第21話「もっと大きく口を開けて」
アストラヴァナ領の下街には、ネオフェネック専用の歯医者がある。
繁華街から少し外れた、裏路地にある小さな建物。
この建物こそ、下街で一番寂れている歯医者――
〈裏路地デンタルクリニック〉だ。
名前の通り、その立地はなかなかに最悪。
裏路地の中でも奥まった場所にあるが故に、水晶灯やネオンの灯りは届かない。
そもそも多くのネオフェネックが、この場所に歯医者があることを知らない。
歯が丈夫なネオフェネックたちにとって、歯医者はあまりにも縁のない場所だからだ。
しかし、時に喧嘩や事故で歯を折る者はそれなりにいる。
この歯医者は、そうした患者の駆け込み寺として機能しているのだ。
「くそぉ、腫れが全然治まんねぇ! ベレナスの小娘め……次に会った時は覚えてろよ!」
裏路地を早足で歩くのは、顔を腫らせたネオフェネック。
数日前、ネオ・ベレナスにて少女相手に喧嘩を売り、返り討ちにあった男だ。
「バイト代は入らねぇし、大切な歯は折れちまうし、最近の運勢は散々だぜ」
男は入口の扉を蹴り開け、受付窓口のカーテンを躊躇なく引いて中を覗いた。
カーテンの向こう側では、女の歯科衛生士が机に突っ伏して眠っている。
男は首からドッグタグを外すと、衛生士に向かって放り投げた。
「おい起きろっ、今すぐ俺の歯を診てくれよっ!」
衛生士は身じろぎし、ゆっくりとした動作で身体を起こす。
「ううん……急患かしら……? 今日初めての患者さんだわ……」
衛生士は床に落ちたドッグタグを拾い、タッチパネルの上に置く。
すぐさま隣のモニターに、男のカルテが表示された。
「個体番号、NF70494……ネフカトルさんね。今日は一体どうしましたか?」
個体番号NF70494――
それが、この男の本名である。
ネフカトルという名は呼称用のサブネームだ。
ネオフェネックは皆、生まれると同時に親からサブネームを与えられる。
昔から個体番号に関連付けられた名前が多く、サブネームから個体番号を当てる遊びまで流行っている。
ネフカトルは、末尾に並ぶ9と4の番号をフランス語で言い換えた名だ。
例えるならば太郎や花子、ジョンや朴、レオナルドのように、ネオの中では比較的ポピュラーな名前である。
「斧の持ち手で犬歯を粉々に折っちまった。噛んだのは暗黒星石の硬い斧だ……!」
「暗黒星石を噛んだ? 無茶な喧嘩でもしたのかしら?」
「……そんなところだ! グルル……ッ、今思い出しても腹が立つぜ!」
「とりあえず、診察室へ案内するわね。私の後を追ってきて……?」
衛生士は面倒くさそうに立ち上がり、受付から待合室へと歩いてくる。
「入って一番奥のベッド……いや、奥の座席に座ってください」
普通、言い間違えるだろうか。
何故、わざわざ言い直したのか。
ネフカトルはムラムラしつつ、衛生士の後を追った。
歩くたび、衛生士の大きな尻が、挑発的にフルフルと揺れる。
純白のタイトスカートが、尻圧に負けて今にもはち切れてしまいそうだ。
「デケェ尻。ちゃんとパンツ履いてんだろうな?」
「患者が来ると思ってなかった。仮眠した時に脱いじゃったかも……?」
「グヘヘッ……尾がないただの人間のくせに、ネオ以上に奔放な女だ。俺の好みのタイプだぜ」
「終わったら一緒に遊びます? 受付のカメラも切ってますし、今夜の患者はあなたが最後……」
この歯医者が潰れない理由に、この歯科衛生士の存在がある。
この衛生士は何故かとにかく、とにかく何故かエロいのだ。
患者が来ないのをいいことに、カメラを切っての遊び放題、やりたい放題。
人間特有の滑らかな尻を〈有り〉だとするフェチ層の間で、下街ではかなりの評判である。
この衛生士がいる限り、医師の腕など二の次だ。
ネフカトルが席に着いた所で、小柄なドクターが診察室に入ってきた。
「やあやあやあ、定期健診以来だねー! 犬歯が折れちゃったんだってー!?」
