4.罪の始まり
近くの村に戻ったアデルは、日の暮れた暗い路地を歩きながら、心を迷わせていた。
「僕は……どうすればいい」
どんなことをしてでも、シェリーを取り戻すと誓った。覚悟もしてきた。
だが、そのために罪のない人間をこの手にかけるのか――?
そうしてふらふらとアデルが人気のない路地を歩いていると、道の端で物乞いをする浮浪者が目に入った。
老い先短い、不幸な老人。彼の命とシェリーの命、どちらがより重いのか。考えるほどに、アデルの中の黒い狂気がちらつき始める。
だが。
『ダメだよ』
二人の幼い悪魔が、思考の袋小路に入り始めたアデルを止める。
「そんな枯れ果てた人間の命じゃあ、シェリーの魂とは釣り合わないよ」「あたしたちは、アナタの心が闇に堕ちていくのが見たいの」
そう言いながら、双子悪魔が指し示したのは、まだ幼さの残る一人の少女だった。暗い路地を、不安げに歩く。その無垢な姿がどうしても、シェリーと重なった。
「あの少女が狙い目よ」
悪魔が耳元でささやく。
あれを、この手にかけるのか? 愛する者を取り戻すために、それほどの罪を――。
狂いそうなほどの葛藤の果てに、アデルは声を絞り出した。
「私には、できない……!」
逃げるように、その場から立ち去るアデル。
それを見ながら、悪魔たちは語り合う。
「あーあ。見込み違いだったかなァ?」「そんなことないわ。彼はきっと、その手を汚すの」
「愛のために?」「しあわせのために」
◆
走るうちに、アデルは森の中へと戻っていた。もう少し進めば、また禁域へと踏み入ることになるだろう。
少女の悪魔が言う。
「愛しのシェリーに、会いたいんじゃないかしら?」
少年の悪魔が言う。
「シェリーともう一度会いたい……その小さな肩を、抱きしめてあげたいんじゃないの?」
双子に煽られるたび、アデルは胸をかきむしりたくなる。
どうすればいい。シェリーと二度と会えないのであれば、もはや生きている意味などない。
そのとき、正面からすれ違う形で、一人の若い男が通りかかった。
修道服を着た旅の神父。彼はアデルを見るや、水袋を片手に近づいてきた。
「どういたしましたか? ……道に迷われたのでしょうか?」
迷ったというのは、比喩も含まれているのかもしれない。若い神父はアデルに水を差し出す。
「どうぞ、お飲みください。きっと、少し気持ちもすっきりとしますよ」
よほど顔色が悪かったのだろうか。アデルは戸惑いながら、それを受け取った。
「……感謝する」
「……。よければ、近くの村までいっしょに行きませんか? 私でよければ、お話を聞きますよ」
荷物を背負い直して、歩き出す若い神父。その無防備な背中を、アデルが呆然と眺めていると。
『彼を殺すんだ』
悪魔が、ささやきかけてくる。
旅の神父は気づく様子もない。双子悪魔の姿も、声も、どうやら彼には認識できないらしい。
「何を……言う」
かすれた声で、アデルは反論する。
すると、悪魔たちはくすくすと笑った。
「シェリーに会いたいのでしょ?」「アナタの愛は、その程度なの?」「今なら誰も見ていない……バレることはないよ」
「……うるさい!!」
その声に、神父が驚いて振り向く。
「どうしました?」
「……いや。驚かせてすまない。なんでもないんだ……」
「そうでございますか……」
心配そうな若い神父の表情。その背後に、かつてのシェリーの姿が重なる。
少年の悪魔が語りかける。
「見ず知らずの彼と、大好きなシェリーの命……キミにとって、どちらが重いんだい?」
少女の悪魔が語りかける。
「愛のためなら、その手を汚す覚悟だってあるんでしょう?」
吐き気がするほどの迷いと葛藤に、正気が押し潰されていく。
シェリー、もう一度、きみに会いたい。
やがて、その苦痛の中から逃れるように、狂気が心を蝕んでいく。
「ほら、今なら罪に問われないわ」「シェリーの命を、取り戻すため」
ゆらりと顔を上げたアデルの真紅の瞳が、若い神父の背中を見据える。そして、剣を抜いたアデルの表情には、いかなる感情も見られなかった。
◆
そうして、アデルは罪なき神父を殺害し、その心臓を供物に悪魔たちから秘術を授かった。
紅い潤滑油――生命のワインともいうべきそれを材料に使い、強く対象を思い浮かべることで、人形に死者の魂を宿すことができるという。
館へと戻ったアデルは、さっそく家に保管されていた古い人形に秘術を行使した。
有り合わせの体だが、もはや、いっときも待つことができなかった。
儀式の材料を揃え、贄として紅い潤滑油を注ぎ込む。
無骨なフラスコに入った、若き神父の命から生まれた供物を。
すると――その人形が、かすかに動いた。
そして一言だけ、言葉を発した。
「……アデル……様……」
枯れたような声だった。それでもアデルには、直感で、本能でわかった。これは――。
「シェリー!」
アデルは呼びかけたが、それ以上の反応はなかった。
古い人形は、力なく横たわっている。
どういう、ことだ。
混乱していると、背後で双子悪魔がささやく。
「どうやら、彼女の魂の形に潤滑油が合わなかったみたいだね」「もっとシェリーに近い人の命を素材にすれば、秘術の成功に近づくよ」
シェリーに近い存在。それはつまり、若く美しい罪なき少女をこの手にかけるというもの。
激しい痛みと葛藤の中で生まれる、暗い決意と狂気が、アデルの心の空白を満たしていった。




