第27話「冷やし中華はじめました」
自宅の勝手口から飛び出すやいなや、ルウナは表路地をひたすら走り、路地裏へと続く曲がり角で待機する。
(ふたりが追って来るかだけでも、きちんとこの目で確認しなきゃ……!)
曲がり角で立ち止まって数十秒後、男と幼女が表路地へ姿を表した。
男の足元で幼女が四つん這いとなり、地面に鼻をつけて嗅ぎ回る。
「あのチビちゃん……多分、本当の意味での〈アウトネオ〉だ……!」
本当の意味での〈アウトネオ〉とは――
アウトネオという言葉自体、昨今ではネオフェネックと人間のハーフを意味することが多い。
だが、元来アウトネオとは、ネオと人との間に生まれた奇形を指す言葉だ。
原種の砂キツネにより近い特徴が現れることから、先祖返りや退化と呼ばれることもある。
個体によってアウトネオの容姿は様々だが、共通する特性として身長が著しく低いことがあげられる。
そもそも、ネオフェネックは外見こそ毛皮に覆われたキツネそのものであるが、臓器は人間とほぼ同じで、白目が人と同等レベルに発達している。
ネオを種族ではなく人種と定義しているのも、この辺の理由があってこそだ。
しかし、アウトネオは原種の砂キツネ同様に黒目がちで、臓器や身体の発達が未熟な傾向にある。
妊娠期間が短かったり、一度に子を産める基本数が違ったり、細かいところで限りなく動物に近い。
「チビちゃんは多分、普通のネオより鼻が利くんだ……! やみくもに逃げても追いつかれる!」
先祖返りとはよく言ったもので、アウトネオは原種の特性が強く残っていることが多い。
原種同様に鼻が利き、個体によっては四つ足で走り、車よりも速く移動することができる。
現在ではアウトネオを天然の〈強き者〉と呼び、進化の過程として研究している学者もいるほどだ。
現代社会で〈退化〉という言葉は、アウトネオに対する差別にあたる。
(あたしの杞憂だと良いんだけど……! お願い……どうか明後日の方向へ行って……!)
幼女はピタリと動きを止めて、ルウナが隠れている方角を見る。
咄嗟に頭を壁へ隠すが、一瞬だけ幼女と目があった気がした。
「まずい……こっちに来る……!」
ルウナは慌てて踵を返し、薄暗い路地裏を全力で駆けた。
壁に身体を擦り付け、住宅街を縫うようにして市内を大回りに移動する。
(とりあえず、ラミウに事態を伝えよう。助けて……いや、逃げてって言うべき?)
足を止めずに、鞄からスマートデバイスを取り出して、発信履歴からラミウの名を選ぶ。
しかし、何度かけてもコール音を繰り返すだけで、ラミウが通話に出る気配はない。
「もう、連絡無精! アイくんのIDも聞いておくべきだった!」
路地裏の壁に自らの匂いを残してから、ルウナはダストボックスの蓋を開けた。
腐った果実や食べ残しの串など、生ゴミの臭いが鼻を突く。
「……マーキング行為なんて子供の時以来! あんまやりたくないんだけどねー!」
幼女はおそらく、男の下衣に付いた尿の香りを頼りに追ってきている。
ルウナはその場で下着を脱ぎ、ダストボックスの奥へと乱暴に突っ込んだ。
「おしっこの匂いで時間を稼げればいいんだけど……!」
ダストボックスの蓋を閉め、ルウナは急いでその場から離れる。
走りながらも、ルウナの片手は引き続き鞄の中を探っていた。
「……あった。ポーチに入れておいて本当に良かった……!」
鞄の中から取り出したのは、小さな赤い香水瓶――
瓶の中央にはVIXROSEのロゴと共に、薔薇の紋章が刻まれている。
「あたしの匂いを推し色に変えて、追跡を撹乱させてやる!」
ルウナはシャツの襟を摘まみ、胸の谷間から腹に向けて香水を噴いた。
服の内側へ香水を噴くのは、空間への飛散を防ぐためだ。
「これで時間が稼げるはず! あとはひたすら、匂いの濃い所へ行くしかない……!」
路地裏で市内を一周して、スタート位置から市場を挟んだ反対側へ――
ルウナは海鮮市場のフェンスに向かって全力で駆け、小高いフェンスを乗り越える。
そうして営業を終えた海鮮市場へ入り込むと、停車している輸送車の後ろへと隠れた。
「今のうちに、軍の治安管理局へ通報しよう! 誰かに助けてもらわないと!」
再びスマートデバイスを取り出し、通報先のIDを検索する。
治安管理局のIDを見つけ、通信ボタンに触れようとするが、気配を感じて押すのをやめた。
輸送車から顔を出して周囲を確認すると、男と幼女が海鮮市場内を歩いている。
あまりにも堂々と歩いているため、清掃作業中の従業員たちは彼らのことなど見向きもしない。
(うわ、もうすぐそこまで来てる……! 通話して声を聞かれたら、あたしの居場所がすぐにバレちゃう!)
