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ひだまりの約束  作者: 久遠 睦


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9/10

第9話 珈琲の苦み

食事が終わる頃には、あれほど激しかった雨も、少し勢いを弱めていた。屋根を叩く粒が、ぱらぱらと数えられるほどにまばらになり、軒先から落ちる雫の音が、規則的に聞こえはじめている。

美咲は、棚の奥から、小さな缶を取り出した。

銀色の缶の蓋を開けると、焙煎したばかりの豆の、深く、苦く、甘い匂いが立ちのぼった。東京を出る前の最後の夏、通い詰めた小さな珈琲屋の主人が、閉店の日に分けてくれたものだ。「あんたは、これを飲みながら考えるといい」と、その人は言った。何を考えればいいのかは、教えてくれなかった。三年間、豆は少しずつ減って、今では缶の底が見えるほどになっている。大事に、大事に、飲んできた。

その店は、駅の高架下にある、六席だけの店だった。毎週火曜の朝、仕事に行く前に寄る。何も話さず、一杯だけ飲んで出ていく。主人も、何も尋ねなかった。あの店だけが、東京で息のできる場所だった。閉店の日、主人は豆の缶を差し出して言った。「あんたの顔、最初に来たときより、やわらかくなった。そろそろ、行ったらいい」。どこへ、とは言わなかった。美咲は、その二か月後に東京を出た。

自分でもなぜだか分からない衝動に駆られて、美咲は声をかけた。

「珈琲、淹れましょうか」

男が顔を上げた。

「サービスです。もう店は閉めましたから」

「いえ、そんな、これ以上は」

「豆が、余っていて。ひとりで飲むには、多いので」

嘘だった。余ってなどいなかった。けれど男は、その嘘を暴かなかった。ほんの少し迷ってから、「じゃあ、いただきます」と小さく頭を下げた。

ミルの取っ手を回す。がり、がり、と豆の砕ける硬い音が、静かな店内に響く。手回しの木製のミルは、これもまた古道具屋で見つけたものだ。回すたびに、挽きたての粉の匂いが、鼻先を撫でていく。男は、その手元を見つめていた。ふいに、彼が言った。

「いい匂いですね」

「でしょう」

「朝一番に、事務所で淹れていたんです。誰も来ない時間に」

美咲は手を止めずに、「事務所?」と尋ねた。

「前は、小さな会社をやっていて。……朝早く出社して、まだ誰もいないオフィスで、豆を挽く時間が、一日のなかで一番好きだった」

過去形だった。美咲はそのことに気づいたが、何も言わなかった。ドリッパーにフィルターを敷き、挽いた粉を入れて、軽く平らにならす。細口のやかんを持ち上げて、湯を注ぐ。最初の湯は、ほんの少しだけ。粉全体にゆっくりと染み込ませて、蒸らす。粉がふくらみ、表面に小さな泡が盛り上がって、香りがひときわ強く立つ。三十秒。その間、男はひと言も発しなかった。

二度目の湯を、円を描くように、中心から外へ。サーバーに、褐色の雫が一滴、また一滴と落ちていく。その落ちる音を聞きながら、美咲は思った。人に何かを淹れてあげる時間とは、相手に何かを聞くための、一番やさしい時間かもしれない、と。待つ間は、話さなくていい。けれど話してもいい。余白だけが、そこにある。

白い陶器のカップに注ぎ、ソーサーに載せて、男の前に置いた。

「どうぞ。ブラックですけど、お砂糖もミルクもあります」

「ブラックで」

男はカップを持ち上げ、両手で包んだ。湯気が、顔にあたる。しばらくそのまま、動かなかった。それから、一口、ゆっくりと含んだ。目を閉じる。

「……苦い」

「すみません、濃かったですか」

「いえ。……ちゃんと、苦いなって」

彼は小さく笑った。笑いながら、目の端が濡れていた。美咲は、見ないふりをして、自分のカップに口をつけた。苦さが、舌の上でほどけて、喉の奥に甘みを残す。何年かぶりに飲む、誰かと分け合う珈琲の味だった。

静けさの中に、二人の呼吸だけがあった。

ドリッパーの底から、最後の一滴が落ちる。ぽとり、という音が、小さな店に、はっきり聞こえた。カップの中の黒い水面に、天井の電灯が、小さく映っている。人に珈琲を淹れたのは、東京を出てから初めてだった。豆を挽く音、湯の温度、蒸らしの時間。体は、ちゃんと覚えていた。覚えていることが、嬉しいような、少し悔しいような、不思議な気持ちだった。

