第42話「楽園実験、まさに桃源郷」
山籠もりの途中棄権を経験してからというもの、焔と岳の中で何かが変わった。
未来の战斗羊を守るという目的を胸に、ふたりはより一層、自らを鍛え上げていく。
怒面地獄門は自らの身体をも痛めつける諸刃の剣のような技。
発動に耐えられる強靭な肉体を手に入れなければならない。
焔と岳は怒面の真の会得を目指し、厳しい修行に励み続けた。
すべては赤羊峰の霊廟にて、战斗羊を守護するためだ。
そして、幼くして霧恩寺へ入門した彼らも、六年目の夏を迎えようとしている。
焔と煙は十六歳となり、战斗羊の選考を間近に控えていた。
六年目の冬は山籠もりをせず、霧恩寺の境内にて最終試験が行われる。
門下生たちと切磋琢磨し、同じ釜の飯を食らうのもあと僅かだ。
霧恩寺で過ごす最後の夏は、自己鍛錬で過ぎていく。
幾度も同じ型を浚い、舞動作の表現を磨き、各々が自らの持てる戯を極める境地に至っていた。
「なぁ、滝壺を見てみろよ。煙の姉者……三十分以上、あそこで瞑想し続けてる」
「すっげぇ体幹。いくら夏とはいえ、寒く感じないのかな?」
滝壺で瞑想に励むのは穆煙――
門下生の中で唯一の紅一点でありながら、战斗羊候補としても期待されている女だ。
「誰かを呼んだ方が良いんじゃないか? あの調子じゃあ、もしかしたら半分気絶してるのかも」
弟弟子たちが心配そうに見つめる中、ふたりの男が人混みを掻き分けて川の中へと歩み入る。
本来ならば拠点としている河岸から、橋を渡って対岸の滝壺へと向かうのだが、このふたりに限っては違った。
「おい焔、テメェ……煙から目を離してんじゃねぇよ」
「下流で小便してくるって伝えただろう。岳こそ一体何してたんだよ」
焔と岳は速い流れを物ともせず、煙のいる滝壺へ向かって一直線に歩んでいく。
普通の人間なら流れに足を取られて、転んで流されてしまうだろう。
「焔の兄者と岳の兄者……清々しいほどに真っすぐ行ったな。岸からグルっと回り込まずに」
「あんなの真似したら死んじまうぞ。あの身体だから流されないだけだ」
十六歳とは思えない壮観な体躯。
六尺ほどの巨体が並んで川を渡る姿は、それだけで目を見張る迫力があった。
その姿はまるで、二頭の恐ろしい猛獣が小さな獲物を追いつめていくかのよう――
もっとも恐ろしい猛獣は、一見獲物のような女にすっかり懐柔されているのだが。
「姉さん、そろそろ上がろう。滝壺に長く入り過ぎだ」
「――焔……」
煙は言葉を投げかけられて、閉じていた瞼をゆっくりと開く。
目の前では焔が不安げに眉を顰め、呆然とする煙の顔を覗き込んでいた。
「気持ちいい……滝行は心がスッキリするのだ。煩悩や雑念が流れていく」
「命まで流してしまったら元も子もないよ。おいで……転ばないように引いてあげる」
煙の冷えた細い指先を、大きな手が絡め取った。
肌から伝わる熱い体温に、煙は正気を取り戻す。
目の前に立つ焔の姿は、まるで巨大な岩壁のよう。
飛沫で道着が身体に張り付き、固く張った筋肉が浮き彫りになる。
「――んわんっ、ひとりで上がれるから大丈夫なのだっ!」
煙は頬を赤く染めて、焔の腕を強く振り払った。
流したはずの煩悩が、煙の脳内を埋め尽くす。
「姉さん、本当に大丈夫なの? 左右にフラフラしてるけど」
「足元が覚束ないだけだ! 我はこの程度では転びやしないっ!」
自らを奮い立たせるように、煙は腹から声を張り、ふらつきながら岸へと向かう。
「煙、そこで止まれ。危なくて見てらんねぇよ」
傍から様子を見ていた岳が、慌てて煙を追いかける。
問答無用に煙の身体を抱え上げると、強引に岸へと引き摺り上げた。
「ったく、弟子の手前で情けねぇっ! 十分以上は入るなって普段から言われてんだろっ!」