ルウナは輸送車の間を縫うように走りながら、男と幼女から距離を取り続けた。
逃げながらも片手でSNSのアプリを開き、ホーム画面をスクロールする。
「お願いシュガーちゃん……どうかタイムラインを監視してて……!」
ホーム画面を更新して、最新のメモからタイムラインを確認していく。
すぐさまルウナの画面には、シュガーボールキャットのアイコンが立ち並んだ。
怒涛の更新はルウナと別れた直後から――
興奮したアナスタシアが、オフ会の感想を思いのままに連投し続けているようだ。
いつもなら〈安定して狂っている〉と、面白おかしく笑うところだが、今日は彼女のメモ書きすべてが女神の囁きのように見える。
(よし、シュガーちゃんタイムライン見てる! 持つべきものはメモ廃のオタク友達だね!)
ルウナはシュガーボールキャットのアイコンからアナスタシアのホーム画面に飛んで、ダイレクトメッセージ欄を開く。
アナスタシアに向けて助けを請う文章を打ち込み、送信手前で指を止めた。
(いや、待って……友達を危険に巻き込むの……? あの男、もしかしたらチュナールを騒がせている殺人犯かも……)
数日前、チュナールの歯医者で殺人事件があった。
医師と歯科衛生士の供述によると、犯人は人間の男だという。
事件のあった場所は、チュナールでも治安の悪い区域だ。
深夜ともなると狂暴なネオフェネックが歩き回り、市民に危害を加えることも珍しくない。
同じネオでも危険と感じる物騒な場所で、人間の男による犯行は珍しいと、チュナールの街は騒然となった。
しかも、銃やボーガンなどの飛び道具は使用せず、犯行に使われた凶器は短い刃物数本だけ――
一体どんな奴なのだろうと、巷では犯人に対する噂が飛び交っていた。
「どうしよう、シュガーちゃんを危険に晒したくない……! 戦えるアイくんを頼るにしたって、傍にはラミウや煙ちゃんがいるし……」
ルウナは頭を抱えて悩みあぐねる。
悩みに悩んだ末、ルウナは再びスマートデバイスを強く握った。
「いや……考えてみれば、軍もリベリアスを追ってるんだ……。今回の件はシュガーちゃんにとっても他人事じゃないはず……!」
人差し指に祈りを込めて、ルウナはアナスタシアへメッセージを送る。
――リベリアスを知る謎の男に、命を狙われ、追われていると。
メッセージは数秒置いて、すぐに既読マークが付いた。
チュナールからミルザプルへと走行するリムジン内にて、アナスタシアはルウナから来たメッセージを確認する。
「……あれ、ルウナちゃんからDMが来た。どうしたんだろう……忘れ物かなぁ……?」
アナスタシアはルウナからのメッセージを読み、瞬く間に顔色を変えた。
傍らの鞄からタブレットデバイスを取り出して、慌てた様子で電源を入れる。
「お嬢様、如何しましたか?」
「ロドルフ……チュナールの歯医者でネオが殺された事件だけど、犯人はもう捕まってる?」
「現時点ではまだのようです。被害者のスマートデバイスも見つかっておらず、犯行の動機などで不明瞭な点も多いと」
「スマートデバイスが見つかってない……? 犯人に持ち出されたってこと!?」
アナスタシアはタブレット内に備わるエミュレーターソフトを開き、ルウナのスマートデバイスから抽出した情報を元に、仮想環境を立ち上げた。
長方形の窓に表示されるは、VIXROSEのファンクラブ限定待ち受け画像。
画像の人物は、ルウナの推しである〈チャンミ〉という男である。
「ごめんねルウナちゃん……もう一度、中を覗かせてね……!」
アナスタシアは仮想環境を指でスクロールして、アプリ欄から目的のものを探す。
SNSや動画加工アプリなど、様々なアイコンが立ち並ぶ中で、バイミーのアイコンを指で撫でた。
