第19話「靴を履いて」
闘技場の騒動から一晩明けた、穏やかな朝。
日曜日はラミウにとって、丸一日休みの日だ。
「土曜の朝に帰ってきて……結局、疲れてずっと寝ちゃった……」
なんだか、とても長い夢を見ていた気がする。
ルウナと出会い、サーカスへ行って、とても恐ろしい目に遭った。
ずっと探していたアイザークに、あろうことか殺されかけて――
「アイ……そうだ……! 一緒に帰って来たんだったっ!」
ラミウは毛布を跳ね飛ばし、慌てた様子で立ち上がる。
その拍子にラミウの足は、隣で眠るルウナの尻尾を力一杯踏みつけた。
「うなんっ、いたーい! ラミウーっ、あたしの尻尾踏まないでよー!」
「あぁっ、ごめんねっ! でもルウナ、あたし今すぐ下へ行かなきゃっ!」
ラミウは髪を結いながら、部屋の扉を蹴り開ける。
途端に、大河から昇る朝の光が、薄暗い室内を煌々と照らした。
ラミウの部屋は、シャーンティ診療所の屋上に建てられた、木造建てのオンボロ小屋。
元々は物置きとして使っていたらしいが、年頃のラミウのために部屋が必要だと、ディガンマが改装してくれたのだ。
小屋の広さを数字で表すと、約十二平方メートルといったところか。
窓辺にセミダブルのベッドを置いて、絨毯やラグを床に敷き、壁際には本棚や姿見、衣装棚まで。
トイレや風呂は診療所内のものを借りなければいけないが、それ以外は何一つ不自由のない環境だ。
ラミウは小屋から飛び出して、階段を一気に駆け降りる。
階段は診療所の裏庭にも繋がっているため、炊き出しを作る調理場や、階段井戸へ直接行くことが可能だった。
(ん……? なんだろう、この美味しそうな匂いは……)
ふと、階段を降りる途中で、香ばしい匂いが漂ってくる。
ラミウは匂いの正体を知るべく、調理場の方を覗き込んだ。
調理場には、子供たちに囲まれたアイザークの姿が――
一番小さな焜炉の前で、屈んで何かを焼いている。
「おはよう、ラミウ。うるさくして起こしたかな?」
ラミウは自らの頬を抓り、この瞬間が現実かどうか確認する。
長年探し続けてきたアイザークと、やっと再会できたのだ。
そんな彼から挨拶を貰い、ラミウの胸は感極まって熱くなる。
「……ううん、ぐっすり眠れたよ。アイは朝から何をしてるの?」
「早朝に河へ行ってきた。俺は食う量が多いから……足りない分は自分で足せってディガンマ先生に言われてさ」
アイザークは笑って呟くと、焜炉の中から鉄製の長い串を引き抜く。
出てきたのは、香ばしく焼けたナマズの丸焼き。
「うまく焼けた。子供たちには塩を少しだけ振ればいいかな」
自分の分と言いながら、アイザークは子供たちにもナマズを大きく切り分けていた。
子供たちは喜びながら、持参した皿をアイザークに渡す。
「アイ兄ちゃん! 僕、脂の乗った腹のとこ食べたい!」
「ああ、好きなとこ持って行けよ。俺は尾の方も好きだから」
昨日から今日までの間に、一体何があったのだろうか――
大人に対して人見知りのリヴまで、アイザークにすっかり懐いている。
「ラミウも食べるだろ? ナマズの腹のとこ好きだったよな」
「久し振りに食べたいな。でも、お腹の身が好きってよく覚えてたね」
「ああ……食べさせたかった焼き方があるんだ。そこで少し待っててくれ」
アイザークは籠から小さなナマズを取り出すと、慣れた手つきで捌き始めた。
高温に温めたフライパンにバターを落とし、捌いたナマズを皮目から入れて焼いていく。
「あー、これってもしかしてフランス料理ー? アストラヴァナでお馴染みメニューだー!」
いつの間に起きてきたのだろうか。
突然ラミウの背後から、ルウナが顔を覗かせた。
「ルウナ、どうしてこれがフランス料理だって分かるの?」
「だってー、この焼き方ってポワレでしょー? ベレナスは油にマスタードシードを入れるけど、アストラヴァナでは入れないもんねー」
ナマズの身が熱で締まり、串焼きとは異なる、甘く香ばしい香りが周囲に漂う。
