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第19話「靴を履いて」

 


 闘技場(サーカス)の騒動から一晩明けた、穏やかな朝。

 日曜日はラミウにとって、丸一日休みの日だ。


「土曜の朝に帰ってきて……結局、疲れてずっと寝ちゃった……」


 なんだか、とても長い夢を見ていた気がする。


 ルウナと出会い、サーカスへ行って、とても恐ろしい目に遭った。

 ずっと探していたアイザークに、あろうことか殺されかけて――


「アイ……そうだ……! 一緒に帰って来たんだったっ!」


 ラミウは毛布を跳ね飛ばし、慌てた様子で立ち上がる。

 その拍子にラミウの足は、隣で眠るルウナの尻尾を力一杯踏みつけた。


「うなんっ、いたーい! ラミウーっ、あたしの尻尾踏まないでよー!」


「あぁっ、ごめんねっ! でもルウナ、あたし今すぐ下へ行かなきゃっ!」


 ラミウは髪を結いながら、部屋の扉を蹴り開ける。

 途端に、大河から昇る朝の光が、薄暗い室内を煌々と照らした。


 ラミウの部屋は、シャーンティ診療所の屋上に建てられた、木造建てのオンボロ小屋。

 元々は物置きとして使っていたらしいが、年頃のラミウのために部屋が必要だと、ディガンマが改装してくれたのだ。


 小屋の広さを数字で表すと、約十二平方メートルといったところか。


 窓辺にセミダブルのベッドを置いて、絨毯やラグを床に敷き、壁際には本棚や姿見、衣装棚まで。

 トイレや風呂は診療所内のものを借りなければいけないが、それ以外は何一つ不自由のない環境だ。


 ラミウは小屋から飛び出して、階段を一気に駆け降りる。

 階段は診療所の裏庭にも繋がっているため、炊き出しを作る調理場や、階段井戸へ直接行くことが可能だった。


(ん……? なんだろう、この美味しそうな匂いは……)


