1. 夜想曲〜ファントムの夜
カーテンの隙間から差し込む月明かりと、揺らめく蝋燭のわずかな灯火が、二人を照らす。
グラナード領を統べるウィーグバルト伯爵邸。その最奥にある寝室には、ほのかに薔薇の香りが甘く漂う。
家具はどれも上質なもの。その中でもとくに豪奢な、レースをあしらったベッドの脇に腰掛けているのは、淡いグラデーションを持つ金糸の髪の、華奢でかわいらしい少女の人形だった。
虚空を見つめる瞳。その人形の動くはずのない唇が動き、言葉を紡ぐ。
「アデル様……」
人形の頭が動き、その視線は背後にいる男に向けられる。
「なんだね。シェリー?」
人形の少女の呼びかけに、優しく応える男。ささやくようでありながら、静寂の闇によく通る、心地よい声音。
横顔からもわかる、整った顔立ち。紅の眼光をたずさえたその男は、息を呑むほどの美形であり、淡く照らされたアッシュブロンドの髪は、ガラス細工のように鋭利で繊細だった。
彼こそがこの館の主、アデル・ウィーグバルト。
背後からそっと抱きしめる彼の腕に、人形の少女は球体関節のついた細い指を絡める。
「こうして……また、あなたとお話ができるなんて……まるで、夢のようです」
人形の少女の、細く儚げな声。その言葉を聞いたアデルが、かすかに微笑みを浮かべる。
「僕もだ。……きみの声を聞いて、きみの体に触れることができる。これほどしあわせなことは、他にないよ」
すると、人形の少女――シェリー・フィンディルは戸惑うように、わずかに顔を伏せた。
「これは……この人形の体は、わたくしのものではありません」
「それでも……その魂はきみのものだ」
伏せたシェリーの顔を、アデルが肩越しに覗き込む。
普段は強い意志をたずさえているはずの彼の瞳が、今はわずかに、不安げに揺れていた。
「やはり……その体では、不安だったか?」
少女の人形は、かぶりを振った。硬い関節がきしむ音がする。
「そんなことは、ありません。……アデル様が、わたくしを想って作ってくださったのですから。不満など……」
「では……」
「わたくしは……戸惑って、いるのだと思います」
あの日、野盗の刃に貫かれた瞬間、シェリーは死を覚悟していた。
それでも、彼を守ることができれば、それでいいと。アデルともう二度と会えないことだけが、唯一の心残りではあったけど。
なのに――今、こうしてまた彼の声を聞いている。香りを感じている。それどころか、こうして触れ合ってさえいる。
それが不思議で――奇跡のようで、まだ信じられなかった。
「それとも、わたくしは……いまわの夢を見ているだけなのでしょうか」
シェリーは自らの小さな胸に手を添えた。鳴らない心臓の鼓動。決して流すことのできない涙。
「……夢ではないさ」
正面に回り込んだアデルは、片膝をつき、そっとシェリーの頬に触れる。
冷たく硬い、人形の体。
「夢などであるものか……きみはたしかに、ここにいる」
それから、彼は机の上に置かれていた一杯のグラスを手に取った。豪奢なクリスタル・グラスにそそがれた、血のように紅い、紅い液体。
それは酔いそうなほど重く甘い香りがした。
「これは、『紅い潤滑油』……きみの魂を、人形の体に定着させるために、必要なもの。『生命のワイン』とも呼ばれているんだ」
アデルはそのグラスを、うやうやしくシェリーに手渡す。
「生命の……ワイン……」
「さあ、飲んで。そうすれば、僕たちはもっと長くいっしょにいられる」
シェリーは「はい」とうなずいて、クリスタル・グラスに口をつけた。
慣れない体で、少しずつ飲み干していく。
ああ、なんて――なんて甘美な味。本当に酔ってしまいそうなほど……。
シェリーはまどろむように、窓の外に視線を向けた。
降り注ぐ月光が、二人を照らす。
夜が更けていく――。
愛とは、狂気に最も近い感情だ。
闇の中に人影がひとつ。夜風になびく黒い装束。素顔を隠す仮面をまとったその男は、亡霊とでも呼ぶべきか。
街の中。男の視線の先には、酒場の看板娘と称される美しい少女がひとり。給仕の仕事を終えて歩く彼女が、人気のない路地に差し掛かったとき、男は影の中で指を鳴らした。
「ずいぶんと遅くなっちゃったわ。きっとお母さんが心配している……あら?」
何かに気づいた少女が周囲を見回す。
ほのかに漂う、甘く退廃的な薔薇の香り。
それを感じ取るや否や、たちまち少女の瞳は虚ろになり、ランタンの灯りも届かない路地裏の闇の中へと、おぼつかない足取りで歩き始めた。
その闇の中で待ち構えていた亡霊のような仮面の男は、背後から少女の口をハンカチで塞いだ。
悲鳴を上げる間もなく、ハンカチに付着した特殊な薬のちからにより、少女は眠ってしまう。
仮面の男は動かなくなった少女を抱え、闇の奥へと歩くと、もう一人の男が姿を現す。
無造作に伸ばした、艶のない漆黒の髪。目元には濃いクマのある若い男。彼は仮面の男の従者だった。
「クラウス、この娘を頼む」
主人である仮面の男に命じられると、クラウスと呼ばれた従者は天を仰ぎ、絶頂しそうなほどの喜びを見せながら「かしこまりました」と応える。
そして、クラウスの用意していた馬車に少女を乗せると、亡霊のような男は仮面を外した。
整った顔立ちに、ガラス細工のように繊細なアッシュブロンドの髪。
「今宵もお見事でございました。アデル様」
従者クラウスの言葉にうなずいたアデルは、少女の左胸に手を当て、恍惚とした表情でつぶやく。
「すばらしい……とても上質で、純然たる生命の鼓動だ。きっと極上のワインを抽出できるだろう。……待っていてくれ、シェリー。すぐにきみの渇きを満たしてあげるから……」
貴族の男と人形少女が織りなす円舞曲、開演です。