「アイはこの料理をアストラヴァナで知ったってこと? もしかして、コックさんとして働いてたの?」
「いや、俺が統制中層区にいた頃、上官の為に作っていた料理だ。俺の上官はD-C配属のフランス人だったから」
コントロールミッド、ディーシー配属のフランス人――
意味不明な言葉の数々を前に、ラミウは盛大に首を傾げた。
「どええっ!? 統制中層区のD-C配属ぅーっ!?」
一方、ルウナの方は意味が理解しているらしく、アイザークの言葉に驚きの様子を示していた。
「なにルウナ、どうしてそんなに驚くの?」
「統制中層区なんて、軍の中でもエリートしか入れないからだよー! D-Cはデルタ・コアって言ってー、言葉の通り、三角形の真ん中って意味!」
驚くルウナに対し、アイザークは気まずそうに視線を逸らす。
まるで、口を滑らせたことを後悔しているような顔だ。
「そっか……エリートなら舌が肥えてそうだね。上官の食事を用意しなきゃいけないなんて、軍人さんも大変だなぁ」
「そうですとも。たまにはラミウが私の為に、腕を振るってもいいんですよ?」
ラミウは裏庭の門を見る。
ディガンマが両腕に荷物を抱えて、開けてほしそうに佇んでいた。
「ディガンマ先生、こんな朝から買い出しに出たの? 言ってくれれば私も一緒に行ったのに」
「もちろん、声を掛けましたよ。それでもあなたが寝続けたんで、こうして一人で卵を買いに」
それは果たして本当なのか、ラミウは横目でアイザークを見る。
アイザークは僅かに眉を顰め、ラミウに対して何度も小さく頷いた。
「――あはは……ごめんねディガンマ先生っ、今日は私が炊き出しを作るよ! 今朝は何を作るつもり?」
「野菜を刻んでオムレツでも作ろうかと。アイがメインを用意したので、私の方は付け合わせです」
ラミウはディガンマから荷物を受け取ると、野菜を取り出して刻んでいく。
味付けはともかく、刻むだけならラミウにとって得意分野だ。
「ラミウ、野菜は私が炒めるので、刻んだら鍋へ入れて下さい」
ディガンマは鉄鍋に油を注ぎ、強火の焜炉で温める。
マスタードシードをこれでもかと弾けさせると、刻んだ野菜を油で豪快に揚げ焼きしていく。
「ねーねー、油入れすぎじゃないー? これじゃあ野菜の素揚げじゃんー」
「あんまり少ないと卵が鍋に焦げ付きますから。こういうのも、毎食じゃなければ良いんですよ」
大量の卵を投入した後、塩コショウで味付けし、最後の仕上げ――
マサラやターメリックなどの香辛料を振りかけていく。
「うわー、途端にカレーの匂いがしてきたー。メインのポワレのバターの味を、上からかき消す勢いだよー」
「なんでもカレーって言わないでください。ネオ・ベレナスにカレーなんて料理はないですから」
ディガンマはオムレツを子供たちに配ったあと、自分たちの皿に残ったものを乗せていく。
アイザークが仕上げたポワレの横に、香りの強いオムレツが乗せられ、ルウナは口をへの字に曲げた。
「ふぇぇ……カレーじゃなくて、ラーメンとかオリーブチキンが食べたいよぉ。あたしそろそろ、アストラヴァナ領へ帰ろうかなー」
「ええっ!? ルウナ、もう帰っちゃうの? もっと一緒に観光したり、ゆっくりお話したかったなぁ」
ルウナはラミウの頭からアクセデバイスを取り外すと、スマートタブレットに数秒重ねる。
ふたりのデバイスが数回チカチカと点滅し、小鳥の囀るような電子音が鳴った。
「あたしのIDを入れといたから、これでいつでも通信出来るよ。あたしもまたベレナスへ来るし、ラミウもあたしの家においで」
「うん……ありがとう! 友達の連絡先、第一号かも!」
ルウナは満足そうに微笑み、アイザークに対してドヤ顔を浮かべる。
「どうー? アイくん羨ましいー? あんたもラミウと連絡先を交換しなよー」
そう言って、ルウナはアイザークにラミウのアクセデバイスを渡した。
アイザークはデバイスを眺め、自身の耳元に近づける。
「耳から外さないで上手くいくかな」
