10.新聞記者バート
その後、クロエは煤で汚れた体を濡らした布で拭いて部屋に戻った。仮眠を取ろうと思ったが、一睡もできなかった。
殺意が。領主アデル・ウィーグバルトに対するドス黒い感情が、荒れ狂って心をかき乱す。
ベッドの中で、クロエは変形した小さなロザリオを握りしめた。
間違いなく、エリーゼはこの館に連れてこられた。――そして、彼女の生命はもう、絶望的な状況だといえる。
そうして冷静に現状を認識してしまうと、今度は強い悲しみが襲ってきた。
エリーゼ。エリーゼが今も生きているかもしれない。それだけが希望だったのに。
諦めてはならないことはわかっているけど、どうしても涙が止まらなかった。嗚咽をあげないようにすることが精一杯だった。
翌日。早朝に寝床を離れたクロエは、メイド服に着替え、昨夜の火傷を化粧で隠して行動を開始した。
朝の仕事を急いで済ませ、午後になる前にメイド長である瀟洒な中年の女性に声をかける。
「すみません。午後、少しだけ外出の許可をいただけないでしょうか?」
「あら。アーシュラインさん。だから今朝は早くから仕事をしていたのね。どのようなご用件か、聞いてもいいかしら?」
「はい。……借金の件で、銀行のほうに用事がありまして……」
返済が遅れると、館の皆さんにも迷惑をかけてしまう。薄幸の令嬢の顔で、申し訳なさそうに控えめに言うと、メイド長は「そうですか……そういうことでしたら、構いませんよ」と答えた。
「それよりも……アーシュラインさん、体調のほうは大丈夫? 少し顔色が悪いわ」
「はい。少々、疲れが溜まっているのかもしれません。お心遣い、感謝いたします」
「慣れないお仕事ですからね。どうか、無理をしないで。あなたが頑張っていることは、みんな知っているのだから」
親切な言葉にクロエは深く頭を下げると、その場を後にした。
まるで夢の中にいるように、心はずっと浮ついていた。
◆
昼過ぎ。暗い色合いの質素なドレスとショールをまとって、クロエは街に出た。銀行への道から外れて、薄暗い路地裏に足を踏み入れる。
尾行の気配も、不自然な臭気もない。錆びた鉄とカビた石畳のにおいだけ。
クロエは壁に寄りかかって数分待った。すると、かすかに人の気配を感じた。
喫煙と、スモーキーな香水の混じったシニカルな匂い。
「……時間通りね」
クロエがそうつぶやくと、大通りの方面から一人の男が歩み寄ってくる。少しよれた薄茶色のアルスターコートの裾を気怠げに揺らして。
つば広の帽子の影から覗くのは、どこか人を食ったような甘い微笑みだった。
線の細い優男。そんな印象を持たせる顔立ちに対して、目つきはどこか昏く鋭い。
首元を飾るのは、少し緩めたクラヴァット。そしてウェストコートのポケットには、取材用のくたびれた手帳が無造作にねじ込まれていた。
「やあ。待たせたかい、お嬢さん」
「あたしも今来たところよ。バート」
この男は新聞記者だ。少女の失踪事件――亡霊の調査に関して、クロエとは協力関係にある。彼とは今朝、パンの配達業者を介した暗号のやり取りで待ち合わせをしていた。
名前はバートと名乗っているが、本名なのかはわからない。
「それで、クロエ……きみはウィーグバルトの家に潜り込んで調査をしているんだったな。今日はどんな用件だい? 情報が欲しいなら、生憎だが――」
「いいえ。今日はあたしからあなたに伝えたい情報があるの」
「……きみから、俺に? ――まさか」
クロエはいったん言葉を切り、息を吐いて心を落ち着かせてから、端的にそれを伝えた。
「アデル・ウィーグバルトは黒よ」
「……嘘だろ。きみの直感――いや、嗅覚か。……それが正しかったってのか?」
慄くようにつぶやくバートの瞳をまっすぐに見つめながら、クロエはうなずいてみせた。
「これを見て」
クロエは周囲に誰もいないことを確認すると、羽織っていたショールを少しだけ開いた。そして、暗い色のドレスの胸元に並んだボタンを外し、なめらかな肌に密着したコルセットの内側を探る。
「お、おい……っ。いきなり何を――」
少し赤くなりながら顔を手で覆うバートを尻目に、クロエは胸の隙間から、焼けて変形した小さなロザリオを取り出す。
「……こいつは?」
「エリーゼの私物よ。……あの子がいつも、肌身離さず持っていたもの」
バートが折りたたみ式のルーペを取り出し、クロエの手の中を覗き込む。
「……焼けてからだいぶ時間が経ってそうだな。これをどこで?」
「ウィーグバルトの館の地下。焼却されたゴミの灰の中よ」
「……マジか。てことは、あの館にいる何者かが犯人だってことか?」
「……何かを隠すとしたら、立ち入り禁止の東棟しかないわ。だから……ファントムの候補は、アデル・ウィーグバルトとクラウス・ジョルセフ。おそらく二人は協力関係にあるわ」
クロエはそう言い切った。確信があった。
「実行犯はどちらかわからないけど、黒幕はアデルよ。そう考えれば、今までのことも、すべて辻褄が合う」
「……それが、きみの推理か」
バートは顎に手を当ててうなった。
「だが……たとえそれが正しかったとして、どうするんだ? そんなどこにでもありそうなロザリオ一つでは、証拠にはならないぞ」
「そうね。でも……」
クロエは寝不足で少しやつれた顔に、不敵な笑みを浮かべる。
「“物語”としては、十分でしょう?」
バートは、ごくりと生唾を飲み込んだ。
「……まさか、きみが俺に接触したのは、そのためか?」
「ええ。あたしは今夜、館の東棟に潜入して調査をする。……アデルとクラウス以外は立ち入りが禁じられている場所よ」
「さすがに危険すぎる。……もし伯爵が本当にファントムなら、きみだってターゲットになるかもしれないんだぞ」
「わかってる」
クロエはバートの手を両手で包み込んで、証拠品であるロザリオを握らせる。
「調査を終えたら、すぐに連絡するわ。だから――もし三日間、あたしから連絡がなかったら、あなたはこの事件のすべてを新聞の記事にして。……おねがい」