「悪かった……気持ちよくなってボーッとしてたら、いつの間にか時間が経っていたのだ……」
煙は濡れた道着を脱いで、さらしと下衣だけの姿になる。
夏ということもあり、太陽が真上に昇る時間帯は日差しが強く暖かい。
日差しに熱せられた岩に背を預けるようにして腰掛けると、それだけで冷えた身体が温まる。
煙が人心地ついたことを確認するなり、岳は焔に向き直った。
「煙は俺が見ててやる。濡れたついでに焔も滝に打たれてこいよ」
「そうするよ。このままでいたら冷え損だ」
焔は素直に言葉を返すと、踵を返して滝壺へと向かった。
降り注ぐ水を広い背中で受けるなり、僅かに顎を引いて直立する。
「岳、腕の位置が肩より下がったら教えてほしい」
「おうよ。弟たちの前で罵倒してやる」
焔は困ったように笑うと、深呼吸と共に両腕を左右に大きく広げる。
肩の高さまで上げた両腕は、叩きつける水を受けてもビクともしない。
「……すごい。焔の奴、一体どれほど力持ちなのだ」
「怒面を極めようとしているんだ。あれくらい出来て当たり前だぜ」
四面舞闘戯は舞いの表現で相手を魅了し翻弄する技だが、時には自らにも暗示をかけ、潜在能力を解放する。
脳の処理速度を速め、筋力を何倍にも引き上げるなど、舞によってその効果は実に様々だ。
しかし、舞動作による能力の増強は、時として本人の身体を破壊しかねない。
山籠もりで熊を倒した後、焔は全身に酷い肉離れを負ってしまった。
未熟な身体で地獄門を発動したことにより、全身の筋肉を痛めた焔は激しい緊張による発作に襲われ、その苦しみは三日三晩続いた。
大人に抑えつけられながら、呼吸困難を起こして気絶する焔の姿を、煙は今でも覚えている。
「思い出すだけで恐ろしい。あれだけ辛い目にあったというのに、焔はよく懲りないのだ」
「焔の奴は地獄門を開こうと必死なんだ。自分の理想を表現出来る、強靭な肉体を欲してる」
「地獄門……熊を倒したという技か。うぬらが山で木を抱くのも、怒面の修行の一環か?」
身体が動くようになった日から、焔は岳と共に霧恩寺の裏山へ自主鍛錬に赴くようになった。
焔は哀面から怒面へ、岳は喜面から怒面へと転じる〈それぞれの型〉を極めようとしている。
「俺も焔に触発されて、一緒に山に入ってるがよ……奴の鬼気迫る追い込みは見てるこっちもビビっちまうよ」
鍛錬の内容は実にシンプル。
舞いながら目標の木に組みつき、両腕を回して抱き潰すこと。
最初は細い木から始め、次第に幹の太い木へと移っていく。
地獄門を開こうとするたび、肉体は強張って悲鳴をあげた。
舞動作に感情を乗せるなり、全身の筋肉が膨張して異常なまでの負荷が掛かる。
地獄とはよく言ったもので、怒面を舞う者にもまた身体を破壊する激痛に立ち向かう覚悟がいる。
焔と岳が放つ咆哮は、霧恩寺で眠る煙の耳にも届いていた。
未熟だった身体は破壊と再生を繰り返し、焔と岳の肉体は日に日に強靭に変化していく。
「――その結果がこの巨体ってワケさ。十六には見えないって希華からも笑われたよ」
門下生たちはふたりに対して一目置き、尊敬半分、怯え半分の視線を常に向けていた。
無論、ふたりの傍にいる煙も同じだった。
「我も最近……焔を見るとドキドキするのだ。気配や匂い、息遣いが……前とは全然違う気がする」
「なに? 小便臭いが汗臭いに変わっただけだろ。奴は今でも姉離れ出来ていない赤ん坊だ」
「……変わっているのは我の心持ちかもしれん。我は焔の雄々しさに、父上を重ねているのかもしれない」
言葉の端に艶めいた感情を察し、岳は滝壺に立つ焔へ目を向ける。
煙は切なげな表情で、自らの腕を抱いていた。
濡れたさらしが肌に張りつき、胸元の輪郭をわずかに拾う――
扇情的な姿に、岳は思わず息を呑んだ。
「……俺の方はどうなんだよ。俺だって、アイツ以上にデカくなってる」