 ふと、階段を降りる途中で、香ばしい匂いが漂ってくる。

 ラミウは匂いの正体を知るべく、調理場の方を覗き込んだ。


 調理場には、子供たちに囲まれたアイザークの姿が――

 一番小さな焜炉の前で、屈んで何かを焼いている。


「おはよう、ラミウ。うるさくして起こしたかな?」


 ラミウは自らの頬を抓り、この瞬間が現実かどうか確認する。

 長年探し続けてきたアイザークと、やっと再会できたのだ。


 そんな彼から挨拶を貰い、ラミウの胸は感極まって熱くなる。


「……ううん、ぐっすり眠れたよ。アイは朝から何をしてるの?」


「早朝に河へ行ってきた。俺は食う量が多いから……足りない分は自分で足せってディガンマ先生に言われてさ」


 アイザークは笑って呟くと、焜炉の中から鉄製の長い串を引き抜く。

 出てきたのは、香ばしく焼けたナマズの丸焼き。


「うまく焼けた。子供たちには塩を少しだけ振ればいいかな」


 自分の分と言いながら、アイザークは子供たちにもナマズを大きく切り分けていた。

 子供たちは喜びながら、持参した皿をアイザークに渡す。


「アイ兄ちゃん! 僕、脂の乗った腹のとこ食べたい!」


「ああ、好きなとこ持って行けよ。俺は尾の方も好きだから」


 昨日から今日までの間に、一体何があったのだろうか――

 大人に対して人見知りのリヴまで、アイザークにすっかり懐いている。


「ラミウも食べるだろ? ナマズの腹のとこ好きだったよな」


「久し振りに食べたいな。でも、お腹の身が好きってよく覚えてたね」


「ああ……食べさせたかった焼き方があるんだ。そこで少し待っててくれ」


 アイザークは籠から小さなナマズを取り出すと、慣れた手つきで捌き始めた。

 高温に温めたフライパンにバターを落とし、捌いたナマズを皮目から入れて焼いていく。


「あー、これってもしかしてフランス料理ー? アストラヴァナでお馴染みメニューだー!」


 いつの間に起きてきたのだろうか。

 突然ラミウの背後から、ルウナが顔を覗かせた。


「ルウナ、どうしてこれがフランス料理だって分かるの?」


「だってー、この焼き方ってポワレでしょー? ベレナスは油にマスタードシードを入れるけど、アストラヴァナでは入れないもんねー」


 ナマズの身が熱で締まり、串焼きとは異なる、甘く香ばしい香りが周囲に漂う。


「アイはこの料理をアストラヴァナで知ったってこと? もしかして、コックさんとして働いてたの?」


「いや、俺が統制中層区(コントロールミッド)にいた頃、上官の為に作っていた料理だ。俺の上官はD-C配属のフランス人だったから」


 コントロールミッド、ディーシー配属のフランス人――

 意味不明な言葉の数々を前に、ラミウは盛大に首を傾げた。


「どええっ!? 統制中層区(コントロールミッド)のD-C配属ぅーっ!?」


 一方、ルウナの方は意味が理解しているらしく、アイザークの言葉に驚きの様子を示していた。


「なにルウナ、どうしてそんなに驚くの?」


統制中層区(コントロールミッド)なんて、軍の中でもエリートしか入れないからだよー! D-Cはデルタ・コアって言ってー、言葉の通り、三角形(アストラヴァナ)の真ん中って意味!」


