第41話「ふたりの護路衆」
焔と岳は岩窟を離れ、熊がいるであろう崖へ降りる。
松明を片手に岩陰を覗いてみるものの、熊の姿は何処にもいない。
「あれ……もぬけの殻だ。さっきまでここから僕たちのことを見てたのに」
「風下に隠れて様子を窺っているんだろう。そろそろ火を消して目を慣らすぞ」
岳は松明を逆さに持ち、燃え上がる先端を雪に深く突き立てた。
雪が融ける音と共に、松明の炎は消え失せ、ふたりの周囲に暗闇が満ちる。
「焔、鉄扇にセルを込めておけ。いつ襲われても動けるようにな」
「分かった。この鉄扇にセルを込めるのは初めてだな……」
鉄扇の骨は暗黒星石で出来ており、セルエネルギーを込めれば仄かな青い輝きを帯びる。
月明かりの届かない闇の中では、鉄扇が放つ青い光が唯一の頼りであった。
ふたりは一定の速度を保ったまま、木立の合間を縫うように歩く。
「……実にもどかしいね。姉さんのいる拠点から出来るだけ距離を取りたいのに」
「開けた場所を駆け抜けてみるか? たちまち熊の餌になるぞ」
木立の中を歩くのは、もしもの時に木々を障壁として利用するためだ。
自然の盾と舞動作で、動きの素早い熊を少しでも翻弄する――
おそらく岳は、そう考えているのだろう。
「しかし焔……煙のために青衛護路衆を目指していると言ったよな。お前自身は战斗羊を目指す気はないということか?」
「僕は姉さんほど完璧じゃない。姉さんにとって穆焔は、謂わば影のような存在なんだ」
「テメェが影ねぇ。それがお前の自己評価か?」
「うん……それに比べて、姉さんは何もかもが完璧だよ。僕の理想と憧れであり、導いてくれる光なんだ」
焔は胸に手を当て、切なげな声と共に熱い吐息を小さく漏らす。
「――そう……まさに伝説の生き写し。僕はそんな姉さんを、心の底から愛してる」
「穆燎の英雄伝説か。煙が目指すなら応援するがよ……俺がお前の立場なら、きっと逆のことを思うだろうな」
「逆? どういう意味?」
「好きな人には安全な郷で、幸せに暮らしてほしいもんさ。出来ることなら俺だって……赤羊峰から幸せな郷をいつまでも眺め続けたかった」
岳の言葉を聞いて、焔はその意味を考える。
煙が战斗羊にならない未来――
桃の花が咲く長閑な郷にて、慎ましく平穏に暮らす日々。
好奇心旺盛な煙ならきっと、仲間と共に商いを始めるかもしれない。
郷の誰かと恋に落ちて、子供を何人も産むかもしれない。
(その時……僕はどの位置から、姉さんを見つめているのだろうか……)
おそらく自分は、煙が築く家族の中にはいられない。
想像しただけで焔の胸を締め付けるような痛みが走った。
焔の表情は苦悶と怒りに歪み、口から低い唸りが漏れる。
「焔? どうした、まるで鬼みたいな顔してんぞ」
「いや……急に凄く恐ろしくなった。そんな未来は今まで一度も、考えたことがなかったから……」
「……お前、それ本気で言ってんのか? 煙のこと何だと思ってんだよ」
岳がそう呟いた瞬間、後方で枝が音を立てて折れる。
ふたりは思わず振り返るが、背後の暗闇には何もいない。
「なんだ……今後ろから音がしたけど」
「足を止めるな! とにかく歩き続けるぞ!」
再び前を向き、一歩踏み出したその瞬間――
突然現れた黒い壁に、ふたりは進路を阻まれる。
いつの間に回り込まれていたのだろうか。
殺気を放つ巨大な熊が、牙を剥いてふたりを見下ろしていた。
「――哀面慕影ッ!」
岳と焔は咄嗟に身を翻し、振り下ろされた前足を躱す。
そしてふたりは鉄扇を素早く開き、両側から挟み込むように熊の身体を切りつけた。
毛皮が裂けると共に飛沫が上がり、霧雨のように周囲へ降り注ぐ。
その瞬間、焔は妙な違和感を覚えた。
(……なんだこの香りは!? 熟れた桃のような甘い香り……!)