「考えたこともなかったな。これっぽっちもドキドキしない」
煙がそこまで言ったところで、焔が滝から戻ってくる。
濡れた髪をかき上げて道着の水気を絞るなり、煙と岳に微笑みかけた。
「いやぁ、今日の水は冷たいね。二人とも何を話してたの?」
「テメェが汗臭ぇって話だよ。デケェ図体しやがって」
何も知らない焔に向かって、岳は乱暴に吐き捨てる。
「えぇっ!? 酷いなぁ……人がいない間に悪口を言わないでおくれよ」
焔は短く息を吐き、煙の隣にどっかりと腰を下ろした。
傍らで俯く煙を横目に、焔はポツリと言葉を漏らす。
「……姉さんも岳と一緒になって、僕のことを悪く言ってたの?」
「我は何も言ってない。岳がひたすらガキなのだ」
身体を休める三人の元に、弟弟子たちが鍋を持って現れる。
美味しそうな香りを嗅いで、煙はたちまち嬉しそうに顔を綻ばせた。
「兄者たちも食べて下さい。炊き出しの茸湯麺です」
三人は鍋の中を覗き込む。
青菜と茸がたっぷり入った汁の中に、削り入れた麺がこれでもかと浮いていた。
「嬉しいな。塩辛い汁が飲みたかったところなのだ!」
霧恩寺の炊き出しで麺と言えば、刀削麺のことだ。
小麦粉を練った生地を大鍋へ直接削り入れて作るため、大人数に振る舞うにも都合がいい。
煙は弟弟子から椀を受け取るなり、息を吹きかけて汁を啜った。
「滋味深い味だ。干した茸から出汁が出てる。五臓六腑に染みわたるぞ」
「大根や豆腐皮にも味が沁みてて美味しいね。肉無しでも満足感があるなぁ」
煙と焔がゆっくりと汁を味わう横で、岳はすでに一杯目を平らげ、弟弟子に椀を差し出す。
「なんだ岳、もう食い終わったのか。ちゃんとよく噛んで食べたのか?」
「お前らに合わせてチンタラ食ってたら、鍋の中身が無くなるからな。肉が入っていない分、腹に溜まるまで食わなきゃならねぇ」
十六歳という食べ盛りの年齢に加え、修行に励む男たちは食べる量も多く、飲み込む速度も速い。
煙が一杯を食べ終える頃には、男たちは二杯目を平らげていることなどザラである。
「まったく、せっかくの味も台無しだな。作ってくれた弟弟子たちが浮かばれんぞ」
「あの……僕もおかわり貰っていいかな。出来れば汁なしで具を多めに……」
煙は驚いた様子で、隣に座る焔を見た。
一体、いつの間に平らげたのだろうか――
焔が弟弟子に差し出す椀は、綺麗に空になっている。
「美味いけどよぉ、豆腐皮だけじゃタンパク質が足りねぇよな」
二杯目を豪快に掻き込みながら、岳は炊き出しの内容に文句を付ける。
「帰ったら僕らで豆でも炒ろうか。弟弟子たちも喜ぶと思うし」
穏やかに笑って提案する焔も、一度に頬張る量が多く、山盛りの具が瞬く間に腹の中へと消えていく。
ふたりの食べっぷりは見ていて気持ちが良いほどだ。
煙は手元の椀に視線を落とした。
汁は少しだけ温くなっており、麺も具もまだ沢山残っている。
「我は食うのが遅いのかな。以前はそうは思わなかったが」
去年あたりから煙はたびたび、自身と同志たちの間に寂しさにも似た違和感を覚えるようになった。
以前は先頭を走っていた持久走も、一番乗りだった岸壁登りも、今ではなかなか一番になれない。
もっとも上位にはいるのだが、岳や焔に追い越されたら最後、追い抜けないまま日が暮れてしまう。
(同じ日に生まれ、同じものを食べ、同じ歩幅で生きてきたはずが……)
煙は得体の知れない恐怖に駆られ、全身を僅かに震わせる。
「……姉さん? 震えてるけど、もしかして寒いの?」
「大丈夫か? さらしを巻いてて冷えたんだろう」
濡れた道着を脱いで身体を温められる男たちと違い、煙は胸に厚いさらしを巻いていた。
水を吸ったさらしは簡単には乾かないため、解かなければ身体を冷やしてしまう。
「一足先に下流の小屋へ行ってなよ。温かいお風呂が沸いてるはずだよ」
