第22話「四川の辛口愛好少女」
月の光を背に浴びて、大空に薔薇が咲き誇る。
薄暗い地下路の中継地点にて、獰植物を相手に戦うふたりの男女の姿があった。
セルデバイスを武器に携え、共に戦うは少女ラミウと青年アイザーク。
ふたりが軍の専属ファイターとしてバディを組んでから、あっという間に一週間が経とうとしていた。
今夜の相手は小型と大型の獰植物、計二匹。
小型の個体は犬の身体を乗っ取っているのだろうか――
ゾンビのような風体で、ホール状のポータルを縦横無尽に駆け巡る。
「アイっ! 小さいのが一匹そっちへ行ったよ!」
「任せろ! ラミウは親玉の方へ走れ! 俺がトドメのチャンスを作る!」
生き別れていた時間が長い分、最初の数日はふたりの間に多少の気まずさが存在した。
しかし、診療所にて働きながら寝食を共にするうちに、互いに慣れていくものだ。
今では幼い頃とほぼ同様に、良好な関係を築けている。
仕事内容が水晶灯の灯り番から、獰植物駆除に変わっただけ。
アイザークは両脚の双蹄を蒼く滾らせ、右脚を後方へ大きく引く。
「――双蹄!」
そして、トリガーとなる掛け声とともに、小型の獰植物を力いっぱい蹴り飛ばした。
小型の獰植物はボールのように宙を翔け、前方で蠢く大型の獰植物に直撃する。
「今だラミウ! 怯んでいるうちに首を落とせ!」
「わかった!」
ラミウは脱兎の如く駆け、大型の獰植物と距離を詰める。
跳び上がると同時に、身体を捻り、花托に向けて斧を一閃。
首にあたる部分を落とされて、獰植物は瞬く間に枯れ朽ちて行く。
周辺には切り刻まれた残骸と、血飛沫のように散らばった蜜液だけが残された。
「……ふぅ、これで今日のノルマは終わり。診療所への導線確保も完了だよ」
「お疲れ様。ふたりで協力して見回っても、何だかんだで朝までかかるな」
換気用の格子窓から、アイザークは空を見上げる。
星はすっかり薄くなり、東の空が僅かに白み始めていた。
ラミウは背負った鞄から小さな水筒を取り出すと、残った中身を一気に煽る。
「……ぷはぁっ、軍の指定もこなしてるからね。作業量も前と比べて二倍なんだよ」
「診療所への導線確保に加え、区域を繋ぐポータルの確認。人数がもう少し欲しいところだ」
各区域への中継地点であるポータルは、獰植物たちが必然的に集まりやすい。
普段は複数人の強き者たちが、それぞれの拠点から討伐をスタートし、最終的にポータルへと集うことで安全に討伐をこなしていたようだ。
「そうなんだけど、仕方ないね。あのサーカスの事件以来、強き者の数が減っちゃったから」
「…………」
アイザークは額を手で覆い、気まずそうに視線を彷徨わせる。
「……それは実質、俺たちのせいだな。文句を言える立場じゃなかった」
「そうだね。だけどアイのせいじゃないよ。アイと戦った私はまだ、この通りファイターを辞めてないもの」
サーカスでの出来事はラミウを恐怖に陥れたが、闘技場で戦ったこと自体には一切の後悔をしていない。
生き別れていたアイザークと再会できた上、共にバラナシへ帰ることができたのだ。
今はこうしてバディを組んで、隣で力を貸してくれる。
ラミウにとって、まさにあの日は転機と言っても過言ではなかった。
「それに……どういう風の吹き回しかな。ディガンマ先生の推薦で、軍に所属もできたしね」
ラミウは笑顔でそう言うと、ポータルの隅に待機している自掃機の元へと駆けていく。
自掃機とは、地下路の不浄物を清掃する自律型のロボットで、正式名称は〈自動徘徊掃除機〉――
