第40話「夢半ば」
战斗羊を志す霧恩寺の門下生たちは、毎年の恒例行事である冬の山籠もり修行に挑む。
二人一組でバディを組み、十一月から三月中旬の雪解けまで、山に籠ってのサバイバル生活。
煙と焔は冬の山奥で年末を過ごし、共に新年を迎えようとしていた。
山中には代々の修行僧たちが使ってきた岩窟が点在しており、拠点にすることを許されている。
煙と焔が滞在している岩窟は沢に近く、飲み水確保や狩りがしやすい場所であった。
「今年の拠点は当たりだったな。先人たちが道具を一通り残してくれてた」
「そうだね。敷物には苔が生えてるし、木桶なんかは虫の住処になってたけど……」
春節にあたる二月初旬は、山が最も雪深く過酷になる時期である。
岩窟の中で雨風はしのげても、厳しい寒さはどうにもならない。
寝床も藁を敷いただけでは、体力を消耗してしまう。
なので秋口の段階で、毛皮の確保も重要になる。
毎年数名は毛皮を上手く調達できず、眠ったまま凍死してしまうこともザラにあった。
「我々も山籠もりは三回目だが、何度やっても冬の寒さには慣れないのだ」
「うん……生きること自体が修行なんだって身に染みるよね……」
過酷な環境で生きる野生動物たちは、勘が鋭く捕らえること自体が難しい。
人の足音や呼吸音、香りを即座に嗅ぎ取ると、群れごと山奥へ移動してしまう。
一年目の門下生には弓などの飛び道具が与えられるが、三年目の門下生に与えられる武器はたった一本の鉄扇だけ。
四面舞闘戯の型は一通り浚ってはいるものの、会得する段階には程遠い。
「しかし、焔が哀面を習得していて助かったぞ。気配を消すのが上手いから、こうして鹿で食い繋げてる」
「姉さんの楽面があってこそだ。気配を消して羽交い絞めにしたところでさ、倒せなければ意味ないよ」
山籠もり修行では飛び道具の使用や作成は一切禁止されているため、食料や毛皮を得るためには野生動物を生身で仕留めなければならない。
門下生たちは四面舞闘戯のみを頼りに自然と戦い、冬の山中を生き延びることで各々の戯を極めていくのだ。
「我の戯は舞えて当たり前だ。だが……哀面はどうしても上手くいかぬ。上手く気配を消せぬのだ」
「でも、姉さんの舞動作は息を呑むほど美しいよ。敵じゃなくて良かったと……そう心から思うほどだ」
煙の得意とする〈楽面遊牙〉は四面舞闘戯の基本として、一番最初に教わる戯だ。
舞動作で相手の感情を翻弄し、攻撃に転じて敵を斬る――
四面舞闘戯の中で最も奥深く、極めに際限が存在しないと言われている。
一方、焔の得意とする〈哀面慕影〉は気配を消して相手との距離を詰める戯である。
舞動作から敵の死角へ滑り込み、敵の影を終点として間合いを取る――
四面舞闘戯の中でも比較的地味だが、気配を消すという点で会得にはセンスが求められる。
「……父上は本当に化け物だな。我らと同じ年頃には、四面舞闘戯の喜怒哀楽を完璧に会得していたのだから」
「その話、僕は嘘だと思うよ。喜面と怒面を本格的に習うのは四年目の夏からって聞いてるし」
舞動作を学ぶ過程で型だけは知っているものの、喜面も怒面も戯に隠された技の極意を学んでいない。
例えるならば、焔と煙のふたりにとって喜面や怒面は歌詞を知らない歌のようなものである。
メロディだけ口ずさめても、歌に込められた意味を知らなければ、相手の心に響かない。
年端も行かない少年が、喜怒哀楽すべての戯を独学で会得するなど到底不可能な話である。
