8.メイドのクロエ~潜入調査
クロエが「アーシュライン」として館で働くようになってから、五日が経過した。メイド用の衣服を身にまとい、シーツの洗濯と廊下のモップがけを終え、厨房で銀食器を磨きながら、クロエは密かに焦っていた。
エリーゼの居場所を突き止めるどころか、領主アデル・ウィーグバルトの調査すらも進展がないからだ。
思えば当然のことだが、使用人になったからといって、得られるアデルとの接点はそう多くはない。せいぜい初日に挨拶をしたくらいだ。
館の中で調べられるところは、あらかた調べたつもりだ。人目のつかないタイミングを見計らって、棚の中を漁ったりもした。それでも、一つの手がかりも出てこない。
何かあるとしたら、やはり、館の別館――温室がある東棟なのだろう。アデルと側近のクラウス以外は立ち入りが禁じられている、黒薔薇の園。
しかし、現状では東棟を調査することは困難だった。東棟への侵入者がいないか、常にクラウスが目を光らせているからだ。
それどころか、今このときでさえ、あの男に見張られているような気がする。そう感じさせる狂気にも似た凄みが、クラウス・ジョルセフという人物にはあった。
食器を磨き終えて、ため息をついたとき、クロエはかすかに冷たい匂いを感じた。
アデル・ウィーグバルトの重く甘い薔薇の香りとは違う。氷のように研ぎ澄まされたベルガモットの香気と――ほんのわずかに混ざった、鉄の匂い。
(……これは)
クロエはあえて振り向かずに、声をかけられるのを待った。
「アーシュライン。少しいいか?」
「まあ。クラウス様。突然なので、驚きました」
クロエは驚いたふりをして振り向いた。実際、匂いを感じるくらいに近寄られるまで、まったく気配を感じなかった。
(本当に……この男は、油断できない)
警戒する内心とは裏腹に、クロエは穏やかな笑顔を見せる。信頼と尊敬を感じさせるように。この演技がどこまで通用するかはわからないが、クロエはなんとしても館での評価を上げて、アデルに近づかなくてはならない。その秘密を暴くために。そのためには、まず側近であるクラウスに取り入る必要がある。
心の中でそう決意を固めていると、クラウスが思いもよらぬことを口にする。
「今日は、きみがアデル様に紅茶を運びたまえ」
「え……?」
突然の指示。願ってもいないことだが、その真意が掴めず、クロエはつい、クラウスの顔をじっと見上げてしまう。
「紅茶の淹れ方は知っているな?」
「は、はい」
「では、時間になったらアデル様にお出ししてほしい。私は三日ほど館を留守にする。……くれぐれも、粗相のないように」
そう告げると、クラウスは棚からもっとも上質な茶器の一式を取り出し、作業台の上へと並べた。
そして、クロエの背後へと回り込むと、肩越しに長い腕を伸ばす。
「……っ」
クラウスの硬い胸板が背に触れ、ベルガモットの香りが、檻のようにクロエを包み捕らえる。わずかに視界が揺れ、緊張で喉が小さく鳴った。
「アデル様のお好みの温度は、沸騰からわずかに落ち着かせた九十度だ。……茶葉はスプーンですり切り二杯。決して間違えるな」
低く冷ややかな声が、吐息とともに耳元を撫でる。
「……はい」
「よろしい。では、ポットを持て」
クロエがポットの取っ手を握ると、その手にクラウスの骨張った手が触れ、長い指が上から包み込む。
「注ぐときの角度はこうだ。香りを逃さないように、静かに、優雅に。わかるな?」
「……はい、クラウス様」
緊張で乱れる呼吸を整えながら、震える声でクロエは答えた。
それを確認したクラウスは、重ねていた手を離して一歩引くと、静かに言葉を続ける。
「偉大なるアデル様への、直接のご奉仕の機会だ。……この館のメイドとして、完璧にこなしてみせたまえ」
「大切なお役目……このアーシュライン、しかと承りました」
両手を揃えて頭を下げるクロエに、クラウスは「では……留守の間、よろしく頼む」と、すれ違いざまに告げて去っていった。
緊張が解け、ふぅと息を吐いたクロエは、これからのことを考える。
三日間、クラウスが不在。しかも、アデル・ウィーグバルトに接触できる機会まで得ることができた。
このチャンスを逃すわけにはいかない。
動くなら、今だ。
◆
それからクロエは今後の方針を整理した。
側近のクラウスは不在。アデルとの接点ができた今なら、暗殺すら不可能ではないだろう。紅茶に毒を入れるだけでいいのだから。
だが、その選択肢はすぐに却下した。エリーゼがどこにいるかわからない状況では、まだ思い切った行動に出るわけにはいかない。仮にアデルを暗殺できたとしても、それがバレてクロエが牢に入れられてしまったら、エリーゼのことを永遠に救うことができなくなってしまう。
そもそも、アデルが本当に犯人であるという確証もない。迂闊なことをして、今の地位を失ってしまえば、すべては水の泡だ。
よって当面はアデルに気に入られて、少しでもその正体に近づく。それから、館のまだ調べられていない箇所をすみずみまで調査すること。それがクロエのやるべきことだ。
