第38話「喜怒哀楽」
煙と焔は战斗羊を目指すため、共に霧恩寺へ入門した。
この寺では戦士としての基礎訓練に加え、战斗羊の継承に欠かせない絶技〈四面舞闘戯〉を会得するための修行が行われる。
四面舞闘戯とは、喜怒哀楽それぞれの面相を自在に切り替えながら戦う武術だ。
感情によって闘気を高める一方、その奔流に呑まれぬ冷静な理性も要求される。
「喜怒哀楽、それぞれの戯を繋ぐ動作も重要である! 美しい舞で魅入らせながら、敵と距離を詰めるのだ!」
「応っ! 本日は手合わせ願います!」
境内には手合わせのために、兄弟子と同志たち、総勢三十名もの若者が集められていた。
全員の相手を務めるのは、兄弟子の中でも強者と名高い男である。
「お前らが寺に来てもう半年か! 俺の背くらいは触れるようになったかな!?」
手合わせのルールは単純明快。
兄弟子の背に手を触れられれば勝ちだ。
喜怒哀楽それぞれの奥義を一年毎に学び、六年で四面戯をものにするのが修行の目的。
最初の一年は四面戯を繋ぐ舞動作の会得で過ぎていく。
「ほれほれ、どうした! もっと遠慮なく寄って来いよ!」
内容だけ聞けば簡単そうな試験だが、現実はそう甘くない。
ほとんどの同志たちが背に触れるどころか、兄弟子に対して間合いを詰めることさえ出来ないのだ。
「だっはっは、なんだその舞は! 集落の娘のがまだ上手いぞ!? 誰か俺の背に一手でも触れて欲しいねぇっ!」
果敢に同志たちが挑んでいくが、兄弟子に捕まっては遠くへ投げ飛ばされてしまう。
境内に重苦しい空気が漂い始めた頃、兄弟子の前に煙が勇ましく躍り出た。
「おおっ、やっと来たか煙! 後ろで突っ立って何してた!?」
「兄者を観察していました! 闇雲に攻めても通用しない……そんな相手だと思ったので!」
兄弟子はふと立ち止まり、煙に真剣な眼差しを向ける。
隙を見て襲い掛かろうとした同志に対し、来るなと強く手で制した。
「真剣にならんと無礼にあたるな。女だろうと手加減はしないぜ!」
「手加減など願いさげだ! 正々堂々お相手願う!」
突如として気まぐれに始まる一対一の本気手合わせ。
兄弟子の死角に潜り込もうと、煙は獣の如く駆ける。
「速い速い、こりゃ手が出るぞ―― 喜面紅宴!」
兄弟子の周囲を駆けながら間合いを詰める煙に対して、兄弟子は腰から鉄扇を抜いた。
素早く駆け抜ける煙に向けて、ジャブのような刺突を繰り返す。
(く……っ、おのれ兄者め! 我らが習っていない戯を繰り出しおって……!)
煙は踊るよう鉄扇を躱し、反復するように踵を返す。
そしてすかさず、鉄扇の下へ潜り込むように兄弟子の懐へ飛び込んだ。
「ははっ、まんまと入って来たなぁっ!」
兄弟子は身を翻し、足元にいるであろう煙の気配を追った。
案の定、煙は兄弟子の眼下に身を隠すように屈んでいる。
「悪いなっ! 蹴鞠かと思ったわっ!」
兄弟子は煙に蹴りを入れるべく、狙いを定めて右脚を上げた。
その瞬間、煙の姿が今一度消える。
なんと煙は振り上げられた脚から距離を取るのではなく、逆に飛び込んで股の下を潜り抜けた。
そして背後から軸足を払い、兄弟子の体幹を狂わせる。
「――何っ!?」
背後から軸足を払われて、兄弟子の身体が大きく傾く。
煙はすかさず大地に自らの肘を立て、拳をしっかりと握り込んだ。
「落ちて来い兄者! 我が拳をとくと食らえぇいっ!」
次の瞬間、倒れ込んできた兄弟子の背中が煙の拳へと真っ直ぐ落ちる。
兄弟子の背に、煙の拳が杭のように深くめり込んだ。
「ぐああぁっ!!」
「どうだ兄者っ! 我はうぬの背に触れたぞっ!!」
攻撃が急所に入ったのか、兄弟子はその場で激しく嘔吐する。
見ていた周りの同志たちは、その光景を見て慄いた。
「はっはっは、非力なりに考えたものよのう」
戦闘不能に陥った兄弟子を見て、傍らで見ていた玄慈老師は空を仰いで大笑いする。
ご機嫌な老師の横では一転――
記録を付けていた側仕えは、喜ぶ煙を見て顔をしかめた。
「小賢しい。あれのどこが正々堂々と言えるのであろうか」
「なに、正々堂々などと言った言葉は所詮、ルールの元にある言葉だ。実戦では案外、あのような者の方が生き残るものよ」
