11. 不可侵への潜入
深夜を過ぎた時間帯に、クロエはきしむベッドから身を起こした。館の壁に掛かった小洒落た時計が示す刻は四時前。窓の外は一面の闇。もはや一刻も待てなかった。今すぐにでもアデル・ウィーグバルトの犯行を突き止める。
そして、もし彼がエリーゼを手にかけていたのだとしたら――この手で裁きを下す。
クロエは寝間着を脱ぎ、メイド用の制服に着替える。華奢な体を薄いレースのコルセットで締め、純白のエプロンを結び、濡れ羽色の髪にホワイトブリムを飾る。
ポケットにはピッキングツールを。そして、長いスカートの中、しなやかな脚部の付け根には、革の鞘に入った短剣――刃に毒が塗られた一振りを忍ばせた。
(……もう、引き返せない。……引き返すつもりもない)
クロエは部屋の扉を開けて廊下へと出ると、ゆっくりと深呼吸をした。胸とお腹に、深夜の冷たい空気を取り込む。燃え立つような殺意を内に収め、目の前の状況に意識を集中させる。
目指すのは館の東棟。
階段を降りて廊下を進んでいくと、前方からすれ違う人の気配を感じた。
クロエはあえてランプの灯りをつけ、優雅な所作で歩き続ける。
「はふぅ……」
同僚の若いメイドが寝間着のままで、あくびをしながら歩いてくる。
「はれ? アーシュライン?」
「おはようございます」
「おはよう……? どうしたの、こんな夜更けに? あ、わたしはちょっとお花を摘みに……」
当然のその問いに、クロエは滞りなく答える。微笑みという仮面で本心を隠し、たおやかに。
「ジョルセフ様に、お仕事を仰せつかりました」
「クラウス様に? こんな時間から大変だね。あ、もしかしてそれって!」
「はい。東棟の清掃と、暖炉の管理を任されています」
もちろん、嘘だ。すぐにバレる嘘。時間稼ぎにしかならないだろう。
だけど、これでいい。保身に走って長引かせることはしない。
たとえ疑われたとしても。今、この瞬間、確実に東棟へと潜入できれば、それだけで十分だ。
「そっか……責任重大だ」
「はい。しっかりとお役目を果たして参ります」
「うん。がんばってね。アーシュライン」
もう一度あくびをして、目をこすりながら去っていく同僚を慎重に見送ってから、クロエは音もなく東棟へと向かった。
◆
ウィーグバルト家の館。その歴代当主の肖像画が並ぶ廊下を抜けていく。
まるで絵画たちがこちらを監視しているような錯覚に陥ったクロエは、軽く頭を振って、そのくだらない妄想を思考から振り払う。
廊下の果て。ひときわ若いアデル・ウィーグバルトの肖像画をクロエは睨みつけて、東棟に続く連絡通路の扉をピッキングにより開いた。わずかな隙間風が体を冷やし、手がかじかんで、思ったよりも作業は難航した。
連絡通路を進み、東棟へと近づくごとに、かすかに薔薇の香りが漂ってくる。
ここで仕事をするようになってから知ったことだが、どうやら東棟に面した場所に温室があり、特別な黒薔薇を栽培しているらしい。この重く甘い香りの正体は、おそらくそれだろう。
二つ目の扉。厳重に鍵がかけられている。どうやら通常よりも複雑な構造のようだ。クロエは三本のピッキングツールを取り出し、二本を左右の手に、一本を口にくわえながら、そのすべてを駆使して執念で解錠した。
二日間ほとんど寝ていないにもかかわらず、クロエはいつになく集中力を発揮していた。当然だ。エリーゼを奪った相手の、核心へと近づこうとしているのだから。
(アデル・ウィーグバルト……その化けの皮、絶対に剥いでみせるわ)
クロエは禁じられた東棟の扉を開けた。
中は静まり返っていた。まるで、この空間だけ時が止まっているかのように。
漂う黒薔薇の香りは、クロエじゃなくても感じることができるだろう。その香気の中に、かすかに混ざるのは――。
(……血のにおい)
巧妙に隠されている、血の臭気。嗅覚に優れたクロエでなければ気付かなかっただろう。
この東棟は、血塗られている――。
そんな予感を抱きながら、しんと静かな広間を歩き抜ける。慎重に。怖れを憎しみで飲み込みながら。
やがて正面に、上階へと続く階段が見えた。T字を描くように廊下は左右にも続いていて、右の奥には扉、左の奥には地下への階段がある。
右の扉からは書物とインクの匂いがした。書庫か書斎か、重要な手がかりがあるかもしれない。それに、地下も怪しい。
だが、クロエはあえて上階へと進むことにした。
直感だった。上への階段は、わずかに薔薇の香気が濃くなっていて、そちらに何かがある気がしたのだ。
クロエはその感覚を信じて階段を上る。甘い香りの中。まるで天界へと導かれているような錯覚に陥る。
そして、二階の廊下を歩き始めたとき、人の気配を感じた。
いや、気配どころの話ではない。人の声だ。何者かが会話をしている。
「……痛くは……いかい?」
静寂を縫うように聞こえてくるのは、ひどく甘く、優しい声。
「ああ。今日も……当に、美しいよ……」
まるで、壊れ物を扱うかのように、愛をささやくその声は。
(アデル・ウィーグバルト……)
まだ日も出ていない時間に、いったい何をしているのか。
まさか、そこにさらわれた少女がいるのだろうか。もしかしたら、エリーゼも――。
クロエは混乱しながらも、朧げな希望に吸い寄せられるように、わずかに灯りの漏れる扉へと近づき、聞き耳を立てる。
「さあ、これを飲んで……」
どうする。この扉の向こうでは、領主様と秘密の愛人が、夜伽をしているだけかもしれない。だが、クロエの推理通り、本当に彼が亡霊だとしたら。罪のない少女が――あるいはエリーゼが、あの男の魔の手にかかっていることになる。
先ほどの会話。そして、扉の向こうから感じる、甘く重い血にも似た匂い。もし、さらわれた少女が、あるいはエリーゼが傷つけられているのだとしたら。
とてもではないが冷静ではいられなかった。
クロエは扉をわずかに開き、中を覗き込む。スカートを上げ、毒の短剣をいつでも抜けるようにして。
しかし、そこで見たのは、予想の外にある光景だった。
豪奢な寝室。その奥、領主アデル・ウィーグバルトが愛おしげな瞳で見つめ、髪を撫でていたのは、一体の人形だった。グラデーションのかかった金糸の髪の、美しい少女の人形。
それは一瞬、生きた人間の少女と見紛うほどに精巧だったが、ドレスから覗く肘と膝、それに手指の関節が球状になっていたため、人形だとわかった。
驚きに硬直していたクロエの存在に気づいたアデルが視線を向ける。
「おや」
瞬間、クロエはこの場をしのぐ言い訳をいくつも脳内で考えたが、その思考はすぐに霧散した。
少女の人形が、ひとりでに動いてこちらへと顔を向けたからだ。
そして、動くはずのない口を、人間のように動かして。
「あ……ちがうのです。これは……その……」
そこまで言葉を発した後、自らの行いをたしなめるように、少女の人形は口元を手で覆った。
クロエは呆然とつぶやく。
「アデル、様……これは……いったい……」
すると、アデルは「ふっ」と小さく笑って立ち上がった。
「ここは立入禁止だったはずだがね。……まあいい。せっかくだ……きみにも紹介しよう」
まるで貴人を紹介するように、アデルはうやうやしく少女の人形を手で示した。
「彼女の名はシェリー。……私の最愛の人。世界中の何よりも愛しているんだ」




