風が舞う音
ああ……痛いなぁ……
骨が軋んでいる。筋肉は焼けるようだし、皮膚は擦れて熱を持ってる。
口の中に、じんわりと広がる鉄の味。舌の奥で血が滲んでいる。
やっぱり、ママは強いや。
娘相手でも、本当に容赦ないんだから。
相手は、英雄だよ?
多くの敵を葬り去り、オルデバランに平和をもたらした英雄。
……無茶、したなぁ……
今日だけで何十回も聞いた、「立ちなさい」も、もう聞こえなくなった。
よかったぁ……
もう、立たなくていいんだ……
意識がふわふわしてる。
目の前の光景も、なんだか遠くなって。
このまま、もう、眠ってしまいたい……
……あれ?
そもそも、なんでこんなにがんばってるんだっけ……?
たしか……
『あたしは、自分のなりたいものになりたい』
そうだ。侍になりたいからだった。
でも、なんだっけ
それよりも、もっと、もっと大切なことがあったような……
……なん、だっけ……
どこかで誰かの声がする気がした。
遠く、ぼやけた世界の外側から、名前を呼ぶ声が。
『だって、お前からしたら、命を賭けても良いくらいの夢なんだろ?』
『じゃあ、俺はその夢を笑わないし、軽蔑もしねえよ』
『自由なマリナは、綺麗で、美しいって、心の底から思った』
かみ……さま……
『剣の神は、いつだってお前と共にある』
神様
「『立ちなさい』……が、聞こえ……ない……けど?」
「……!!」
あたしの体は、立ち上がっていた。
霞む目で前を見ると、審判が手を上げ、決着を宣言しようとしていた時だった。
──まに、あった……あぶな、かった……
後もう少し気を失っていたら、負けていた。
「……」
誰かの息を呑む音が聞こえた。
額からの血で、前が見えない。
砂が、うっとおしい。
膝が、笑ってる。
……倒れ、ちゃいそう。
あたしは木刀を地面に突き刺して、体を支えた。
「……もう、あなたの身体は限界なはずよ。」
ママはあたしのボロボロな姿を見て、そう言った。いつもと変わらぬ冷静な声。
「どうして、立ち上がるの?」
──どうして、か……
実際あたしもわからない。
でもきっと、あたしが立てたのは、夢のためとか、執念のためとか、そんなんじゃないと思う。
もっと、単純なこと。
答えを想像して、あたしは笑ってしまった。
声はかすれて、それでもはっきりと届く。
「大好きな人が、共にいてくれているから。」
その言葉を聞いた瞬間、ママの目がわずかに細まった。
そして──
「……わかった」
「……!」
あのママが攻撃の構えをとった。
「終わりにしてあげるわ」
今まであたしに先手を譲っていたママが、ついに先に攻撃を仕掛けようとしている。
もう、あたしに次の一撃を受け止められる気力は残っていない。
ママにとって、これは終幕の一太刀。
ママが、地を踏みしめた。
「いくわよ」
その瞬間
「……!」
ママの姿が、風の中に溶けた。
一歩。
ただの一歩なのに、それは雷鳴のような衝撃と共に空間を裂く。
視界からママの剣が消えた──
「マリナ!!!」
「……!」
彼の叫び声を聞いて
あたしの体は、ひとりでに動いていた。
そして
ヒュン
風の舞う音が、聞こえた。
***
俺は確かに聞いた。
ヒュンと
風が舞う音を
「……」
何が起こったのか、誰にもわからなかった。
ナツミの振り下ろされた、命中するはずの一撃が、虚空を切り裂いた。
「空振り……?」
「まさか、ナツミ団長が、あの距離で?」
観客の騎士たちの誰もが、目を見開いたまま動けずにいた。
この場で違和感の正体に気づいたのは、俺とナツミだけだろう。
──今の一撃を、流したのか?