どうやらアイザークのピアスは、ラミウと同じ〈アクセデバイス〉のようだ。
髪飾りとピアス同士が青くチカチカと点滅し、小鳥の囀る音が鳴る。
「……ラミウの友達、第二号だ。よろしくな」
「ありがとう……。こういうのって、いつ通話すればいいのかな?」
「それはねー、推しに激しく萌えた時とかー、人肌恋しくなっちゃってーどうしようもなく寂しい夜とかー」
推しに激しく萌えた時――
ルウナの言葉の半分が、ラミウにとって理解の範疇を超えていた。
しかし〈どうしようもなく寂しい夜〉は、ラミウにとっても経験がある。
「わかった。どうしようもなく寂しい夜に連絡するね」
「……いや、なにも夜じゃなくていい。俺の方が緊張するから、普段から気軽にかけてほしい」
アイザークは困っているのか、額の汗を手の甲で拭う。
ラミウは意味が分からず、ルウナとディガンマの顔を交互に見た。
「――まあ、これから一緒に住むんですから、通話なんかせずに話しかければいいのでは?」
「えっ、そうなの!? アイも診療所のお世話になるの!?」
「指輪で契約している現状、アイはラミウのサブウェポンですから。アイにはラミウと同じ業務に当たってもらおうと思います」
「ありがとうディガンマ先生! アイの部屋はどこにするの? うちの診療所……空いてる部屋あったっけ?」
「おっと、部屋まで考えてなかったな。診療所の屋上にラミウ専用の小屋があるので、そこで寝泊まりしてください」
ご機嫌な笑顔から一転、ラミウは表情に焦りを浮かべて、椅子から勢いよく立ち上がる。
「私の部屋ぁっ!? ななっ、なんでよ! 物がいっぱいあるし狭いよっ!?」
「ならば、いらない物を捨てて下さい。自分の武器は常に手元に置いておく……強き者としての基本ですよ」
ラミウは力なく椅子に座り、隣に座るアイザークを横目で見た。
アイザークは申し訳なさそうな表情で、ラミウを心配そうに見つめている。
「迷惑かけてごめんな。出来るだけ嵩張らないように努力するから」
「ううん、気にしないで……ディガンマ先生の言う通り、片付ければいいだけだから」
そんなことを話しているうちに、ルウナがいち早く食事を終えた。
ルウナは両腕を頭上に掲げ、思い切り長く伸びをすると、ラミウの前に向き直る。
「っはぁー、ごちそうさまー! あたし、今日はもう家に帰るわー!」
「うん。ルウナ、またいつでも遊びに来てね。デバイスでまた連絡するから」
「おっけー、いつでも待ってるねー! ディガンマ先生も色々お世話になりましたー」
「ついでです。私がルウナを家の近くまで送りましょう。私もちょっと、アストラヴァナ領へ用があるので」
「はぁ!? いやいや、別にいいって! あたし一人で帰れるからーっ!」
ラミウは再び驚いて、椅子から勢いよく立ち上がる。
「先生がアストラヴァナ領へ!? 珍しいこともあるもんだね。一体、先生は何しに行くの!?」
「超が付くほどの野暮用です。メインはルウナの送り迎えで、野暮用はあくまで〈ついで〉ですから」
ディガンマは颯爽と立ち上がると、ルウナの手を取り、診療所の正門へエスコートする。
「んぎゃーっ! んなもん口から出任せでしょー! 送る方を〈ついでです〉って、さっき絶対言ってたもーんっ!」
ディガンマと一緒に帰るのが、余程嫌なのだろうか。
半ば引きずられるようにして、ルウナはディガンマと共に裏庭から姿を消した。
残されたラミウとアイザークは、静寂の中で互いに顔を見合わせる。
「……とりあえず、食器を片づけたら私の部屋へ案内するね」
「ありがとう。床を貸してくれればいい。俺はどこでも眠れるから」
「そういうわけにはいかないよ。犬や猫じゃないんだから……」
ふたりは炊き出しの後始末をして、小屋のある屋上へ上がった。
診療所自体が小高い土地に建っているので、屋上はそれなりに眺めが良い。
眼下には、雄大な大河が目いっぱいに広がり、河岸通りや黄金柱まで一望できる。
アイザークは手すりから身を乗り出して、しばらく夢中でベレナスの街を眺めていた。
