第43話「燃え実の戯び」
焔は煙の腰に両腕を回し、軽々と上に持ち上げる。
煙の顔を正面から見つめるのは、一体何年ぶりのことだろうか。
「重くて腕が疲れたら言え。いつでも中断出来るのだからな」
「大丈夫。姉さんと同じ視線の高さが、懐かしくて嬉しいんだ」
互いに泣き腫らした赤い顔が、まるで幼い子供のよう――
焔は自身が本当に子供に戻ったかのような錯覚を覚えた。
赤い桃の実を眼前に挟み、ふたりは静かに見つめ合う。
暮れた陽を夜が追いかけるように、黄昏の桃園には夜の気配が迫っていた。
「最後に桃を食い合ったのは、霧恩寺に入門する前か。久し振りすぎて勝手がわからなくなってそうだ」
「桃が木から外れないように、あまり揺らさない方がいいね。齧る角度も視野に入れようか」
ふたりはまず実を観察して、どう食べ進めるか協議する。
高い場所に生る実は日を受けて甘いが、他の実よりも落ちやすい。
「これはすっかり熟れているから、乱暴にしたら落ちてしまうぞ」
「中も柔らかくなってるだろうな。香りだけでも酔いそうだ……」
幼い頃に母を亡くしてからというもの、ふたりは共によく桃園へと通った。
ひとつの桃を分けて食べ、優しい母や、まだ見ぬ父を想って語り合う――
両親の遊びを真似ることで、煙と焔は寂しさを必死に紛らわせていたのかもしれない。
「我はずっと……高い場所に生る甘い燃え実が食べたかった」
小さなふたりの身長では、手が届く高さに限界がある。
地面から近い実は固く酸っぱく、皮の色も薄く味気ない。
ふたりはいつも高い位置に生る実を、羨望の眼差しで眺めていた。
長く求めていたものが今、こうしてふたりの目の前にある。
「焔が抱いてくれるから、我は甘い実を食べられる。この日をどんなに夢見たことか」
煙は舌で唇を舐め、桃越しに焔に微笑み掛けた。
焔も小さく喉を鳴らして、桃と煙を同時に見つめる。
「おかしいな……こんなにドキドキするものだっけ。心臓が跳ねて口から出そうだ」
焔は眉を顰め、口から切なげな息を漏らした。
目の前の桃に負けないくらい赤く上気した肌は、玉のような汗を所々に浮かべている。
「息を荒げて可愛い奴め。そんなではすぐに実を落とすぞ」
煙は湯浴み着の裾を持ち、焔の汗を丹念に拭った。
しかし、気温と状況が相まって、汗は一向に収まる気配がない。
それどころか、煙の行動は焔にとって逆効果であった。
眼下に素肌が垣間見えるたび、身体の芯が意志に反して、更に熱を帯びてしまう。
「……焔、もしかして恥ずかしいのか? 大丈夫だ……母上と父上も同じことをしている」
「うん……ちゃんと覚えてるよ。母さんが僕たちに話してくれたよね」
「父上はいつも甘い実を、母上に工夫して食べさせていた。きっと今の我らと同じだ」
「分かってる……だから尚更思うとこがあるんだ」
当時の両親と同じ年頃になって、改めてふたりでこうしてみると――
遊びの裏に隠された本来の意味が、少しずつ浮き彫りになっていく。
「最初のひと口はうぬからいけ。皮の近くの甘い箇所が好きなんだろう?」
「うん……喉が渇いて堪らないよ。今すぐ食らいついてしまいそうだ」
「我が口を当てて実を抑えてやる。うぬは遠慮せず大きく齧れよ」
煙の言葉に甘えるように、焔は顔を斜めに傾けて桃の実に深く歯を立てる。
たちまち、溢れ出た果汁が音を立てて滴り落ち、互いの胸をしとどに濡らした。
「うああっ、下手くそ! ぐしょぐしょに濡れてしまったではないか!」
「ごめん……っ、んんっ……こんなに溢れると思ってなくて……!」
「うぬは昔から変わらないな。齧りながら啜るのが下手くそなのだ。我が手本を見せてやる」
煙は赤い舌を突き出し、位置を調整するように舌を這わせる。