当時と今では指導内容が違っていたのかもしれないが、それでも俄かに信じがたい。
考えながら、焔は首筋を手で擦る。
指の腹を鼻先へ寄せると、湿った獣を思わせる生臭い香りが鼻を突いた。
「うわぁ、びっくりするほど汗臭いや。胸や脇が特に酷い」
「我は前から気付いていたぞ。うぬから強めの香りがすると」
「酷いなぁ。気付いてたなら教えてくれてもいいじゃないか」
思春期を迎える頃になると、いよいよ体格や体質に成長の変化が訪れる。
分かりやすい例で言えば、身長や体臭、体毛など――
瓜二つだった煙と焔も、男女の差異が少しずつ現れ始めていた。
「ズルいよなぁ。姉さんは多少香っても、ちっとも臭いと思わない。馬乳酒みたいな匂いがする」
「うわぁっ、鼻を寄せて嗅ぐなっ! 馬乳酒は相当な悪口だぞっ!」
煙はバケツをふたつ持ち、ひとつを焔に押し付ける。
「何にせよ、新年目前の除夕だ。気温が落ちる前に清拭しよう。飲み水も沸かさなきゃならんしな」
「うん……今年の汚れは今年の内に落としたいもんね」
山が最も雪深くなる一月下旬から二月上旬。
新年を告げる鐘の音と共に、桃花郷に春節が訪れる。
煙と焔は明日から共に十四歳――
霧恩寺の門下生は皆、春節と共に一つ歳を重ねることになる。
「郷は今頃、ご馳走の準備で大忙しだろうな。甘い菓子を用意したり、山ほど餃子を包んだり」
「餃子かぁ……久し振りに食べたいなぁ。寺ではあまり出ないもんね」
沢で汲んで来た水を鍋で沸かし、水筒に飲み水を確保してから、今度は雪を放り込む。
清拭で使う湯は、あくまで飲み水確保のついでだ。
身体を清めるだけなら沢の水でなくてもいい。
木桶へ湯を移すなり、ふたりは着ていた服を脱いだ。
手拭いで身体を清めるために、桶の前に膝をつく。
「うああっ、お湯で拭いたそばから寒いよ。吹き込む風を肌で感じる……!」
「背中に毛皮を羽織るのだ。せっかく綺麗にするのだから徹底的に垢を擦れ!」
極寒の雪山では身体を清潔に保つのも難しい。
身体を濡らすことはできるだけ避けた方がいいし、濡れた髪を外気に晒すのは以ての外だ。
しかし、不衛生過ぎれば精神や健康を害してしまう。
週に一度は身体を拭いて、最低限の清潔を保つようにしている。
「そろそろ桶に灰を入れるぞ。頭を桶に浸したら、地肌を念入りにすすぐのだ」
煙は桶の中に焚き火の灰を一握り落とし、手のひらで素早くかき混ぜる。
待っていたと言わんばかりに、焔は白濁した湯に頭を直接突っ込んだ。
そして時間との勝負とばかりに、地肌を両手で掻きむしる。
「あーっ、気持ちよくてイきそうになる! 頭が痒くて仕方なかったんだ!」
「……なっ、イきそうだとっ!? 誰からそんな下品な言葉を教わったのだっ!」
「兄さんや岳もみんな言うよ? 最高に気持ちがいい時なんかに使うんだって」
「そんな言葉……うぬには早いわっ! せめて股の毛が生えてから言えっ!」
ぐっしょりと濡れた洗い髪は、手拭いでしっかりと拭いた後、厚手の布で頭ごと包む。
最後に残ったぬるい湯は、汚れた下着の洗濯用だ。
煙は自分の下着を桶に放り込むと、両手で力強く擦り合わせる。
「うぬのも一緒に洗ってもいいが、我の下着は汚いから……嫌なら少し待っていてくれ」
「気にしないって。僕のだって同じくらい汚いし、面倒だから一緒に洗うよ」
たった数枚でも擦って洗ううちに、桶の中の水はどんどん薄茶色に変化していく。
十一月の入山時には白かった生地が、すっかり変色しているのを見て、煙は小さく息を吐いた。
