焔の身体を引き上げる。
「ふぐっ、重っ……! 引っ張るの無理……っ、やっぱ自分で踏ん張って登って……っ!」
「ごめん……! 僕の身体、重いよね……っ、百キロ以上はあるかもしれない……っ!」
「何を食べたらこんなに大きくなるんですか! こんなのが十七歳なんて信じられないっ!」
残った力を振り絞り、自らの体重と格闘すること数分――
焔は何とか崖の上へと這い上がることができた。
「だああっ、はぁっ……! 胴が千切れて死ぬかと思った……っ!」
「はぁ……ふう……これで、なんとか郷の外へ出られましたね……」
「うん……それに今ので少しだけ、力が出るようになったかも……!」
両脚を踏ん張って立ち上がり、焔は適当な木を抱く。
腕と胸に力を込めれば、木の幹は忽ち音を立てて軋んだ。
「――よし、筋肉がだいぶ解れたのかな。脚以外は調子が出てきた」
「その調子です。半月の拘束で落ちたのは、主に体力と筋力だけ。少しずつ取り戻していきましょう」
春梅は再び前を向き、早足で山を登っていく。
獣道から峠道へと出たところで、ふたりは雪に残された複数の足跡を発見した。
「この足跡……青衛護路衆たちのものかな」
「間違いないと思います。この足跡を追って行けば、赤羊峰に辿り着ける……雪が降る前に行きましょう」
郷の者に見つからないよう、ふたりは無言で山道を登る。
点在する関所を迂回して、時折座って休みながら――
「はぁ、はぁ、春梅さん……っ、改めてお礼を言わせてほしい。僕のこと……逃がしてくれてありがとう……!」
「そんな……お礼なんて言わないでください。感謝されることなんて、これっぽっちもしてないですから」
「どうして? 僕を逃がしてくれたのは、姉さんの晴れ姿を一目見せてくれるためでしょう?」
同じ战斗羊の兄姉を持つ者として、姉の旅立ちを見送れない弟に同情してくれたのだろう――
焔は春梅の行動の理由を、そう信じて疑わなかった。
「ごめんなさい、穆焔さん……そんな優しい理由じゃないです。私はあなたを武器代わりに利用してるに過ぎませんから」
「キミが僕を武器代わりに……?」
春梅は静かに頷くと、リュックの中から包みを取り出し、焔に手渡す。
包みの中身は干し肉と、殻が付いたままのゆで卵、そして炒った大量の豆。
「話を聞きながら食べてください。聞いてからだと食べる暇も惜しくなるので」
「わかった。卵は座って食べなくちゃ、それこそ喉に詰めそうだもんね」
渡された食料はどれも質素なものだったが、身体の回復に適したものばかり。
本能が求めているのだろうか、焔は忽ち空腹の感覚を思い出し、殻を剥くや否や大口で卵に食らいついた。
「んん、すごく美味しい。塩っ辛い肉と一緒に食べると丁度いいよ」
「良かった……よく噛んで食べてくださいね。久しぶりの固形物でしょうから」
「うん、うん、大丈夫。断食は修行で慣れてるから。お粥くらいは毎日食べさせて貰ってたしね」
卵をひとつ食べ終え、少し余裕ができたのだろうか――
焔は一息ついたところで、春梅の顔を改めて見つめる。
「それで、春梅さんの目的は何? 僕らはどうして赤羊峰へ向かっているの?」
「端的に言えば、兄様の仇……战斗羊を殺しに行きます」
「战斗羊を……それはつまり、煙姉さんを殺しに行くという意味かい?」
「いいえ、あなたの姉は標的じゃない。あなたを利用して殺したいのは、異形と化した歴代の英雄――」
予想だにしない春梅の言葉に、焔は思わず咀嚼を止めて固まってしまう。
「……歴代の战斗羊を殺したいだって? どういうことだ。歴代の英雄には周兄さん自身も含まれるはず」
「穆焔さんは战斗羊がどういうものか知らないでしょう。彼らが一体、何者なのか」
春梅は右手を天に掲げ、曇天の果てにうっすらと輝く巨大な青い薔薇を指した。
「霧深き郷は女神の慰めを享受しない。桃花郷という楽園は、強き者が生まれない土地」
「女神の……それは空に咲く薔薇のことを言ってるのかい?」
「そうです。この郷は……何も知らない若者たちの犠牲のもとで成り立っています」




