第39話「臆病者の影」
過ごしやすい夏は瞬く間に過ぎ、桃花郷に厳しい冬が訪れる。
一年以上かけて舞動作を身体に叩き込んだ門下生たちは、四面舞闘戯の会得に取り掛かり始めていた。
「それでは次の組! 各々の舞動作に、楽面の戯を合わせて手合わせを行いなさい!」
煙と焔は前に出て、鉄扇を抜いて真剣に向き合う。
四面舞闘戯のひとつ、楽面遊牙は舞いながら距離を詰めて切りつける戯だ。
舞動作を攻撃へ転用する技として、四面舞闘戯の中でも最初に学ぶ戯である。
舞動作のみをひたすら修練してきた門下生たちは、二年目で初めて鉄扇を開き、三年目の秋口で戯を用いた戦闘訓練に参加することが許される。
英雄の子と期待される瓜二つの双子は、いつも共にバディを組み、火花を散らして中庭を舞う。
一触即発なふたりの試合は、見る者すべてを魅了した。
「どうした、焔。クルクル回ってばかりいないで、さっさと距離を詰めてこい」
「姉さんこそ、軌道がやや直線的だよ。間合いを詰めるのが早過ぎるんだ」
ふたりは適切な間合いを保ちながら、鉄扇を仰いで牽制し合う。
兄弟子も同志たちも、ふたりが織りなす妖艶な舞いを固唾をのんで見守った。
「煙の奴……あの足取りと表情を見ろよ。まるで虎みたいだ。見てるだけで怖くてチビっちまうよ」
「焔の奴も、よく煙に対して動じないよな。煙と違って大人しい子猫みたいで可愛いなぁ……」
姉の穆煙は一昨年入門した門下生の中で、一番の優等生であった。
戯の型は優れており、攻撃は正確で身のこなしも素早い。
彼女の気迫を前にすれば、兄弟子ですら足が竦むほどだ。
対する弟の穆焔は劣等生ではあるものの、舞動作の美しさに関しては他の追随を許さない。
戯の型には僅かな迷いが見られる。その迷いすら、舞動作に憂いを与えていた。
ふたりは同時に鉄扇を開き、金で描かれた柄を地に向ける。
鉄扇を裏表逆に持つのは、相手に刃が当たらないようにするためだ。
この動作は、修行中の模擬仕合いにおいて、勝敗を決めるための誘いである。
煙は上段に、焔は下段に、それぞれ構えて腰を落とした。
そして一瞬の溜めの後、身を翻すように交差すると、煙は鉄扇を静かに腰へ戻した。
焔の肩に掛けられた組み紐が、牡丹の花のように地面へ落ちる。
「勝負ありっ! 姉の勝利、煙の勝ちだ!」
兄弟子の声で緊張が解け、焔はフニャリと姿勢を崩す。
「はぁ……すごいや姉さん。切っ先が素早くて躱せなかった」
「焔こそ、我の気迫をよくぞ耐えた! 最後の一手も、うぬが躊躇わなければ負けていたのだ!」
勝利に喜ぶ煙の元に、同志たちが挙って駆け寄る。
「煙っ、今日の舞動作も凄かったぜーっ! カッコよくて痺れたぞー俺はぁっ!」
「ありがとう岳。お前もこの後の仕合いで頑張れよ!」
男勝りの煙は、持ち前の明るい性格から多くの友に好かれていた。
そして、伝説の戦士の子でありながらも人当たりの良かった煙は、いつも同志たちの輪の中心にいた。
中でも同志で一番身体の大きな岳は、煙を頗る気に入っていた。
焔と同じく、岳や他の同志たちも、憧れの穆燎を煙に重ねているのかもしれない。
対する焔はと言うと、気弱な性格は相変わらずで、同志たちとの会話も少なく心に僅かな距離がある。
中には優しい兄弟子や同志が、焔を優しく気遣ってくれるが、その多くが色目半分と言ったところだ。
今日も震える焔に駆け寄り、挙って毛布を肩に掛ける。
「焔、俺の隣に座って生姜湯でも飲みなよ。身体が冷えるといけないからさ」
煙が弟の穆焔を焔と呼び続けた結果、その呼称は門下生たちにも定着していた。