「……汚れが落ちなくなってきた。下山までひと月とは言え、こんな下着では情けないな」
「血はどうしても落ちにくいよ。気になるようだったら僕の下着と交換する?」
山籠もりの生活で最も煙を悩ませたのは、毎月訪れる月経であった。
小さな紙縒りを膣に詰め、下着に当て布をすることで経血の漏れを抑えていたが、完全に防ぐことは到底かなわない。
血の香りで獲物に居場所がバレてしまうため、狩りには当然参加できないし、猛獣を呼ぶ恐れもある。
熊や狼が寄り付かないように、焔は夜通し岩窟の入口に火を焚いて、湿った松の葉を燻し続けた。
「焔と一緒にバディを組んで良かったのだ。我のこんな女々しい姿……恥ずかしくて同志には見せられない……!」
悔しそうに顔を歪める煙を見て、焔は返す言葉に迷う。
生理現象なんだから恥ずかしくないという常套句は、あまりにも無責任だと感じたからだ。
「気持ちは分かるよ。僕も声変わりした時とか……夢精した時は恥ずかしかったもの」
「むせい? なんだそれは」
「隠したくなるって点で言えば、姉さんの生理と似たようなものかな」
兄弟子たちは焔の背を叩き、焔の成長を皆一様に喜んでくれた。
噂は瞬く間に広がって、会話したことのない相手からもすれ違いざまに「おめでとう」と声を掛けられるほどだ。
「あの時……僕は喜べなかった。そっとしておいてほしかったし、恥ずかしくて堪らなかった」
「……なんだ、男も大変だな。我の場合は玄慈老師が、希華を呼んでくれた程度だったが……」
「今はもう恥ずかしいとは思わないけどね。イきそうとか口走る程度には、下品な言葉にも慣れつつあるし」
焔は洗い終えた下着を桶から引き上げ、服を手に取り急いで纏う。
そうしてバケツを両手に掴み、再び岩窟の入口へ向かった。
「もう一度、沢で水を汲んでくるね。できるだけ綺麗な水ですすいで、新年は白い下着を付けよう」
「我も行く。今年最後の日の入りを、しっかり眺めておきたいしな!」
煙は焔に駆け寄ると、ふたつあるバケツのひとつを奪ってご機嫌に外へと躍り出た。
慣れた様子で固雪を踏みしめて、ふたりは滑るように沢へと降りる。
しかし沢へ着いてみるなり、煙は驚いて立ち止まった。
焔は煙の視線を追って、沢の様子を窺い見る。
「あれ、どうしたんだろう。珍しく皆が集まってる」
沢の上流では同志たちが一か所に集まり、真剣な様子で何やら話し合っていた。
煙は足早に沢へと下り、同志たちの元へと割り込んだ。
「こらっ、一か所に集まらず早く散れっ! 群れたら獲物が挙って山奥へ逃げてしまうではないか!」
「煙、それどころじゃないんだ。岳のバディが熊に殺されちまったんだよ」
「熊だと? なるだけ手短に詳細を話せ」
何でも昨晩、冬籠りに失敗した熊が同志のひとりを襲ったらしい。
被害に遭ったのは岳の組み相手で、熊に攫われ行方不明のようだ。
「――だから夜でも火を絶やすなと、沢に来た同志に伝えているんだ」
「それで、岳はどうしたのだ? 奴は今どこで何をしている!?」
「岳なら自分の拠点で休んでるよ。奴も熊に襲われて、右目を抉られちまったんだ」
被害の深刻さに、煙と焔は呆然と言葉を失ってしまう。
「……岳の拠点はどこにあるのだ。誰かが手当てをしなければ死ぬぞ」
「少し上流へ登った所だ。崖の傍に大木の根で覆われている岩窟がある」
「分かった……皆は早く拠点へ戻れ。松の葉や草をたくさん焚いて、今夜は絶対に外に出るなよ」
