第44話「はぐれ者の巡回医」
この世にはこんな〈おとぎ話〉がある。
大地から遠く離れた銀河を揺蕩う、巨大な赤い薔薇の花。
人々は薔薇を慰めの女神の名に喩えて〈コンスエロ〉と呼んだ。
薔薇が見下ろす大地には、いつも愚かな人類の姿があった。
逃れられない運命や死に抗い、恐怖し、傷つけ合う弱き者たち。
その姿を診て胸を痛めた薔薇の花は、人類の心から恐れという感情を取り除こうとした。
――私の目的は恐怖そのものに終止符を打つこと。死への恐怖は人の心を怪物にする。
論理的思考は遥か未来への絶望を生み、批判的思考は要らぬ不安や気付きを与え、水平思考は時に破滅を招いてしまう。
女神はこれら三つを最も危険な〈三位一体〉の思考と見なし、払拭した上で生命の本能へと直接囁きかけることにした。
――植物や動物、普遍の花や蜜蜂のように……人も純粋に戻ればいい。
女神が人類に向けた救済は、至極シンプルなものであった。
理性によって弱まった本能を再び活性化させることで、思考が生み出す恐怖から人類を解放しようとしたのだ。
宇宙に咲く薔薇の正体は、自己増殖、自己修復、不老不死をも可能とするナノマシンの集合体。
人々を恐怖から救いたいという純粋無垢な行動原理は、人類の前に脅威として君臨する。
そんな未来医療の成れの果ては、半世紀にわたり人類を混沌に陥れた。
すべての諸悪の根源は、事故により宇宙空間に投げ出された〈一人の少女〉の善意である。
「……まあ、それも今は昔の話。宇宙の薔薇の活動は今やすっかり鎮静化して、感染しても即ゾンビとまではいかなくなったわけだよね」
「穏やか過ぎるのも問題じゃのう。インダスの方ではコンセミアなどの新たな症状も出ているのじゃろう?」
「行動原理の根本は、それほど変わっていないんだろうな。強き者だって今後どうなるか分からないよ」
人にとって都合の良い変化も、長い目で見れば脅威へ至る道の一歩かもしれない。
夏場でも冷える霧恩寺の蔵にて、希華と玄慈老師は大きな甕を覗き込む。
「差し詰め人類が進む未来は、甕の中の酒のようじゃな。濁って果てがまったく見えない」
甕の中身は、たっぷりの桃と蜂蜜を混ぜて熟成させた酒である。
桃花酒と呼ばれる濁り酒は、遥か昔から郷で飲まれる名物であった。
玄慈老師は酒を甕から陶器の杯に注ぎ入れ、ザラメを振り入れて一息に飲み干した。
「うむ、冬にはこなれて飲み頃じゃな。今年も良い酒が出来そうじゃ」
「よくもまあ、毎年これだけ仕込むよね。寺の子たちが手伝うにしても、門下生たち全員分でしょ?」
「なぁに、決して苦ではないさ。この酒は……郷を楽園たらしめる、立派な妙薬じゃからのう」
笑いながらも、玄慈老師は手のひらを希華に向けて差し出す。
希華は彼の意を察して、ジャケットの内ポケットから小さな木箱を取り出した。
「はい、これが今年の株。飲む時は必ず希釈して。少しずつ使えば身体も慣れて、拒絶反応を抑えられるよ」
「言われなくとも、耳に胼胝ができておるわ。老師と呼ばれて百年以上、こちとらこの酒を作っておるのじゃ」
「耄碌してたら困ると思って。巡回医として百年以上、キミの夢に付き合っているんだ」
キミと呼ばれて目を丸くした玄慈老師は、数秒の間を置いてから、腹を抱えて笑いだした。
「はっはっは、キミとは何とも懐かしい。あの頃のように儂を〈少年〉と呼ぼうものなら、こちらも其方を〈クシー〉と呼んでやろうじゃないか」
「……言うじゃないか。揶揄って悪かったよ、玄慈老師」
希華は木箱の蓋を開けて、中からアンプルを一本取り出す。
アンプルを左右に軽く振ると、黒い液体の中に輝く赤い粒子が蠢いた。
「おお、感謝するぞ希華。早速これを甕の酒に混ぜよう」
玄慈老師は希華からアンプルを受け取ると、先端を折って中身を甕へ注ぐ。
嬉しそうに甕の酒を杓で混ぜる様子を見て、希華は呆れたように息を吐く。
「しかし、赤い株を好んで培養するなんて時代錯誤もいいとこだよ。白耀商会以外では桃花郷くらいなもんなんじゃないかな」
「霧深き郷は女神の慰めを享受しない。強き者が生まれない郷では必要不可欠な事なのじゃ」