 驚くルウナに対し、アイザークは気まずそうに視線を逸らす。

 まるで、口を滑らせたことを後悔しているような顔だ。


「そっか……エリートなら舌が肥えてそうだね。上官の食事を用意しなきゃいけないなんて、軍人さんも大変だなぁ」


「そうですとも。たまにはラミウが私の為に、腕を振るってもいいんですよ?」


 ラミウは裏庭の門を見る。

 ディガンマが両腕に荷物を抱えて、開けてほしそうに佇んでいた。


「ディガンマ先生、こんな朝から買い出しに出たの? 言ってくれれば私も一緒に行ったのに」


「もちろん、声を掛けましたよ。それでもあなたが寝続けたんで、こうして一人で卵を買いに」


 それは果たして本当なのか、ラミウは横目でアイザークを見る。

 アイザークは僅かに眉を顰め、ラミウに対して何度も小さく頷いた。


「――あはは……ごめんねディガンマ先生っ、今日は私が炊き出しを作るよ! 今朝は何を作るつもり?」


「野菜を刻んでオムレツでも作ろうかと。アイがメインを用意したので、私の方は付け合わせです」


 ラミウはディガンマから荷物を受け取ると、野菜を取り出して刻んでいく。

 味付けはともかく、刻むだけならラミウにとって得意分野だ。


「ラミウ、野菜は私が炒めるので、刻んだら鍋へ入れて下さい」


 ディガンマは鉄鍋に油を注ぎ、強火の焜炉で温める。

 マスタードシードをこれでもかと弾けさせると、刻んだ野菜を油で豪快に揚げ焼きしていく。


「ねーねー、油入れすぎじゃないー? これじゃあ野菜の素揚げじゃんー」


「あんまり少ないと卵が鍋に焦げ付きますから。こういうのも、毎食じゃなければ良いんですよ」


 大量の卵を投入した後、塩コショウで味付けし、最後の仕上げ――

 マサラやターメリックなどの香辛料を振りかけていく。


「うわー、途端にカレーの匂いがしてきたー。メインのポワレのバターの味を、上からかき消す勢いだよー」


「なんでもカレーって言わないでください。ネオ・ベレナスにカレーなんて料理はないですから」


 ディガンマはオムレツを子供たちに配ったあと、自分たちの皿に残ったものを乗せていく。

 アイザークが仕上げたポワレの横に、香りの強いオムレツが乗せられ、ルウナは口をへの字に曲げた。


「ふぇぇ……カレーじゃなくて、ラーメンとかオリーブチキンが食べたいよぉ。あたしそろそろ、アストラヴァナ領へ帰ろうかなー」


「ええっ!? ルウナ、もう帰っちゃうの? もっと一緒に観光したり、ゆっくりお話したかったなぁ」


 ルウナはラミウの頭からアクセデバイスを取り外すと、スマートタブレットに数秒重ねる。

 ふたりのデバイスが数回チカチカと点滅し、小鳥の囀るような電子音が鳴った。


「あたしのIDを入れといたから、これでいつでも通信出来るよ。あたしもまたベレナスへ来るし、ラミウもあたしの家においで」


「うん……ありがとう! 友達の連絡先、第一号かも!」


 ルウナは満足そうに微笑み、アイザークに対してドヤ顔を浮かべる。


「どうー? アイくん羨ましいー? あんたもラミウと連絡先を交換しなよー」


 そう言って、ルウナはアイザークにラミウのアクセデバイスを渡した。

 アイザークはデバイスを眺め、自身の耳元に近づける。


「耳から外さないで上手くいくかな」


 どうやらアイザークのピアスは、ラミウと同じ〈アクセデバイス〉のようだ。

 髪飾りとピアス同士が青くチカチカと点滅し、小鳥の囀る音が鳴る。


「……ラミウの友達、第二号だ。よろしくな」


「ありがとう……。こういうのって、いつ通話すればいいのかな?」


「それはねー、推しに激しく萌えた時とかー、人肌恋しくなっちゃってーどうしようもなく寂しい夜とかー」


 推しに激しく萌えた時――

 ルウナの言葉の半分が、ラミウにとって理解の範疇を超えていた。


 しかし〈どうしようもなく寂しい夜〉は、ラミウにとっても経験がある。


「わかった。どうしようもなく寂しい夜に連絡するね」


「……いや、なにも夜じゃなくていい。俺の方が緊張するから、普段から気軽にかけてほしい」


 アイザークは困っているのか、額の汗を手の甲で拭う。

 ラミウは意味が分からず、ルウナとディガンマの顔を交互に見た。


「――まあ、これから一緒に住むんですから、通話なんかせずに話しかければいいのでは?」


「えっ、そうなの!? アイも診療所のお世話になるの!?」


「指輪で契約している現状、アイはラミウのサブウェポンですから。アイにはラミウと同じ業務に当たってもらおうと思います」


「ありがとうディガンマ先生! アイの部屋はどこにするの? うちの診療所……空いてる部屋あったっけ?」


「おっと、部屋まで考えてなかったな。診療所の屋上にラミウ専用の小屋があるので、そこで寝泊まりしてください」


 ご機嫌な笑顔から一転、ラミウは表情に焦りを浮かべて、椅子から勢いよく立ち上がる。


「私の部屋ぁっ!? ななっ、なんでよ! 物がいっぱいあるし狭いよっ!?」


「ならば、いらない物を捨てて下さい。自分の武器は常に手元に置いておく……強き者としての基本ですよ」


 ラミウは力なく椅子に座り、隣に座るアイザークを横目で見た。

 アイザークは申し訳なさそうな表情で、ラミウを心配そうに見つめている。