煙は急いで水を汲み、傍らで立ち尽くす焔を見て、強い剣幕で叱咤する。
「おいっ、うぬも早く水を汲め! 岳の元へ急いで向かうぞ!」
「今から行くの!? じきに日が暮れて気温が落ちるよ!?」
「だから行くのだ! 岳を一人で死なせるわけにはいかんだろう!」
そう言い切るなり、煙は沢を辿って上流へと歩いて行く。
焔はバケツに水を汲み、煙の後を駆け足で追った。
「焔、道すがら柳の木を探せ。沢の近くならあるはずだ」
「皮を剥いで持って行くんだね。なるだけ若い木を探すよ」
柳の内皮から滲み出る汁は、鎮痛や解熱の効果がある。
鍋で煎じて飲ませれば、気休め程度にはなるはずだ。
ふたりは早足で歩きながら、沢沿いに生える柳を探した。
応急処置の知識や雑学は、訪問医である希華からの受け売りである。
「希華の話ってこういう時に役立つよね。それとなく導いてくれるというか」
「話の脱線が多い希華に感謝だ。奴のウンチクは真面目に聞けば応用が利く」
比較的若い柳を見つけるなり、焔は鉄扇で枝を次々と切り落とす。
拾った枝を小脇に抱え、迂回しながら崖の上まで登りきる頃には、辺りはすっかり暗くなっていた。
獣道を辿って崖の傍を歩いていると、前方に焚き火の灯りが見えた。
岩窟の入口が大木の根で覆われているのを見る限り、岳の拠点で間違いないだろう。
「岳、生きてるか!? 我らが見舞いに来てやったぞ!」
煙は大声を発しながら、焚き火を越えて遠慮なく拠点へ潜り込む。
問題の岳は壁に背を預け、両脚を投げ出して呆然としていた。
「おおっ、生きているようだな! 怪我の調子はどうなんだっ!?」
「うるせぇな……頭にガンガン響くから、少し声量を下げてくれよ……」
岳は残された左目で、煙と焔を順に見上げる。
大声で捲し立てる煙とは対照的に、焔は黙って鍋へ手を伸ばした。
「どうだ穆焔……無様で滑稽な姿だろう。黙ってないで笑いたきゃ笑えよ」
「面白くないから笑えない。鍋と桶を借りるからね」
焔は岳に背を向けて、鍋を勝手に拝借する。
汲んできた水を鍋に入れると、零さないよう焚き火にかけた。
「どうする? 食べられそうなら粥か何か作るけど」
「何もいらない。気持ち悪くて食った傍から吐いちまうよ」
「そっか……それでも水分は摂った方がいいね」
干してあった飯盒を手に取り、中を水で軽くすすぐ。
そして採ってきた柳の樹皮を、鉄扇で薄く帯状に剥ぎ、飯盒の中へと削り落とした。
仕上げにたっぷりと水を注ぎ、蓋はせず、零さないように火にかける。
焔が手早く作業を進める中、煙は岳の傍へ寄り添った。
「岳……組み相手については残念だったな。うぬは誰と組んでいたのだ?」
「林だ。俺が煙を誘った時、俺もと言って絡んできた奴がいただろう」
「ああ……あの細っこい奴か。たまに話す程度だが、顔はしっかり覚えているぞ」
ふたりの話を聞きながら、焔は無言を貫き通した。
林という同志の顔は、まったくと言っていいほど覚えていない。
おそらく接点がまったく無いか、興味が無かったかのどちらかだろう。
今ここで迂闊な発言をすれば、岳や煙に厳しい小言を言われかねない。
「それにしても、壁や地面が血だらけだね。一体この血は誰のもの?」
「壁も、地面も天井のも……っ、どれもこれも林の血だ……」
「そっか……この出血量を見ると、恐らくもう生きてはいないかな」
「アイツに関しては死んだところで自業自得だ。狩りを面倒くさがって、熊の獲物を横取りしたんだ」
林が持ち帰った猪の肉が熊の獲物だと知ったのは、岩窟の中に熊が入って来た時だった。