今では穆焔を本名で呼ぶ者はめっきり少なくなっている。
「ありがとう、兄さん。げほっ、んんっ……寒くて喉が痛かったんだ」
「痰が絡む咳をしてるな。まさか風邪でも引いたのか?」
「病気じゃないよ。希華に診せたら声変わりの前触れだって」
焔は掠れた吐息混じりの声で、何の気もなしにそう呟く。
十三歳ともなれば変声期に入っても何らおかしくない年頃だ。
今まで通りの高い声が出なくなっても、無理をせず出る音域で喋ればいいと――
希華は焔に、成長によって生じる身体の変化を分かりやすく丁寧に教えてくれた。
「僕の声……姉さんと似てるから気に入ってたんだけどな。こればっかりは仕方のないことだけどね」
「そ……そうか……焔もついに声変わりか。華のように可憐な声が、野太く低い野郎の声に……」
弟子の成長を目の当たりにした兄弟子は、残念そうに肩を落とす。
毛布を掛けてくれた同志にいたっては、瞳が涙で潤んでいた。
「寂しいなぁ。子犬のようにキャンと鳴く声も聞けなくなるのか。もっと扱いて泣かせれば良かった」
「兄さんたちには感謝してるよ。怒らずに厳しく鍛えてくれて、僕の性格にはとても合ってる」
「ぐす……っなんて素直なんだ……! 焔、お前はどうして男になんぞ生まれてきたんだ!?」
ついには両目から涙を零し、嗚咽を漏らして男泣き。
兄弟子に釣られて同志たちも、瞳に熱い涙を浮かべた。
「泣かないでよ兄さん、みんな……どうしてこんな事で泣くのさ」
「クソォッ、天の女神様は意地悪だ! 煙と焔の性別が真逆なら、何もかも完璧だったのになぁっ!」
兄弟子が力強く言い放った瞬間、突如として固い雪玉が飛んでくる。
雪玉は焔の真上を通り過ぎ、兄弟子の頭に当たって崩れた。
「いたっ……なんだ、なんだっ!? 誰だっ、雪玉に石を入れて投げた奴は!」
焔が雪玉が飛んで来た方向に視線を送る。
そこには怒りの形相を浮かべた煙が立っていた。
「姉さん、どうしたの? そんな怒った顔をして……」
「化粧が溶けて目に入った! 洗うから一緒について来てくれ!」
煙は焔の腕を取り、半ば引きずるように本堂へ連行する。
裸足で冷たい廊下を歩き、大浴場を通り過ぎ、更に奥にある小さな浴場へ。
奥まった場所に位置するこの浴場は、大浴場に入れない女性や大人が使うものだ。
玄慈老師や煙などは、普段からこの小さな浴場を使っている。
換気のため開け放たれた浴室内は、凍てつくような寒さだった。
煙は焔を浴室に押し込み、窓と戸の鍵をしっかりと閉める。
「うう……寒いよ姉さん。化粧なら流しでも落とせるのに」
「焔っ、うぬはあんなことを言われて悔しくないのかっ!?」
「兄さんたちが言ってたこと? 僕らの性別が逆だったらって……」
煙は手のひらに油を取り、焔の顔に塗りつける。
乱暴に頬を擦られて、焔は思わず呻き声を上げた。
「痛いよ姉さんっ! 力任せに擦っても、化粧は落ちてくれないよ!」
「許せん、許せん許せんっ! 性別が逆なら完璧だっ!? とことん愚弄してくれるわっ!!」
「……っ、やめてってばっ! どうしてそんなに怒るのさ! 僕だって、兄さんたちの言う通りだと思うよっ!?」
焔は煙の手を払い退け、水で濡らした手拭いを顔に当てる。
頬は僅かに熱を持ち、ヒリヒリと赤く擦れていた。
「……なんだと? 焔……うぬは本気でそう思っているのか?」
「うん……昔からそう思ってたよ。僕は英雄の器じゃない。僕が女で、姉さんが男なら良かったんだ……!」
煙は拳を振り上げ、焔の頬を思い切り殴った。
焔は床に尻もちをつき、瞳に涙を溜めて煙を見上げた。