軍に所属する強き者たちは、連絡ひとつで自掃機を要請できるため、清掃や消毒に時間を取られることはない。
自律知能のレベルは訓練された犬と同程度であり、見かけは黒い立方体という飾りっけのないビジュアルだ。
「自掃機くん、さっそくお掃除をお願いね」
言葉と共に、ラミウは自掃機の側面を叩いた。
自掃機はゆっくり動き出し、獰植物の残骸を次から次へと吸い込んでいく。
「イイコでかわいいっ! 自掃機が使えるなんて素晴らしいよ! どれだけ道を汚しても、きれいに片付けてくれるんだから!」
「だが、目視での確認は必要だろう。壁に散った蜜液なんかは結局自分で炙らなきゃだし」
アイはラミウからアックスを奪い、壁や天井を丁寧に炙る。
その姿はまるで、水晶灯を灯しながら夜闇を歩いているかのようだ。
「……アイの腕、前よりちゃんと上がるようになったね。肩の怪我はもう大丈夫?」
「うん、もう痛くないよ。骨が外れやすくなってるから、周辺を鍛えてカバーしろとは言われてるけど」
「今以上にムキムキになったら大変だよ。本格的に服が入らなくなっちゃうかも」
アイザークは自身の身体を見下ろした。
開襟シャツでは動きにくいため、仕事の時は専ら、肩の動きを阻害しないタンクトップを纏っている。
どうやら今の服装を、ラミウは気に入っていないようだ。
「俺はこの服、実用的で悪くないと思うんだけど」
「そうだけどさ……なんか見てると暑苦しくて」
「なんで? 全然涼しいけど。むしろ夜は肌寒いくらいだ」
「スタイルが良いのに勿体ないって話だよ。アイにピッタリのスーツとか、軍服のジャケットがあればいいのに」
一連の発言はアイザークにとって理解できない領域である。
分かったふうに頷いて、アイザークはラミウの話をそれとなく流した。
「……今度ルウナに相談するよ。アストラヴァナ領なら軍型落ちの大きなジャケットがあるかもしれない」
これ以上の衝突を避けるために、アイザークは一旦ラミウから離れ、ポータルの確認作業へと戻る。
そしてふと、目立たない場所にひとつだけある、小さなゲートに目を止めた。
「ラミウ、これは一体なんだろう」
「自掃機専用の高速通路。長距離ラインで北の方……チベット方面に抜けてるはず。私たちの管轄外だよ」
「いや、それは知ってるんだけどさ……俺の足元を見てみろよ」
ラミウはアイの指差す足元を見る。
獰植物のものであろう蜜液が、水たまりのように滲み出ていた。
「ゲートの向こうから流れてきてる。放っておいたらまずくないか?」
「……うん、確かにこれは気になるね。ちょっと開けて見てみようか」
ラミウはすぐさまゲート横の壁に近づき、備え付けられた緊急開閉ハンドルに手を掛ける。
「く……手動だから重たい……! 錆びてるのかな!? 回らないよぉっ……!」
「俺がやる。ラミウは一応、ゲートの前で構えてて」
力のないラミウに代わり、アイが全力でハンドルを回した。
鉄製のゲートが地面から離れ、軋みながら上がっていく。
「――あ……っ!」
ゲートの向こうに何かを見つけたのだろうか。
ラミウはアックスを放り出し、扉の向こうへと滑り込んだ。
「おいっ、そっちは俺たちの管轄外じゃないのか!?」
「そんなこと、どうでもいいから手伝って! 女の子が倒れてるの!」
「……女の子が!?」
アイザークは身を屈め、目を凝らして通路を見る。
ラミウが言う通り、通路の真ん中で少女が仰向けに倒れていた。
長い黒髪は獰植物の蜜液で濡れ、身に纏った赤い衣服は所々が破れている。
(――これほどの蜜液があって本体がいない。敵は近くに隠れているのか?)