滴る雫を下から上へと舐りながら、桃の実に白い歯を立てた。
薄皮がブツリと弾けるなり、瑞々しい果肉から果汁が滝のように溢れ出る。
「んっ、ぐぶっ……! んくっ、んっ、んうぅ……っ!」
煙は口を大きく開けて、一滴も零すまいと果汁を口で受け止めた。
初めこそ調子よく啜っていた煙だったが、滲み出る果汁に飲み下す速度が追いつかない。
「……姉さんこそ、全然うまく啜れてないよ。ちゃんと全部飲み込んで……口の端から零れてる」
「ケホッ、げほっ、はぁっ……はぁ……! これは、言うのは簡単だが……実際にやるのは難しいな。汁が多すぎて溺れそうだ……!」
「そうでしょう? 僕が下手なわけじゃないんだ。この時期の桃が厄介なんだよ」
煙は息を整えながら、果汁の伝った口元を拭う。
そしてふと、目の前の焔の胸を見て、悪戯っぽく口角を上げて笑った。
「焔……うぬの胸もベタベタだ。鎖骨や谷間に水たまりが出来てる」
「うわっ、本当だ……。かぶれて痒くなりそうだなぁ……」
「皿に残った汁みたいだ。どれ、我がすべて舐めてやろう」
煙は焔の首筋に口元を寄せ、鎖骨に溜まった露を舐める。
濡れた胸に手を這わせ、伝った雫を大まかに拭うと、躊躇なく指を口に含んだ。
「うわっ、なんだこれはっ! しょっぱいのを舐めちゃったのだ!」
「……汚いなぁ、汗と混ざるに決まってるでしょう。食い意地張って欲張るから」
「だって、腹が空いてるのにもどかしいのだ……。我が桃を齧るたびに、うぬの身体を汚してしまう」
焔が煙を抱き上げているため、滴った果汁は地面ではなく焔の胸へ落ちていく。
伝う果汁を舐め取る行為は、煙にとってせめてもの罪滅ぼしらしい。
「そんなことを言ったら僕だって同じだ。姉さんの白い湯浴み着を、すっかり赤く汚しちゃってる」
「こんなものは水で洗えばすぐ落ちる。シミを落とすのは得意なのだ!」
「そう思うでしょう? 互いに遠慮はいらないんだ。汚れても何も文句はないよ」
微笑んで言い切る焔の顔に、迷いや戸惑いは一切ない。
煙は焔の笑顔に、今まで感じたことのない気の強さを感じた。
「なんだ……妙な所で男らしいな。我はうぬをベタベタにするぞ……?」
「大丈夫。姉さんになら汚されてもいい」
そう呟くなり、焔は再び桃に食らいついた。
齧らず断面に舌を押し当てて、滲み出る果汁を零さず啜る。
「おお、二回目はやけに食うのが上手いな。汁がまったく落ちてこない!」
「ああ……コツがわかったかもしれない。歯は使わずに、舌で抉るくらいが丁度いい」
なんでも、齧った面に舌を押し当てれば、中の繊維が簡単にほぐれ、齧らずとも食べ進めることが出来るようだ。
水音を立てて深く食べ進める焔を見て、煙は言いようもない焦りを感じた。
「ずるいぞ……うぬばかり楽しみおって。我が食うのは皮ばかりで、甘い中までいけてない」
「ん……それじゃあ場所を替わろうか。姉さんがこっち側を食べればいい」
焔はゆっくり回転し、自分の位置を煙に譲る。
柔らかくほぐれた果肉の奥には、既に固い種が露出していた。
「うあんっ、こっち側はもう種なのだっ! 甘い箇所が全然残っていないっ!」
「左右は口を付けてないよ。こっち側の皮を少し剥いたら、場所を交換してあげるから」
煙はそれで納得したのか、口を開いて桃の断面に舌を当てた。
そしてふと、舌を引っ込めて何かを真剣に考えている。
「姉さん、早く食べなよ。間抜けな顔して何してるの?」
「んぁ……虫がいないか確認してる。種の周りにいた虫が、潜り込んでいるかもしれない」
「虫? そんなの気にしてたら桃なんて食べられないって」
「でもっ……知らずに噛んだら気持ち悪いのだ! 変な味がするかもしれないっ……!」