「とても綺麗だ。ラミウは良い所に暮らしているな」
「私もこの景色は気に入ってる。雨の日はトイレへ行くのにも、いちいち傘が必要だけどね」
ラミウは小屋の鍵を開け、アイザークを中へ招き入れる。
「適当に座って。すぐにスペースを作るから」
話しながら、ラミウは部屋の片付けに取り掛かった。
床に散らばる服を洗濯籠へと放り込み、干したままベッドに置いていた大量の服をハンガーにかける。
「すごい、ラミウは衣装持ちだ。色んな服が床に落ちてる」
「結構ボロも多いんだ。貧乏性で、捨てるタイミングが分からなくてさ……」
アイザークは手伝おうと、ベッドの下に手を伸ばす。
潜り込んだ衣服と共に、小さな編み籠を引っ張り出して、それとなく中身を確認した。
中には古い経典と、中身の減った香油の瓶。
経典のページを開いてみると、ジャスミンとシナモンが甘く香る。
おそらく、香油の香りが紙に移っているのだろう。
どことなく熱を帯びたような甘い香りに酔いしれながら、アイザークは最初のページを開いてみた。
「時の大河を流れる中で、情愛こそが人生の、大いなる目的と感じたならば――」
一ページ目を口に出して読んだところで、ラミウが振り返り、血相を変える。
ラミウは飛びつくかのように、アイザークから経典を奪い取ると、焦りながらも籠に収めて、ベッドの下へと蹴り戻した。
アイザークが呆然とする中、ラミウは頬を赤らめて、涙目になって震えている。
「……ごめん。経典だなんて、随分知的で素敵だと思って……」
「馬鹿にしてるの!? 勝手に読んだら駄目なんだからっ!」
「馬鹿になんかしてない。その本は何だ? ページから甘い香りがする」
「やっ……嗅がないでよぉっ! 何もしないで、しばらく息止めて座っててっ!」
何故怒られたのか分からないが、彼女の地雷を踏み抜いてしまったことだけは分かる。
アイザークは膝を抱えて座り込み、出来るだけ嵩張らないように努めた。
「ラミウ、そろそろ息していい?」
「……いいよ。これからは人の物を勝手に触っちゃ駄目だからね」
作業をするラミウの背中を眺めながら、アイザークは窓の外の喧騒に耳を傾けた。
黄金柱の寺院から、時折鐘の音が聞こえてくる。
大空を舞う鳥の声に、凧上げに勤しむ子供たちの声まで。
見上げれば、ハンガーに掛けられた色とりどりのサリーたちが、窓から入り込む優しい風に踊っていた。
思い出の中の昼下がり、小川に干した洗濯物を思い出して、アイザークの心に愛しさが満ちる。
「綺麗な色のサリーたちだ。織りが丁寧でしっかりしてる」
「どれも安いものばかりだよ。ベレナスの川岸沿いにある、洗濯市場で買ったんだ」
自分の服より他人の服を案じていた彼女が、これだけの衣装を持て余している――
その事実をアイザークは、何よりも嬉しく感じていた。
「値段なんて関係ない。これなんか特に素敵だと思う」
アイザークは床に座ったまま、紺青色のサリーを指差す。
ラミウはハンガーからサリーを取ると、姿見の前に立って自らの肩に合わせてみた。
「色が大人過ぎるかなって、買ったはいいけど着たことがないの」
「きっと似合うさ。着て歩くところを見てみたい」
ラミウは鏡越しにアイザークの表情を窺った。
表情は真剣そのもので、嘘は言っていないように思える。
「そういえば、アイは服を持ってないよね。いつまでも上が裸じゃおかしいし……後で市場へ買いに行かない?」
アイザークは今、ディガンマから借りた土色の袈裟を、肩に巻くように羽織っている。
腹や背中が素肌のまま露出しており、異常者と思われても仕方ない風体をしていた。
「ああ、実は俺もそのつもりだったよ。ディガンマ先生から現金をいくらか貰ってるんだ」
アイザークはズボンのポケットから、ディガンマから貰ったであろう布製の袋を取り出した。
ラミウは袋を受け取ると、中の金額を確認する。
「五千レピーも入ってる……! ディガンマ先生、私以外には本当に太っ腹だよね……っ!」