「迷惑かけてごめんな。出来るだけ嵩張らないように努力するから」


「ううん、気にしないで……ディガンマ先生の言う通り、片付ければいいだけだから」


 そんなことを話しているうちに、ルウナがいち早く食事を終えた。

 ルウナは両腕を頭上に掲げ、思い切り長く伸びをすると、ラミウの前に向き直る。


「っはぁー、ごちそうさまー! あたし、今日はもう家に帰るわー!」


「うん。ルウナ、またいつでも遊びに来てね。デバイスでまた連絡するから」


「おっけー、いつでも待ってるねー! ディガンマ先生も色々お世話になりましたー」


「ついでです。私がルウナを家の近くまで送りましょう。私もちょっと、アストラヴァナ領へ用があるので」


「はぁ!? いやいや、別にいいって! あたし一人で帰れるからーっ!」


 ラミウは再び驚いて、椅子から勢いよく立ち上がる。


「先生がアストラヴァナ領へ!? 珍しいこともあるもんだね。一体、先生は何しに行くの!?」


「超が付くほどの野暮用です。メインはルウナの送り迎えで、野暮用はあくまで〈ついで〉ですから」


 ディガンマは颯爽と立ち上がると、ルウナの手を取り、診療所の正門へエスコートする。


「んぎゃーっ! んなもん口から出任せでしょー! 送る方を〈ついでです〉って、さっき絶対言ってたもーんっ!」


 ディガンマと一緒に帰るのが、余程嫌なのだろうか。

 半ば引きずられるようにして、ルウナはディガンマと共に裏庭から姿を消した。


 残されたラミウとアイザークは、静寂の中で互いに顔を見合わせる。


「……とりあえず、食器を片づけたら私の部屋へ案内するね」


「ありがとう。床を貸してくれればいい。俺はどこでも眠れるから」


「そういうわけにはいかないよ。犬や猫じゃないんだから……」


 ふたりは炊き出しの後始末をして、小屋のある屋上へ上がった。

 診療所自体が小高い土地に建っているので、屋上はそれなりに眺めが良い。


 眼下には、雄大な大河が目いっぱいに広がり、河岸通りや黄金柱まで一望できる。

 アイザークは手すりから身を乗り出して、しばらく夢中でベレナスの街を眺めていた。


「とても綺麗だ。ラミウは良い所に暮らしているな」


「私もこの景色は気に入ってる。雨の日はトイレへ行くのにも、いちいち傘が必要だけどね」


 ラミウは小屋の鍵を開け、アイザークを中へ招き入れる。


「適当に座って。すぐにスペースを作るから」


 話しながら、ラミウは部屋の片付けに取り掛かった。

 床に散らばる服を洗濯籠へと放り込み、干したままベッドに置いていた大量の服をハンガーにかける。


「すごい、ラミウは衣装持ちだ。色んな服が床に落ちてる」


「結構ボロも多いんだ。貧乏性で、捨てるタイミングが分からなくてさ……」


 アイザークは手伝おうと、ベッドの下に手を伸ばす。

 潜り込んだ衣服と共に、小さな編み籠を引っ張り出して、それとなく中身を確認した。


 中には古い経典と、中身の減った香油の瓶。

 経典のページを開いてみると、ジャスミンとシナモンが甘く香る。


 おそらく、香油の香りが紙に移っているのだろう。

 どことなく熱を帯びたような甘い香りに酔いしれながら、アイザークは最初のページを開いてみた。


「時の大河を流れる中で、情愛こそが人生の、大いなる目的と感じたならば――」


 一ページ目を口に出して読んだところで、ラミウが振り返り、血相を変える。

 ラミウは飛びつくかのように、アイザークから経典を奪い取ると、焦りながらも籠に収めて、ベッドの下へと蹴り戻した。


 アイザークが呆然とする中、ラミウは頬を赤らめて、涙目になって震えている。


「……ごめん。経典だなんて、随分知的で素敵だと思って……」


「馬鹿にしてるの!? 勝手に読んだら駄目なんだからっ!」


「馬鹿になんかしてない。その本は何だ? ページから甘い香りがする」


「やっ……嗅がないでよぉっ! 何もしないで、しばらく息止めて座っててっ!」


 何故怒られたのか分からないが、彼女の地雷を踏み抜いてしまったことだけは分かる。

 アイザークは膝を抱えて座り込み、出来るだけ嵩張らないように努めた。


「ラミウ、そろそろ息していい?」


「……いいよ。これからは人の物を勝手に触っちゃ駄目だからね」


 作業をするラミウの背中を眺めながら、アイザークは窓の外の喧騒に耳を傾けた。


 黄金柱の寺院から、時折鐘の音が聞こえてくる。

 大空を舞う鳥の声に、凧上げに勤しむ子供たちの声まで。


 見上げれば、ハンガーに掛けられた色とりどりのサリーたちが、窓から入り込む優しい風に踊っていた。

 思い出の中の昼下がり、小川に干した洗濯物を思い出して、アイザークの心に愛しさが満ちる。


「綺麗な色のサリーたちだ。織りが丁寧でしっかりしてる」


「どれも安いものばかりだよ。ベレナスの川岸沿いにある、洗濯市場で買ったんだ」


 自分の服より他人の服を案じていた彼女が、これだけの衣装を持て余している――

 その事実をアイザークは、何よりも嬉しく感じていた。


「値段なんて関係ない。これなんか特に素敵だと思う」


 アイザークは床に座ったまま、紺青色のサリーを指差す。

 ラミウはハンガーからサリーを取ると、姿見の前に立って自らの肩に合わせてみた。