獰植物の有無を確認するため、アイザークは双蹄で壁を思い切り殴ってみる。
拳に伝わる振動と耳に届く反響音から、ポータル周辺の気配を読もうと試みたのだ。
(敵は近くにいないようだ……。ますます訳がわからないな)
「アイ、どうしよう……! この子、まだ息があるみたいだよ!?」
アイザークは自身の荷物から水筒を取り出し、片手で捻って蓋を開ける。
そして少女の顔めがけて、水筒をゆっくりと傾けた。
少女の顔に容赦なく、冷たい水が降り注ぐ。
「う……うーん……つめたいぃ……」
少女は嫌がる素振りを見せて、グネグネと身を捩らせた。
ラミウは少女の肩に触れ、声を掛けながら軽く揺さぶる。
「ねぇ、大丈夫!? あなた、どこか怪我してない!?」
「んぅ……お腹……っ……」
「お腹? お腹を怪我してるの!?」
「んんーー……すっごく……お腹空いたぁ……」
少女は朦朧としながらも、蜜液の付いた指をしゃぶる。
ラミウは顔を青くして、少女の口から指を外した。
「駄目だよっ、そんなもの舐めたらお腹壊すよ!」
「ううん……辛いものが食べたいのだ……痺れるくらいに辛いものが――」
そこまで呟いて、少女はぐったりと力尽きる。
ラミウとアイザークは顔を見合わせ、再び少女を見下ろした。
「たいした怪我はなさそうだな。ラミウ、どうする?」
「今すぐ診療所へ運ばなくちゃ。ゲートを閉じてベレナスへ戻ろう!」
ラミウは少女を運ぶべく、濡れた床に膝立ちとなる。
中腰のまま少女を抱くなり、両腕に強く力を込めて――
「……あっ」
どういうわけか、ぴたりとその場で動きを止めた。
へっぴり腰のまま固まるラミウを見て、アイザークは眉を顰める。
「ラミウ、どうした?」
「アイ……どうしよう……この子、見かけよりもずっと重いよ……!」
「それじゃあ俺が背負って運ぶよ。ラミウはこの子の荷物を持って」
ラミウはアイを見つめたまま、涙目で首を左右に振った。
「それが……腰を痛くしちゃったみたい……。ギックリの一歩手前かも……!」
「……何してんだよ。歩けるのか?」
ラミウは首を小刻みに、延々と左右に振り続ける。
アイは額に手を当てて、どうするべきか考えた。
そして少し悩んでから、少女を背負ってラミウの身体を小脇に抱える。
「アックスと荷物を落とさないでくれよ。俺は両手が塞がってるから」
「ごめんねアイ……言い訳にしかならないけど、今週はちょうど……アレの前で……」
隠れ家で暮らしていた頃とは違い、アイザークはもう子供ではない。
ラミウの言わんとしていることを、ニュアンスだけでも理解できる。
思えばラミウは昔から、生理周期の揺らぎに影響され、頻繁に体調を崩していた。
傍から見ても、症状が重い方であることは確かだ。
やれ頭が痛いだ、腰が痛いだ、挙句の果てには〈どうしようもなく寂しい〉など――
ラミウの中に眠る〈強き者〉の本能が、身体と心を揺さぶり続けているのかもしれない。
「とにかく……早く帰って先生に診てもらおう。早歩きで行くからな」
「ううっ、アイがいてくれて良かったよぉっ! もしも私ひとりだったら、あそこで野垂れ死んでたかも……!」
「……そうだな。有意義に使われて何よりだよ」
アイザークは大荷物を引く馬のように、地上へ戻るべく大股で進んだ。
雄大な大河を朝日が照らし、朝の訪れをベレナスに告げる。
黄金柱寺院の階段には、巡礼の列がすでに形成されはじめていた。
ベレナスの小高い場所に建つ、シャーンティ診療所の屋上にて――
ディガンマはひとり、朝焼けに染まる景色を眺めていた。
眼下に蠢く人々の様子を眺めては、時折視線を真上に移し、大空に咲く薔薇を見つめる。
大気越しに見える薔薇の霞み具合を見て、ディガンマは小さく呟いた。
「今日は風が強いですね。塵が舞い上がらないよう、水でも撒いておきますか」
そのままゆっくり階段を降りて、階段井戸のある裏庭へ。
大きなバケツに水を注いで、柄杓を片手に正門へ出る。
診療所前の道に出ると、一体どういうことだろうか。
五体投地の状態で、アイザークが行き倒れていた。
大きな背中に見たことのない少女を乗せて。
彼の脇には、ラミウが必死に立ち上がろうと、突っ伏した状態で震えている。
「ラミウ、これはどういう状況ですか?」
