第45話「純粋な狂気」
季節は瞬く間に移ろい、桃花郷は春節を目前に控えていた。
霧恩寺で過ごす最後の冬は山籠もりをせず、ほとんどの時間を寺の掃除と战斗羊選抜試合の準備に充てる。
寺に残って作業に励むのは、試合を目前に控えた長兄弟子のみ。
束の間の穏やかな日々の中に、浮かれた様子は一切ない。
正面広場には大きな舞台が設置され、焔や煙、同志たちの心にも緊張が走った。
英雄の座を争い、共に励んだ同志たちと同じ舞台で舞って戦う――
現実感がないまま刻一刻と時は過ぎ、選抜試合の日は否応なく訪れた。
「皆の者、厳しい修行によくぞ耐えてくれた。今日は自身の戯を発揮する集大成の日じゃ。悔いのないように舞ってくれ」
玄慈老師の挨拶で、英雄を決める戦いの火蓋が切られた。
同志たちは皆、各々が用意した絢爛な衣装を身に纏い、いよいよ战斗羊を決める選抜試合が始まった。
「審判は私、老師様の側仕えである静川が務めさせて頂きます」
試合は二つのブロックに分かれたトーナメント制。
正面広場に用意された舞台で、交互に試合が進められる。
煙は第二ブロックに、焔と岳は第一ブロックに配置され、三人は順調に勝ち進む。
午前の試合を終えた段階で、煙は既に準決勝へと駒を進めていた。
「あの調子じゃあ、確実に煙が決勝に来るな。どうする焔……お前、煙と戦えるのか?」
「もちろん。正々堂々戦うさ。姉さんなら僕を倒してくれるって信じてるからね」
焔と岳は遠目から煙を眺めながら、次の試合に向けて自らの衣装を整える。
岳は焔の表情を見て、安心したように息を吐いた。
「……それを聞いて安心したぜ。万が一、お前が俺に勝ってだな……決勝で手を抜かれたら、俺としては溜まったもんじゃねぇからな」
「あはは、岳は随分と弱気だね。戦う前から、僕に負けた時のことを考えてるの?」
「万が一っつってんだろ! どちらが勝っても恨みっこなしだ。正々堂々戦おうぜ」
「うん。お互い本気で頑張ろう」
ふたりは互いに拳を突き合わせ、第一ブロック準決勝の舞台へと上がる。
準決勝まで勝ち上がれば、战斗羊に選ばれなくとも青衛護路衆には志願出来る。
目的はとうに果たしているが、ふたりの心は互いに同じ。
強い友と本気で戦い、自分の実力を確かめたい――
「第一ブロック準決勝、試合始め!」
静川が試合開始を告げると、玄慈老師は優雅に笛で曲を奏でる。
澄んだ音色が舞台に響き渡ると同時に、焔と岳は鉄扇を開いて舞い始めた。
「おい、舞台の上のふたりを見ろよ……準決勝ともなると、舞動作の迫力が違うな」
「迫力は主にタッパのせいだろ。雌の孔雀にでもなった気分だ」
同性であるにもかかわらず、同志たちは皆、焔と岳の舞動作にすっかり魅了されていた。
耽美な衣装に身を包み、胸から腰をうねらせる様子は宛ら求愛行動である。
もっとも、ふたりの感情は、木陰から舞台を静かに見つめるひとりの少女へ向けられているのだが――
「焔……俺はお前を倒して、煙と決勝で戦いたい。俺の気持ちを舞いに込めて、煙の心にぶつけてやる」
「それは僕も同じだよ。英雄と添い遂げる青衛として……舞いで想いを伝えるつもりだ」
煙は木陰で休みながら、時折刺さるふたりの視線に妙な緊張を募らせていた。
周囲が息を呑む中、煙だけは異なる意味で胸を高鳴らせ、浅い呼吸を繰り返す。
(午後一番の試合で準決勝を勝ち上がれば、焔と岳……どちらかと戦うことになる)
彼らの視線に焼かれながら、正気を保って舞えるだろうか――