「つまりなんだ……女の我では完璧になれぬと、焔はそう思っているのだな?」
「……そんなこと言ってない」
「言っているも同然なのだ! どうにもならない事じゃないか……! 焔の気が弱いのも、我の身体が女なのも……っ!」
煙は両目を見開いたまま、大粒の涙をポロポロと零す。
悲しみの相貌を目の当たりにして、焔は思わず呆然と言葉を失った。
焔にとって煙という存在は、郷に伝わる伝説の男の生き写し。
強く、雄々しく、逞しく、朗らかに笑う太陽のような存在であった。
どうしてこんな事になってしまったのだろうか――
胸に痛みを感じながら、焔は必死に考える。
「ごめんなさい、姉さん……僕の心が女々しくて、年甲斐もなく弱いから……!」
「いや……うぬは何も悪くない。生まれ持った性質だけは、性別と同じでどうしようもない」
煙は焔から手拭いを奪い、涙を拭いて浴室を出た。
浴室内に残された焔は、煙が残した言葉の意味を考える。
「生まれ持った性質だけは、どうしようもないと言うのなら……」
焔は呆然とした様子で、裸足のまま庭に出る。
そして何の気もなしに池を覗き込んだ。
凍てつく水に手を入れて、池の中の鯉を撫でる。
鯉は温かな焔の腕に、縋るように甘えてきた。
このまま力強く握り潰せば、手の中の鯉はどうなるのだろう――
鯉の身体を柔らかく握り、指に力を込めてみる。
焔は静かに目を閉じて、手の中で蠢く命の気配を感じていた。
「僕は一生、英雄になれない。姉さん以外の関心なんて、持ち合わせていないのだから」
握り潰したい衝動を抑え、焔は鯉から手を離し、踵を返して歩き去る。
涼しい秋は思い悩む感情を撫でるように、瞬く間に過ぎて行った。
十月も後半になる頃には空から深々と雪が降り始める。
赤羊峰から降りてくる厚い雲が凍てつく空気を郷へ運び、厳しい冬の訪れを告げ始めた。
どんなに気温が寒くとも、霧恩寺は修行を怠らない。
門下生たちは震える身体に鞭を打ち、鍛錬の日々を過ごしていた。
ある日のこと――
玄慈老師は門下生全員を、雪が降り積もる境内に集めた。
年末恒例のお楽しみであり、一年間の総仕上げだ。
玄慈老師は鉄扇片手に自ら舞って、皆の前で戯を披露するのだ。
老師の舞いが見られると聞いて、門下生たちは皆、滅多にない機会に興奮して胸を躍らせた。
「今日は儂から感情と面相の関係性について教えよう。今夜の夕餉に猿を一頭獲ってきた」
玄慈老師は境内の松の木に猿を吊るし、若者たちに観察させる。
捕らわれて吊られた怒りから、猿は歯を見せて周囲を激しく威嚇する。
「よいか、猿の表情をよく観察するのじゃ。皆は猿の感情を喜怒哀楽のどれに当てはめるかな」
「はい。猿は怒ってるので怒りの面です!」
「その通り。確かに感情は怒りじゃが、しかし面相は一概にそうとも言えぬ」
玄慈老師は猿の顔を指差して、自身も歯を見せて朗らかに笑う。
「笑顔の起源は動物の威嚇にあるとされておるからのう」
玄慈老師は腰から扇子を引き抜くと、顔の前に滑らせた。
扇子が通り過ぎると共に、玄慈老師の面相は異様な笑顔へと様変わりしていた。
先ほどの朗らかさはなりを潜め、歯を剥き出しにした笑顔には強い圧が込められている。
「今から儂が本物の楽面遊牙をとくと見せよう。皆の記憶にも新しい……許が得意とした技だ」
玄慈老師は吊られた猿へゆっくりと歩み寄り、鉄扇片手に優雅に舞う。
扇子を翻しながら円を描くように足を運び、時折獣の唸りにも似た声を漏らして猿の感情を煽っていく。
猿の緊張と攻撃性が頂点に達したところで、老師は扇子を再び顔の前に滑らせた。