「それでも……身体は少しずつ蝕まれるし、いつか必ず拒絶反応が現れる。私からしたら緩やかな自殺にしか見えないよ」
希華の言葉を黙って聞きながら、玄慈老師は不気味に歯を見せ、子供のように無邪気に笑った。
刻まれた皺は恐ろしく深く、笑顔をより一層際立たせる。
「拒絶反応が出てくれた方が、こちらとしては楽なものじゃ。战斗羊に捧げるための餌が増えるんじゃからのう」
玄慈老師の言葉に、希華は露骨に表情を歪めた。
互いに牽制し合うかのように、ふたりは無言で見つめ合う。
「はぁ……私は一度チベットへ戻る。战斗羊が決まったら、白耀商会に連絡して」
「夕食を食べていかないのか? 今日は夏野菜の素揚げじゃぞ」
「遠慮するよ。……何を混ぜられたか分かったもんじゃないからね」
吐き捨てるように呟いて、希華は足早に蔵を後にする。
薄暗い蔵を一歩出れば、空はすっかり赤く染まっていた。
「いけない、もうこんな時間か。今夜は木の上で野宿かな」
慣れた様子で山門まで歩いていくと、いったいどうしたことだろう。
門に寄りかかるようにして、大きな男がいびきをかいて眠っていた。
「岳? こんな場所で寝てどうしたの?」
「……ん、ああ……希華の姉者……。いけねぇ……また俺は寝ちまったのか……」
岳は自らの頬を手のひらで叩き、右の瞼を押さえて立ち上がる。
「希華の姉者、焔と煙を見なかったか? 山を一通り探したが、あいつらどこにもいねぇんだ」
「焔と煙? さあ……見てないけど。それよりも顔色が凄く悪いよ。まさか熱でもあるんじゃない?」
希華は細い手を伸ばし、岳の首筋に触れてみる。
全身に汗をかいているわりには、岳の体温は驚くほど低かった。
「岳、もしかしてどこか具合でも悪いの?」
「所構わず眠くなる。それとやたらに喉が渇いて……目の奥も少し痒いかな」
希華はペンライトを口に咥え、岳の右の眼窩を覗き込む。
閉じていた瞼を開いた拍子に、タールのような液体が涙のように零れ出た。
滴った液体は希華の指を伝い、黒いジャケットの袖を汚す。
「おっと、悪い姉者……汚しちまったな。最近、妙な汁が出るんだ」
「症状が出たのはいつ頃から? 瞼を開けて、眼窩の奥を見るね」
両手が汚れるのも構わずに、希華は岳の瞼を指でこじ開ける。
瞼の下に眼球はなく、抉れた眼窩の奥底には、黒く細い根のようなものがびっしりと張り巡らされていた。
「岳、お願いがあるんだけど……私のジャケットの内ポケットから灰色のポーチを出してくれない?」
「ああ? そんなもん自分で取れるだろうがよ」
「手が汚れてるから無理。ジャケットのジッパーを下ろして、右胸の辺りにポケットがあるから」
「なっ……俺に胸を弄れってかっ!? いっ、嫌だ! 最初に触るのは好きな娘がいいっ!」
大男の口から飛び出す、少年のように純粋な言葉――
童貞臭い拒否の理由に、希華は思わず愕然とした。
希華は周囲を見回して、手を洗える場所を探す。
そしてふと、境内を歩く焔と煙の姿を見つけた。
「あっ! 焔くんに煙ちゃん! ちょうど良い時に来てくれたっ!」
「なんだとっ!? おい煙っ、テメェ今まで何処に行ってたんだよっ!」
岳にとって煙は、まさに探していた当人である。
希華に右の瞼を開かれたまま、岳は左目で煙を睨んだ。
そして、湯浴み着一枚の煙を見て、頬を真っ赤に染め上げる。
「岳……帰るのが遅れてごめん。姉さんと桃園で話をしていたんだ」
「ふたりで桃を食ってきたのだ。岳の分も捥いできてやったぞ」
煙は桃を差し出すなり、改めて希華と岳の様子を見た。
ふたりの異様な状況に、煙は怯えて焔の背後に身を隠す。
「……取っ組み合って何してるのだ? そんなことしても岳の目ん玉は空っぽだぞ?」
「煙ちゃん、私のジャケットの内ポケットから灰色のポーチを出して! 焔くんは岳を羽交い締めにしててくれない!?」
焔はおおよその状況を察し、岳の背後に回り込むなり、両腕でそっと抱き締める。
力を込めずに背から胸へと腕を回しているだけなのに、岳は途端に大人しくなった。
「おい焔……冗談じゃねぇぞっ。その体勢、お前に限っては洒落になんねぇっ!」