そして、慣れた動作でバイミーの進捗報告ページを開き、サーカス主催者である犯人と、ルウナのやり取りを今一度注意深く読み直した。
上から順を追って会話を読み進めていくと、不自然な点が浮かび上がる。
内容が所々歯抜けとなっており、会話が繋がらない部分が点在していた。
「ルウナちゃんの他に、犯人とやり取りしていた人物がもう一人いるかもしれない……」
非表示になっているのは退会済みの会員だろうか。
もしくは任務を途中で降りて、ルウナをブロックした者か。
「ロドルフ、バイミーの会社から開示情報は届いてる?」
「いいえ、何しろ適当な会社です。催促はしていますが、時間がかかるとの一点張りで」
「……命令です。銀星館からチュナールへ、機動隊を派遣して」
静かに放たれた命令は、あまりにも物騒な要求だった。
ロドルフは無言で無線を取り、銀星館へと通信を入れる。
「こちらNF77700。チュナールにて緊急事案。機動隊を要請する」
――了解。優先コード9。待機中の隊を輸送車で向かわせる。
無線からの応答に、アナスタシアは身を乗り出して反論した。
「輸送車じゃ駄目! 民間の移動が多いこの時間じゃ、一時間以上は掛かっちゃうよ……! CR機をD-3から要請して!」
「生憎ですが、D-3にあるCR機はアルマン様が使用しております。明日の未明にソウル支部にて、ご友人と会合があるそうで……」
「えぇっ、ひとりで全機使ってるの……!? お兄様ほんと無理過ぎる……っ、タイミング悪いってもんじゃないよ……!」
アナスタシアは頭を抱えて力なく項垂れる。
そうしてしばらく蹲り、何か覚悟を決めたのだろうか――
アナスタシアは顔を上げ、ミラー越しにロドルフを見つめた。
「……ロドルフ、今すぐチュナールへ引き返して! 私がルウナちゃんを助けに行く……!」
「お嬢様に危険が及ぶのでは? 冷静になってご判断を」
「それならあなたが身体を張って、私のことを全力で守って……! こうしてる間にも、ルウナちゃんが殺されちゃうかもしれないの……っ!」
涙に濡れた蒼い瞳が、ロドルフの心を矢で射貫く。
ロドルフは中指でサングラスを押し上げ、吐息と共に声を漏らした。
「はぁ……まったく抗えませんな。|かしこまりました、お嬢様《ビヤン・アントンデュ、マドモワゼル》」
ロドルフは巧みにハンドルを切り、車体を鋭くUターンさせる。
アナスタシアを乗せたリムジンは、再びチュナールの方角へと走り出した。
そして、時刻は22時半過ぎ――
海鮮市場は清掃を終え、閑散とする時間帯だ。
「はぁ……はぁ……もうずっと走りっぱなし……助けが来るまで逃げてられない……!」
ルウナは周囲を見回して、隠れられそうな場所を探す。
そしてふと、火照った身体に心地の良い冷気を感じた。
冷気の出処は、競り会場の奥に備わる巨大な冷凍倉庫。
翌朝に向けて霜取り作業の最中だろうか――
小柄なネオの清掃員が、大量の氷をリヤカーに積んで運んでいる。
ルウナはすぐさま清掃員の元へ駆け、肩を掴んで縋りついた。
「うわぁ、なんだねキミは! この時間は関係者以外、立ち入り禁止なんだぞ!?」
「はぁっ、げほっ……助けてオジサン……怖い男に追われてるの……!」
ルウナは背後を振り返り、力なく遠くを指差した。
男と幼女がゆっくりと、着実にこちらへと歩んで来る。
「家に押し入った強盗だよ……! もしかしてだけど、ニュースで話題の殺人鬼かも……っ!」
「なんだってぇ? あの男と子供がかぁ?」
清掃員は額に手のひらを翳し、男の姿を注視した。
男は全身から汗を流し、荒い呼吸を繰り返しながら怒りの形相を浮かべている。
真っ赤に汚れた口元と、血が滲む腹の傷を見て、清掃員は本能的な恐怖に竦みあがった。