「色が大人過ぎるかなって、買ったはいいけど着たことがないの」


「きっと似合うさ。着て歩くところを見てみたい」


 ラミウは鏡越しにアイザークの表情を窺った。

 表情は真剣そのもので、嘘は言っていないように思える。


「そういえば、アイは服を持ってないよね。いつまでも上が裸じゃおかしいし……後で市場へ買いに行かない?」


 アイザークは今、ディガンマから借りた土色の袈裟を、肩に巻くように羽織っている。

 腹や背中が素肌のまま露出しており、異常者と思われても仕方ない風体をしていた。


「ああ、実は俺もそのつもりだったよ。ディガンマ先生から現金をいくらか貰ってるんだ」


 アイザークはズボンのポケットから、ディガンマから貰ったであろう布製の袋を取り出した。

 ラミウは袋を受け取ると、中の金額を確認する。


「五千レピーも入ってる……! ディガンマ先生、私以外には本当に太っ腹だよね……っ!」


 部屋の片付けを急いで終わらせ、ふたりは川岸通りへと出かける。

 診療所では患者たちの昼食のみ、仕出しの給食を頼んでいるので、自分たちの食事は外食で済まそうという計画だ。


 ラミウはアイザークに勧められた、紺青のサリーを身に纏い、日差しの中を涼しげに歩く。

 一方のアイザークは、分厚い袈裟で上半身を覆い隠し、やや暑そうに項垂れていた。


 シャーンティ診療所から川岸通りへ向かうには、黄金柱沿いの石段を降りる必要がある。


「今日は何だか石段が怖いな。サリーを踏んで転びそう。慣れないことはするもんじゃないね」


 サリーを足で踏まないように、ラミウは裾を手に持って、いつもより慎重に階段を下る。

 そんなラミウの手を引きながら、アイザークは寺院から突き出た黄金柱を見上げていた。


「アイ、足元を見ないと転んじゃうよ」


「受け身を取るから大丈夫だ」


「そういう問題じゃないんだって。黄金柱が珍しい?」


「ああ……俺は無意識に黄金柱を、ラミウのサリーに重ねていたんだ。紺青の布に黄金の刺繍が輝いて、街を守る女神のようだと」


 アイザークの言葉を聞いて、ラミウも立ち止まり柱を見上げる。


青い薔薇(コンスエロ)を女神と呼ぶのは分かるけど、黄金柱を女神って呼ぶ人は初めて見た」


「そうかな。そういえば何でだろうな。感じたままを話してるから、深い意味は特にないんだ」


 長い石段を半分も降りると、街の喧騒が聞こえてくる。

 河岸市場には所狭しと小さな店舗が軒を連ね、時に道を塞ぐ形で、牛たちが自由に微睡んでいた。


 店先に並ぶ多種多様なスパイスに、蠅のたかる甘い菓子――

 それぞれの店から独特な香りが漂ってくる。


「嗅ぎ慣れない香りばかりでクラクラする。目指している店はどの辺だろうか」


「向かっているのは洗濯市場。上流の方にあるんだけど、市場を見るのも楽しいでしょう?」


「ああ、歩いてるだけで何かしら欲しくなるな。たとえそれが不必要な物でも」


「今度はガラクタを買いに来ようね。ド派手な色の小物入れとか、絶対にいらない人形とか」


 やがてふたりは井戸と洗い場が立ち並ぶ、洗濯市場へと辿りついた。

 朝を過ぎているためか、井戸を使っている人はまばらで、道を行く人もほとんどいない。


 ラミウは井戸から少し離れた、小さな露天を指差した。

 露天には、色とりどりの服が積まれた状態で売られている。


「あのお店だよ。古着だけど綺麗だし、掘り出し物がたくさんあるの」


 店の老婆に挨拶をするなり、慣れた様子でラミウは服を物色する。


「えーっと……アイは肩幅や胸囲があるし、首回りも太いから、サイズには気を付けなくちゃだよね」


「ここで試着は出来ないのか?」


「高級ブティックとかなら出来るだろうけど。ここら辺でなかなかそういうのは……」


 ラミウは黒いシャツを手に取り、アイザークの肩に合わせた。

 どうやらこのシャツが、店で一番大きなサイズのようだ。


「うーん……安いからこれを駄目元で買って、試しにこの場で着てみてくれない? これを基準に服を選ぶの」


 ラミウは金を払ってシャツを買うと、アイザークの袈裟を取り払う。

 裸になったアイザークは、慌ててシャツに袖を通した。


「どうしようラミウ……前が全然閉まらない……」


 首回りがどうという以前に、僧帽筋が邪魔をして、襟が完全に開いている。


「うん、完全に肩で着ちゃってるね。もうファッションってことにして、前を閉めるのは諦めようか」


 果たしてそれでいいのかと、内心不安に感じながら、アイザークは自らの胸を手のひらで撫でた。


「そうか、俺みたいなのは規格外か。仕立ててもらうのとは訳が違うな」


「どんだけお坊ちゃまなの? とりあえず、開襟シャツを数枚と……調整が効くモダンなスーツ(バンドゥガラ)を保険に一枚買っていこう!」


「なあラミウ、全部長袖じゃ暑くないかな?」


「ベレナスは日差しが強いから、長袖の方が涼しいんだよ。でも、寝巻き代わりにタンクトップやTシャツなんかも必要だね」


 おそらく、ラミウの中でコーディネートの最適解があるのだろう。

 何も口出し出来ないアイザークは、ラミウが服を選ぶ間、サリー用の生地を眺めてみる。


(白地に金の細かな刺繍……まるでジャスミンの花みたいで、ラミウが着たら似合いそうだな)


