2.黒薔薇の園と少女の過去
ウィーグバルトの館には、立ち入りを禁じられた区画がある。シェリーのいる寝室がある東棟と、その南側に直結した黒薔薇の温室だ。
それらの区画に入ることが許されているのは、アデルとシェリー、それに執事であるクラウスだけだった。
晴れた日の午後。シェリーとアデルは、黒薔薇の温室でティータイムを楽しんでいた。二人で、優雅に。クラウスは紅茶と少量の菓子をテーブルに並べた後は、気を利かせて席を外していた。
ガラスの天井から差し込む、心地良い陽光。おいしい紅茶。人形であるシェリーは固形物を食べることができず、甘い焼き菓子は楽しめないが、幸いにも飲み物なら味わうことができた。それは、一度死んだこの身には、幸運すぎるほど。
逆にシェリーが行動を許されているのは、使用人たちの立ち入りが禁止されている東棟と、この黒薔薇の温室だけだった。動く人形であるシェリーの姿を目にしたら、使用人たちが驚いてしまうからだという。
それでも、不自由はない。もともと活動的な性格ではないシェリーにとって、アデルとともにいられる時間があれば十分だった。
自らの腕を見る。球体関節のついた、冷たい肌。たしかに、何も知らない人が見たら、不気味に映るかもしれない。
「アデル様。わたくしがこうして人形の体を借りて生きていられるのは、魔術によるものなのですよね?」
「ああ。……禁忌の秘術だ」
「…………」
「やはり、きみは軽蔑するかな……聖なる法を犯した僕のことを」
「いいえ……そうして禁忌に触れてまで、わたくしに新たな生命を授けてくださり……また、あなたとの時間を過ごすことができるようになりました。シェリーは、とてもうれしく思います」
「そうか……よかった」
アデルは少し影のある笑みを浮かべる。
その表情から、シェリーはどうしても悟ってしまう。自分は赦されざる存在なのだと。
開かれた温室の天窓から、一羽の小鳥が迷い込んでくる。
可愛らしく鳴くその姿に、シェリーはそっと手を伸ばすが、その瞬間に小鳥は飛び去ってしまう。球体関節のきしむ音に驚いたのか、あるいは命がない冷たさや不自然さを感じ取ったからだろうか。生前のシェリーは、小鳥のほうから近寄ってくれていたのに。
少しの寂しさにシェリーがうつむいていると、アデルが目の前に歩み寄り、頬に触れた。
「大丈夫だ。僕はずっと、きみのそばにいるから」
「……はい」
わたくしがいて、あなたがいる……。
それだけで、いい。十分なはず。
なのに、シェリーの心の小さな痛みは、ずっと消えなかった。
◆
また、夜になった。
アデルは帰りが遅くなるため、今日は一人だ。
生きている――そのことが、シェリーはいまだに信じられなかった。
あの日、たしかに、わたくしは死んだはずなのに。
あるいは、こうして人形の体で新たな生を謳歌している今この時こそが、泡沫の夢なのだろうか。
そんなことを思いながら、シェリーは眠りについた。
そして、夢を見た。
遠い日の、だけどシェリーにとってはまだ新しい記憶。
最初は、シェリーがこの館に来たときの夢だった。
母はシェリーが産まれたときに亡くなった。そして貿易商だった父も、信頼していた人に裏切られて、多額の借金を背負った上で、病に倒れた。
そうしてフィンディル家はあっけなく没落し、孤児となったシェリーは、親戚の家をたらい回しにされた。借金を抱え、フィンディル家の負の遺産であるシェリーを引き取ることを、親戚たちは嫌がったのだ。
不良品。厄介者。そんな言葉がシェリーの心を冷たく刺す。拒絶されるたびに、自分には価値がないのだと思い知らされる。
そんな悪夢のような日々の果てに、彼と出会った。
アデル。ウィーグバルト家の若き御曹司。
身も心もボロボロになって、最後には孤児院に預けられようとしていたところに、彼は現れた。手を差し伸べてくれた。
優雅で堂々とした立ち居振る舞い。シェリーの親戚たちを一瞥のもとに黙らせ、大人たちにも物怖じせずに意見する姿。
シェリーがウィーグバルト家に引き取られることになったのは、彼の手回しによるものだった。
シェリーにとって彼は、眩しいほどの光だった。
「きみの苦悩と悲しみは、僕には想像することもできない。だけど、それでも……きみは、このウィーグバルトの家で、胸を張って生きてほしい。そのためなら、僕は努力を惜しまないつもりだ」
不安に震えていたシェリーに、彼がくれた言葉は、今も心の中で輝いている。
時は流れて――。記憶をたどるような夢は、あの日へと続く。
アデルとシェリーはすぐに打ち解け、やがて互いに恋心を抱くようになった。
大好きな人と笑い合う。シェリーにとってしあわせな日々が続き、数年の時が経った。
アデルとその両親は、シェリーを含む少数の従者を連れて、王都から帰還するために馬車を走らせていた。
「シェリー。初めての王都の夜会は、どうだったかな?」
アデルの言葉に、シェリーはうっとりと答える。
「はい。とても素敵な時間でした……。あの、アデル様……わたくしは、上手く踊ることができたでしょうか?」
「ああ! きみは、あの婦人たちの中で、一番魅力的だった」
それを聞いて、シェリーはまた頬を染める。
アデルはその様子を、微笑みながら見つめている。恥ずかしい、けど、幸福だった。彼といると、毎日が輝いていた。
そうして夢心地でいると、直後、けたたましい銃声が鳴り響いた。
しあわせな夢が一転する。
喧騒、硝煙、土のにおい――。
かつてまだ見習い従者だった青年のクラウスに連れられ、アデルとシェリーは森の中を駆けていた。
馬車は野盗に襲われ、その地獄のような戦場に、アデルの両親を残したままで。
背後から無数の銃声と剣戟の音。家族のことを案じながらも、三人は振り向かずに冷たい泥の上を走る。
だが、不運にもアデルが木の根に足を取られて転倒してしまう。
「クラウス! 僕に構わず、シェリーを連れて逃げるんだ!」
動きの止まったアデルを狙う、野盗の銃口。
自然と体が動いていた。とっさにシェリーは倒れたアデルに覆いかぶさる。
「シェリー!?」
とどろく一発の銃声。
鮮血が花のように散り、シェリーは意識が遠のいていくのを感じた。
「シェリー! シェリー!」
クラウスが短銃で追っ手を仕留めるかたわら、絶望の表情でアデルがシェリーの名を呼ぶ。まるで世界の終わりのように。
「主よ……お願いだ。シェリーだけは、シェリーだけは連れて行かないでくれ……!!」
ああ。アデル様……そんな顔を、しないでください。
涙を流す目元に触れたかったけど、手が重くて動かなかった。
大切な人を悲しませてしまったことが、どうしようもなく悲しかった。