焔は黒い鉄扇の切っ先を指でそっとなぞってみる。
指に付いたのは血液ではなく、甘く香る透明な液体。
「岳ッ、無闇に切りつけても無駄だ! 敵は熊でなく獰植物だ!」
「なに……っ、獰植物だと!?」
木立に差し込む月明かりが、熊の全貌を浮き彫りにさせた。
穴という穴から植物が芽吹く異様な姿は、まるで怪物そのもの。
鋭く尖った黒いツタが、熊の全身に深く食い込んでいる。
「おそらく身体に食い込むツタが、熊の筋肉を操ってる!」
「操り人形というわけか。俺が一気に刈ってやるよっ!」
岳が死角へ潜り込み、熊の肩を一閃する。
鉄扇は肉を裂くのみで、鎖のように頑丈なツタはビクともしない。
「駄目だ岳、楽面遊牙ではツタが裂けない!」
「想定済みさ! 喜面紅宴ッ!」
開いていた鉄扇を素早く閉じ、岳は幾度も激しい刺突を繰り返す。
肩に食い込んでいたツタが切れ、腐った右腕が支えを失い、音を立てて地面へ落ちた。
「喜面紅宴……その技はまだ型を浚っただけのはず!」
四面舞闘戯のひとつ、喜面紅宴――
舞いながら急所へ刺突を繰り返し、激痛によって相手の動きを封じる戯だ。
相手を素早く切り裂く楽面遊牙とは異なり、優雅さよりも殺傷力を重視したトドメの一手。
舞動作に合わせて大量の血飛沫が吹き出ることから、紅宴という名が付けられている。
「臆するなよ、焔! 本気を出す絶好の機会だ! 同志相手にゃ舞えない戯を、ここで試してみたくはないか!?」
「同志相手には舞えない戯を……!?」
「こちとら、お前の本性は分かってんだぜ! お前が手合わせを嫌うのも、煙以外との仕合いを避けてんのもっ!」
岳は鉄扇の切っ先を、焔の顔へと突き付ける。
「煙以外の人間に、興味や関心なんて無い! 誰かを殺めてしまうかもしれない、そのウッカリが怖いんだろうっ!」
胸の内を言い当てられ、焔の心臓が大きく跳ねる。
自分が抱えていた悩みと恐怖が余すことなく言語化され、焔の心には得も言われぬ喜びのような感情が満ちた。
「岳……キミは凄いよ。そこまで言ってくれるなんて、まるで僕の友達みたいだ」
「ははっ、殺しても誰も咎めねぇぜ! 熊はもうとっくに死んでんだからよぉっ!」
焔は開いていた鉄扇を閉じ、腰を落として構えを取る。
攻撃を喰らって怯んだ熊は、傍らに立つ焔に意識を向けた。
熊は唸りを上げながら、焔に向かって突進する。
「……哀面慕影!」
焔は迫り来る前足を寸前で躱し、木々の合間を縫って熊の死角へと舞い込む。
そのまま懐へ潜り込み――
「――からの……喜面紅宴ッ!」
天を穿つような勢いで、焔は熊の無防備な腹に鉄扇を幾度も突き立てる。
熊の腹はあっという間に蜂の巣となり、開いた穴から植物の根が蜜液と共に零れ落ちた。
熊の身体から帯状のツタが触手のように伸びて蠢く。
もはや目の前の存在を、熊と呼んでいいのかさえ定かではない。
「岳……僕は分かってしまったかもしれない。この山籠もりの目的が!」
「ああ、霧恩寺にとって今の事態は想定内だ! じゃなきゃあらかじめ型を浚う意味なんて無ぇっ!」
ふたりは再び身を翻し、熊の死角を縫うように周囲を駆けて舞った。
熊から飛び出たツタを刈り、内に潜む獰植物の本体を狙い、切っ先を幾度も突き立てる。
しかし、刈った傍からツタは際限なく伸び続けた。
ひしめくツタは装甲のように熊の全身を覆っていく。
「駄目だっ、全然効いてないみたいだよ! 花托を断ち切らなければ埒があかない!」
「そうは言ってもよぉ、毛皮が厚過ぎて攻撃が本体まで届かねぇよっ!」
「どうにかして、熊の皮を剥げないものかな。獰植物に刃を届かせる策は――」
思案しながら舞っていたせいか、焔はふいに地面を這うツタに足を取られる。
「うわああっ!」
「焔っ!?」
焔はバランスを失い、ひしめくツタの中へ倒れ込んだ。
転ぶのを待っていたと言わんばかりに、焔の全身を黒いツタが瞬く間に絡め取る。
慌てて立ち上がろうと身を捩るが、焔が必死に藻掻くほど、ツタはきつく締まっていく。
(不味い……っ、起き上がるどころか抜け出せない!)