 挿絵(By みてみん)


 アイザークは布とラミウを交互に見つめ、想像に頬を緩ませる。

 熱い視線に気付いたのか、ラミウが唐突に振り返った。


「ん、急にどうしたんだ?」


「いや……いつの間にか、人が集まって来たみたい……」


 アイザークは背後に視線を送る。


 ラミウの言葉通り、露天の周囲には人だかりが出来ていた。

 中にはスマートデバイスを使い、ふたりを撮影する者まで。


「……店先を独占しちゃ悪いよね。さっさと会計して河岸へ戻ろう」


 ラミウは急いで会計を済ませ、アイザークの手を引いて逃げる。


「ラミウ……そんなに急いで走ったら駄目だ。裾を踏んで転ぶかもしれない」


「アイのせいだよ。背が高くって、大きくて、そんな着こなししてるから、ボリウッド俳優と間違われたんだ」


 ボリウッド俳優と言われて、アイザークの顔に血が集まる。

 自らの巨躯に対して、そんなことを言われるのは、生まれて初めてのことだったからだ。


「……着こなしは仕方ないだろう。ラミウのサリー姿だって……俺にとっては、まるで映画の女優みたいだ!」


「じょっ、女優っ!?」


 アイザークが吐いた単語に驚き、ラミウは思わず振り返る。

 その拍子に、踵がサリーの裾を踏み、ラミウは勢いよく後ろへと倒れた。


「わっ、ひゃああっ!?」


「――ラミウ!」


 このままでは、石畳に頭を打ち付けてしまう。


 アイザークは一歩踏み出し、ラミウの手を掴んで強く引いた。

 そして、細いの腰を左腕で拾うと、胸の中へと抱き寄せる。


 間一髪の緊張と共に、一瞬の無音がふたりを包んだ。

 至近距離で固まって互いの顔を見つめるうちに、心が平静を取り戻し、喧騒が徐々に帰ってくる。


「はぁ、はぁ……ごめんねアイ……今のは、かなり危なかった……!」


「ああ……怪我するところだったな……。俺の手が届いて本当によかった……」


 大惨事を免れた恐怖で、互いの胸がドクドクと跳ねる。

 気持ちが冷静になるにつれ、ラミウは自らの状況が、何だかとても滑稽に思えた。


「……あはっ、あははっ! なんだかすごいね。今日の私たち、映画の中に入っちゃったみたい!」


「はははっ、あとはこのまま踊ればいいかな。カメラ目線で横揺れしてさ」


 ふたりは冗談を重ねながら、子供のように声を出して笑った。

 心を揺さぶる照れくささまで、笑い声と共に午後の空へと溶けて行く。


「冗談はさておき、ここから先はゆっくり歩こう。帰りは俺が手を引くから」


 アイザークはラミウを地面に立たせると、緩んだ裾を彼女にしっかりと握らせる。

 そして、引かれていた手を振りほどき、手のひらを返してラミウの前に差し出した。


 ラミウは少しだけ何かを考え、アイザークの手に自身の手のひらをそっと重ねる。


「……ありがとう。うまく案内出来なくてごめんね」


「いいや、楽しかったよ。それに、長年の夢がやっと叶って嬉しかった」


「長年の夢?」


 首を傾げるラミウに対し、アイザークは微笑んで、互いの足元を交互に指差した。


「大人になったら靴を履いて、ふたりで一緒に街を歩く。もう二度と……叶えられないと思っていたんだ」


 ラミウは唇を軽く噛み、眉を顰めて静かに俯く。


「駄目だよ……何か話すと泣いちゃいそう……」


「話さなくていい。歩こう、ラミウ」


 ふたりは固く手を繋ぎ、明るい日の下を寄り添って歩く。


 人混みの中、時折感じる視線の中に――

 子供時代の自分たちが、嬉しそうに覗いている気がした。

2026年7月7日の連載初日一挙更新はここまでになります!

以降は連載が追い付くまで、毎日19時に1話毎更新となります!

今後もASTROGIKAの連載を日々の楽しみにしていただけたら幸いです!


作者・七星電灯のX(Twitter:@dentonanahoshi)にて更新のお知らせやラフ画なども公開しておりますので、そちらもフォロー頂けたら幸いです。


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