第13話:自覚する想いと、忍び寄る暗雲
空いっぱいに桜吹雪が舞ったあの日から、ルシアン様との距離は以前よりもずっと近くなった。
朝食を共にし、温室で猫たちと遊び、午後には庭園を散歩する。
時には私が、彼の執務室のソファで本を読みながら、仕事をしている彼をこっそり眺めることも許されるようになった。
「……何か顔についているか?」
書類から顔を上げたルシアン様と目が合い、私は慌てて視線を本に戻した。
「い、いえ! 何でもありません!」
「そうか? 少し顔が赤いようだが……」
彼が心配そうに立ち上がり、こちらへ歩いてくる気配がする。
長い脚がソファの前に止まり、彼が少し身を屈めて私の額に自分の額をぴたりと合わせた。
「ひゃっ!?」
「熱はないな。だが、心音が少し早いようだ」
間近にある青玉の瞳と、深煎りの珈琲のような落ち着く香り。
私の頭の中はショート寸前だった。
「ル、ルシアン様っ! 近いです、近すぎます!」
「ん? 愛の言葉を囁く時は互いの吐息がかかる距離が最適だと……」
「あの本はもう捨ててください!!」
私が真っ赤になって抗議すると、ルシアン様はポカンとした後、吹き出すように低く笑った。
「すまない。君が可愛くて、ついからかいたくなった」
「……もうっ」
膨れっ面を作ってみせるけれど、彼が楽しそうに笑ってくれるのが嬉しくて、結局私もつられて笑ってしまった。
この数週間でわかったことがある。ルシアン様は冷酷な氷の公爵なんかじゃない。不器用で、真面目で、少し極端だけれど……誰よりも優しくて、深い愛情を持った人だ。
(私、本当に……この人のことが、好き)
私の心は今、かつてないほど穏やかな春の陽気で満たされている。
そしてそれは、そのままこの国の空模様となって表れていた。王都は連日、美しい青空と心地よい風に恵まれ、花々は咲き乱れ、農作物はこれまでにないほどの豊作の兆しを見せているという。
『アメリア様の笑顔は、我が国の宝だ!』
『フロストバイン公爵閣下に、勲賞を!』
民衆たちのそんな声が連日耳に届く。
私はただ、ルシアン様と一緒にいて幸せなだけなのに、それが国を救うことになっているなんて、なんだか不思議な気分だった。
◇◇◇
しかし、そんな穏やかな日々は、長くは続かなかった。
その日、ルシアン様は王宮での軍議に出席するため、朝から屋敷を空けていた。
私は一人で温室に赴き、ネーヴェとプリマを撫でながら彼が帰ってくるのを待っていた。
「プリマ、ルシアン様、早く帰ってこないかな」
「にゃーん」
プリマが私の膝の上で伸びをした、その時だった。
「――ここにいたか、アメリア」
温室の入り口から響いた声に、私はビクッと肩を跳ねさせた。
ルシアン様の低く落ち着いた声ではない。その声には、かつて私を絶望の淵に突き落とした、嫌な記憶がこびりついていた。
「……エドワード、殿下……?」
振り返ると、そこには第一王子であるエドワード殿下が立っていた。
王宮を氷河期に沈めたあの日から、一度も顔を合わせていなかった彼が、なぜここに。
「どうして、ここに……?」
「どうして? 決まっているだろう。婚約者を迎えに来たのだ」
エドワード殿下は、まるで何事もなかったかのように、自信に満ちた笑みを浮かべてこちらへ歩み寄ってきた。
「婚約者……? 何を仰っているのですか。殿下は、建国記念の夜会で、私との婚約を破棄すると……」
「あれはほんの冗談だ。少しお前を試しただけだ。それに、お前の機嫌も直り、天候もこれ以上ないほど回復しただろう? ならば、もうこんなむさ苦しい公爵の屋敷にいる必要はない」
信じられない言葉に、私は息を呑んだ。
冗談? あれだけ私を大勢の前で罵倒し、ミアを隣に立たせて「不気味な女」と蔑んだあの言葉が?
「さあ、帰るぞ。王宮にはもう、お前のために新しいドレスと宝石を用意させてある。ミアも、お前が戻ってくるのを心待ちにしているぞ」
殿下が手を伸ばしてくる。
その手を取れば、またあの冷たくて、誰からも愛されない日々に逆戻りだ。
「……嫌です」
私は、はっきりと拒絶した。
「なんだと?」
「私は、帰りません。私を必要としてくれたのは、ルシアン様だけです。私は……彼のお傍にいたいです!」
私がそう叫んだ瞬間。
ピシャァァン!!!
突然、空を切り裂くような凄まじい雷鳴が轟いた。
先ほどまで快晴だった空が、あっという間にドス黒い暗雲に覆われ、激しい風が温室のガラスをガタガタと揺らし始めた。
「な、なんだ!?」
「私が……っ、私が怒っているから……っ!」
私の心の中にある怒りと恐怖が、天候を急激に悪化させているのだ。
エドワード殿下は顔面を蒼白にし、腰を抜かしそうになりながらも、無理やり私の腕を掴もうと一歩踏み出した。
「ふざけるな! お前は次期王妃になる女だ! 言うことを聞け!」
彼の手が私の腕に伸びた、その直後。
「――その薄汚い手で、俺の妻に触れるな」
温室の入り口から、地を這うような恐ろしい声が響き渡った。