獲物を奪われた熊は執念深く、犯人をどこまでも追いつめる。
熊は猪を見つけるなり、ふたりに向かって唸り声を上げて突進した。
薄暗く狭い岩窟の中で、逃げ場など無いに等しかった。
林は早々にパニックとなり、熊の前で腰を抜かしてしまう。
「この狭い中に熊が来たの? 岳はよく生きていられたね」
「咄嗟に哀面を舞ったんだ……なんとか外へ脱出しようと、熊の死角へと滑り込んだ……」
「熊とすれ違ったってこと? なんて度胸だ……僕は岳を尊敬するよ」
「しかし恐怖が勝ってな……寸での所で奴の右手を躱しきることが出来なかった……」
すれ違いざまに鋭い爪が顔を深く抉ったが、岳は足を止めなかった。
なんとか熊の背後へと抜け、岳は岩窟の外へ逃げ出すことに成功する。
雪の中を転がるように、満身創痍で風下へ――
岩窟から十分な距離を取り、岩陰から様子を窺い見た。
絶叫とも言える林の悲鳴が、隠れる岳の耳に届く。
距離を取ったにも関わらず、悲鳴は延々と鳴り止まない。
「暫くすると拠点の中から熊が出てきた……口の周りを真っ赤に染めて、林の背骨を咥えてるんだ。ギクシャク揺れる様子がまるで……木で出来た玩具みたいだった」
喚き続ける林の声が耳障りだったのだろうか。
熊は背骨を咥えたまま、頭を激しく左右に振った。
そのはずみに、林の背骨は音を立てて真っ二つに折れ、宙を舞った下半身は崖下へと落ちて行った。
「不思議なことによ……その状態でまだ生きてるんだぜ? 腰から上だけの状態で……腸なんてとっくに食われてるはずなのに……!」
当時の凄惨な話を聞いて、煙と焔は絶句したまま返す言葉が見つからない。
「なぁ、焔……今って外は静かだよな? 何も鳴いてはいないよな……?」
「ぼた雪が降って静かなものだよ。まったく無音と言ってもいい」
「だよな……なのにどうしてかな。助けてと俺を呼ぶ声が、耳鳴りのように響いてるんだ……っ」
岳はそこまで言い切ると、力尽きるように横へと倒れ、そのまま意識を失った。
「……岳? おい岳! 大丈夫かっ、しっかりしろ!」
「姉さん、無理に起こさないで。ショックで気絶しただけだ」
焔は岳の上体を抱いて、自らの膝上に頭を乗せる。
「ちょうどいいから包帯を変えよう。姉さん、お湯をくれるかな」
「……そうだな。そろそろ沸いていると思う」
冷静に動く焔を見て、煙もすかさず立ち上がり、鍋の元へと駆け寄った。
沸騰した鍋を火から降ろし、予め布を入れた木桶へ湯をたっぷり注ぎ入れる。
「中の布は消毒も兼ねてだ。十分もすれば湯冷ましになる」
「ありがとう。手を洗うから、柄杓でお湯を掛けてくれる?」
焔は袖を肘まで捲り、煙の前へ両手を差し出す。
煙は柄杓で湯を掬い、考えるように焔を見た。
「湯気がホカホカで熱そうなのだ。このまま掛けたら火傷しないか?」
「外気で十分冷めてるよ。できるだけ両手を清潔にしないと」
熱い湯で丹念に両手を洗い、改めて岳の右目に向き合う。
頭を極力揺らさないよう、巻かれた包帯を慎重に解くと、血で染まり切った当て布が現れた。
「……岳は冷静で賢いね。座った状態で頭を高くしていたから、出血がだいぶ収まってる」
「端の方がパリパリに乾いてるのだ。このまま剥がしたら不味くないか?」
「うん……無理に剥がしたら傷つけるかも。手拭いで湿らせて取り除こう」
焔と煙は協力して、当て布をゆっくり剥がしていく。
出血自体は少ないものの、岳の右目はくり抜かれたようにポッカリと穴が開いていた。