「男衆たちは食った後も川に入るだろうしな。今なら誰もいない一番風呂だぜ」
霧恩寺には浴場がひとつしかなく、混浴という名の男湯と化している。
普段は男たちの後に入る煙だが、悠長に待っていたら風邪を引いてしまいそうだ。
「そうだな……今日は甘えて先に入ろう。うぬらも、あまり無理するなよ」
煙はふたりの提案を受けて、ひとり下流の小屋へ向かった。
小さな木造の小屋は、霧恩寺が門下生たちのために用意した温泉施設である。
源泉がとても温いので、薪をくべて沸かす必要があるが、身体の芯まで温まると、門下生たちからも評判が高い。
小屋の煙突からは白い煙が濛々と立ち昇っており、弟弟子たちが今しがた湯を沸かしたことが窺える。
煙は脱衣所でさらしを解き、薄手の湯浴み着を纏う。
門下生たちの中で紅一点の煙のために、白耀商会の希華が用意してくれたものだ。
「ほとんど裸のようなものだけど、もしもの時に着てないよりはマシなのだ」
浴室内は薄暗く、明かりは窓からの光のみ。
一歩中へと踏み出せば、温かな湯気が冷えた全身を包み込んだ。
一番風呂を頂くのだから、綺麗なお湯に汚れなどを浮かせたくない――
煙は紙石鹸を泡立てて、顔や頭、脇や股などをよく洗い、最後に全身へくまなく掛け湯する。
(湯浴み着を着ていなければ、手拭いで全身を擦れるのだが……)
湯船の縁に座り込み、まず脚のみを湯に浸ける。
そうして湯加減を確かめた後、煙は湯浴み着が捲れないように、ゆっくりと湯の中に身を沈めた。
「はぁ……温かくて良い気持ちだ……」
まるで身体が解けるように、柔らかな湯が冷えた全身を温めていく。
(共同の浴槽に浸かるのは、今日が初めてかもしれない)
いつもは最後の湯を貰うので、浴槽の中は皮脂や埃で汚れている。
とても入る気にはなれない上、撤収する皆に置いて行かれないよう、簡単に掛け湯のみで汗を流すに留めていた。
「どうしてあんなにも湯が汚れてしまうのかな。みんなちゃんと身体を洗っていないのではないか?」
文句を呟きながら、煙は幼い頃――
母と焔の三人で暮らしていた日々を思い出した。
小さな湯船にお湯を張り、三人で狭い浴室に入る。
石鹸を付けた手拭いで、順番に身体を洗ってくれた優しく美しい母の姿。
――煙、焔……共同の風呂に入る時は、次の人のために身体をよく洗ってね。
(母上の言葉を、我はしっかり覚えているが……焔の方はどうだろう)
焔も今なお母の言いつけを守り、身体を綺麗に洗っているだろうか。
そんなことを考えながら、煙は親指で手首を軽く押し、酷使してきた腱を揉みほぐす。
「焔の手……堅くて熱くて大きかった。手の甲に太い血管が浮いてて……指も、我よりずっと太くて、長くて……」
自分がいくら望んでも、手に入らない理想の身体――
まるで伝説の男の生き写しのような、理想の肉体を弟の焔は持っている。
幼い頃に手を引いた、紅葉のような手の面影はもうない。
薄かった胸も、柔らかな腹も、小さな背中も何もかも。
堪えていた寂しさが込み上げ、両の瞳から大粒の涙が零れ落ちる。
ひとりで声を押し殺して泣いていると、脱衣所の向こうで小屋の入口が勢いよく開く音がした。
煙は咄嗟に顔を上げ、脱衣所へ続く戸を見つめる。
「……焔? それとも岳か?」
頼むから、焔と岳のふたりであってくれ――
そう心から願うと同時に、浴室の戸が音を立てて開く。
「あれ、煙じゃないか。一番風呂だなんて珍しいなぁ」
「本当だ。いつもは誰よりも最後に入るはずなのにー」
「ていうかさ、ひとりなのも珍しいじゃん。弟と岳は一緒じゃないんかぁ?」
浴室へ入ってきたのは、修行を共にする三人の同志。
女の煙に対しても、とても気さくで明るい奴らだ。
「寒くなってしまってな。風邪を引く前に温まりにきたんだ」