「先生……ちょうどいいところに来てくれた……! お願い、助けて……急患だよ……っ!」
「ちなみに誰のことですか? 私の前に、それらしき者が三人いますが」
「アイの背中にいる女の子がそう! 私はただのギックリ腰で……っ、アイは私とこの子を運んで、階段で音を上げて倒れちゃった……!」
ディガンマは顎に手を当てて、眉をひそめて考える。
そして何を思ったのか、柄杓でバケツの水を掬い、アイザークの頭へと注いだ。
「先生……水をかけなくても大丈夫です……俺はちゃんと起きてます……」
「若いのに情けないですね。たった七十二段如きで」
「すみません……だけどこの子、どうしてかな……すごく重くて……! 退かすのに手を貸してください……!」
呆れたように息を吐き、ディガンマは少女を抱き上げた。
「後は私がこの子を診ます。ふたりは身体を清めてから、診療所へと来てください」
そして、アイザークとラミウにそう告げると、少女と共に診療所へと戻っていく。
アイザークは立ち上がり、再びラミウを小脇に抱えて、身体を洗うべく裏庭へと向かった。
「アイ、ごめんね……地下からここまで運ばせちゃって……」
「軽かったから気にしてないよ。それよりあの子が重過ぎて、正直ラミウどころじゃなかった」
裏庭に備わる掃除用の水道に、ホースを繋げて蛇口を捻る。
階段井戸に溜まる地下水と違い、日差しを受けたタンク内の水は、もはや沸かしたお湯同然だ。
ふたりは服を着たまま、交代で水を掛け合った。
「うわぁ、あったかくて気持ちいい! もっと腰の真ん中にかけて!」
「水が温いうちに頭洗えよ。タンクの水にも限りってもんがあるんだから」
お湯で全身が温まると、ラミウの腰も歩ける程度には楽になった。
ふたりはそれぞれ部屋着用のTシャツに着替え、ディガンマの待つ診療所へ向かう。
「なぁラミウ、あの子の身体も汚れてたけど……診察前に洗ってやらなくて良かったのかな?」
「ディガンマ先生がうまいことやってるでしょ。アーユルヴェーダ用の施術室なら、ベッドにシャワーが付いてるからね」
ベッドにシャワーが付いていると聞いて、アイザークは怪訝そうに首を傾げる。
「……寝ながらシャワーを浴びるのか? 毛布やシーツが濡れちゃわないか?」
「あとで施術室に入ってみなよ。お風呂みたいなタイル張りの部屋に、シャワーつきのベッドが置いてあるから」
ラミウ曰く、大量の油や薬草を使う贅沢な治療法もあるらしい。
伝統的な施術が多く、中には按摩やエステに近いものもあるのだと。
「ラミウはその……伝統的な〈ソレ〉を受けたことがあるのか……?」
「あるわけないじゃん。先生の前で裸になって横たわるなんて、とてもじゃないけど恥ずかしくて無理」
「裸で……!? それって本当に大丈夫なのか!?」
ラミウの話を聞けば聞くほど、アイザークの頭に疑問符が浮かんだ。
ちゃんとした治療方なのだろうが、ラミウの話しぶりから良い想像ができない。
混乱するアイザークをよそに、ラミウは裏口から正門へ回る。
換気扇から漏れる美味しそうな香りに、ふたりは顔を見合わせた。
今朝の炊き出し準備はこれからのはず。
ふたりは怪訝に思いながらも、診療所の扉を開けた。
ふたりが玄関へ入るなり、目に飛び込んできたのは、テーブルに並べられた大量の料理と山盛りの米。
「むううっ、辛さと痺れが足りないぞっ! チリと花椒を寄越すのだ!」
「チリはともかく山椒なんてありませんよ。調合スパイスならありますけど」
そしてそれらを無我夢中で貪る、小さな黒髪の少女の姿。
患者用の白いワンピースを食べこぼしで汚しながら、ディガンマと頻りに言い合いをしている。
「うわぁぁんっ、マサラは嫌だぁっ! 何でもかんでもカレー味になっちゃうのだぁーっ!」
「カレーなんて料理はベレナスにないと、さっきから何度も言ってるでしょうが!」
ディガンマは文句を返しながらも、少女の皿に料理を次々と盛っていく。
一方の少女も負けじとばかりに、盛られたそばから料理を一瞬で平らげていく。
ふたりの様子はまるで激しい戦いのようだ。
普段は冷静なディガンマの額に、珍しく汗が浮いていた。
「ほら、ラミウとアイがやっと戻ってきましたよ! ふたりにお礼が言いたいんでしょう!?」
いい加減、きりがないことを察したのか、ディガンマは少女から皿を奪う。