眼窩の組織が酷く抉れている様子を見ると、痛みも相当あるだろう。
「はうぅ……かわいそうだ……見るからに痛そうな傷なのだ……」
「膿で固まらないように、当て布も少しだけ湿らせておこう。一時間おきに変えてやれば、傷の乾燥も防げるはずだ」
焔は手際よく布を当て、新しい包帯を巻いていく。
「はぁ……今が夜なのがもどかしい。一刻も早く希華に診せてやりたいのだ」
「この調子だと、下山は熱が引いてからかな。岳の体力に掛けるしかない」
煙は壁に背を預けて座り込み、疲れた様子で天を仰ぐ。
表情には明らかな疲労が滲み、顔色も些か優れないようだ。
「姉さん、もしかして具合でも悪いの?」
「ああ……岳の話を聞いてからかな……血の気が引いて気分が悪い……」
「それはよくない。寝床を借りて横になりなよ。岳は僕が見てるからさ」
煙は力なく頷いて、ふらつきながら立ち上がった。
藁の敷かれた寝床へ行くと、毛皮を掛けて横になる。
「焔……うぬは岳の話を聞いて、よく冷静でいられるな……」
「動揺したよ。僕が岳の立場なら、咄嗟に哀面を舞えるだろうか」
「……違う。違うのだ焔。そういうことではないのだよ……」
煙は両手で涙を拭い、声を震わせて鼻を啜る。
「我はたまに焔のことが怖く感じる時がある。おそらく他人の命など、一切興味ないのだろう?」
「ん? 興味ないなんて事はないよ。どうすれば姉さんを守れるか、いつも真剣に考えてるもの」
焔は煙に反論するが、返事は一向に返ってこない。
不思議に思って振り返ると、煙は既に眠っていた。
「――だから、どうでもよくないよ。姉さんが何よりも大切だから」
焔の言葉はひとり言となって、静かな岩窟に小さく響く。
(……僕が岳の立場だったら、姉さんをどう守るだろうか)
考えながら、焔は岩窟の入口へ視線を移した。
据わった瞳は熊の幻影を映し出し、今まさに眠る煙に向けて、鋭い牙を向けようとしていた。
(楽面を舞って切りつけたところで、鉄扇じゃ通用しないかな……)
まるで悪夢を繰り返すように、焔は自身の脳内で幾度も熊に殺された。
煙を庇って頭蓋を割られ、すれ違い様に喉笛を裂かれ、取っ組み合っては腸を食われ――
(姉さんを抱えて死角に入ろうにも、この狭さでは限界がある)
そしてひとつの結論を得る。
楽面と哀面の戯では熊相手に太刀打ちなど出来ないと。
事実を痛感した上で、改めて焔は岳を心から尊敬した。
相手の実力と自ら置かれた状況を読み、咄嗟に最善の判断を下す――
持てる戯で困難を掻い潜ることは、誰でもできることじゃない。
焔は岳を見下ろしたまま、尊敬の眼差しを向け続ける。
異様な気配を本能で察知したのだろうか、岳が呻いて目を開いた。
「……はぁっ……煙……? いや……その形相は焔の方か……」
「――あ、気が付いたんだね。気分はどうかな?」
「鬼に睨まれて最悪だ……喉が渇いた……何か飲ませてくれないか……」
焔は薬湯の入った器を取り、岳の口元にゆっくり添える。
岳は一切文句を言わず、中身を一息に飲み干した。
「……あははっ、クソまじぃ。喉が渇いてなきゃ飲めたもんじゃねぇな」
「少し体力が戻ったようだね。当て布だけでも変えておこうか」
最初に包帯を変えてから、二時間ほどが経過していた。
岳の顔色を見る限り、どうやら峠は越えたようだ。
焔は指で慎重に、右目に当てた布に触れる。
「痛いだろうけど、布を剥がすから我慢して」
「ああ、大丈夫だ。今の所は痛みも何も感じねぇよ」
