5.機械仕掛けの鼓動
時は現在に戻り、ウィーグバルトの館の東棟にある寝室。シェリーが窓に反射する朝の日差しを眺めていると、扉をノックする音が聞こえ、穏やかな表情のアデルが部屋へと入ってきた。
「おはよう、シェリー。調子はどうだい? もし何か気になることがあれば、遠慮なく言ってくれ」
「おはようございます。何も問題はありません。アデル様」
何よりだと、アデルは優しく微笑む。
その表情を見るだけで、シェリーは心がほんのりと温かくなるのを感じた。
「シェリー。僕は今日を休日にしようと思う」
休日ということは、今日はアデルとずっといっしょにいられる。そんな期待に小さな胸を膨らませながら、彼に尋ねる。
「お仕事のほうは、大丈夫なのですか?」
「ああ。今日は予定もないし、溜まっていた執務も昨日のうちにかたがついた」
「さすがでございます。アデル様」
シェリーも不器用に微笑む。人形の体は、表情を動かすのが苦手だった。
「だから……今日はずっと、きみといっしょにいられる」
「……はい」
優しく抱きしめられたシェリーは、彼の胸に頬を当てて、そっと目を閉じる。
とくん、とくんと音が聞こえる。今のシェリーにはない、心臓の鼓動が。
「何か望みはないか? きみのためならば、僕はなんでもしようと思う」
「ありがとうございます。……では……」
シェリーはおずおずと申し出る。
ずっと胸の中にあった、小さな望みを。
「外に出て……街を見てみたいのです。アデル様が領主として治める、この街を。ただの一度で構いません。どうか……お願いします」
シェリーの言葉に、アデルは驚いたような顔をして、少しだけ困ったように笑ってから、うなずいた。
その、どの表情も愛おしかった。
「わかった。今日はいっしょに街に出ようか。……ただし、しっかりと変装はして、ね」
心なしか、彼の声も弾んでいるように思えた。
◆
二人は、さっそく外出の準備を始めた。
立ち入りが禁じられているこの東棟では、メイドの代わりにアデルがシェリーの着付けを手伝う。
外出するための衣装は、なかなかの重装備になった。
ハイネックの長袖ドレス。首から胸元を飾るのは、幾重にもレースが重なるおしゃれなジャボ。肘まである長手袋と、膝までの編み上げブーツ。腿を隠すタイツ。
そして人形特有の作り物めいた顔を覆うのは、つば広の帽子と、黒いチュールヴェール。
少し息苦しい格好だが、人形であることを隠さないといけないから仕方ない。
それにシェリーにとっては久しぶりの――この体になってからは初めての外出であり、窮屈さより楽しみのほうが勝った。
アデルは優しい仕草でシェリーの着付けを手伝い、最後にヴェールの位置をそっと整えると、満足げに微笑んだ。
「では、行こうか……シェリー」
「はい。アデル様」
アデルが差し出した手を、シェリーはおずおずと握りしめる。
人形の冷たい手を、彼の温かな体温が包んだ。
◆
浮かれているのが、自分でもわかった。
シェリーはアデルの手を取って街を歩く。久しぶりの喧騒。人混みのにおい。美しい街並み。優しく導いてくれる、彼の手。
「シェリー、どこか行きたい場所はあるか?」
行きたい場所――。シェリーは悩んだ。街に出たいと言ったのは思いつきだったので、それ以上は何も考えていなかった。
「とりあえず……気の向くままに、歩いてみたいです」
あなたといっしょに。
そう答えると、アデルはうなずいた。
「そうか……では、街を見て回るとしよう。はぐれないように、気をつけて」
「はい。アデル様」
歩いていると、多くの人々がアデルに声をかけて、手を振っていた。彼はそれに優雅に応えていく。
「アデル様、いつもありがとうございます!」
「おや、これはウィーグバルト様。いい葡萄が入ったんで、ひとつ食べていきませんか?」
「ところでアデル様、そちらの綺麗なお嬢さんは……?」
アデルは多くの人に慕われていた。
それがシェリーにはうれしかった。
やがて、街の広場にたどり着くと、そこに木製の掲示板を見つけて、シェリーの視線が止まった。
「これは……」
掲示板の、きらびやかな観劇のポスターの横に、人探しの紙が。行方不明の少女の似顔絵が、何枚も何枚も、新しい紙が古い紙に重なるように貼られていた。
「シェリー」
アデルに声をかけられたのに驚いて、シェリーの肩がびくんと震えた。
「……その観劇が見たいのかい? それなら、これからいっしょに――」
「い、いえ。少し、気になっただけです」
「そうか。べつに遠慮などしなくて、いいのだけどな」
広場から歩き去るとき、アデルが一瞬だけ掲示板のほうへと視線を向けた。その紅く鋭い瞳が、やけに脳裏に焼き付いていた。
◆
少しだけ気になることもあったけど、それでもしあわせな時間が続く。
「どうだい。シェリー。久しぶりの街は」
「とても楽しいです」