「ええっ、そりゃ大変だ。……長く滝壺に浸かってたもんなぁー」
同志たちは掛け湯もそこそこに、次々と湯船に入ってくる。
汚らしい、と煙は内心で眉をひそめた。
「それにしても、煙とこうして話すのも久し振りな気がする」
「いつもは焔と岳のふたりが、番犬の如く煙の傍にいるからねー」
「そうそう、怖くて近寄れないよなぁ。下手こくとぶん殴られそうで」
同志たちが言うには、焔と岳がいつも傍にいるせいで、近寄りがたい雰囲気になっているらしい。
ふたりがいないのをいいことに、同志たちは無遠慮に煙を囲んで談笑を始めた。
「いやー……しかし、霧恩寺での修行も今年が最後かぁ。お前ら、将来どうするか決めてるか?」
「俺んとこは親の店継いで煮売りだろうな。朝か夜中に屋台を出して、肉飯なんか拵えてさ」
「うちも親父の饅頭屋を継ぐ感じだなー。作るより食う方が得意なんだが」
同志たちが語るのは、来年訪れる〈将来〉のこと。
战斗羊の選考から外れて、霧恩寺を去ることが前提の未来。
夢破れた後のことを、こうも楽しく語るなど――
战斗羊を志す煙にとっては、些か信じられない内容であった。
「うぬらは今からそんなことを考えてるのか? 战斗羊になる意志はないのか?」
疑いのない煙の言葉に、同志たちは驚いたように顔を見合わせる。
「あー……俺たちはさ、煙や焔みたいに優秀じゃねぇし……」
「战斗羊になる気はない。俺たちが寺へ来た理由は実家が貧乏だからだよ」
「入門すれば計算や読み書きも学べるし、飯も数年は寺持ちだもんなー」
実家の負担を減らすため、あるいは読み書きを学ぶため、社会性を身につけるため――
桃花郷の大人たちは、立派な大人になることを願って、大切な息子たちを霧恩寺に数年間預けるのだという。
「だからよぉ……許の家は可哀想だよな。大事な一人息子を赤羊峰に送られて、将来の計画が台無しだ」
「本当なら嫁さんを貰って、そろそろ子供でも出来てる頃だよなー。兄者の家って今どうしてるの?」
「とっくに他所へ流れたってよ。妹さんは子供が産めない身体だから、この郷にいても意味がないって」
他人の家庭のこと、仕事のこと、将来生まれる子供のこと。
煙は同志たちの会話を聞いて、皆がやけに大人びているように感じた。
幼い頃にじゃれ合った同志たちは、皆一様に声変わりを迎え、背丈も大きく伸びている。
自分だけが子供のまま、何も変われていないのではないか――
孤独や疎外感にも似た不安が、煙の胸を激しく掻き乱す。
「ところでさ、郷に戻った後のこと……煙はどうするか決めてるの?」
「あ、それ俺も気になってたー。煙の実家って商売も何もしてないよなー」
「やっぱり、すぐに嫁ぐのか? これだけ強いのに勿体ないなぁ」
煙は突然話を振られて、言葉に詰まってしまう。
郷に戻ってからのことなんて考えたこともなかったからだ。
「嫁ぐか……女は嫁いで何をするのだ……? 我は夫婦というものを間近で見て育っていないから、よく知らないのだ」
「女が嫁いだら何するかって?」
同志たちは煙の問いに動揺して、気まずそうに顔を見合わせる。
「煙、悪く思うなよ……この郷はとても小さくて、古い考えの残る地だから、嫁さんと言ったら子作りだ」
「一妻多夫のこの郷じゃ、女は上がるまで大変だぞー?」
「そうそう。女が子育てで忙しいから、俺らみたいな煮売り屋にも根強い需要があるんだよな」
希華のように郷を出て働く女性は、桃花郷では珍しい。
同志たちの話題にも上がった〈許の妹〉のように、子を産めない女は居づらくなって、自ら郷を離れることが多い。
「じゃあなんだ……我は誰かの子を孕み、産めなくなるまで産むしかないのか?」
煙は怒りを抑えながら、同志たちに向けて小さく呟く。
「まぁ……そういうことになるな。煙は身体が丈夫だから、郷にとっては素晴らしい財産だと思う」