部屋の片付けを急いで終わらせ、ふたりは川岸通りへと出かける。
診療所では患者たちの昼食のみ、仕出しの給食を頼んでいるので、自分たちの食事は外食で済まそうという計画だ。
ラミウはアイザークに勧められた、紺青のサリーを身に纏い、日差しの中を涼しげに歩く。
一方のアイザークは、分厚い袈裟で上半身を覆い隠し、やや暑そうに項垂れていた。
シャーンティ診療所から川岸通りへ向かうには、黄金柱沿いの石段を降りる必要がある。
「今日は何だか石段が怖いな。サリーを踏んで転びそう。慣れないことはするもんじゃないね」
サリーを足で踏まないように、ラミウは裾を手に持って、いつもより慎重に階段を下る。
そんなラミウの手を引きながら、アイザークは寺院から突き出た黄金柱を見上げていた。
「アイ、足元を見ないと転んじゃうよ」
「受け身を取るから大丈夫だ」
「そういう問題じゃないんだって。黄金柱が珍しい?」
「ああ……俺は無意識に黄金柱を、ラミウのサリーに重ねていたんだ。紺青の布に黄金の刺繍が輝いて、街を守る女神のようだと」
アイザークの言葉を聞いて、ラミウも立ち止まり柱を見上げる。
「青い薔薇を女神と呼ぶのは分かるけど、黄金柱を女神って呼ぶ人は初めて見た」
「そうかな。そういえば何でだろうな。感じたままを話してるから、深い意味は特にないんだ」
長い石段を半分も降りると、街の喧騒が聞こえてくる。
河岸市場には所狭しと小さな店舗が軒を連ね、時に道を塞ぐ形で、牛たちが自由に微睡んでいた。
店先に並ぶ多種多様なスパイスに、蠅のたかる甘い菓子――
それぞれの店から独特な香りが漂ってくる。
「嗅ぎ慣れない香りばかりでクラクラする。目指している店はどの辺だろうか」
「向かっているのは洗濯市場。上流の方にあるんだけど、市場を見るのも楽しいでしょう?」
「ああ、歩いてるだけで何かしら欲しくなるな。たとえそれが不必要な物でも」
「今度はガラクタを買いに来ようね。ド派手な色の小物入れとか、絶対にいらない人形とか」
やがてふたりは井戸と洗い場が立ち並ぶ、洗濯市場へと辿りついた。
朝を過ぎているためか、井戸を使っている人はまばらで、道を行く人もほとんどいない。
ラミウは井戸から少し離れた、小さな露天を指差した。
露天には、色とりどりの服が積まれた状態で売られている。
「あのお店だよ。古着だけど綺麗だし、掘り出し物がたくさんあるの」
店の老婆に挨拶をするなり、慣れた様子でラミウは服を物色する。
「えーっと……アイは肩幅や胸囲があるし、首回りも太いから、サイズには気を付けなくちゃだよね」
「ここで試着は出来ないのか?」
「高級ブティックとかなら出来るだろうけど。ここら辺でなかなかそういうのは……」
ラミウは黒いシャツを手に取り、アイザークの肩に合わせた。
どうやらこのシャツが、店で一番大きなサイズのようだ。
「うーん……安いからこれを駄目元で買って、試しにこの場で着てみてくれない? これを基準に服を選ぶの」
ラミウは金を払ってシャツを買うと、アイザークの袈裟を取り払う。
裸になったアイザークは、慌ててシャツに袖を通した。
「どうしようラミウ……前が全然閉まらない……」
首回りがどうという以前に、僧帽筋が邪魔をして、襟が完全に開いている。
「うん、完全に肩で着ちゃってるね。もうファッションってことにして、前を閉めるのは諦めようか」
果たしてそれでいいのかと、内心不安に感じながら、アイザークは自らの胸を手のひらで撫でた。
「そうか、俺みたいなのは規格外か。仕立ててもらうのとは訳が違うな」
「どんだけお坊ちゃまなの? とりあえず、開襟シャツを数枚と……調整が効くモダンなスーツを保険に一枚買っていこう!」
「なあラミウ、全部長袖じゃ暑くないかな?」
「ベレナスは日差しが強いから、長袖の方が涼しいんだよ。でも、寝巻き代わりにタンクトップやTシャツなんかも必要だね」
おそらく、ラミウの中でコーディネートの最適解があるのだろう。