このままではいけないと分かっていても、鋭い棘が食い込む痛みに身体がどうしても強張ってしまう。
締め上げられるたびに全身の傷口から血が吹き出す様は、まるで雑巾搾りである。
「ふぐっ……うっ、ぐあぁぁーーっ!!」
「――ったく、仕方ねぇなあっ!」
岳は閉じた鉄扇をナイフのように使い、焔に絡みついた細いツタを次々と断ち切っていく。
そして焔の腕を掴み、ツタの中から抱き上げるように引き摺り出した。
「ボサボサしてっから絡まれるんだっ! 次は助けねぇからなっ!」
「げほっ、けほっ! ありがとう……口から内臓が出るかと思った……!」
激しく咳き込みながら、焔は何とか立ち上がる。
込み上げる吐き気を堪えるうちに、焔の脳裏にひとつの案が舞い降りた。
「そうか……剥がれないなら出せばいいのか。熊の中から獰植物を」
「出すだと? 口に腕でも突っ込むってかっ!?」
「いや、哀面派生の怒面を使う。実戦で使うのは初めてだ」
「怒面……!? ボサッとしてるお前なんぞに、怒りの感情が乗せられるのかっ!?」
天を揺蕩う蒼い薔薇に向かって、焔は鉄扇の切っ先を向ける。
「……怒面へ転ずる舞動作は、哀面慕影の境地と同じ」
哀面慕影は焔が最も得意とする馴染みの戯である。
焔は切なげに眉を顰め、膝を崩して身を翻した。
そして髪を風に靡かせ、木立の合間を右へ左へと舞い惑う。
その仕草は、まさに恋慕を抱く乙女の姿そのものであった。
焔のあまりの妖艶さに、その姿を見た岳まで思わず生唾を飲む。
(思えば僕は……ずっとずっと哀しかった。ひとつの魂をふたつに分かち、不完全に生まれたことが……)
穆煙と穆焔のような、男女の一卵性双生児は極めて稀な存在である。
通常、一卵性双生児はひとつの受精卵から分かれるため、染色体上の性は同じ。
しかし、ごく稀に片方のみの性染色体に変化が起きることで、表現型の性が異なる双子が誕生することがある。
(おそらく僕が胎内で、姉さんから大切なものを悉く奪ってしまったんだ。僕さえ存在しなければ、姉さんは完璧であったはずなのに)
母親の腹の中で分かれずに、ひとつの存在として生まれることが出来たなら、それはどれほど幸せなことであっただろうか。
(出来ることならひとつになりたい。身も心もドロドロに溶けて、姉さんとひとつに混ざりあいたい)
桃花郷に生まれた伝説の子。
才能溢れる勇敢な穆煙――
穆燎の一人息子であり、伝説を継承する尊い存在。
それは焔が考える、最も完璧な英雄の姿。
(だから僕には責任がある。欠けてしまった姉さんを……完璧にする責任が)
常に姉のために生きて、傍に寄り添い、力となり、同じ世界を眺め続ける。
それが焔の存在理由で、生きる目的そのものであった。
「姉さんの未来を阻む者は、僕が絶対に許さない」
蜃気楼のように揺れる舞動作は、見る者の恐怖を募らせる。
着実に距離を詰める動作は一見〈哀面慕影〉のようだが、込められた念に違いがあった。
(無論それは、姉さん自身にも言えることだ。長閑な郷で幸せに暮らす……? そんな未来は相応しくない。英雄じゃない姉さんなんて!)
相手を慕い縋るようでいて、心の奥に怨嗟を募らせ、やがて決して逃がさぬ執念へと変わる。
死角を辿る虚ろな舞いは、獲物を死地まで追い詰める様――
「逃がさない……! 姉さんは……完璧になる責任がある……!」
静かにそう告げるなり、焔は両脚で大地を蹴った。
瞬く間に熊との距離を詰め、熊の背中に鉄扇を深々と突き立てる。
『ウゴァアアアーーーーッ!』
突然の衝撃を受け、熊の身体が大きく仰け反る。
その隙を逃さず、焔は両腕を熊の首へ回し、両脚を胴体へ絡ませた。
「四面舞闘戯――! 怒面地獄門ッ!」
そして全身に力を込めて、体内に潜む獰植物ごと熊の身体を締め上げる。
『グアアッ!? ガフ……ッ、ウッ……ガアアアッ!』
加えられる圧力に、本能で危機を察したのだろうか。
熊は焔を振りほどこうと、その場で激しく暴れ回った。
突進を繰り返して木々を倒したかと思えば、縋りつく焔を圧し潰すように背中から勢いよく倒れ込む。
しかし焔は全身の力を一切合切緩めない。
まるで縄のように両腕を食い込ませ、熊が暴れる動作に合わせて首を強く締め上げていく。
「無駄だ……っ、何があっても離さないぞ! ここがお前の地獄の門だっ!」
燃え上がる怒りの感情と共に全身へ血が駆け巡る。