痩せた身体の一体どこから、そんな大声が出るのだろうか。
高い声は壁や天井に反響して、ネフカトルの耳に襲いかかった。
「声がうるせぇ……顎に響くっ……!」
「響くっ!? それは大変だ! 口を開けて見せてくれる!?」
ドクターは専用の踏み台に登り、ネフカトルの口腔内を確認する。
「ややっ、これは酷いな! 型とか色々用意しなきゃ!」
「いだだだっ……ドクター、俺の歯は大丈夫ですかぁ?」
「うん、根管治療で通院コース! 今日は中を綺麗にして、仮の詰め物をしてあげる!」
ドクターは踏み台から飛び降りて、技工室へと駆けていく。
根管治療で通院コース――
神経を抜くという事実に、ネフカトルはショックを受けた。
ネオフェネックにとって牙や爪は、プライドに大きく関わるものだ。
項垂れる彼の頬を、衛生士が慰めるように、小さな手のひらでそっと撫でる。
「怖がらないで……麻酔をするから痛くないわ。ぶくぶくうがいは出来るかしら?」
ネフカトルは頷くと、差し出されたコップを受け取り、大人しく数回うがいをする。
衛生士は「いい子」と呟き、椅子の背もたれをゆっくりと倒した。
「今から歯茎に麻酔を塗るけど、私の指は舐めないでね。麻酔は苦くて美味しくないし、唾液で取れちゃうと効かないから」
「イテェのは嫌だから従っとくぜ。気持ち多めに塗ってくれよ」
「……眩しくないようにタオルを乗せるわ。口を開けて、ジッとしてて」
衛生士は悪戯に微笑み、小さなタオルでネフカトルの目を覆う。
ネフカトルは無意識に、音と匂いと気配だけで、周囲の状況を窺った。
衛生士は手元で何やら作業をし、ネフカトルの頭に上体を寄せて、覆い被さるように口の中を覗き込む。
下着を付けていない彼女の胸が、ズッシリとネフカトルの額に乗った。
(うおお……っ、柔らかいのに重てぇ……っ!)
同時に、甘い蜜のような香りがネフカトルの鼻を擽る。
「……すぅっ、はぁー……。あんたの胸、いい匂いがするなぁ。南国っぽい香りがするぜ……」
「ピカケとククイの香りかしら。遙か彼方のオアフ島から、ボディオイルを輸入してるの」
「南国かぁ、いいなぁ。ビーチはここらの沐浴と違って、水着の女ばかりだろうな」
ジェル状の麻酔が歯茎にたっぷりと塗られていく。
満遍なく塗り終えたところで、衛生士は機械で歯茎に風を当てた。
「ほら、ちっとも痛くないでしょう?」
「ああ……いはくない……水を飲むらけれも沁みへはのに……」
「私は先生を呼んでくるから、口を開けてそのまま待ってて」
衛生士は踵を返し、ドクターが作業する技工室へ向かう。
「せんせー、患者さんの準備が出来ましたよー? せんせー?」
部屋をいくつか隔ててもなお、ネオの耳には衛生士の声がしっかりと届いた。
肝心のドクターが見当たらないのだろうか。
サンダルの音を響かせて、衛生士は右往左往。
そして少しの間を置いて――
「きゃあっ!」
衛生士のものと思われる悲鳴と、何かが床に落ちる音。
慌てて走って、転んだりでもしたのだろうか。
ネフカトルは思わず耳を立て、技工室の様子を音だけで窺おうとした。
沈黙の中で痺れを切らし、ネフカトルは声を上げる。
「おい、どうひは……だいじょーうか!?」
すぐに背後の扉が開き、診察室に再び誰かが入って来た。
途端に香る、甘く瑞々しい桃の香りが、ネフカトルの鼻腔を突く。
「あえ……えいへいひはん、匂いが変わっは……?」
近づいてくる足音は、おそらく成人男性のもの。
口を覗き込む気配と共に、ネフカトルの顎に太く熱い指が触れた。
「あ……っ、誰……ドクターか……!?」
話しかけても応答がない。
口腔内に指が捻じ込まれ、縦横無尽に歯列や舌下を撫でられる。
深いキスでも交わすかのような、感情を煽る触れ方だ。
(……クソッ、こんなキモい触り方あるか? このドクター、衛生士と同じく変態なのか?)