「……なんだアイツ! 見るからにヤバイ奴だなっ!? 事務所へ行って通報しよう!」
清掃員はリヤカーをその場に放りだし、ルウナの腕を強く掴む。
「おい、キミも一緒に事務所へ来るんだっ! 鍵はオイラが持ってるからっ!」
「待って……事務所ってただのプレハブ小屋でしょ!? そんな所に逃げても無駄! それよりもオジサンにお願いがあるの!」
ルウナは清掃員の耳に口元を寄せ、早口で自らの要望を伝えた。
その間にも、男はルウナを真っすぐ目指し、大股で距離を詰めていく。
ルウナと男の間に残された距離は、僅か二十メートルほど――
間近から感じる男の殺気に、清掃員は痺れを切らしてルウナの腕を振り払った。
「うわあぁっ、もう限界だぁっ! お嬢ちゃん、悪いがオイラはここから逃げるよ!」
清掃員はルウナと男に背を向けて、尻尾を巻いて走り去る。
見捨てられたルウナは絶望の表情を浮かべた後、悲鳴を上げて倉庫の中へと逃げ込んだ。
「馬鹿め。追いつめられて錯乱したか」
男はルウナを追いかけて、倉庫の中へと一歩踏み込む。
倉庫の中は驚くほど暗く、残留した冷気で僅かに霧がかかっていた。
食品の入ったダンボールが随所にうず高く積まれており、障害物となって男の前に立ちはだかる。
「|ユーシンウェイ……ウェンブーダオラ《魚臭い……鼻が利かない》」
「かくれんぼのつもりだな。こちらには鬼が二人いる。手分けして探してやろうじゃないか」
男は数秒瞼を閉じ、目を慣らしてから暗闇を睨む。
奥に積まれたダンボールの影に、黄金色の毛皮が僅かに見切れていた。
「……ははっ、倉庫に入ったのが過ちだったなぁ……!」
男は幼女を肩に乗せ、倉庫の奥へと歩を進める。
そして、勝利を確信した男の背後で、金属の擦れる音が響いた。
「……何!?」
男は何事かと足を止めて、幼女と共に背後を振り返った。
今しがた潜った入口へ、鉄の扉が瞬く間に降りていく。
「お嬢ちゃん、本当に扉を閉めちゃって良いのかいっ!?」
倉庫の軒下には先ほど逃げた清掃員が立っており、手にした小さなリモコンで入口の扉を操作していた。
清掃員の問いかけに、ルウナが物影から顔を出す。
「ありがとうーっ! オジサンは遠くへ逃げちゃって! あとはあたしが何とかするから!」
鉄の扉が完全に締まると同時に、倉庫内は完全な闇に包まれた。
途端に冷気が空調から吹き込み、男は倉庫の用途を察して入口の扉を強く叩く。
「しまった……ここは冷凍庫か。あの女狐に嵌められた……!」
扉を内側から殴ってみるが、人の力ではビクともしない。
「扉を叩いても無駄だって。内側から開けるには、従業員にのみに共有されたパスワードが必要だよ」
ルウナはダンボールの塔に座り、男と幼女を上から見下ろす。
「ちなみにパスワードは聞いてなーい。無線で助けを呼んだところで、オジサンは逃げたから誰も来ないよー」
「……おれはお前を見くびっていた。女だからと手加減せず、さっさと殺すべきだった……!」
男は腰から鉄扇を抜き、ルウナの元へと一歩踏み出す。
「のわぁぁーーっ、そこでストップ! 扉は三時まで開かないんだっ! あたしを殺せば、あんたは絶対に凍死するよ!」
「お前の毛皮を奪えばいい。血肉を食らってでも凌いでやる」
男の言動に本気を感じ、ルウナは恐怖に言葉を詰まらせた。
それでもなお、現状の立場を分からせるため、ルウナは必死に説得を続ける。
「いやぁ……あたしのサイズじゃ流石にふたりは覆えないって。ほら見てみ、足元のチビちゃんが震えてるよ?」
男は足元の幼女を見た。
幼女は力なく座り込み、身体を丸めて震えている。
「|桃娘……你没事吧!?《桃娘さん……大丈夫かい!?》」
「|イェン……ウォーロン……ドンブーリャオ……《イェン……あたち、寒くて動けない……》」