煙は木の根元に腰掛けて、細い両腕で自らの肩を強く抱いた。
(いかん……すごくドキドキする……)
そして静かに目を閉じて、心を落ち着けるために瞑想に入る。
晒しを巻いていない胸が熱く火照り、薄い衣装越しに激しく高鳴っているのを感じた。
(午前の試合では我自身も……自らの性を利用して、ここぞとばかりに対戦相手を魅了したが――)
怒面地獄門を開いたふたりの身体は、他の同志たちと一線を画している。
六年間鍛え抜いた同志たちの身体さえ、彼らと並ぶと貧相に見えてしまうほどだ。
(ああ、滑稽極まりない……雌の孔雀とは我のことだ。ふたりの舞いを見続けていると、自ずと屈服しそうになる)
煙は自身が女であることを、かつてなく心から恨んでいた。
あのふたりと舞えば最後、淫らな感情に襲われて正気を保てる自信がない。
半ば絶望した様子で、煙は目を閉じて項垂れる。
そして不意に肩を叩かれ、煙は驚いて顔を上げた。
「よぉ、煙。次の準決勝は俺とだよな」
「……お前は、確か夏に風呂で会った……」
「善宝だよ。最後まで名前を覚えてくれなかったなぁ」
名前はまったく覚えていないが、彼の顔は覚えている。
温泉にて煙を取り囲み、女の役目を教えてくれた三人の内のひとりだ。
「炊き出しを貰ってきたから食うか? 何か腹に入れとかないと、午後の試合で力が出ないぞ」
「ありがとう。しかし意外だな……战斗羊になる気はないって、確かお前はそう言ってたろう?」
「うん。そうなんだけど、あの後さ……岳にこってり絞られたんだよね。寺にいる間は誰もが英雄候補だって」
煙は善宝から器を受け取り、中の汁をひと口啜る。
たっぷりの羊肉と韮が浮かんだ優しい味わいの汁は、動揺する煙の心を落ち着かせてくれた。
「岳の言葉を聞いて、俺は心を入れ替えたんだ。たとえ英雄になれなくても、最後まで本気で頑張ろうって」
「素晴らしい心掛けなのだ。決勝まで残れば、岳と焔のどちらかと戦うことになるぞ」
煙と善宝は並んで汁を啜りながら、広場中央の舞台を見つめた。
玄慈老師の笛の音が、ふいに激しく転調する。
いよいよ勝負が動く時――
焔と岳は同時に床を蹴り、鉄扇を構えて身を翻した。
岳の死角へ飛び込むように、焔は哀面慕影を舞う。
そんな焔を躱すように、岳は楽面遊牙を舞った。
想いに縋る鬼に捕まれば最後、待っているのは地獄の門だ。
ギリギリの間合いを保ちながら、切り返しのタイミングで岳は鉄扇を持ち替える。
「喜面、紅宴ッ!」
振り向きざまに放たれる刺突の猛攻――
焔も咄嗟に舞いを切り替え、岳の攻撃を躱していく。
「ガハハッ、楽しいなぁ焔っ! お前と本気で正々堂々やりあえるなんて、夢みたいだぜっ!」
「そうだね、岳。僕にとってキミは友達みたいな存在だった」
焔が刺突を躱すために舞う楽面遊牙は、煙が舞うほど素早く優れたものではない。
しかし、腰を軸にして最低限の動作で躱す様は、逆に岳を追いつめていく。
(く……っ、あれは俺の知る楽面じゃねぇ! 今にも怒面に転じそうだ)
楽面は喜怒哀楽の戯の中で、最も怒面から遠い戯である。
怒面と隣り合う喜面と哀面は、比較的容易に地獄門の舞動作へ転じられるが、楽面遊牙はそうもいかない。
ギリギリの間合いを保ちながら、駒のように回転して切りつける――
相手を魅了して牽制しつつ、弄ぶように仕留めるのが楽面遊牙の極意である。
(なのに、なんだこの動き……! 俺が追いつめられているだとっ!?)