「郷は白耀商会によって、人為的に保護されてる。子が増えるのは郷の名誉で、女は尊い存在だよ」
「子供は郷で育てるしー、受け入れちまえば楽園みたいなもんだよなー」
彼らの言う通り、煙と焔は母親が死んで数年間、孤児として暮らしていた時期があった。
その頃は郷の大人たちが衣食住を支え、面倒を見てくれていた。
この郷では、女は文字通り産むだけでいい――
子供は郷で育てるというのも、嘘偽りではないのだろう。
女にとっては個人の選択を差し出せば、生存と安定が保証される〈楽園〉ということである。
煙は居心地の悪さを感じ、立ち上がろうと腰を浮かせた。
そして、寸でのところで思いとどまる。
今ここで立ち上がれば、濡れて透けた湯浴み着の下を同志たちの目に晒すことになると。
「煙は将来、郷の男と褥を重ねることになる。月の光を背に浴びて、空に咲く薔薇が輝く夜……郷の男は挙ってお前を抱くだろうな」
「俺たちは煙を大切にするよ。同じ釜の飯を五年も食らった仲だしさ」
「楽しみだなぁー。先の未来を考えると、厳しい修行にも耐えられるぜー」
幸いにも、茶褐色に濁った温泉が首から下を隠してくれている。
顔色さえ変えなければ、動揺を悟られることはない。
「あははっ……そんなの、まるで愛がないのだ」
笑って誤魔化す煙に対し、同志三人は真剣な様子で淡々と答える。
「愛はあるよ。郷を心から愛する気持ちだ」
「战斗羊を志し、守ろうとする気持ちと同じさー」
「空に咲く薔薇の慰めを、霧深き郷は享受しない。純粋な〈強き者〉たちで構成される、本来の意味での人類の郷……玄慈老師も言ってるだろう?」
果たして、そんなことを言っていただろうか――
煙は瞼を固く閉じ、玄慈老師から学んだ言葉を必死に思い返す。
玄慈老師からも、白耀商会の希華からも、そんな話は今まで聞いたことがない。
「煙……顔が赤いぞ。のぼせる前に、湯から上がった方がいい」
「大丈夫だ。うぬらこそ温まったならさっさと上がれ」
「立ち眩みでもしたら心配だ。焔や岳がしたように、手を引いて無理矢理上げてやろうか」
煙は驚いて顔を上げ、同志たちの表情を見る。
目を据えたまま、口元に微笑みを浮かべる同志たちに、煙は底知れぬ恐怖を抱いた。
声も出せずに応えあぐねていると、浴室の戸が勢いよく開く。
湯に浸かっていた全員が、驚いて背後を振り返った。
「あれっ、姉さん……まだ入ってたの!?」
「なんだぁ、お前ら! 寄ってたかって煙を囲んじまってよぉっ!」
入ってきたのは全裸の焔と岳のふたり。
ふたりは掛け湯もせず、無遠慮に浴槽の湯の中へ足を踏み入れた。
「汚ねぇぞ。焔と岳も、掛け湯をしないで入るなよ」
そんなふたりの様子を見て同志のひとりが文句を垂れる。
焔と岳は顔を見合わせ、腹の底から声を出して笑った。
「いい、いい、そんなもんしなくて! ずっと川に入ってたんだからよ!」
「川辺に座って喋ってたキミたちよりも、僕らはずっと綺麗なはずだよ」
そして、同志たちを押し退けるように、ふたりは煙の隣に割り込んで座る。
巨躯に押し退けられた湯が大波となり、困惑する同志たちを湯船の端へと追いやった。
「ったく……みんな、もう行こうぜ」
「ああ。俺らは十分温まったしな……」
「煙、またなー。久しぶりに話せて楽しかったなぁー」
居づらくなった同志たちは、そそくさと湯船から上がり、脱衣所へ引き上げていく。
浴室内には煙と焔、岳の三人だけが残った。
「……はっ、クソがよ。大した修行もしてねぇ癖に、一番風呂を狙いやがって」
「姉さん……あいつらに何かされてない? 囲まれていたようだけど」
煙は焔の顔を見つめたまま、震えるばかりで一言も喋らない。
焔と岳は異変を察し、互いに顔を見合わせた。
「ごめんね、姉さん……駆けつけるのが遅れちゃって。一人で行かせるべきじゃなかった」