何も口出し出来ないアイザークは、ラミウが服を選ぶ間、サリー用の生地を眺めてみる。
(白地に金の細かな刺繍……まるでジャスミンの花みたいで、ラミウが着たら似合いそうだな)
アイザークは布とラミウを交互に見つめ、想像に頬を緩ませる。
熱い視線に気付いたのか、ラミウが唐突に振り返った。
「ん、急にどうしたんだ?」
「いや……いつの間にか、人が集まって来たみたい……」
アイザークは背後に視線を送る。
ラミウの言葉通り、露天の周囲には人だかりが出来ていた。
中にはスマートデバイスを使い、ふたりを撮影する者まで。
「……店先を独占しちゃ悪いよね。さっさと会計して河岸へ戻ろう」
ラミウは急いで会計を済ませ、アイザークの手を引いて逃げる。
「ラミウ……そんなに急いで走ったら駄目だ。裾を踏んで転ぶかもしれない」
「アイのせいだよ。背が高くって、大きくて、そんな着こなししてるから、ボリウッド俳優と間違われたんだ」
ボリウッド俳優と言われて、アイザークの顔に血が集まる。
自らの巨躯に対して、そんなことを言われるのは、生まれて初めてのことだったからだ。
「……着こなしは仕方ないだろう。ラミウのサリー姿だって……俺にとっては、まるで映画の女優みたいだ!」
「じょっ、女優っ!?」
アイザークが吐いた単語に驚き、ラミウは思わず振り返る。
その拍子に、踵がサリーの裾を踏み、ラミウは勢いよく後ろへと倒れた。
「わっ、ひゃああっ!?」
「――ラミウ!」
このままでは、石畳に頭を打ち付けてしまう。
アイザークは一歩踏み出し、ラミウの手を掴んで強く引いた。
そして、細いの腰を左腕で拾うと、胸の中へと抱き寄せる。
間一髪の緊張と共に、一瞬の無音がふたりを包んだ。
至近距離で固まって互いの顔を見つめるうちに、心が平静を取り戻し、喧騒が徐々に帰ってくる。
「はぁ、はぁ……ごめんねアイ……今のは、かなり危なかった……!」
「ああ……怪我するところだったな……。俺の手が届いて本当によかった……」
大惨事を免れた恐怖で、互いの胸がドクドクと跳ねる。
気持ちが冷静になるにつれ、ラミウは自らの状況が、何だかとても滑稽に思えた。
「……あはっ、あははっ! なんだかすごいね。今日の私たち、映画の中に入っちゃったみたい!」
「はははっ、あとはこのまま踊ればいいかな。カメラ目線で横揺れしてさ」
ふたりは冗談を重ねながら、子供のように声を出して笑った。
心を揺さぶる照れくささまで、笑い声と共に午後の空へと溶けて行く。
「冗談はさておき、ここから先はゆっくり歩こう。帰りは俺が手を引くから」
アイザークはラミウを地面に立たせると、緩んだ裾を彼女にしっかりと握らせる。
そして、引かれていた手を振りほどき、手のひらを返してラミウの前に差し出した。
ラミウは少しだけ何かを考え、アイザークの手に自身の手のひらをそっと重ねる。
「……ありがとう。うまく案内出来なくてごめんね」
「いいや、楽しかったよ。それに、長年の夢がやっと叶って嬉しかった」
「長年の夢?」
首を傾げるラミウに対し、アイザークは微笑んで、互いの足元を交互に指差した。
「大人になったら靴を履いて、ふたりで一緒に街を歩く。もう二度と……叶えられないと思っていたんだ」
ラミウは唇を軽く噛み、眉を顰めて静かに俯く。
「駄目だよ……何か話すと泣いちゃいそう……」
「話さなくていい。歩こう、ラミウ」
ふたりは固く手を繋ぎ、明るい日の下を寄り添って歩く。
人混みの中、時折感じる視線の中に――
子供時代の自分たちが、嬉しそうに覗いている気がした。
2026年7月7日の連載初日一挙更新はここまでになります!
以降は連載が追い付くまで、毎日19時に1話毎更新となります!
今後もASTROGIKAの連載を日々の楽しみにしていただけたら幸いです!
作者・七星電灯のX(Twitter:@dentonanahoshi)にて更新のお知らせやラフ画なども公開しておりますので、そちらもフォロー頂けたら幸いです。