筋肉は硬く膨れ上がり、力が際限なく高められていく。
これが四面舞闘戯の奥義のひとつ、怒面地獄門――
数ある戯の中でも異彩を放つ締め技である。
舞動作としては、哀面慕影の発展形。
敵の死角へ入り込み、羽交い締めにして拘束する技だ。
他の戯と決定的に異なるのは、怒面に限って舞って見えるのが敵の方であること。
苦しみ藻掻く敵の姿が、まるで地獄へ引き摺られていくように見えることから、この戯は地獄門と名付けられた。
「正気かよ焔……っ! 人間相手ならまだしも、相手は熊で獰植物だぞ!?」
「分かってる! だけど僕には、こうする以外に他はないっ!」
少し締めれば簡単に落とせる人間と違い、敵の身体は何倍も強く頑丈である。
舞によって鬼に成りきり、筋力を向上させているとは言え、熊を締め落とすのは不可能に近い。
「ふぅっ、ぐううっっ! 隠れてないで表へ出ろおぉぉーーっ!」
焔が力を込めるほど、全身の傷口から熱い血潮が滝のように溢れ出す。
紺碧の道着は黒く染まり、全身の筋肉が軋みを上げる。
「焔……っ、なんて野郎だ……! このままじゃお前が死んじまうぞ……っ!」
初めて目の当たりにする壮絶な戯を前に、岳は恐怖に慄いた。
全身を赤黒く染め、髪を振り乱して叫ぶ姿は、まるで狂暴な化け物のよう。
「はぁっ、はあっ、ぐっ……うああああああーーーーっ!」
断末魔のような雄叫びと共に、焔は上体を仰け反らせる。
その瞬間、焔の全身から血飛沫が上がり、熊の口から醜い花托が勢いよく飛び出した。
「く……っ、出たぁっ! 今だ岳ッ、獰植物の首を落としてくれぇぇーーッ!」
「――お、応っ!」
岳は鉄扇を振りかざし、獰植物へと跳び掛かる。
狙いは首と胴とを繋ぐ、剥き出しになった花托。
「喰らえ化け物め! 楽面遊牙ッ!!」
すれ違いざまに薙ぎ払うように、岳は大きく一閃した。
蒼く輝く光の筋が空間を駆け抜けると共に、花托は見事に一刀両断された。
獰植物の首は勢いよく舞い上がり、音を立てて地面へと落ちた。
それを見た焔は力尽き、仁王立つ熊の背中から雪の上へと落下する。
「おい、焔っ! 大丈夫か!?」
「はぁ……はぁ……熊は……っ!?」
首を落とされた獰植物は、みるみる内に黒い粒子へと姿を変えた。
天上に揺蕩う薔薇の元へ自ら帰っていくかのように、黒い粒子は風と共に、白む空へと舞い上がる。
熊はというと、本体を失ったことで物言わぬ静かな亡き骸となった。
分厚い毛皮だけを残し、内臓も肉もドロドロに溶けて、雪の中へと染みていく。
「どうやら無事に倒せたようだな……」
岳はふらつく頭を押さえ、熊の元へと歩み寄る。
残された僅かなツタの中に、人間の白骨が砕けた状態で散らばっていた。
この骨はおそらく、同志である林のものだろう。
彼の肉体も熊と共に雪へと溶けてしまったようだ。
「よう、林……随分さっぱりしたもんだな」
岳はツタの中から骨を拾うと、懐から手拭いを取り出して丁寧に包む。
そして、傍らに横たわる焔の元へ静かに歩み寄った。
焔は起き上がる様子もなく、四肢を大地に投げ出したまま荒い呼吸を繰り返している。
「おい焔、生きてるか? そんなに血だらけで大丈夫かよ」
「大丈夫じゃない……全身痛くて動けないや……。この調子だと、僕もこのまま下山かな……」
「ははっ、あんだけ筋肉を酷使したらな。だが……獰植物を倒したんだ。最悪、破門にはならないだろうよ」
霧恩寺の同志を食った熊を――
否、熊の皮を被った獰植物を、ふたりの力で倒したのだ。
新たな獰植物が郷へと降りてこない限り、これ以上の成果は望めないだろう。
ふたりは暫しその場で横たわり、疲労困憊の体を休めた。
天上の青い薔薇を見つめていると、崖の上から大勢の人の声が聞こえてくる。
「焔ーーっ! 岳ーーっ! 生きてるかぁーーっ!?」
溌剌としてよく響く声。
顔を見なくても誰の声だかよく分かる。
煙が仲間を引き連れて、ふたりの元へ駆けて来たのだ。
助けが来た安心感で、岳と焔の表情に笑顔が戻る。
「見ろよ……未来の战斗羊がお出ましだぜ。相変わらず煩ぇ声だ」
「うん。姉さんの声を聞いて安心した。戦いを終えた実感が湧くよ……」
焔は岳と共に途中棄権という形で、煙よりも二ヶ月ほど早く下山した。
ふたりが战斗羊となる道は、完全に閉ざされてしまったが――
煙を守るという目的を遂げた男たちの心は、春の空のように晴れやかだった。