やがて指は何かを捉え、露骨に摘まむ動作を見せた。
指はそれを摘んだまま、勢いよく外へと向かって引き抜かれる。
その瞬間、上顎に妙な感覚が走り、ネフカトルの心に不安が生じた。
「はがっ……! あぇっ、いま歯ぁ抜いた!? 気のへいだよな……っ?!」
「――もっと大きく口を開けて」
再び指を突っ込まれ、力任せに顎を無理矢理開かれる。
あまりの状況にネフカトルは混乱した。
舌で上顎を確認すると、砕けた犬歯が存在しない。
犬歯の生えていた穴からは、夥しい量の血が溢れ、仰向けの喉へと容赦なく流れ込んでくる。
自らの血で溺れながら、ネフカトルは身を捩らせた。
「がはっ……げほっ、えほっ……!? ――なんで……っ、上の歯が二本抜けてんだよぉっ!?」
指は再び口腔内に深く捻じ込まれ、今度は下顎の歯を摘まむ。
そして先ほどと同じように、指は勢いよく引き抜かれ、下顎に重い鈍痛が走った。
「ぐああっ、何だっ!? テメェまさかっ、医者じゃねぇだろっ!!」
ネフカトルは堪らず顔の上のタオルを取り、周囲の状況を確認する。
まず、その目に飛び込んできたのは、胸に置かれた四本の犬歯。
引き抜かれた衝撃で、胸に飛び散った大量の血液。
「うああ……ひでぇっ、これ俺の血かぁ!? なんだなんだよぉ、このチクショウがよぉっ!」
「畜生はお前だ。|夾著尾巴逃了吧《尻尾を巻いて逃げただろう》?」
頭上から囁かれた声を聞いて、ネフカトルは凍り付く。
(どこの言語だ!? 妙に低く落ち着いた声……ドクターの声はもっと、ずっと高かったはず――)
ネフカトルは怯えながらも、自らの頭上を仰ぎ見た。
そこにいたのは医者ではなく、返り血を浴びた屈強な男。
陶器のような滑らかな肌に、紅を差した厚い唇――
白い肌を縁取るように、長い黒髪がすだれのように垂れている。
体躯に似合わぬ艶めかしい相貌が、男の異質さを際立たせ、ネフカトルを恐怖の底へ引きずり込む。
咄嗟にその場から逃げようと、ネフカトルは立ち上がるべく、椅子の手すりを強く掴んだ。
「逃げるな……!」
その瞬間、男は両手に力を込めて、ネフカトルの顎を思い切り開く。
「はがぁっ!! あがががっ、ああぁっ、やめろぉぉーーっ!」
顎の骨が音を立てて軋み、口の端が紙のように裂けた。
抵抗する気力を失ったのか、ネフカトルは大人しく椅子に背を預ける。
「はぁ……はぁ……一体何が目的だ……! 俺に何の恨みがある……!」
「おれは何も答えない。お前が質問に答える側だ」
男はネフカトルの胸をまさぐり、胸ポケットからスマートデバイスを取り出した。
「これがお前のスマートデバイス? 開くためには顔認証か? 数字を打ち込む暗号か?」
「パスワードだよ……! そもそも正規のデバイスじゃないから……っ!」
ネフカトルのスマートデバイスは、街の露店で購入した軍の型落ち品だ。
顔認証は別人のもので登録されているため、パスワードで開くしかない。
「打ち込む暗号を今すぐ教えろ。サーカスの情報を持っているだろう」
「さっ……サーカスの情報……? なんだそりゃ……!?」
男は有無を言わさず、再び両手の力を強める。
「ぐああっ、いでぇよっ! やめてくれよぉっ! 開けばいいんだろ、開けばよぉ!」
ネフカトルは男の掲げるスマートデバイスに手を伸ばし、パスワードを打ち込んだ。
慣れた様子で素早く数字を打ち込んだため、男が眉間に皺を寄せる。
「打つのが速すぎてわからなかった。数字を教えろ。今後、おれがその端末を開けるように」
「俺のデバイスを盗むつもりか? まぁ……、別にいいけどよぉ――」
自暴自棄となったネフカトルは、首から提げたドッグタグを掴み、男に向かって見せつける。
「パスワードは70494……俺の個体番号だ……! 紙にメモるなり好きにしな!」
男は何を思ったのか、タグに刻まれた数字を見て、肩を震わせ歯を見せて笑った。
「気持ちわりぃな……っ、一体何がおかしいんだよ……っ!」