楽面と哀面を素早く切り替えているのだろうか。
焔は容赦なく岳との間合いを詰めていく。
(クソッ、楽面と哀面の繋ぎがまったく分からねぇ! お前はいつ仕掛けてくる!?)
背後に回られれば最後、焔の舞動作は怒面地獄門へ転ずるだろう。
岳は恐怖を感じながらも、歯を食い縛って覚悟を決めた。
鬼に捕まるくらいなら、こちらから鬼を捕らえるべきだと。
岳が焔の目を睨むと同時に、焔の瞳は冷たく据わり、顔から表情が消え失せた。
(――来るっ!)
死角へ滑り込む焔を追って、岳は思い切り踵を返す。
案の定、焔は両腕を大きく広げ、今まさに岳の背へと抱き着こうとしていた。
「させるかよっ、勝負だ焔! 怒面地獄門っ!!」
岳は勢いよく焔に抱き着き、その広い背に両腕を回した。
岳の五指が焔の背に食い込むと同時に、玄慈老師の奏でる笛が甲高い音を響かせた。
その瞬間、ふたりの勝負に第三者が介入する。
舞台脇で勝負を見守っていた静川が、一息にふたりの元へと踏み込んでいた。
「勝負ありっ! 岳、力を緩めなさい……!」
言葉と共に、静川は岳の肩を上から強く押さえつける。
しかし、向かいの焔に対しては、静川は一瞥もくれていない。
岳はそこで改めて違和感に気づいた。
互いに同時に地獄門へと転じたはずが、岳の背には焔の左腕しか添えられていない。
岳は焔を抱えたまま、自らの腹へ視線を落とす。
無防備な鳩尾に焔の鉄扇が食い込み、僅かに血を滲ませていた。
「分かるだろう、岳。この勝負は焔の勝ちだ」
焔は岳に捕らえられる寸前、手に持った鉄扇を岳の腹へと滑り込ませていたのだ。
玄慈老師が気づいて笛を鳴らし、試合を止めなければ、鉄扇は岳の腹を突き破っていただろう。
岳は大きく息を吐き、両腕を下げて一歩下がる。
焔は鉄扇を一振りし、先端についた血を床へと払った。
「岳、どうもありがとう。本気の勝負、楽しかったよ」
焔は何事もなかったかのように、放心する岳に握手を求める。
岳は悔しさに唇を噛みつつ、差し出された手を強く握った。
「ああ……クソっ、負けちまったぁっ!! あと少しでお前に勝てたのによぉっ!」
「違うよ岳。あと少しでキミは死ぬところだった。自らの地獄門で自滅して――」
「うるせぇっ……お前、少し黙ってろよっ! 人の気持ちが分からん奴だなぁっ!」
岳は悔し涙を拭いながら、足早に舞台を後にした。
焔は後を追いかけて、それとなく岳の肩に手を添える。
ふたりの様子を遠くから見ていた玄慈老師は、目を細めてニッコリと微笑んだ。
「熱い友情と青春じゃな。素晴らしい光景だと思わんか、静よ」
「いえ、まったく。我々が止めねば一大事でした。私は穆焔が苦手です」
ご機嫌な玄慈老師に対して、静川は眉間に皺を寄せ、焔を強く睨みつける。
ふたりの試合を固唾をのんで見守っていた同志たちは、深く長い息を吐いた。
緊張の糸が解けたのか、皆一様に雑談を始め、広場全体に騒めきが広がる。
木陰から舞台を見つめていた善宝は、感心した様子で拍手を送った。
「……煙の弟、本当にすごいな。側仕えが止めに入るなんて、初めて見た」
――俺だったら早々に棄権するかも。
そう小さく呟いて、善宝は煙に視線を向ける。
煙は額に汗をかき、俯いたまま何も答えない。
「煙、次は俺たちの番だ。先に舞台に上がってるよ」
「ああ、分かった……すぐに行く……」
煙は小さく言葉を返し、ふらつきながら立ち上がる。
焔と岳は、そんなふたりと入れ替わるように木陰へと入った。