歯を剥き出した笑顔から一転、玄慈老師の表情は和らぎ、柔らかな微笑みを浮かべている。
「――はぁっ……!」
真剣に見入っていた煙の口から、思わず小さな息が漏れた。
全身の力が抜けたのか、姿勢が揺らいで一歩ふら付く。
それは無論、捕らわれた猿も他の門下生も同じである。
舞を見ていた誰もがすべて、全身に筋肉が弛緩するのを感じていた。
猿の警戒が解けた一瞬、玄慈老師は身を翻しながら扇子を振るう。
その瞬間、吊られた猿の全身は幾筋もの切れ目と共に音もなく崩れた。
「うわあああっ!」
怯えた焔が情けなく叫ぶのと同時に、解体された猿の肉は桶の中へと落ちていく。
猿は自らが置かれた状況を理解していないのか、瞼を閉じて眠るようにこと切れた。
「これが楽面遊牙である。相手の感情……恐怖と安堵を掌握し、隙や油断を与える技じゃ」
玄慈老師は扇子を天に掲げ、勢いよく振り下ろして血を振り払う。
地面に飛んだ赤い血を見て、焔は煙の胸に顔を埋めた。
「怖いよぉ……っ! どうしよう……! 最後の一瞬、お猿さんと目が合っちゃった……!」
「どうもこうも、ああなったらもう汁物にして食うしかあるまい。新鮮だからきっと美味いぞ」
情けない焔の叫び声を聞いた門下生たちは、緊張が解けると共に皆一様に大笑いした。
低く声変わりしたことにより、情けなさに一層拍車が掛かっている。
一方で煙は研ぎ澄まされた刀のように、日に日に凛々しさを増していく。
「老師、肉に付いた血を洗ってきます。長く浸ったままでは肉が不味くなりますので」
肉の入った桶を持って、煙はひとり井戸へ向かった。
同志の誰もが煙の後を追い、桶を運ぶのを手伝った。
リーダーシップに関しては、カリスマに近いものを持っているのかもしれない。
煙の言動と勇気のある行動は、同志たちを強く牽引した。
一日の修行と座学を終え、大広間での夕食の時間。
煙と焔が仲良く猿汁を啜っていると、同志たちがいつものように集まってくる。
「煙、来月から山籠もりが始まるだろう。相手が決まってなけりゃあ、俺と組まないか?」
「おい、抜け駆けはズルいぞ岳。俺だって煙を狙ってたんだ!」
十一月から正月まで、霧恩寺では恒例の山籠もり修行が行われる。
山籠もりは二人一組でバディを組み、兄弟子たちの監視のもとでサバイバル生活を送るのが常だ。
赤羊峰に向けて祈りを捧げ、自然の中を駆け回り、身体をとことん鍛えぬく。
学んだ力を試すには絶好の機会であり、仲間との絆も強く深まる特別な行事だ。
その実は餌を求めて郷へ降りてくる獰植物を追い払うのが目的である。
冬眠に失敗した熊や獰植物に食われる者が、毎年数名は必ず出るものだ。
「なぁ、いいだろう煙。今年は俺と組もうぜ。どうなんだ?」
「すまん岳……我はいつも通り焔と組む。共に生まれた双子故、一番気の合う仲だからな」
煙は傍らで汁を啜る焔の背中をそっと撫でる。
「そうだろう、焔。お前からも岳に何か言ってくれ」
「んぅ? お猿さん、とっても美味しいよ?」
「猿汁はどうでもいい。というか……さっきはあんなに怖がってたくせに、意外とガツガツ食うのだな」
焔は猿の肉を箸でつまみ、自分でも不思議そうに首を傾げる。
「確かにそうだね……。でも、こうしてお椀に入っちゃったら食べてあげるしか出来ないもの」
「はぁ……調子のいい奴め。という訳で岳、我は焔と組むことにする」
岳は拳で床を叩いて、苛立った様子で立ち上がる。
そして食堂の奥へ向かったかと思うと、猿汁の鍋を丸ごと持って、ふたりの前へと戻って来た。