男は幼女の身体を持ち上げ、自らの胸中にしっかりと抱き込む。
しかし、男の体温だけでは温めるに足りないのか、幼女の顔色はどんどん青白く変化していく。
「生きて夜を明かすには、生きた毛皮が絶っ対に必要っ。温めたげるから、チビちゃんをあたしに貸して」
「…………っ」
男は悔しさに顔を歪め、少し何かを考えてから、幼女をルウナへと差し出した。
「……背に腹は代えられない。妙なことをしてみろ。すぐにお前を殺してやる」
「はいはい、わかった。抱っこして温めるだけだってー」
ルウナは男から幼女を受け取り、両腕で優しく包み込む。
そうして、まるで赤子をあやすかのように、幼女の背中を手のひらで軽く撫で擦った。
「えへへー、めっちゃカワイイー。桃みたいに甘い匂いがするー」
「|イージーファイシャオ……ハオタオイェンダリェン。カンジャブーワンジョンダウォー……ヘンカイシン《ニヤニヤ笑って憎たらしい顔……不完全なあたちを見て、いい気分だと思ってる》」
「なに、チビちゃん今なんつったー? あいにくだけど、共通言語とフランス語と、ヒンディーを少ししか話せないんだわー」
「彼女はお前のことを、憎らしいと言っている。不完全なアウトネオの姿を見て、優越感に浸っていると」
男の通訳を介し、ルウナは幼女の内心を察した。
「はぁ? 劣性遺伝の虚弱体質を言ってるの? でもさぁ、子供なんだから体調崩してなんぼじゃないかなー」
「|イェン、ウォーフイヤオショースーダオ。シャーラナーガニューレン、バーピーボーシャライ《イェン、あたちは舌を噛んで死ぬ。女を殺して皮を剥いで》」
「|怎么这样……桃娘!那种事、绝对不行……!《やめてくれ、桃娘さんっ! そんなことしたら絶対に駄目だ!》」
男は血相を変えてルウナの傍へ駆け寄り、幼女の口に人差し指を押し込んだ。
間一髪、幼女の前歯は男の指に食い込んで止まる。
「|イェン、バーショウジーバーチューチュー。ザイジャーヤンシャチュー、ウォーブーシャントゥオレイトゥーディ《イェン、指を抜いて。これ以上、あたちは弟子の足を引っ張りたくない》」
「|桃娘要是死掉了……姐姐和我、都会很难过。那样的话……下次、真的站不起来了……《桃娘さんが死んじゃったら……姉さんも僕も悲しいよ。それこそ次は立ち直れない》」
幼女は口をゆっくりと開き、男の指から前歯を抜いた。
まるで乳を吸うかのように、幼女は溢れる血をしゃぶる。
「あのー……チビちゃん今さ、自分で舌を噛み切ろうとしてた? もしかしてあたしのせいだったりする?」
「彼女はこれでも立派な大人だ。これ以上、言葉で刺激しないでくれ」
目の前で繰り広げられる壮絶なやり取りに、ルウナは完全に引いてしまう。
命の軽さもそうだが、感情の高低差があまりにも激しいように思えたからだ。
「なんかごめん……。あたし、端の方で座ってるわ……」
ルウナはダンボールに背を預け、幼女を抱いたまま座り込む。
男の方も、手頃なダンボールを見つけるなり、椅子代わりにして腰を下ろした。
「あんたらさー、覚悟がキマってる様子を見ると、たぶん殺し屋か何かでしょー。どうしてリベリアスなんかを追ってるのー?」
「おれたちは殺し屋などではない。一子相伝の絶技を舞う者。強さを求める旅芸人だ」
「ふぅん……でもさー、どうせ誰かに雇われてるでしょー? バイミー使ったあたしみたいにー」
「聞かない方がいい。好奇心は身を亡ぼす」
男の言葉に、ルウナは慌てて口を噤む。
地雷を踏んだら殺されかねない――
ルウナは倉庫が開く時まで、黙って過ごすことにした。
胸の中の幼女は少しずつ温もりを取り戻し、落ち着いた様子でジッとしている。
(そういえば……ラミウから連絡来てないや。あいつら、今どこにいるんだ?)