これからの三日間、できるだけ迅速に真実へとたどり着くために。
そして午後、クロエは紅茶のトレーを手に、執務室の扉をノックした。
「失礼いたします。アデル様、紅茶をお持ちしました」
落ち着いた、優雅な声が呼びかけに応える。
「入りたまえ」
クロエはもう一度「失礼いたします」と言って扉を開いた。
部屋の中には、書物のぎっしりと詰まった本棚と、上質な木で作られた執務机。思いのほかシンプルな内装だった。
机に向かって書類にペンを走らせているのは、アデル・ウィーグバルトその人だ。
「今日はきみが紅茶を運んでくれたのだね。アーシュライン」
「私の名を覚えていてくださったのですね。光栄です。アデル様」
「五日前に自己紹介をしてもらったばかりだからね。忘れはしないさ」
アデルは「それに……」と続ける。
「この館で働くきみたちは大切な家族だ。だから、ひとりひとりの名を覚えておくように、私はしているんだよ」
「……。すばらしいお考えです」
そう言いながらも、クロエは内心では冷めていた。
かつてエリーゼが連れ去られたときに感じた、重く甘い薔薇の香り。それが、この部屋に入ったときから、かすかに漂っている。
その匂いは、アデルに近づくほどに、はっきりと濃くなる。
クロエは、内に秘めた殺意をたおやかな仕草で隠しながら、手にしたカップに紅茶を注いだ。
「どうぞ。アデル様」
「ありがとう。……いい香りだ」
アデルは優雅な所作で紅茶のカップを手に取り、その香りを楽しむ。
さて。これでクロエの仕事は終わりなわけだが、アデルに近づき、その裏の顔を探るための、せっかくのチャンスだ。このままおとなしく引き下がるつもりはない。
しかし、どうやってこの場所で粘ろうか。会話を繋ぐ方法を探していると、意外にもアデルのほうから声がかかった。
「アーシュライン。きみさえよければ、少し話をしないか?」
「え……? は、はい」
「そう固くならなくていい。単なる世間話だ」
アデルはペンを置き、クロエに微笑みかける。心優しい領主の顔。町の評判通りのアデル・ウィーグバルトの顔だ。
「この紅茶は、きみが淹れたのかな」
アデルはカップを眺めながら言った。
「はい。……お味のほうは、いかがでしょうか?」
クロエの問いに、アデルはいたずらっぽく肩をすくめて答える。
「少し、ぎこちない味かな。やはりクラウスの淹れたもののほうが、質はいい」
「……申し訳ございません」
頭を下げるクロエを、アデルは手で制しながら「だけど……」と続ける。
「きみの淹れる紅茶は、優しく温かい香りがする。自分以外の誰かのことを強く、大切に想って、いつも用意していたのだろう。私は好きだ。クラウスの淹れる紅茶と同じくらいね」
「アデル様……」
「……大切な人がいるんだね」
クロエは答えに詰まる。その大切な人を奪ったのは、目の前にいるアデルその人かもしれないというのに。
その沈黙を気にすることなく、アデルは紅茶をゆっくりと一口飲んでから言葉を紡ぐ。
「アーシュラインは、何か悩みがあるのかな?」
「悩み、ですか?」
「ああ。家の者がうわさをしていてね。『器量よく、仕事もできる、目が覚めるような美人のメイドが入ってきた。しかし、ときどき暗く寂しい表情をしている』と」
意外な話を聞いて、クロエは驚いた。まさか、自分がそんなふうに見られていたとは。
クラウスにばかり警戒していたが、今後は他の使用人の目も気にしなければならない。
「それは、きみの『大切な人』が関係しているのかな?」
鋭い。クロエは自然と警戒を強めた。
まるで自分の思惑まで見通されているような気がする。――今はまだそうでなくとも、この男に目的がバレるのは時間の問題に思えた。
(……悠長にしている時間はないと考えたほうがよさそうね)
そんなクロエの心情をよそに、アデルは真摯な表情で言う。
「何か、きみのために力になれることはないか?」
「アデル様が……私に……?」
「そうだ。私にとって、きみもまた家族のようなものだからね。同じ館で、ともに暮らす家族だ。……それに、領民の不安を取り除くのは領主の役目でもある」
――なら、エリーゼを返してほしい。
喉まで出かかったその言葉をクロエは飲み込む。
なるほど、紛れもなく彼は明君なのだろう。クロエですら、危うく懐柔されそうになる。
目的を忘れてはならない。
このアデルという男は、何人もの少女をさらった悪人なのかもしれないのだから。
でも――本当にこの善良な領主が、多くの少女をさらった犯人なのだろうか。
「アデル様……私は、ただ一介のメイドでございます。私の個人的な悩みにまで、アデル様のお世話になるわけには参りません」
「そうか……では、もしもきみが誰かを頼りたくなったら、私を呼んでくれたまえ。いつでも力になろう」
「はい。お心遣い、感謝いたします……」
どうやら、幸運にもアデルに近づくことには成功したようだ。だが、調査そのものが進展したとは言いがたい。
だって、本当にアデル・ウィーグバルトがエリーゼを連れ去った亡霊なのかは、余計にわからなくなってしまったのだから。