少女の視線は料理から外れ、玄関に立つラミウとアイザークに向けられた。
「おおっ、待っておったぞ! うぬらが我を助けてくれた、ラミウとアイのふたりだな!?」
少女はその場で予備動作もなく跳び上がり、テーブルを越えてラミウの前へと躍り出た。
「我の名はイェン。四川から来た穆煙だ! 助けてくれて、どうもありがとう!」
少女は懐から筆と紙を取り出し、自らの名を素早く書いて、ラミウとアイザークにそれぞれ渡す。
「ムー、イェンさん……これって漢字? 難しい字を書くんだね」
「意味は容易い。夢を食べる動物のバクに、モクモクの煙! 気軽に煙と呼んでくれ!」
「よろしくね煙ちゃん。早速だけど……あなたをここまで運んだのは、私じゃなくてアイなんだ」
ラミウにそっと促され、煙はアイザークの顔を見上げた。
彼女は心の中で、何を思っているのだろうか――
しばらく無言で見つめられ、アイザークは照れてしまう。
「アイはラミウの男朋友か? どことなく雰囲気が甘い気がする」
「な……ナンポンヨウ……?」
知らない言語に戸惑って、アイザークはディガンマに助けを求める。
ディガンマは少し考えるように、アイザークとラミウを交互に見た。
「男朋友――つまり恋人です。カジュアルに言うと彼氏ですかね」
「こっ、恋人っ!? アイと私が!?」
アイザークが何かを言う前に、ラミウが感情を爆発させる。
「違うよっ、私とアイはバディなの! 昔から仲のいいただの家族! そうだよね、アイ!?」
「うん……俺とラミウはバディで家族。俺たちは恋人の仲じゃない……」
ラミウの勢いに圧倒されて、アイザークは繰り返すだけで何も言えない。
「なぁんだ、男朋友じゃないのかぁ。ディガンマの方はラミウにとってのなんなのだ?」
「私はただの情人です。そしてラミウは被拿来代替恋人的女人」
ディガンマの言葉を聞いて、煙は途端に血相を変える。
怯えた様子でアイザークの後ろに回り込むと、ラミウとディガンマを強く睨んだ。
「なっ……なんなのだそれは……っ!? めっちゃ不純でエッチなのだっ!!」
「なにがっ!? ディガンマ先生、煙ちゃんになんて言ったの!?」
おそらく、煙の国の言語でろくでもないことを言ったのだろう。
何を言ったのか分からないのが厄介である。
「先生、冗談や嘘を言うのは良くない。ラミウが可哀想だから、きちんと訂正してあげてくれ」
「本気です。冗談なんかじゃないですよ。ふざけていたのは認めますがね」
ディガンマは袈裟から名刺を取り出し、煙に向かってそっと差し出す。
煙はまだ、ディガンマに対して少しだけ怯えているのだろうか。
震える手で名刺を摘まみ、勢いよく引いて奪い取った。
「んぅ……なんも読めない……共通言語が書いてないのだ……」
「ここは私が営むシャーンティ診療所です。ラミウとアイはここの従業員で、それ以上でもそれ以下でもない」
「なんだぁ……びっくりしたのだ。二股なんて不埒な行為、今の時代は流行らないぞ!」
ラミウは再び顔を赤くし、ディガンマの背中を手のひらで叩いた。
煙の話す単語から、先ほどの会話のろくでもなさを感じ取ってしまったのだろう。
「先生、酷いよっ! 何を言ったのか知らないけど、あんま変なこと言わないでっ!」
「変なことなど言ってません。私はいつでも正直ですから」
煙は安心した様子で椅子に戻ると、再び皿を持って食事に戻る。
山ほどあったすべての料理を瞬く間に平らげると、満足した様子でニッコリと笑った。
「ごちそーさまっ! 一時はどうなるかと思ったけど、いっぱい食べれて満足なのだ~!」
「煙ちゃん……あなたはどうして、あんな所で倒れていたの?」
「迷子の弟を追いかけていた! アストラヴァナ領へ向かう途中で、弟とはぐれてしまったのだ!」
弟とはぐれたと聞いて、アイザークは顔色を変える。
おそらく自身の境遇と重ねて、不安になってしまったのだろう。
「弟とはぐれたって……こんな所で飯なんて食ってて大丈夫なのか……!?」
「心配ない。アストラヴァナ領を歩いていれば、いつかどこかで出会えるだろう!」
「そんな悠長なことを言って……っ! 生き別れたら大変なんだぞ!?」
「アイに我々の何が分かる! そもそも今回は何もかもっ、焔がぜーんぶ悪いのだっ! 話を聞いたらうぬらも我に同情するぞっ!?」