「助かる……かなり覚えやすい。チーリージウスー、良い〈語呂合わせ〉だ」
「はっ、はぁ……語呂合わせ……? それって……つまり、どういう意味だ……!?」
男は傍らの診察台に手を伸ばすと、並べて置かれた骨ノミを数本まとめて掴み取る。
「氣你久死……つまり〈長く苦しんで死ね〉だ!」
男は笑って答えるなり、束ね持った骨ノミを頭上に勢いよく振り上げた。
そして、間髪入れずに骨ノミをネフカトルの口腔内に突き立てる。
「――グオォッ!?」
鋭利な切っ先は喉から後頭部へと貫通し、骨ノミは椅子に深々と突き刺さった。
ネフカトルは白目を剥いて、数秒激しく痙攣し、叫ぶ間もなく絶命する。
「もう止まった……最後まで逃げ足の速い奴め……」
男は何事もなかったかのように、床に落ちたスマートデバイスを拾うと、診察室を抜けて技工室へと向かった。
技工室の床にはドクターと歯科衛生士が、重なるように気絶している。
「監視カメラがオフになっていて助かったぞ。無駄な殺しをせずにすんだ」
ぐっすり眠るドクターと衛生士に向けて、男は静かに頭を垂れた。
「――迷惑をかけて、申し訳ない」
無音の空間に零れた謝罪は、男の素直な本心だろう。
男は真っすぐ裏口へ向かい、音を立てずに外へと出る。
「……ん?」
外へ出るなり、男は足元に視線を落とした。
小さな幼女が膝を抱えて、裏口の前に座っている。
天窓から滴る雨を全身に受け、旗袍がすっかり濡れて身体にピッタリと張り付いている。
顔を上げない様子を見ると、どうやら眠っているようだ。
男は軽く咳ばらいをして、幼女の前にしゃがみ込んだ。
彼女の耳に口元を寄せると、自身の国の言語で流暢に喋る。
「待たせてごめんね、桃娘さん。待っていてくれてありがとう」
「――は……、イェン!」
幼女はすぐに目を覚まし、男を見るなり声を発して立ち上がる。
嬉しそうにその場で小さく跳ねて、傍らに置いた革袋から大きなタオルを取り出した。
「イェン、ツァツァ」
乾いたタオルを雨水で濡らし、幼女は男の腕を指す。
「……拭かなくても大丈夫だよ。身体も血で汚れてるし、雨を浴びながら帰ろうと思う」
幼女は首を左右に振ると、男の両手をタオルで包み、汚れをできる限り拭っていく。
ついでに裏口の扉を開け、ドアノブの表面をくまなく綺麗に拭き上げた。
「あれ、ドアノブに僕の指紋が付いてた? ウッカリしてたな……。桃娘さんはしっかり者だね」
桃娘と呼ばれた幼女は上下に激しく頷きながら、男に向けて親指を立てる。
男は頬を緩めて微笑み、幼女を抱きかかえて肩に乗せた。
「それにしても……姉さんはどこへ行ったんだろう。目的地に着けば会えるかなって思ったんだけど……」
次第に男は肩を震わせ、瞳に涙を滲ませる。
汚れたままの手で目尻の涙を拭おうとしたが、幼女がその手を押さえつけた。
「ザン、ブーポン」
幼女は代わりと言わんばかりに、紅葉のように小さな手で、男の目尻をペチペチと拭う。
まるで車のワイパーのように何度も手のひらで頬を撫でるが、男の両目から溢れる涙は、一向に止まる気配を見せない。
「――アイヤーッ! ブークー!」
ついに幼女は苛立って、男の頬を平手打ちした。
「いたっ……、やめてよ桃娘さん。そんなことしたって、僕の涙は止まらないんだ……」
男はついに嗚咽を上げ、本格的に啜り泣きを始める。
幼女はガックリと肩を落とし、呆れた様子で息を吐いた。
こうなるともう、誰も男を止められない。
「う……うう……っ、姉さん……今すぐ会いたいよぉ……っ! ただでさえ知らない土地なのに……心細くて死んじゃいそうだ……っ!」
幼女は男を励ますべく、彼の頭を全身で抱く。
男は抱擁に応えるように、幼女の胸に涙で濡れた顔をそっと埋めた。
「メイシー、フイジャオダオ……」
「うん……行こう、桃娘さん……。早く仕事を終わらせて、迷子の姉さんを探さなくちゃね……!」
幼女は大きく頷くと、小さな指で前を指す。
男は再び歩き出し、アストラヴァナ領の闇に消えた。