「あいつら、本当にろくでもねぇ奴らだな! 次回の手合わせで徹底的にボコしてやる!」
いつもは頼もしく感じるふたりの存在も、自分に向けられる優しさも――
今はすべて、煙が女であることに対する侮辱のように感じてしまう。
「うぬらが我を……するのは――」
「……え? ごめん、よく聞こえなかった。姉さん、今なんて言ったの?」
「うぬらが我を大切にするのは、我が〈子を産む女〉だからか?」
予想だにしなかった煙の問いに、焔は絶句する。
岳は舌打ちをして、煙の顔を睨みつけた。
「なんだぁ? その気持ち悪い思考はよぉ。お前はそんな女々しいことで、グズグズ悩む奴だったか?」
「だって、みんなが言ってた……! 子を産ませるから大切だって……みんなが我を大切にするって……」
郷を愛し、守るという意味では、战斗羊になるのも子を産むのも同じ――
英雄の道から外れた先に待つのは、身体も人生も共同体の所有物として扱われる未来。
そんな事実を突き付けられて、煙は冷静さを失っていた。
大切なはずのふたりにまで疑念を抱き、言葉の牙を剥いてしまう。
「煙……テメェ、俺たちを馬鹿にするのも大概にしろよ……! 战斗羊候補ともあろう奴が、よくそんなことを言えたもんだな!」
「我を馬鹿にしているのはうぬらの方だ! 一人で行かせるべきじゃなかった……!? 守ってくれなんて頼んでいないっ!」
「おうおうっ、公平じゃなく平等を望むかっ! いいぜっ、ぶん殴って痛い目を見させてやるっ!」
岳は勢いよく腰を上げ、煙の肩に掴み掛かる。
焔も無言で立ち上がり、岳の肩に掴み掛かって右頬を思い切り殴り飛ばした。
なんとも妙な三竦みか。
岳は浴槽の縁に腰をぶつけ、茶褐色の湯に勢いよく沈む。
「あっ……しまった。ごめん岳……反射で強く殴っちゃった……」
「イッテェーーッ!! 死角から思い切り殴る奴があるかぁっ!」
大の男ふたりが全裸で取っ組み合う最中、煙は湯船から上がり脱衣所へと走る。
掴み合っていた焔と岳は、煙がいなくなったことに気付いて、慌てて脱衣所へ駆け込んだ。
「姉さん待って! どうしよう岳……っ、入口の戸が開きっぱなしだ!」
「籠に道着が置かれたままだな。なんつう恰好で外出てんだよっ!」
焔は煙の道着を掴み、全裸のまま外へ飛び出そうとする。
それを見た岳は咄嗟に背後から飛びつき、羽交い締めにして引き止めた。
「離せよ岳っ! 邪魔したら殺すぞっ!」
「落ち着け脳筋! 裸のままじゃ捕まえる前に俺たちが捕まるっ!」
ふたりは脱衣籠から各々の腰帯を掴み、素早い動作で身に着ける。
濡れた身体に道着を羽織り、布靴を履いて改めて外へと飛び出した。
「……みんなもう川辺から撤収してる。姉さんがどこへ行ったか分からないよ!」
「手分けして探そう! 俺は山の中を見てくるから、焔は寺の方へ行けっ!」
焔は頷くなり川から離れて、寺へ続く参道を猛然と駆け上がる。
畑仕事を終えたであろう郷の者たちと擦れ違うたび、焔は――
穆焔は、気さくに声を掛けられた。
「おお、穆焔か。大きくなったなぁ、見違えたよ!」
「米屋の爺さん……この道で僕の姉さんを見てない!?」
「お前の姉? はて、どんな顔をしていたかな」
焔は少し考えて、自らの顔を指差して言う。
「髪型も顔も同じなんだ。僕と瓜二つの女性が、この道を走っていかなかった!?」
「瓜二つ……? そんな女には会ってないよ。そもそもお前に姉なんていたか?」
会話にならず、埒が明かない。
焔は短く息を吐いて、再び寺への道を行く。
「転ばないように気を付けて。みんながお前に期待してるよ」
背後から投げ掛けられる言葉は、幼少の頃から変わらない無責任な応援。
不安と心細さで泣きそうになりながら、焔は首を振って走り続ける。