ナツミは驚愕に満ちた瞳で、目の前のマリナを見ていた。
ナツミの踏み込みと同時に、マリナの身体が滑った。
マリナの木刀が、まるで水面を撫でるようにナツミの剣へ触れる。
ただ、それだけで、刃の芯がわずかにずれ、ナツミの一撃は軌道を逸らされた。
再び風が舞う。
ヒュン!
一拍置いて、マリナが振るった反撃の一閃。
「……!」
『ガギンッ!!』
ナツミが咄嗟に剣を戻し、それを受ける。
「……いったい……なにが……」
ナツミの呟きに応えるように、
トン
タン
一歩、また一歩。マリナの足が地面を刻む。
観客の誰かが小さく、息を呑む音がした。
その動きは──
「剣舞……」
見間違えるはずもない。
マリナが、剣舞を、実戦で使っている。
俺が適当に振った、決まった型なんかない剣。
ただ、思うがままに、自由に、振るう剣。
その剣舞が、今、母の剣を真正面から受け流した。
マリナの息は上がり、顔は汗と血で濡れている。
それでも瞳は、冴えわたる侍のそれだった。
ナツミが再び踏み込んだ。
先ほどよりも、さらなるスピードと重さを乗せた、怒涛の連撃。
タントンタン
マリナの足が地を刻む。
一歩、半歩、そして宙へ、滑るような後退。
そして、攻撃に合わせて剣を振った。
ヒュン──『カッ』
ヒュン──『カッ』
ヒュン──『カッ』
「……!!」
木刀が触れる。それだけで、ナツミの剣筋がすべて流れた。
激しい連撃の中に、乾いた木刀の音だけが軽やかに響く。
「なんだあの動きは……!」
「ナツミ団長の剣を全て受け流している!」
騎士たちが困惑している中、俺はある日の稽古を思い出していた。
立ち合いの中で、完全に死角をついたはずの俺の一撃を、マリナは防いだ。
『一手前の俺の攻撃、どうやって防いだんだ?』
『え、えーっと、わ、わかんないです……身体が、自然に動いたっていうか……?』
言葉にできず、扱いきれなかった“なにか”。
それが今、形になっている。
相手の行動を本能で感じ取る、天性の感覚。
剣舞を通して、自分の中に咲きはじめていたものが、ついに開花した。
「……あはっ」
マリナは、笑っていた。
ナツミの攻撃を受け流しながら
初めて、剣を握った子どものように。
楽しそうに、自由に、剣を振っていた。
「……すごい」
騎士の1人がそう呟いた。
それは畏怖でも、驚愕でもなく、純粋な、賞賛だった。
まるで華やかなショーを見せているかのように、マリナは攻撃を流す。
静かな訓練場が、まるで一つの舞台のよう。その舞台で、マリナが舞っていた。
ナツミの連撃はまだ続いている。
マリナは攻撃に合わせ、一歩、二歩と、斜めへ跳ねるように身を運ぶ。
そして
マリナが踏み込んだその瞬間、攻守が入れ替わった。
タン!
「……!」
空気のリズムが、明確に切り替わる。
タン!
トン!
ヒュン──!
連撃。
今度はマリナが攻めに転じた。
繰り出された連続の斬撃は、滑らかで、淀みなく、美しい。
ナツミが一歩、後退する。
「くっ……!」
ナツミの口元がわずかに歪む。全身に力を込め、反撃の構え。
母が放つのは、これまで以上の力を乗せた渾身の一太刀──
ヒュンッ!!『……』
「……!?」
流された。
それだけじゃない。
刃と刃が、交差する、音すら、しなかった。
金属が打ち合うような音も、木がぶつかる優しい音もない。
観客の誰もが言葉を失っていた。
ナツミの視線が、我が子を見据える。
刹那、マリナの剣が、舞うように伸びた。
ナツミの構えの隙を、柔らかく、静かに穿った。
『ピシ』
一撃が、確かに届いた。




