6.クロエとエリーゼ
アデル・ウィーグバルトからは同じ匂いがした。
甘く誘うような黒薔薇の香り。最愛の人をさらった、亡霊の匂い。
この小さな手がかりを、決して逃しはしない。
濡れ羽色の黒髪を持つ少女クロエは、かつて、義妹のエリーゼとともに隣町の小さな教会に住んでいた。たった二人で、肩を寄せ合って。
育ての親である神父が亡くなったその日から、この古い教会をクロエは守っていかなければならなかったのだ。
すべては、エリーゼの居場所を守るために。
二年前のある日、クロエは路地裏のごろつきどもと喧嘩した。原因は些細なことだった。ちょっとだけお金が絡んでいたりはするけど。
多勢に無勢の状況で、なんとか一矢報いて帰ってきたクロエは、さんざん殴られて痛む腹部をかばいながら、小教会の扉を開いた。
泥と血のにおい。こんな姿では、エリーゼは嫌がるだろうか。そう不安に思って玄関で立ち尽くしていると……。
「あ、クロエ! おかえりなさい!」
さらりとした白金髪の少女の輝くような笑顔が、クロエを出迎えた。
そして、服も体もこんなボロボロに汚れているクロエを、気にせずに抱きしめてくれる。ぎゅっと、強く。
ふわりと優しい香りに包まれる。クロエの一番好きな匂いだった。
「……ただいま。エリーゼ」
クロエもエリーゼのことを抱きしめ返し、二人は軽くキスをした。
それからエリーゼはクロエの冷え切った手を包み込んで、温かな息を吹きかけてから、丁寧に傷の手当てを始める。
「大丈夫……クロエ?」
「ええ。このくらい、なんてことないわ。あたしは強いから」
それは、強がりだった。けれど、エリーゼの前では、頼りになるお姉ちゃんでいたかったのだ。
「そうだよね。強くて、優しくて……世界で一番好き。大好き」
傷に布を巻きながら、エリーゼは小さな声で言った。
「でも、無理しないでね……わたし、クロエがいれば、それだけでいいんだから」
「うん。あたしも……エリーゼがいるなら、他に何もいらない」
そう微笑み合いながら、二人はもう一度キスをした。互いの存在を確かめ合うように――深く、深く。
食卓に並ぶのは、硬い黒パンと、具材のほとんどない薄い塩スープ。質素とも呼べないような貧乏な食事だが、それでもエリーゼは満面の笑みでパンを頬張る。
「クロエといっしょに食べるご飯は、世界で一番おいしいね」
その優しい笑顔に、どれだけ救われているだろうか。
エリーゼがいるだけで、クロエの世界は満たされた。
愛しい義理の妹を守るためなら、たとえ泥水をすすって生きたっていい。
そう決意を新たにしたクロエは、食事を終え、濡らした布で体を拭いてから、ベッドに横になった。
もちろん、エリーゼもクロエと同じベッドに入る。
毎晩、二人はこうして肩を寄せ合って眠るのだ。
「えへへ。大好きだよ、クロエ」
はにかんだ笑みを浮かべるエリーゼに、クロエも頬が熱くなる。
「うん。あたしも……好き……」
照れながら、祈るように交わした言葉。互いの手を握って、指を絡めて。
翌日の夕方、クロエが出かける準備をしているとき、手のひらサイズの小さなロザリオをボロ布で懸命に磨いているエリーゼの、その健気な姿に視線を奪われた。
「エリーゼ、それ……神父様にもらったお守り?」
「うん! 大切なものだから、綺麗にしておかないと」
磨き終わった小さなロザリオを、エリーゼはぎゅっと握りしめた。
「主よ……どうか、わたしたちをお守りください」
祈りを捧げる。太陽みたいな笑顔は影を潜め、清廉な少女の姿。眺めているだけで胸を打たれ、涙が出そうになる。
(綺麗……)
どんなことをしてでも守りたい。たった一人の大切な家族。失いたくない。そんなふうに、クロエも小さく願った。
祈りを終えたエリーゼは、古びた修道服の内ポケットにロザリオをしまった。誰にも見つからないような場所に。
それを見守ってから、クロエは背を向けて、玄関へと向かった。
「それじゃあ、行ってくるね。エリーゼ」
「今日も大切なお仕事なんだよね?」
「……うん」
「いつもありがとう、クロエ。行ってらっしゃい!」
明るく優しい、天使のような笑み。
それは、エリーゼがクロエに見せた、最後の笑顔だった。
クロエが用事を済ませて戻ってくると、教会の明かりは消え、窓が開いていた。夜の風に、ボロボロのカーテンがなびく。
異質な匂い。嫌な予感がした。
「エリーゼ!」
焦燥のままに、クロエは教会の扉を開けて寝室へと向かう。
そこに、エリーゼはいなかった。
かすかに漂う、まるで薔薇のような重く甘い香り。それを追うように、クロエは窓から身を乗り出した。
そこには――亡霊がいた。
仮面を身につけた黒づくめの長身の人物が、気を失ったエリーゼを抱きながら、ちらりとこちらを見る。
「……っ、待ちなさい!!」
クロエが窓から飛び降りるよりも早く、亡霊のような人物は夜の闇の中へと消えていった。
亡霊とエリーゼを見失ったクロエは、愕然としながらその場から走り出した。
それから町中を探し回ったが、エリーゼは見つからなかった。三日三晩、食事もせずに探し回っても。いくら呼びかけても、まるでエリーゼという少女がもとからいなかったかのように、手がかりすらもつかめなかった。
――その時から。
クロエは、ただエリーゼを見つけ出すためだけに生きてきた。同じような被害者のもとを回り、情報網を作り出して。
そのためなら、後ろ暗い仕事もこなした。
そして、今、ようやくクロエは手がかりを見つけた。
黒く、異質な薔薇の香り。あの日の亡霊と同じ重く甘い匂いを、領主アデル・ウィーグバルトから感じた。
昔から嗅覚が人一倍強かったクロエだからこそ、たどり着けた手がかりだ。
だからといって、アデル・ウィーグバルトが亡霊であるという線が薄いのは、わかっている。
それでも――調べてみる価値は、ある。