虫に怯える煙を見て、焔は懐かしい気持ちに駆られる。
思えば自分も幼少の頃、虫を怖がって桃の実を齧るのに躊躇していた。
「僕もさっき確認したけど、虫らしきものはいなかったよ。もし食べても、暗くて何も分からないんじゃないかな」
「うう……そうかなぁ。焔の言うこと、信じるからな……?」
怯えながらも、煙はおずおずと口を開いて、露出した果肉にしゃぶりつく。
煙が食べだしたことを確認してから、焔も桃に食らいついた。
桃を挟んで競い合うように、暫く無言で食べ進める。
「上手だよ姉さん。久し振りの桃は美味しい?」
「ぷぁっ……おいしい……っ、甘くて、ぬるくて、蕩けるように柔らかいのだ」
うっかり虫を見てしまわないように、煙は固く両目を閉じて一心不乱に桃を食べる。
夢中で吸い付く煙を見て、焔は満ち足りた様子で口角を上げた。
「ああ、ほら……歯を立てないで……慌てなくて大丈夫だから」
素直に食べ進める煙を見て、嗜虐心が駆り立てられたのか――
焔は煙の後頭部に片手を添えて抑えつける。
「んぶっ、やめろ……我の頭を抑えつけるな……! 息が出来なくて苦しいだろうが……!」
「姉さんが僕にした悪戯を、そっくりそのままやり返してるだけだ」
「はて……我はそんなこと焔にしたか?」
「何度もしたさ。僕が虫を怖がっていたこと、姉さんはもう覚えてない?」
焔は過去に一度だけ大きな虫を食べ、桃を食べ進めることに恐怖を覚えるようになった。
煙は焔を説得し、桃をひとくち食べるたびに大袈裟に褒めて慰めていた。
「あははっ、懐かしいな。怖い怖いと泣く顔を、今でもしっかり覚えているぞ」
「意地でも僕に食べさせたよね。僕の頭を抑えつけて無理矢理……全部食べたら頭を撫でて、何度も褒めてくれたっけ」
「桃を嫌いにさせまいと、あの時は我も必死だった。桃を食らう遊びは我にとって、心の支えでもあったから……」
一緒に桃を食べられなくなったら、両親と心が離れてしまう――
そんな不安を抱えながら、煙は焔を必死に励ましていたらしい。
「それにしても、あの時のうぬは甘え上手で可愛かったぁ。ナデナデすると息を吐いて、蕩けそうな顔で呆けていた」
「姉さんの手が気持ちよくて、慰められるたびに安心したのを覚えてる。それは今でも変わらないよ」
「撫でられたいのか? 甘えん坊め。身体ばっかり大きくなって、中身はまるで変わっていないな」
「うん……久し振りに僕を慰めてよ。僕は片手しか使えないけど、姉さんは両腕を回せるはずだ」
煙は桃を食べながら、焔の首の後ろに両腕を回す。
焔もそれに応じるように、煙の後頭部を優しく撫でた。
「そんな、うぬは無理に撫でなくていい。我を抱く腕が疲れてしまうぞ」
「された分、優しくしてあげたいんだ。人を片手で持ち上げるくらい、今の僕にはどうってことない」
煙は視線を落とし、自らを抱く両腕を見る。
腕の表面には太い血管が幾重にも浮かび、大木の幹のように微動だにしない。
「姉さん……こうして桃を食べていて、今でも母さんの顔は浮かぶ?」
「……浮かばない。心の中を占めるのは……何故だかうぬの顔だけだ」
「僕もだよ。心の中は姉さんだけ。目の前の姉さんしか見えないんだ」
自ら発した言葉に、思うことがあるのだろうか。
項垂れる焔の顔は、血の気が引いて蒼白となる。
「……こんなこと言うのはおかしいって、自分が一番理解してる」
「母上が死んだのは大昔のことだ。覚えてなくても仕方がないのだ」
「――気持ち悪いと思わない? 僕は双子の弟なのに……」
猛獣のように荒々しい巨躯を持つ大の男が、己の弱さに翻弄されて胸を痛め、涙を零す。
あまりのちぐはぐさを目の当たりにして、煙の心に母性に近い庇護欲が湧いた。