「穆焔、そんなんじゃまだまだ足りないだろう。俺がおかわりを注いでやるよ」
「おかわり? いいよ……欲しかったら自分でやるから」
「そう言うなよ。食わないと強くなれないぜ」
岳は持ってきた鍋の底から猿の頭を取り出すと、焔の椀に丸ごと沈める。
「岳、妙な嫌がらせをするのはやめろっ!」
猿の頭を好んで食べる地域もあるが、ここでは出汁を取るためのものだ。
酒飲みの大人はともかく、子供たちの間で猿の頭を好んで食べる者はいない。
「焔、無理して食わなくていいぞ。残すなら我が食ってやるから」
そう言いつつも煙は猿の頭を見て、嫌悪と恐怖に顔を歪める。
一方の焔は椀を両手で持ち、無言で猿と見つめ合った。
「焔……? どうした、大丈夫か……?」
「いや……この子とは、もう目が合わないなって……」
呟くなり、焔は猿の頭を掴んで卵のように頭蓋を割った。
親指で頬肉を削ぎ落とし、脳みそを出して汁に溶く。
あまりにも躊躇のない手付きに、岳も煙も言葉を失ってしまう。
焔は汚れた指を舐めると、白濁とした猿汁を一気に煽って飲み干した。
残った肉を箸で乱暴に掻き込んで、頬を膨らませて咀嚼する。
「うん、味が濃くて美味しいや。癖はあるけど食べられるよ」
「……ははっ、そりゃ良かった。だが残念だな。いつもみたいに女々しい悲鳴が聞けると思ったんだが」
焔は肉を飲み下し、目の前の岳へ視線を向ける。
「残念だなってどういう意味? 悲鳴なんて、どうして聞けると思ったの?」
「昼間はソイツと目が合って、腰を抜かして叫んでただろう。あの時みたいに今回も泣いて怖がると思ったんだが」
「…………」
理由を聞いた瞬間、焔の瞳が僅かに据わる。
細められた瞼から覗く瞳孔は、一切の光を宿していない。
「岳がおかわりを注いでくれたのは、驚く僕が見たかったから?」
「あ……ああ、そうだな。その通りだよ。拍子抜けだ」
「つまり、岳は僕をからかうために猿の頭を使ったってこと?」
丁寧に重ねていくように、淡々とした調子で焔は岳に問い詰める。
その顔には静かな怒気が滲んでいた。
煙も岳も焔に対し、何も言葉を返せない。
向かい合うふたりの間で一触即発の空気が流れ、周囲の同志たちも段々と異変に気が付き始めた。
「こらこら、お主らは何をしている。鍋を勝手に持ち運ぶな」
異様な空気を察してか、玄慈老師が様子を見にやって来る。
「不穏なようじゃが喧嘩かな? 同志間での争いは、それなりの罰を与えるぞ?」
「……ごちそうさまでした。先にお椀を洗ってきます」
焔は椀を持って立ち上がり、逃げるようにその場を後にした。
緊張感から解放された岳は、力が抜けた様子でその場に腰を下ろす。
「はて……穆焔は一体どうしたのかな。凄まじい殺気を放っていたが」
「岳が焔を揶揄いました。多分、相当怒ってる」
煙は眉間に皺を寄せ、傍らの岳を一瞥する。
「おい、岳。鍋を炊事場に返してこい。兄弟子たちにおかわりが無いと騒がれるぞ」
「分かってるけどさ……気が抜けて腰が立たねぇよ。クソッ、一体何なんだよアイツ……!」
玄慈老師は腕を組んで何度か頷き、広間を出た焔を追う。
焔の姿はどこにもなく、本堂の廊下は既に物音ひとつしない。
玄慈老師は炊事場に寄って流しを確認するが、下げられた椀はひとつもなかった。
「ここではないか。中庭じゃろうか」
玄慈老師の予想通り、焔は境内の中庭にいた。
裸足のまま外に出て、松の木の下に何やら座り込んでいる。
「穆焔、そんな所で何をしているんじゃ?」
「あっ……玄慈老師! 勝手に逃げ出してごめんなさい……」
焔は椀を持ったまま、片手で土を掘っている。