今しがた煙が座っていた場所に、岳は持参した茣蓙を敷き、倒れ込むように寝転がる。
「俺は寝る。決勝が始まる頃に起こしてくれ」
「見なくていいの? 姉さんが今から準決勝だよ?」
「んなもん、どうせ煙が勝つんだ。見なくても何ら問題ねぇよ」
「見ろよ。姉さんが戦うんだぞ。刮目して然るべきだ」
負けて不貞腐れているのだろうか、岳は断固として起き上がらない。
焔は深く溜め息をついて、岳の隣に腰を下ろす。
そしてふと、木の根の傍に吐瀉物が落ちていることに気づいた。
火の通った肉の断片と、韮のような葉物が雪の中から覗いている。
「なんだこれ。誰かがここで吐いたのかな」
「……あぁ? なんだぁ、汚ぇなぁっ! ちゃんと雪に埋めろよなぁっ!」
何者かが試合の緊張で戻したのだろうか――
先ほどまでこの場所には煙が俯いて座っていたのを、焔は舞台の上から見ていた。
焔が吐瀉物を眺めていると、大鍋を持った郷の女がふたりの元へとやって来る。
弟弟子たちが山籠もりに出ている今、選抜試合の炊き出しは郷の女たちが担う役目だ。
「お疲れ様です。炊き出しのスープはいかがですか? 温かくて美味しいですよ」
「ありがとう。美味しそうだね。何のスープ?」
「羊と玉ねぎのスープです。汗で身体が冷えるでしょう。これを飲んで温まってください」
器の中には、溶き卵と羊肉の浮かんだ温かいスープが注がれている。
「……岳、これさぁ――」
「俺は食わん。こんな無駄に塩っ辛いもん。食ったら舌が馬鹿になるぜ」
「違う、これを見てよ。中に韮が入ってない。あそこのゲロには韮があるのに」
「比較すんなよ、気持ち悪ぃなぁ! どこまで食い意地張ってんだよ!」
焔は器を手に持ったまま、中央の舞台へと視線を移す。
舞台の上では煙と善宝が互いに礼を交わしていた。
煙の顔色は遠目から見ても明らかに悪い。
「なんだろう……姉さんの様子が少しおかしい」
「ああ? 煙の様子が……?」
焔の声色から異常を感じたのか、岳も茣蓙から起き上がる。
「なんだ、相手は煮売り屋の善宝じゃねぇか」
「善宝……? 誰だろう……僕の知らない人みたいだ」
「嘘だろ? 風呂で煙を囲った三人衆の一人だぜ? お前、もう少し他人に興味を持ってやれよ」
「……あの時の誰かか。準決勝まで昇り詰めるなんて意外だな」
煙と善宝は鉄扇を構え、玄慈老師の笛に合わせて舞い始める。
楽面の舞いは煙の最も得意とする技だが、どうしたことか――
普段であれば軽やかに弾む煙の足が、今日はやたらと床を擦る。
駒のように素早い回転も、今日は軸が定まらない。
そしてついに、煙は不意に足を止めた。
両手で口元を強く押さえ、身体を折り曲げて舞台の上で嘔吐する。
「――姉さん!?」
「おい……煙の奴どうしたんだっ!? 一体何が起こってんだよっ!」
焔は器を持ったまま、茣蓙から立ち上がって木の根元へと駆け寄る。
器の中身を吐瀉物の横へ零すなり、具の形状や種類を今一度よく見比べた。
「岳、さっきまで姉さんはここにいたよな!?」
「ああ。その木の根元に座ってた。まさか、そのゲロも煙のものか?」
焔は空の器に吐瀉物を雪ごと掬い入れると、炊き出しを運ぶ女の元へと駆け出した。
岳もただならぬ様子を察し、焔の後を追いかける。
「ねぇっ、そこのキミ! 炊き出しをくれた女の子……っ、ちょっと止まって!」
鍋を持った女は焔の声に気付くと、怪訝な顔をして立ち止まる。