「泣くな、泣くな。うぬは我の一部なのだ。胸を張って堂々としていろ」
「うん……姉さんの駄目なとこを掻き集めて、肉団子にして固めたのが僕だ」
焔の自己肯定感の低さに呆れながら、煙は小さく溜め息をついた。
「我はどんなうぬでも好きだ。自分の一部である以上、嫌いになどなれるわけがない」
そして、煙は焔の髪を掻き分け、励ますように首筋と肩を撫で擦る。
固く盛り上がった筋肉は、夢物語に登場する恐ろしい鬼のよう。
男と女で身体の作りがこうも違ってしまうのか――
未体験の触り心地に、現実感を失ってしまう。
「んん……姉さん……っ」
細い指先が浮き出た頸動脈を掠めて、焔は身体を震わせた。
閉じた瞼を小刻みに震わせて、短く熱い息を吐く。
「ちょっと撫でただけでビクビク震える。鎧のような表面なのに、触れて分かるものなのか?」
「……何言ってんのさ。身体の一部なんだから、触られたら感じるに決まってるだろ」
「面白いのだ。脂肪ばかりの我と違って、触れた箇所がすぐ熱を持つ」
無遠慮に触れて弄る指の動きは、興味津々以外の何ものでもない。
焔も胸に力を入れて、煙の指を強く押し返してみる。
「きゃははっ、急に固く膨らんだのだ! 今まで柔らかかったのに!」
楽しそうに笑う煙の顔を見て、焔の顔にも再び笑顔が戻ってくる。
「……あははっ、腹筋にも力を入れてみようか。姉さんの腹にも動きが伝わるはずだよ」
「うっ、んおぉっ……それはやめろ……っ! 殴られているようで苦しいのだっ!」
「うわあ! ごめんっ、加減が分からなくて! そうか……この程度で強く感じるのか……!」
焔は戸惑った様子で眉を顰め、すぐに全身の力を抜いた。
対する煙は、安堵した様子で柔らかくなった胸に身を委ねる。
「あはっ、あはははっ! 力の加減が分からないだと? うぬはもっと己の強さを自覚しろ!」
「強さも何も……姉さんに置いていかれたくない一心で、今まで鍛錬してきたから……」
「……置いてかれたくないだと?」
「うん……実はさっき、久し振りに自分を顧みたんだ。泉に映る姿を見て、心の底から驚いた……」
理想の姉と瓜二つだと自負していたはずが、いつの間にか似ても似つかない姿に変貌を遂げていた。
姉の煙と似ていることだけが、焔の数少ない自信であり、脆い自尊心を支え続けてくれていたのに――
「姉さんを追えば追うほどに、僕は醜くなっていくんだ。怖いよ……姉さんの隣にいるためには、強くならなきゃいけないのに……!」
焔は両目から大粒の涙を零しながら、弱々しく煙に縋る。
「うぬの逞しい肉体は、我の憧れそのものだ。我も男に生まれていたら、こんな身体が欲しかった」
「……欲しいなら全部姉さんにあげるよ。僕の身体も心もすべて、生まれた時から姉さんの物だ」
自分のすべてをあげると言われて、煙は黙って俯いてしまう。
伏せられた瞳に涙を滲ませ、濡れた唇は絶えず小刻みに震えている。
「焔……うぬはどうして、そこまで我に捧げるのだ……」
「姉さんこそが战斗羊に一番相応しいからだ。僕はそんな姉さんを、ずっと支え続けたい」
「違う、そんな建前じゃなく……分かるだろう……うぬなら我の欲しい言葉が……」
焔は顔から笑みを消し、瞳を冷たく据えて黙る。
目の前にぶら下がる桃の実は、すっかり小さく変わり果て、酸っぱい種を残すばかり。
「姉さんのこと……愛してるって言ったら信じる? こんな僕を拒絶しない?」
「……するわけがないだろう。我だって、うぬが傍にいない未来など、まったく想像できないのだ……!」
ふたりは互いに身を寄せて、どちらからともなく甘くない種を口に含む。
ひとつに重なった巨大な影は、まるで醜い化け物のように大地の上で蠢いた。