「あ、わかる? 暴れたら両腕に力を込めて、岳を一瞬で抱き潰すかも」
一見ただの優しい抱擁に見える体勢は、怒面地獄門を発動させるためのものである。
冗談めいた言葉の中に確かな殺気を感じて、岳はその場から動けない。
一方で煙は手探りで希華の胸を弄り、内ポケットから灰色のポーチを取り出した。
「希華の姉者、ぽーちってコレのことか? 灰色の細長い筆入れのようだが」
「そう! 中に細長い棒があるはず。検診の時に使う器具だよ!」
「ああ、突っ込んで奥を引っ掻くアレか。多分コイツのことだろう?」
「ありがとう煙ちゃん。さすが霧恩寺の紅一点!」
煙が手に持つ金属の棒を見て、岳は額に冷や汗をかく。
「はぁっ!? 正気かよ……! こんな棒を目に入れるってか!?」
「臆するなよ、岳。ちょっとばっかしゴリゴリってするだけなのだ」
「やめろよ煙……っ、サラッと怖ぇこと言うんじゃねぇっ! 考えただけでもゾクゾクするっ!」
「我慢しろ。女は皆、経験しているのだ。細胞を削り取られるくらいでピーピー喚いて情けないぞ」
岳は背後を振り返り、焔の表情を横目で窺う。
焔は器具を見て怯えているのか、眉をしかめて俯いていた。
「なぁ、女はみんな経験してるってどういう意味だ?」
「分からない……けど、姉さんの話しぶりから、恐らく嘘ではないだろうね」
煙が大丈夫だと言う手前、いつまでも怯えていられないと、岳は静かに覚悟を決める。
依然として冷や汗をかきながらも、大きな体を中腰にして、右の瞼を希華に開かせた。
「安心して。目の奥を軽く擦るだけだよ」
意外にも、眼窩の奥を器具で引っ掻かれる感覚は、痒い所に手が届くような心地のよいものだった。
器具が粘膜を擦るたびに、情けない声が出そうになるのを岳は必死に我慢する。
「はい、終わり! どうかな、痛くなかったでしょ?」
希華は削り取った細胞を持ち帰るため、器具に専用のキャップを取り付けた。
「ああ……痒かったから気持ちよかった」
「次に来た時、検査結果を渡すから。指入れて掻いちゃ駄目だからね」
「だぁっ、鼻くそほじるガキじゃあるまいしっ! 言われなくても搔かねぇよっ!」
岳は希華に反抗しようと前へ一歩踏み出すが、焔の拘束がそれを許さない。
「うがあぁっ! 離せよっ、この唐変木! いつまで俺を捕まえてる気だっ!」
「あ、ごめん。もういいよって誰にも言われなかったから」
「ったく! 夕飯は食いっぱぐれるわ、棒で目をほじられるわで最悪だぜっ!」
岳は腹を立てたまま、一人で宿坊へと戻っていった。
取り残された煙と焔は、顔を見合わせて肩を竦める。
「希華姉さん、僕たちもそろそろ帰ります」
「姉者にも桃をいくつかやる。蕩けるように柔らかくて甘いぞ」
煙から桃を受け取った希華は、嬉しそうに顔を綻ばせた。
「ありがとう……今夜にでも頂くよ。岳にも、またねって伝えておいて」
焔と煙は希華に礼をして、共に並んで宿坊へ戻る。
扉が開け放たれた蔵の横を通る際、煙が小さくため息を零した。
「はぁ……本当にがっかりなのだ。まさか蔵の中に先客がいたとはなぁ」
「玄慈老師がいる手前、入っていくわけにはいかないからね。ただでさえ門限を破ってるし……」
捥いできた桃を隠そうと、先ほどふたりは蔵の中へ忍び込もうとしていた。
夏場でも冷える蔵の棚は、門下生たちにとって非常食を隠すのにうってつけの場所である。
「これだけ香りを放っているのだ。宿坊へ持ち帰れば同志たちにバレてしまうぞ」
自身の取り分が減ってしまうと嘆く煙に対し、焔は黙り込み、何やら呆然としていた。
煙は焔の顔を見上げて、様子のおかしさに首を傾げる。
「焔、ボーッとしてどうしたのだ?」
「いや……老師と希華は蔵の中で、何を話していたんだろうなって……」
「知らん知らん。聞き耳を立てても何のことやら。酒のことなど飲まぬ我らには関係ないのだ」
战斗羊を決める試験まであと三か月――
霧恩寺で過ごす最後の夏が暮れていく。
連載に追いついたので今後は水曜、金曜に更新です!
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