「あなたは……確か穆焔さん? もしかしてスープのおかわりですか?」
「いいや違う、その鍋の具を教えてほしい……っ! 今日の炊き出しはその鍋ひとつ? 材料に韮は入ってた!?」
焔は女に吐瀉物の入った器を差し出す。
女は器を覗き込むなり、ゆっくり左右に首を振った。
「今日の鍋はこれひとつです。中の具は羊と玉ねぎだけで、韮は入れていませんよ?」
「臭みを消すのにも使ってない?」
「はい……臭み消しには生姜だけです。香りがきついと試合に集中できないと思って」
岳は小さく舌打ちをして、器の中から吐瀉物を指でつまみ上げた。
緑の韮のような葉を擦り、鼻にそっと近づけて嗅ぐ。
「……刺激臭がまったくしねぇ。こいつが本当に韮ならよぉ、クセェ臭いがするはずだよな」
「うん……韮にしては肉厚だ。これは恐らく別の植物――」
焔と岳は再び舞台へ顔を向ける。
舞台の上では煙が苦しげに喘ぎながら、鉄扇を善宝に向けていた。
「煙、随分と苦しそうだね。降参しなくて大丈夫か?」
「はぁ……はぁ……善宝……っ、もしや我に何か盛ったな……っ!?」
煙の足元は覚束なく、立っているのもやっとという様子だ。
その姿を見て肩を震わせて笑いながら、善宝は楽面の舞いを繰り出す。
反撃されない絶妙な間合いを保ちながら、善宝は鉄扇で煙の全身を弄ぶように切りつけた。
「ほらほら、立っているのも辛いだろうに! 早く舞台から降りるべきだ!」
「うう……絶対に降りない……我は最後まで戦うのだ……!」
震える手で鉄扇を掲げ、煙は一歩前へと踏み出した。
しかし途端に足が縺れて、煙は床に片膝をつく。
(なんだこれは……眩暈がして立っていられない……!)
もしもこのまま両膝をつけば、ルールによって失格となる。
準決勝まで勝ち残ろうが、途中棄権した者に待つ未来は破門のみ。
煙は両手で床を押し、何とか再び立ち上がった。
「おお、頑張るね。そろそろ腹も痛まない? このままじゃ皆の前でみっともなく漏らしてしまうぞ?」
「はぁ……はぁ……この卑怯者……! そこまでして我に勝ちたいか……!」
煙は口から唾液を絶え間なく零しながら、血走った目で善宝を強く睨みつける。
「たとえ我に勝ったところで、うぬは焔には絶対に勝てない……!」
「もちろん。焔と戦う気なんてさらさらない。煙が降参した瞬間、俺もその場で決勝戦を棄権するつもりだ」
「は……っ? 何故っ、なんで……!?」
愕然とする煙の表情を見て、善宝は肩を震わせて笑う。
「煙から英雄の未来を奪い、ただの女にするためさ。俺はお前を大切にする。一緒に郷で子供を作ろう」
その言葉から、煙は目の前に立つ男の醜い執着を垣間見た。
底知れぬ恐怖に襲われた煙は、涙を浮かべて善宝の顔を睨みつける。
「いいな、その顔。そそられる。お前はやっぱり雌でしかない」
善宝は煙にとどめを刺そうと、鉄扇を天に振り上げた。
煙は両目を強く閉じ、衝撃に備えて全身を強張らせる。
しかし、いつまで経っても鉄扇が振り下ろされる気配はない。
それどころか、玄慈老師の奏でる笛の音も止まっていた。
周囲のどよめきを感じ、煙はゆっくり瞼を開き、目の前の善宝へと視線を送る。
「誰が……何を奪うって? 僕の大切な英雄から……」
善宝の背後には、焔がぴったりと寄り添っていた。
表情に不気味な哀しみを湛え、慕う恋人に縋るように――
焔は太い両腕を善宝の胸元へ回している。
「許さないよ。僕の夢を奪うなんて。殺される覚悟があるんだよね?」