アデルの問いに、はにかみながらシェリーは答えた。
「きっと、あなたといっしょだから」
「そうか……僕もだ」
その瞳を見つめ合いながら、二人は互いの指を絡める。
「わたくしには心臓の鼓動はありません。……ですが……それでも、胸が高鳴るのを感じます」
すると、彼は微笑みながら、前方にある洒落た雰囲気の店を指し示す。
「少しあそこに寄っていこう。いいかい、シェリー?」
そうして店の中に入ると、そこは老紳士が営む時計屋だった。優しい木の匂いが漂い、いくつもの秒針が、チク、タク、チク、タクと規則正しくリズムを刻む。
「わあ……素敵なお店ですね」
シェリーは感嘆の声を漏らした。
棚に並ぶ、繊細な装飾を施された時計たち。温かく不思議な魅力に満ちたそれらは、まるで生きているようにすら感じる。
中でもシェリーは、ひとつの懐中時計に、とくに目を奪われていた。
美しい薔薇の彫金が施された、黒と銀の懐中時計。
「それが気になるのか?」
「え、えっと……」
シェリーが言葉を詰まらせていると、彼はまた微笑みながら言った。
「店主。こちらを売ってくれないか?」
そうして会計を済ませると、アデルはうやうやしく膝をついて、懐中時計の鎖をシェリーの首にかけた。
「今日の記念に……大好きなきみへの、僕からの贈り物だ」
カチ、カチ、と胸元で音を立てる懐中時計。それがあまりにも尊くて、シェリーは一度ぎゅっと握りしめた。
「ありがとうございます。……アデル様」
それからシェリーは、いたずらっぽく微笑んでみせた。
「まるで、わたくしにも本物の心臓の鼓動が鳴っているようです」
彼から贈られたこの懐中時計は、きっとシェリーにとって永遠の宝物になるだろう。
そう、心から思いながら、シェリーは瞳を閉じて、秒針に耳を澄ませた。
◆
ゆったりと街の散歩を続けて、午後になった。
アデルとシェリーは喫茶店へと立ち寄った。
席に座り、香りのいい紅茶を楽しみながら一息つく。
「アデル様は、何か食べ物を召し上がらないのですか?」
「いや、必要ないよ。僕は今、とても満たされているからね」
固形物を口にできないシェリーに気を遣っているのだろうか。だとしたら、申し訳ない気持ちになるけど――同時に、そんな彼の優しさがうれしかった。
ふと、窓の外を眺める。向かいの家の扉には、不思議な飾り付けがしてあった。目を凝らすと、それは縦に並べるように複数のニンニクを吊るし、黒いリボンで装飾されたものだとわかる。
そういえば、この店の扉にも、同じようなものが飾ってあった。さっき通りかかった果物屋にも。
「あれは、流行っているのでしょうか? 可愛らしい風習ですね」
アデルは小さく肩をすくめた。
「……そうだね」
なんだか微妙な反応だった。彼の好みではなかったのだろうか。
シェリーが紅茶を飲みながら、彼のことを上目遣いに見つめていると、ささやくように世間話をする客の声が耳に入る。
「ねぇ、昨夜また隣町で若い娘がいなくなったそうよ。これって、やっぱり――」
「しっ。滅多なことを言うもんじゃねぇ。ファントムなんて、おとぎ話さ。それに、きっとアデル様が事件を解決してくれるはずだ」
シェリーは先ほどの広場の掲示板にあった人探しの張り紙の山を思い出した。やはり、この街では何か事件が起きているのだろうか。
でも、彼らの言うとおり、この街の領主であるアデルがきっと解決してくれる。そう皆に信じられ、慕われていることが、シェリーにとって誇らしかった。
◆
喫茶店から館へと帰還する道すがら。アデルとシェリーは、しあわせなこの時間が終わることを惜しむように、ゆっくりと歩を進めていた。
「シェリー。今日は楽しめたか?」
振り向いて微笑みかけるアデルに、シェリーも心から答える。
「はい。とても――」
そのとき、前方から少女がふらふらと歩いてくるのが見えた。濡れ羽色の長い黒髪、死人のような生気のない瞳。それに気を取られ、反応が遅れてしまう。
「――アデル様」
声をかけるも間に合わず、黒髪の少女がアデルの背にぶつかった。
「おっと。お気をつけて、お嬢さん」
アデルに支えられた少女は「あ、すみません」と視線を上げた直後、顔色を変え、虚ろだったその瞳に生気の輝きが戻った。
「……え。ウィーグバルト、様……?」
「大丈夫かい? ぼんやりとしていたら、危ないよ」
アデルは黒髪の少女に優雅に手を振ると、また歩き始めた。
その背に続くシェリーだが、ふと視線を感じて背後を振り返る。
すると、濡れ羽色の黒髪の少女は、立ち尽くしながらこちらを――アデルのことを睨みつけていた。
燃えるような、憎悪の瞳で。
シェリーの背筋に冷たいものが走った。
「どうしたんだい、シェリー?」
「いえ……その……」
シェリーがもう一度振り向くと、いつの間にかその少女は姿を消していた。