「本当に? 不思議だな……痛くないはずはないんだけど」
話しながらも焔は布をゆっくりと剥がす。
剥がれた当て布には僅かな血と共に、黄色い膿がたっぷりと付着していた。
膿は眼窩の奥から流れ、涙のように頬を伝って滴り落ちる。
「何だよ、この臭ぇ汁はよぉ。脳みそが出ちまってるんじゃないだろうな」
「膿が出てるだけだよ。熱が引いてる分には心配することじゃない」
眼窩の奥に残った膿を、傷口に触れないように手拭いで丁寧に拭き取る。
抉れた傷口は血餅で覆われており、思ったよりも状態は良いように見えた。
それよりも焔の目を引いたのは、眼窩の奥に動く何か――
「ん……なんだろうコレ。傷口から何か出てる」
血餅が覆う傷口付近に、黒い紐のような物が見えた。
布でつつくと紐は蠢き、傷口の奥へと隠れてしまう。
焔は首を傾げるが、これ以上追及のしようがない。
諦めて清潔な布を取り、眼窩にそっと押し当てた。
「なぁ、焔……俺はこの目で春まで山に籠れるかな……?」
「流石にそれは無理だと思う。歩けるならば日が昇り次第、さっさと下山した方がいい」
焔の容赦ない回答に、岳は小さく舌打ちをした。
小さく喉を震わせて、残った左目を手のひらで覆う。
「はぁ……まったくついてないぜ。战斗羊になるつもりが、すっかり予定が狂っちまった……!」
「大丈夫だよ。战斗羊は姉さんがなる。岳の右目が有ろうが無かろうが、未来の予定に変わりはない」
「……テメェ、黙らねぇとブチ殺すぞ。血も涙もねぇ糞野郎が……っ!」
声を震わせて泣く岳を見て、焔は再び首を傾げた。
目の前の岳が何を思って泣いているのか、焔にはまったく理解出来ていなかったからだ。
「くそ……結局、煙が战斗羊か……! 悔しいけれど……ピッタリだな……っ!」
「そうだよね。それに、悲観するのはまだ早いよ。战斗羊になれなくても、僕と一緒に青衛護路衆を目指せばいい」
「青衛護路衆だと……? 廟にて戦士を護る役目か……トップじゃない分、幾分か地味で微妙だぜ……」
「そんなことないよ。未来永劫、战斗羊を傍で支え続けるんだ。これ以上に素晴らしいことはないよ」
岳ほどの男が護路衆の仲間に加わるなら、自分としても心強い――
焔はうっとりと目を細め、さも嬉しそうに歯を見せて笑った。
「気持ち悪ぃ……下心しか無ぇじゃねぇか。だけど存外悪くない。战斗羊が煙ならばな」
岳はゆっくり身を起こし、壁に手を付いて立ち上がる。
そして松明を手に取ると、岩窟の入口へと歩き始めた。
「何してるの? まだ動かない方がいいよ。転倒したら次こそ死ぬかも」
「……大丈夫だ。どうしたもんかな、自分でもビビるくらい身体が軽い。それより目の前の問題だ」
岳は松明を高く掲げ、崖下へと視線を向ける。
焔も気になって後を追い、岳と視線の先を見た。
「崖下にある岩陰を見ろ。奴が林を食った熊だ」
「……本当だ。暗くてよく見えないけど、瞳が爛々と光ってる」
「どうやら俺も、奴の獲物に含まれているらしい。どうする焔……ほっとけば奴が此処に来るぞ」
岳が熊の獲物ならば、彼と共にいる焔と煙は、熊から獲物を奪ったことになる。
焔は背後を振り返り、気持ちよさそうに眠る煙の顔を見た。
「岳……お前を今ここで突き落せば、僕らは見逃してもらえるかな?」
「知るかボケ。さらっと怖ぇこと言うんじゃねぇよ」
「姉さんを危険に晒したくない。僕らふたりで熊を殺そう」
「……だな。俺たちふたりで煙を護るぞ。青衛護路衆の初仕事だ」