「うわあああーーっ! なんだお前っ、焔……っ!? どうしてお前が舞台の上にいるんだよぉっ!?」
困惑する善宝の声を聞いて、審判をしていた静川が珍しく動揺を露わにした。
玄慈老師までが立ち上がっているところを見ると、どうやら誰も焔が舞台に上がるところを見ていなかったようだ。
「焔、今すぐ舞台を出なさい! 一体いつの間に上がったんだっ!?」
静川は腰から鉄扇を抜き、仲裁しようと一歩踏み出す。
その瞬間、焔は誰にも有無を言わせず、善宝の胸の中心に指を強く食い込ませた。
五指はブツリと音を立て、皮膚を破って体内に深く突き刺さる。
「ぎゃああああーーーーっ!!!!」
「怒面、地獄門――」
善宝が恐怖で絶叫するのと同時に、焔は両手を左右に広げる。
胸郭に五指を引っ掛けて、同志を生きたまま真っ二つに裂くその様は、まさに〈地獄の門〉を開くが如く。
ぶちまけられた内臓が音を立てて床へと落ち、前に立つ煙へと血飛沫が激しく降り注いだ。
あまりの事態に同志たちは恐怖の叫び声を上げ、皆一様にパニックに陥る。
「うるさいっ、黙れぇっ!!」
慌てふためき逃げ惑う同志たちに向かって、玄慈老師が一喝した。
その凄まじい剣幕に、広場は一瞬で静まり返る。
「穆焔、お主は何のつもりじゃ。試合の最中に飛び込んで、同志を無残に殺すなど」
玄慈老師は舞台へ上がり、焔の元へ歩み寄る。
右手に黒い鉄扇を握り、強い殺気を放ちながら――
「……こいつは姉さんに毒を盛った。どうしようもない卑怯者だ」
「毒を……?」
玄慈老師は血塗れの煙に視線を向ける。
煙は焔と老師を数秒ほど見つめた後、力尽きるように後ろへと倒れた。
「――煙!」
岳が舞台へ駆け上がり、倒れた煙を受け止める。
煙の顔色は見るからに悪く、唇は紫色に染まっていた。
「……なるほどな。この勝負……はなから正々堂々ではなかったと」
玄慈老師は何度か小さく頷き、岳に向かって静かに告げる。
「岳、勝者を医務室へ運んでやりなさい。できるだけ優しく、揺らさぬように」
「分かりました。煙、もうちょっとだけ我慢しろよ」
岳は煙を抱き上げ、舞台を降りて医務室へ向かう。
その様子を見て、焔は安堵の息を吐いた。
「ありがとうございます、玄慈老師。姉さんの勝利を認めてくれて」
「ああ。しかし穆焔、お主はここで失格じゃ。他人の試合を汚した上、同志を惨たらしく殺めたからのう」
焔は老師を見つめたまま、何も言葉を返さない。
瞳は虚ろに据わり、ただ呆然と立ち尽くしている。
「なんじゃ、やけに落ち着いているじゃないか……お主はどんな心持ちだ?」
「すごく安心しています……姉さんが負けなくて本当に良かった」
「お主が相手を殺したからのう。同時に決勝の相手も消えた」
玄慈老師の言葉を聞き、焔は悔しさに歯を食いしばる。
本当ならば、決勝の舞台で焔は煙と戦えるはずだった。
互いに六年間の修行で身につけたものを、正々堂々とぶつけ合うはずであった。
それが叶わなかったことだけは、心の底から残念に思う。
しかし――
「穆焔、お主は何故笑う。失格なのだぞ。悔しくないのか」
「ははっ……これが笑わずにいられますか。僕が失格ということは、战斗羊は姉さんで決まりだ」
心から嬉しそうに笑う焔を見て、静川の顔が怒りで歪んだ。
静川は無言で焔の元へ歩み寄り、自らの鉄扇で焔の後頭部を殴りつける。
殴られた焔は血だまりに崩れ、そのまま意識を失った。