「おお、まさか猿を埋めているのか。一度糧となったものを、どういう風の吹き回しかね?」
「頭だけでも埋めてあげようと思ったんだ。この猿は僕のせいで、揶揄いの道具に使われてしまったから」
玄慈老師は息を吐き、焔の隣にしゃがみ込む。
そして焔から椀を奪うと、猿の頭を土中に降ろした。
「儂も供養すべきじゃな。皆に奥義を見せるため、こやつの命を弄んだ」
「昼間は叫んでごめんなさい。あの場で殺すと思わなくて、心の底から驚いたんだ」
猿に土をかけながら、焔は老師に謝罪する。
素直な焔の表情から、殺気はすっかり消え失せていた。
「儂としては、あの場でお主が叫んだことに驚いておるぞ」
「それは猿と目が合ったから、怖くて思わず声が出て……」
「怖いだなんて嘘じゃろう。誰もが楽面に捕らわれる中、お主だけが儂の術中の外にいた」
玄慈老師は歯を見せて朗らかに笑いながら、焔の顔を覗き込む。
「焔、お前はあの時―― どんな感情で儂を見ていた?」
「あの時、僕は少しだけ……老師に対して怒ってました。猿を殺す老師を見て、身体が少しだけ熱くなった」
「飯のおかずに同情したか。戦士が聞いて呆れるのう」
「いえ、僕はあの猿に自分自身を重ねていました。僕はあの時、心の中で……老師に牙を剥いていた」
予想だにしない返答を聞いて、老師は目を細め口角を上げる。
一度しか披露しない戯を盗もうと、門下生たちが玄慈老師に向けて熱い視線を送る中――
焔だけが猿の立場で、魅入られることなく活路を見出そうとしていたのだ。
つまりあの時、あの場所で、焔は玄慈老師と向かい合い、本気で戦っていたことになる。
「だから猿が殺された時に、情けなく叫んでしまったと」
「馬鹿みたいですよね……吊られた猿の気持ちになって、老師に敵意を向けるなんて」
焔の言葉に対し、玄慈老師は嬉しそうに歯を見せて笑った。
その笑顔は昼間、猿に向けた威嚇同様の異質な笑顔である。
焔も歯を見せてはにかむが、眉はひそめられたまま。
互いに牙を見せつけあう、怒りにも似た形相である。
「面白い……その言葉から、お主の本質が窺えるぞ。あまりの恐ろしさに、わしの面も蒼白じゃ」
「僕の本質……? 玄慈老師に一体何が分かるって言うんですか?」
「分かるぞ。お主の父親も自らの本質に翻弄されていた」
良く言えば恐ろしい程に勇敢な男――
自身の掲げる義に対し、あまりにも愚直で真摯な思考。
悪く言えば極端に冷酷で目的に一途――
目的のためなら躊躇なく、自らの義を通し抜く。
「湧き立つ感情と本心を、誰よりも恐れる臆病者じゃ。歯止めが利かなくなることを、心から恐れているのじゃろう?」
臆病者の影に潜む恐怖の存在を言い当てられて、焔は思わず息をのんだ。
「……そうかもしれない。自分自身の喜怒哀楽に振り回されるのが怖いんだ」
腰から黒い刀を抜き、玄慈老師は夜空に輝く青薔薇を指す。
焔は腕で涙を拭い、老師の刀の先を見た。
「――ならば、こういうのはどうじゃろうか。お主が戦う理由の中に、尤もらしい理性を足すんじゃ」
「戦う理由に理性を足す? すみません……言葉じゃ理解が及ばなくて……」
「お主はこうも苦しみながら、战斗羊を志す……譲れない理由があるのだろう」
焔は唇を軽く噛み、両目を閉じて思考する。
瞼の裏の暗闇には、朗らかに笑う太陽のような煙の姿が焼き付いていた。
「僕は心穏やかに……ずっと姉さんの隣に立って、同じ景色を眺め続けたい」
星の海に揺蕩う薔薇に向けて、焔は低い声で静かに呟く。
願いは白い吐息と共に、夜闇に昇って溶けていった。