どうやら〈ホムラ〉という単語は、彼女の弟の名前のようだ。
煙はコホンと咳払いをして、事の経緯を語り始めた。
「あの日、あの時―― 我と焔は手を繋ぎ、仲良く密林を歩いていた」
――遥か四川の山奥から、極寒のチベットを越えて林芝を中継地とし、姉弟は延々と旅をしてきた。
大事な仕事をこなすため、足を棒にしてアストラヴァナ領をひたすら目指す。
「与えられた猶予は一か月。辛い旅路を弟と共に、必死になって乗り越えてきた……!」
「輸送機を使えば半日でしょう。徒歩での旅など時代錯誤もいいとこだ」
「そんなもの秘境の山奥にはないっ! 誰かこの医者を黙らせろっ!」
ディガンマは肩を竦め、自らの手で口を覆う。
煙は気を取り直し、経緯語りを再開した。
「我らが林芝に至る頃には、身体がクチャくなっていた。チベットにはお風呂がないから、頭もカイカイになっちゃったのだ!」
凍死のリスクを避けるため、姉弟は何日も身体を洗わずに過ごしていたらしい。
そんなふたりが林芝へと辿り着き、滾々と湧く温泉を目の当たりにした瞬間――
「何も考えず裸になって、ばっしゃーんって飛び込んじゃったのだ! 野外の温泉は最高で最強っ! 我はお風呂が大好きなのだー♪」
「ラミウ……この話って一体どこからが本題なんだ? 聞いてるだけでも疲れるぞ」
「きっと全部、一から順に話してるんだよ。いいから黙って聞いてあげよう?」
身振り手振りを大袈裟に交え、煙は語りに熱中する。
「我は焔と温泉を暫し楽しんだのだ。汚れた身体を互いが擦り、裸のまま草の上に眠って……」
そうして寄り添って微睡む中、気を緩ませた弟が、煙に甘えてきたのだと。
「合図もなしに力一杯ギュウされて、岩に頭を打っちゃったのだ! 後頭部を思い切りゴチーンッて!」
「わかるっ! 私もリヴに抱きつかれて、階段から落ちそうになったことあるもん!」
幼い子供の甘え仕草に対し、ラミウは思わず共感した。
特に男児は力も強く、容赦なしにぶつかってくるのだ。
「重いし痛いし、焔は我が頭を打ったことに気付いてないし……猛烈に腹が立ったのだ。思わず焔を温泉の中へと蹴り飛ばし、我はその場から逃げ出したのだ!」
傍らに畳まれていた服を持ち、裸のまま木へ登った――
そこまで話して、煙は表情を曇らせる。
「ほんの少しだけ困らせて、お灸を据えようとしただけなのだ……! 上から焔を見下ろして、困っている顔が見たかっただけ……」
たったそれだけのことなのに――
煙に置いて行かれたと勘違いした焔は、途端に血相を変えて、猛然とその場を走り去った。
「畳んだ服すら満足に着ぬまま、弟は牛の如く駆けていった……! すぐ傍で隠れていた我を置いて……!」
健気で憐れな弟の、姉を求めて泣く声が、霧深い林芝の山奥に切なく木霊していたという――
詩的な言葉で締めくくると同時に、煙は拳を左手で包み、胸の前で軽く掲げる。
「ご清聴、心より感謝するっ!」
話はこれで終わりのようだ。
アイザークとラミウは顔を見合わせ、真剣な様子で煙に向き合う。
「煙ちゃん……話を聞く限りあなたが悪いわ。弟さんから目を離すべきじゃなかったと思う」
「甘えたい盛りの弟だろう。人攫いに遭うかもだし、一刻も早く捜索届を出したほうがいい」
心配するふたりをよそに、ディガンマはひとり天井を見上げる。
手で口を覆って全身を震わせているあたり、おそらく笑っているのだろう。
「もう先生っ! 笑ってないで、何か言葉をかけてあげなよっ!」
「すみません……黒帆布越しに見える絵面が、どうしようもなく面白すぎて……!」
薄情なディガンマを無視して、ラミウとアイは小さな煙の肩を持つ。
「煙ちゃん、私たちも弟さん探しを手伝うよ!」
「アストラヴァナ領には友達もいる。今日はここでゆっくり休んで、明日の早朝に出かけよう」
無理をして気丈に振舞っていたのか、ふたりの優しさを前にして、煙は瞳を緩ませる。
「ラミウ……アイ……っ、ありがとうなのだぁ! ふたりは我の朋友なのだぁーっ!」
まるで子供が甘えるように、煙はラミウとアイに抱きつく。
煙はこんなに小さくて可憐なのだ――
彼女の弟もきっと、さぞかし可愛らしいのだろう。
悪い大人に攫われる前に、何としてでも見つけなければならない。
ラミウとアイは互いに頷き、煙に協力する決意を固めた。