玄慈老師は静かに微笑みを浮かべ、腰から刀を引き抜くと、煙の元へと歩み寄る。
「老師、少しやり過ぎてしまいました……! 兄者を医師に見せなくては!」
「何故……お主は腰の武器を使わなかった? 鉄扇は与えているじゃろう?」
煙と兄弟子は驚いた様子で目を見開き、玄慈老師の顔を見上げる。
兄弟子にいたっては怯えたように、尻で這うように煙の傍から後退った。
「玄慈老師……それは、どういう意味でしょうか?」
「そのままの意味だ。あの場で鉄扇を突き立てれば、技としての精度は上がったじゃろうに」
すべて老師の言う通りであったが、最早それは手合わせではなく殺し合いだ。
突き立てた鉄扇に兄弟子ほどの体重が乗れば、身体など簡単に突き破ってしまう。
「……急所に向けて深く打てば、拳でも十分だと判断しました」
「優しいものよのう。おい、皆で兄弟子を本堂まで運んでやりなさい。今日の手合わせは終いとする」
兄弟子は担架に乗せられて、同志たちに運ばれて行く。
場に満ちていた喧騒が消え、中庭には煙と玄慈老師だけが残された。
「煙、お主は最初に言っていたな。手加減など願い下げ……正々堂々お相手願うと」
「はい……我が女だからでしょうか。なめられることが多いのです」
「今日のお主に同じことが言えるだろうか。お主は本当に加減なく、正々堂々戦ったのか?」
玄慈老師の問いに、煙は言葉を返せない。
「少なくとも兄弟子の方が、お主に対して真摯なように思えたぞ」
「……え? 我よりも兄者の方が……!?」
「相手が喜面の戯を放った時点で、お主も武器を抜くべきだった」
「そうでしょうか……先ほどの老師の言葉を聞いて、兄者は随分と怯えていたようですが」
「はっはっは、ならば奴も無意識かな。お主を強者と認めたからこそ、戯を放ってしまったのだろう」
天に向かって朗らかに笑いながら、玄慈老師は煙に背を向けて去って行く。
煙は拳を胸の前で握り、玄慈老師の背に向けて礼をした。
「玄慈老師! ご指導、感謝します!!」
目を閉じ深く頭を下げて、言葉と共に感謝を示す。
そして何やら気配を感じ、煙は瞼をぱっと開いた。
いつの間に現れたのか、煙の足元には焔がしゃがみ込んでいる。
小さな胸に鉄扇を抱き、心配そうに煙の顔を見上げていた。
「姉さん、手首を怪我してない? 少し腫れてるみたいだよ?」
「うぎゃあっ!? 焔っ……いつの間にそこにおったのだっ!?」
煙の素っ頓狂な声を聞いて、玄慈老師は足を止めて振り返った。
どこからともなく現れた焔の姿に、老師も驚いて目を見張る。
「焔、今までどこにおったのだ。手合わせの場でお主の姿を見なかったが」
「ごめんなさい……どうしても前に踏み出せなくて。中庭にはいたんですけど……」
焔はしゃがんだままの姿勢で、玄慈老師と会話する。
「こらっ、老師に対して失礼だろうが! ちゃんと立って話すのだっ!」
見かねた煙が焔の腕を強く引き、しっかりとその場に焔を立たせた。
「中庭にいたじゃと? 本当か? どこら辺に立っていたんじゃ?」
「ん……えっと――あそこの木陰とか……小石が落ちてる所とか……あと静さんの横にもいました」
焔の説明を聞いて、玄慈老師は傍らに立つ側仕えを見る。
側仕えの静川は、非戦闘員と言えど元門下生――
玄慈老師の護衛も務めるほどの実力者である。
そんな彼が焔の気配に気が付かない訳がない。
静川は焔と老師の顔を交互に見て、気まずい様子で呟いた。
「……知りません。少なくとも私は今日、初めて穆焔をここで見ました」
「どうして誰も気が付かない? 三十人以上おったのだぞ?」
玄慈老師と静川は信じられないと言った様子で、焔の顔をじっと見つめる。
「う……っ、ぐすっ……ごめんなさい……! みんなの目を避けながら……場所を選んで歩いてたんだ……!」
問い詰められたと感じた焔は、次第に泣きべそをかきはじめた。
再び見かねたであろう煙が、焔の頬を摘まんで左右に強く引き伸ばす。
「泣くなっ、この弱虫めっ! コソコソ逃げよって战斗羊が見て呆れるぞっ!」
「うわああんっ、ごめんなひゃい~っ! だって戦いたくなかったんだもん~っ!」