そしてふと、苦しい中で甘い香りが焔の鼻を擽った。
焔は咄嗟に足を止め、香りのする方へ顔を向ける。
「はぁ……はぁっ……確かこっちは、秘密の桃園がある方だ……!」
焔と煙にとって、この先は両親の特別な場所。
姉弟にとっても足繁く通った思い出の場所だ。
寺の方面から来た老人が、煙の姿を見ていないなら――
ほんの僅かな希望に賭けて、焔は道を曲がって桃園への坂を下る。
「おおーーいっ、煙姉さーーんっ! いるならどうか返事してくれーーっ!」
桃園へと足を踏み入れた焔は、背の低い桃の木たちを見て驚く。
熟れた赤い実がこれでもかと実っており、噎せ返るような甘い香りを周囲に漂わせていた。
「はぁ、はぁ……ううっ、姉さん……ふ……っ、うう……っ!」
桃の木々の間を縫うように進み、幹に縋りながら、焔は喉から嗚咽を漏らす。
姉を求めて彷徨う姿は、まさに哀面慕影の境地である。
「姉さん……お願いだから、僕を置いてかないでくれ……! 战斗羊になるんだろう? 僕を一人にしないでおくれよ……!」
光へと向かう導べの存在がいなければ、影である自分は存在できない。
まるで幼い子供のように声を上げて泣きながら、焔は桃園を彷徨い歩く。
心細さの中で煙の姿を求めるあまり、焔は傍らに湧き出る泉の中を覗き込んだ。
幼い頃と同様に、姉とまったく瓜二つの顔が映るはず。
しかし、水面に映る自身の顔は思い描く理想から遠のいていた。
「誰なんだこれは……っ、一体いつから……!」
同じ日に生まれ、同じものを食べ、同じ歩幅で生きてきたはずが――
目の当たりにした現実は、あまりにも醜く残酷であった。
焔は得体の知れない怒りに駆られ、全身を激しく震わせる。
「うあああーーっ!! 気持ち悪いっ! こんな顔は大嫌いだっ!」
焔は獣のような咆哮を上げて、水面に映る自身の顔を殴り続けた。
延々と沸き続ける激しい怒りに翻弄されて、やるせなさに呻いていると――
「焔……」
最も渇望していた声が、背後で小さく鈴のように鳴った。
「――姉さんっ!?」
焔は瞬時に正気に戻り、勢いよく振り返る。
背後には煙が湯浴み着のまま、泣きはらした目で焔をじっと見つめていた。
「どうして泣いているのだ。みっともない。せっかくの男が台無しだぞ」
「ああ……っ、良かった。やっぱり此処にいたんだね……!」
甘く香る桃の木を背に、湯浴み着のみで立ち尽くす姿は、羽衣を纏った天女のよう。
安堵で立ち上がることもできず、焔は膝立ちのまま煙の元へ這う。
そして、半ば倒れ込むように、焔は煙を両腕でしっかりと抱き締めた。
「どうして走って逃げたりしたんだ……! 心配で気が狂いそうになった……!」
「気分転換に来ただけだ。落ち着いたら、桃を土産に寺へ戻るつもりだった」
「すぐに日が暮れて気温も下がる……こんな格好で外を歩いて、何かあったらどうするんだよ!」
「何もない。何かあっても問題ない。それよりも腹が減らないか?」
煙は焔の腕を払い、桃の木の間を裸足で舞う。
歯を見せて楽しそうに笑う姿は、宛ら楽面の境地である。
「さて……どれを食ってやろうかな。とびきり甘くて、香りが強いものがいい」
桃の実ひとつひとつに鼻を寄せ、食らう相手を吟味する。
「焔も泣いてないで早く来い。ふたりで桃を食い合おう」
「それどころじゃない……早く帰らないと暗くなるよ」
「暗くなっても良いではないか。桃を食うには最適だ」
煙は数ある桃の中から、高い位置に生った実を指差した。
「あれにしよう。うぬの身長なら、ちょうど顔の位置にあたるはずだ」
「少し高いね。日がよく当たって甘そうだけど……」
「我の背では届かない。だから、うぬが抱いてくれ」
煙は湯浴み着の紐を解き、両腕をそっと焔に差し出す。
焔は煙の誘いに乗って、その場からゆっくりと立ち上がった。