ルウナは傍らの鞄からスマートデバイスを取り出し、電源に手をかける。
「うわ、圏外じゃん……。ラミウたち、今頃カンカンに怒ってるかもなー」
少なくとも、倉庫が開く午前三時までラミウたちを外で待たせることになる。
適当な宿を探してくれれば良いが、深夜ともなると難しいだろう。
(案外、あたしの家に来てたりして。中に入って、店舗の惨状に気付いてくれれば良いんだけど……)
あれこれ考えている内に、ルウナは疲れを自覚する。
思えば一日、アナスタシアと全力で推しを崇めたのだ。
歌って踊って、笑って泣いて、全身で愛を表現した。
帰宅するなり部屋を片付け、挙句の果てに奇襲され、チュナールの街を長距離マラソン――
どう考えても動き過ぎである。
冷凍庫内の冷たい気温が、ルウナの思考を冬眠モードへと切り替えていく。
ルウナは深く俯いて、胸に抱いた幼女の腹に、自身のマズルを押し当てた。
(ふあぁ、柔らかーい……。チビっ子ってぇ……全身から眠くなる成分発してるよねぇー……)
冷えた鼻先に伝わるのは、幼い子供特有の柔らかさと温かさ。
甘酸っぱい汗の香りが、安らぎと共にルウナを夢の世界へと誘った。
うつらうつらと舟を漕ぐように、何度も上体を前後に揺らし――
「……ふがっ! ――んにゃあっ!」
完全に落ちる直前で、ルウナは盛大に体勢を崩す。
「あぶぶ……いくら寒さに強いとはいえ、眠っちゃうのは流石に不味い……!」
一体どれほどの間、意識を失っていたのだろうか。
ルウナは鞄からデバイスを取り出し、電源を入れて時刻を確認する。
(23時半……30分しか経ってない。まだ0時にもなってないのかー)
何か食べれば、少しは気が紛れるかもしれない。
ルウナは食べ物を探すべく、スマートデバイスの照明を最大にした。
そしてふと、自分の足元の数歩先に、力なく横たわる男を見つける。
「うわぁっ、死んでる!! いや、寒さで眠っちゃってるのかな!?」
ルウナは恐る恐る男の傍へ歩み寄り、足の爪先で男の背中を突っついてみる。
裸のままの上半身は冷え切っており、腹から滲んだ血液が霙のように凍っていた。
「ねぇっ! そんな格好で床に寝たら、すぐに凍傷になっちゃうって……!」
足で男を揺さぶるが、巨大な体躯はビクともしない。
少し強めに蹴とばしてみるが、男は身じろぎすらしない。
「どうしよう……何か下に敷けるものは……」
デバイスの照明だけを頼りに、ルウナは倉庫を散策する。
そしてすぐさま、壁に積まれた鮮魚用のトロ箱を発見した。
トロ箱の多くは発泡スチロールで出来ており、運送用のためか密度が高く、手から伝わる質感も硬い。
「……発泡スチロールって断熱材だよね? 蓋の方を床に敷くのは有りかもしれない」
積み上がったトロ箱から持てるだけの蓋を回収して、ルウナは男の元へと戻る。
「ほら起きて! 布団を敷いてあげるから、あと少しだけ頑張ってよ!」
発泡スチロールの蓋をタイルのように敷き詰めて、仕上げにダンボールを一枚被せる。
とても粗末なベッドだが、床にそのまま横たわるよりはマシだろう。
ルウナは男を移動させるべく、脇に腕を通して引っ張ってみた。
しかし、上体が少し持ち上がるだけで、男の身体はビクともしない。
「重ぉ……っ! もう、自分で起きて動いてよー! 大人なんだからちゃんとしてよねっ!」
「うぅ……わかった……ごめんなさい、姉さん……」
「誰が姉さんじゃボケっ! ほら、キビキビ動く!」
男は意識を朦朧とさせつつ、緩慢な動作で床を這う。
蓋の上に男の身体が乗ったところで、ルウナはトロ箱を横に倒し、男の足元へ置いた。
「このままじゃ凍傷になっちゃうからー、この箱に足を突っ込んどきなー」
「ああ……詳しいんだな……場にある物を使って補う……まるでツァルカの女师父だ……」
男の口から漏れた他愛のない話に、ルウナは驚いて目を丸くする。
「ツァルカ村ってどこだよ。あんたの地元?」