「老師様、本当に申し訳ございません! 私からしっかり叱りますので、今日のところは許してください!」
煙は焔の後頭部を押して無理矢理に礼をさせると、襟首を掴んで引き摺っていく。
残された玄慈老師と側仕えの静川は、呆然としたまま姉弟を見送り、暫くその場に立ち尽くした。
「老師様……焔はずっと中庭にいたと仰ってましたが、彼の姿に気が付きましたか?」
「知らん。どこまで本当か判断出来ん。この儂ですら、穆焔が姉の足元に来るまで存在に気が付かなかった」
「俄かに信じられませんね。いくら視線が一点に定まるとしても、三十名以上の死角を渡り歩くなんて」
玄慈老師は額に浮かんだ汗を拭い、風を仰ごうと腰の鉄扇に手を伸ばす。
そしてふと、自らの腰に差してあったであろう鉄扇が、綺麗さっぱり消えていることに気が付いた。
「……はっはっは、こいつはやられた。後で穆焔を呼び出さねばのう」
静川は小さく頷いて、玄慈老師に自らの鉄扇をそっと手渡す。
煙と焔が入門して半年の夏――
ふたりの六年間の修行は、まだまだ始まったばかりであった。
「焔、もっと早く歩け! 急がねば医者が帰ってしまう!」
中庭から逃げ出した煙と焔は、汚れた靴を脱いで本堂へ入り、居室へ続く渡り廊下を足早に歩いていく。
煙の怒りはすっかり収まりを見せていたが、焔は小さな顔を両手で覆って嗚咽を漏らして泣いていた。
「それと……何をいつまで泣いているんだ! 同志に見られでもしたら、弱虫だって笑われるぞ!?」
「ふぐうぅっ……自分でも本当に嫌になるよぉ……! あの時……姉さんが腕を突き立てた時、駆けつけようか迷ったんだ……!」
戦いの場にて恐怖が勝り、足が竦んで躍り出ることが出来なかった――
焔はしゃくり上げながら、煙に何度も小さく謝罪を繰り返す。
「ほざくな。あの場でうぬが駆けつけたら、我は逆に怒っていたぞ。正々堂々に反しているし、正直邪魔にしかならないからな」
「そ、そうかなぁ……? でも、姉さんが手首を怪我したのは、僕に勇気が足りなかったからだ……!」
「自惚れるのも大概にしろ! こんなの少し捻っただけで、怪我の内には入らない!」
言い合いながら、ふたりは居室へ続く長い縁側に辿り着く。
ふたりの到着を待っていたかのように、縁側にはひとりの女が救急箱を枕にして昼寝をしていた。
「おっ、煙ちゃんに焔くん。帰って来るの遅かったね」
「希華の姉者! すまん、待たせてしまったのだ……!」
「いいのいいの、このくらい……さて、よっこらせっと――」
希華と呼ばれた女は、気の抜けた掛け声と共にゆっくりと起き上がる。
セル光のように蒼い髪と、雪のようにきめ細やかな白い肌――
それだけ見れば美人なのだが、寝癖と砂まみれの服装が印象をすべて台無しにしていた。
ショートカットの後頭部には不自然な寝癖が付いており、ジャケットの背は砂だらけ。
綺麗な衣装を纏っていたら、それこそ息を呑むほどに美しいであろうに。
「ねぇ、さっき背中に打撲を負った兄弟子くんを診たけどさぁ、あれ煙ちゃんがやったんだってぇ?」
「……ああ。倒れた所を拳で迎え撃ってしまった」
「おーコワ。ちょっと手首を見せてごらん。あれだけの体重が乗ったなら、きっと相当に腫れてるでしょ」
彼女はチベットに本部を置く〈白耀商会〉という医療組織から、巡回医師として霧恩寺に派遣されている。
手合わせや試験などがある日は、朝からこうして縁側に座り、怪我をした若者の治療に当たってくれているのだ。
「動くと少し響くだけだ。動かなければ痛くないのだ」
煙はおずおずと袖を捲り、細い腕を希華に差し出す。
腕は僅かに内出血して変色し、熱を持って腫れていた。
「うん……冷やして湿布すれば一週間で良くなるかな」
希華は足元に置いたクーラーボックスを開くと、水の入った桶に氷をたっぷり放り込む。
煙は促されるまま縁側に座り、氷水の入った桶に腫れた手首をそっと沈めた。
「よし、次は焔くん。怪我があったら見せてごらん」
「あ……僕はどこも怪我してないよ。手合わせに参加しなかったんだ……」
予想だにしない焔の言葉に、希華は驚いて目を丸くする。
焔の全身を目視でそれとなく確認するが、目の前の彼の発言通り、目立った怪我は見当たらない。