「いや……おれの故郷は四川の山奥……ツァルカはチベットにある村で……お前のようなネオの師匠がいて、昔話を話してくれた……」
「あたしみたいな? どこらへんが」
「……口が悪いところとか」
チベットはアストラヴァナから遥か北へ、延々と登った山中にある。
恐ろしいほどに気温が低く、その寒さから獰植物の数も少ないそうだ。
獰植物の脅威がない分、厳しい自然が暮らす人々に牙を剥く。
旅行で行こうなんて思わない、ルウナにとっては縁のない地だ。
「この辺の学校に通ってた人なら、こういう知識は当たり前。あたしがすごいわけじゃないよ」
チュナールで暮らしている限り、市場や倉庫内での事故は日常茶飯事である。
四市市場周辺の学校では、子供たちに倉庫内の危険性や、閉じ込められた時の対処法を予め教えているのだそうだ。
ルウナの言葉に、男は何も返さない。
どうやら再び意識が遠のいているようだ。
「人って本当に弱いよね。腕っぷしが強くても、これしきの寒さで簡単にコロっと死んじゃうんだから」
学校で教える対処法は、あくまでも寒さに強いネオフェネックに向けたものだ。
寒さに弱い人間や、虚弱なアウトネオに関してはフォロー外である。
「足を箱に入れるだけじゃ、まだ凍傷が心配だなー。ブランケットでもあればいいんだけどー」
足先をすっぽりと包める布はないだろうか――
ルウナは少し考えて、着ていたTシャツを慎重に脱ぐ。
ちなみに今日のTシャツは推し活のために厳選した、VIXROSEのライブTシャツだ。
ファンクラブ限定オンライン販売で購入した、とても大切な服である。
「こいつの足……じいちゃんみたいに超臭かったらどうしよう……!」
ルウナは四つん這いになり、箱の中にマズルを入れて、男の足先に鼻を寄せた。
嗅いだところで何かが変わるわけでもないのに、確認せずにはいられない。
ルウナは勇気を出し、鼻から息を吸ってみる。
数秒嗅いで、ルウナは力強く立ち上がり、両腕を天に高く掲げた。
「やばいっ、今日一番の奇跡かも……! こいつ……足が臭わないタイプの野郎だ!」
確認作業を終えるや否や、ルウナはTシャツを箱へ突っ込み、男の足先を丹念に包む。
「これで良し……数時間程度なら凍傷の心配もないはず。仕上げに――」
ルウナは幼女を胸に抱き、男の隣に滑り込む。
開いたダンボールで身体を覆えば、即席かまくらの出来上がりだ。
「熱源はあたし頼りだけどね。このまま寝ずに三時まで耐えられるかなぁ」
寒い環境下では、デバイスの充電も瞬く間に減っていく。
出来ることと言えば、目の前で眠る弱った男を介抱するくらいだ。
ルウナは男の手を取り、自らの内股へ挟み込む。
広い背中に手のひらを回し、少し強めに何度も擦った。
「おーい、頑張って起きてた方がいいよー。あたしと一緒にお話しないー?」
身体が僅かに温まったことで、意識を取り戻したのだろうか。
男は深く息を吐き、閉じた瞼をゆっくりと開く。
「男なんだからしっかりしてよー。あんたが起きてなきゃチビちゃんの身体が冷えちゃうでしょー?」
「……何故、そうも必死におれたちを助ける……。情けを掛けず、このまま見捨てればいいものを……」
「いやぁ、あんたを見捨てても死にそうにないし。恩を売っとけばワンチャン見逃してくれるかなってー」
「…………」
男は視線を彷徨わせ、神妙な様子で黙り込んだ。
無視を決め込むというよりは、なんて返すか悩んでいるように見える。
「あのさ……どうせ三時まで暇だから、ふたりで世間話でもしない?」
「……話すことなど何もない……ましてや世間話など……」
「サーカスで見たことを話してあげるよ。リベリアスのことを知りたいんだよね?」
ルウナの言葉を聞いて、男は驚いた様子で目を見開く。
予想だにしない言葉は、男の意識を覚醒させるのに十分だったようだ。
「妙だ。お前に何の得もない。おれたちにここまでされているのに――」
「もちろん、タダで話すとは言わないよ。あたしと、あたしの友達を殺さないって約束して」