それより希華が気になったのは、焔が胸に抱く鉄扇であった。
暗黒星石で作られた柄に、金の装飾が施されている所を見ると、見るからに高級な物であることが窺える。
「ていうか焔くん、きみが抱いてる鉄扇は何? どう見ても門下生の持つ物じゃないよね?」
「――あっ!! しまった……玄慈老師に返してくるの忘れちゃった……!」
焔は鉄扇を希華に渡し、逃げるように柱の影に身を隠す。
希華は鉄扇を素早く開き、陽光に翳して壊れていないかを確かめた。
「何だとぉっ!? どうして焔が玄慈老師の鉄扇を抱いているのだぁっ!」
「ごめんなさい……っ、でも言ったでしょう? 姉さんを助けようか迷ったって……!」
焔が言うには兄弟子が倒れるその瞬間、煙を助けようとした焔は近くにいた者から咄嗟に鉄扇を奪ったのだと。
「ぬおおっ! よりによって老師のものを……っ、自分の鉄扇はどうしたのだ!」
「う……ううっ……布団の横に忘れちゃった……! 戦わなければいいかなって……!」
戦わなければいいかなって――
気弱を通り越して傲慢とも取れる発言に、希華は手を叩いて大笑いする。
「あーっはっはっはっ! めっちゃオモロいっ……門下生にあるまじき発言っ!」
「我が弟ながら、呆れ過ぎて何も言えんぞ。頭がズキズキと痛むのだ……!」
「まぁ、鉄扇は壊れてないようだし、とりあえず私が返してくるよ」
閉じた鉄扇を小脇に抱え、希華はおもむろに立ち上がる。
そして数歩ほど歩いたところで、何かを思い出したのか、ふたりの元へと引き返した。
「おっといけない。ふたりにお菓子をあげてなかった。頑張るキミたちに白耀商会からご褒美だよ」
希華はクーラーボックスの中から、棒状のキャンディを取り出す。
郷で暮らす若者にとって、希華から配られる菓子は言葉の通りご褒美であった。
冷やされた牛乳飴からは、ほんのりと甘いバターの香りが漂う。
表面の形は少しばかり不揃いで、希華の手作りであることが見て取れた。
手がベタベタにならないように、キャンディは厚いオブラートに包まれている。
「わあぁっ、やったぁ! 僕、牛乳飴が大好きなんだ!」
「希華の姉者、鉢鉢鶏は残ってないか? 塩辛い菓子が食べたいのだ」
煙の所望する鉢鉢鶏とは――
鶏のすり身を揚げて串に刺し、甘辛いタレに絡ませた駄菓子だ。
「もちろんあるよ。煙ちゃんが言うと思って取っておいた」
希華は微笑みながら頷いて、クーラーボックス内の紙袋から小さな串を取り出した。
「焔くんも鉢鉢鶏にする?」
「ううん、僕は飴でいい。この飴が一番好きだから」
「食の好みが親に似てるね。あんたらの母さんは牛乳飴をよく食べてたし、父さんの方は煙の選んだ鉢鉢鶏をよく食べてたよ」
笑ってそう言い残すなり、希華は鉄扇を玄慈老師に返しに行く。
残された焔と煙は暫し無言で、お菓子を夢中で頬張った。
「なぁ、聞いたか? 我の好みは父上に似ているんだと」
「うん……父さんも鉢鉢鶏が好きだったんだね。こんな辛い味のどこがいいのかな」
「焔も我を大いに見習えっ! 強い戦士は燃えるように辛いものを好むのだと!」
煙は強く豪語しながら、串を頬張って咀嚼する。
暫く調子よく食べ進め、口の周りが赤くなる頃――
「焔……鉢鉢鶏の残り、食べるか?」
「いいの? それじゃあ飴と交換だね」
焔は牛乳飴を半分に折り、口を付けていない方を煙に手渡す。
途中で交換する流れは、ふたりのいつもの恒例だった。
「はひ……ふぅ……唇がヒリヒリして熱いのだ……どうしても最後まで食べられない……」
「希華姉さんが言ってたよ。酒飲み用のおつまみだって。駄菓子にしては辛すぎるんだ」
言いながらも、焔は何の躊躇もなく鉢鉢鶏に齧りつく。
涼しい顔をして食べている様子から、辛いものは特段苦手ではないのだろう。
むしろ煙が途中でギブアップするのを見越して、牛乳飴を選んでくれているのかもしれない。
「なぁ、焔……助けようか迷ったって言ってただろう。玄慈老師の鉄扇で、どうするつもりだったのだ?」
「……地面に突き立てようと思った。姉さんの手段と同じだよ」
口の周りを鉢鉢鶏のタレで真っ赤に汚しながら、焔は無邪気に笑って答えた。