窓の外で、雨はほとんど止みかけていた。雲が少し薄くなり、その隙間から、夜の空が覗いている。街灯の光が濡れた路面に反射して、金色の帯を引いていた。

男が、カップを見つめたまま、口を開いた。

「親友だったんです」

唐突な言葉だった。けれど、あらかじめ用意されたものでもなかった。喉の奥にずっと沈んでいたものが、珈琲の温度でゆるんで、浮かび上がってきたような声だった。美咲は、何も言わなかった。ただ、洗い物の手を止めて、カウンターの内側に立ち、聞く姿勢をとった。

「学生の頃からの、友人で」

健太は、言葉を探すように、珈琲の表面を見つめていた。

「大学の同じゼミで。気が合って、卒業してからもずっと、週に一度は飲みに行くような仲でした。僕が数字を見て、あいつが営業をやって。役割が違うからうまくいくと思ってたんです。足りないところを、お互いが補える。そういう組み合わせだって」

「会社を、二人で」

「ええ。小さな店舗さん向けの、販促と経理の仕事を請け負う会社です。個人でやってる飲食店とか、雑貨屋さんとか。そういうところの帳簿や広告を、代わりに見る。……最初の三年は、本当に何もなくて。机も、中古を二つ並べただけで」

彼はそこで、短く息をついた。

「でも、楽しかったんです。あいつが取ってくる仕事を、僕が数字にして返す。依頼主が笑ってくれる。それだけで、朝が来るのが楽しみだった」

美咲は、頷いた。そういう朝の感覚を、彼女は知っていた。開店前の、誰もいない厨房で、一人で米を研ぐ時間のことを。

「五年目に、ようやく軌道に乗りはじめました。取引先が増えて、人も二人雇えた。事務所を、ひとつ広いところに移して。そのときです」

声が、ほんの少し硬くなった。

「帳簿が、合わなくなったんです」

健太は、カップの縁に指をかけた。

「最初は、僕のミスだと思いました。だから、何度も数え直した。……でも、何度やっても、合わない。取引先から預かっている資金の一部が、ある口座に、少しずつ移されていた。一度に大きな額じゃなく、気づかれない程度に、何か月も」

「それは」

「あいつでした」

健太は、淡々と言った。感情を押し殺した声だった。

「横領、というんでしょうね。会社の金を、個人的に使っていた。借金があったそうです。僕に何も言わないまま、返せなくなって、会社の金に手をつけた。……それが分かったのが、去年の春です」

去年の春。まだ一年も経っていない。

「見つけた夜のことは、よく覚えています。事務所に一人で残って、プリントアウトした伝票を、机いっぱいに広げて。三時を過ぎた頃、掃除の人が来て、『まだいらしたんですか』って言ったんです。僕は『もうすぐ終わります』と答えた。終わるわけがないのに」

健太は、小さく息を吐いた。

「そのとき、最初に考えたことが、何だと思いますか。あいつを問い詰めようとか、警察に行こうとか、じゃないんです。……あいつは、体調でも悪かったんじゃないか、何か事情があったんじゃないか、って。必死に、あいつを庇う理由を探していた」

美咲は、胸が詰まった。この人は、証拠を前にしても、まず、友人を疑わなかったのだ。それが彼の美点であり、同時に、いちばん深い傷の入口でもあった。

「その晩、あいつと会おうとして、連絡がつかなくなった。事務所に行ったら、机の上が空っぽで。……家に戻ったら、妻のものも、なくなっていた」

美咲の指先が、わずかに強張った。

「奥さんも?」

「妻は、あいつのところへ行きました」

健太は、一度目を閉じた。

「連れて行かれた、と言えたら楽だったと思います。でも、違うんです。妻は、自分の意思で、行った。前から、そうなっていたことに、僕だけが気づいていなかった」

美咲は、彼の左手を見た。湯呑みを持つ薬指に、あの白い帯の跡が、まだ薄く残っている。外してから、時間が経っていない跡だと、あの夜も思った。指輪を外した日のことを考えた。外した指の軽さに、どれほど長く慣れなかっただろう。想像するだけで、胸が痛んだ。

雨が、窓を伝う音がした。軒先の雫が、土間の水たまりに落ちる、小さな音も。

美咲は、何と声をかけたらいいのか、分からなかった。「ひどい」とも、「許せない」とも、言ってはいけない気がした。それは、彼が自分に向かって、何度も言ってきた言葉のはずだった。

「奥さんのことも、分からなかったんですか」

訊いてしまってから、美咲は踏み込みすぎたと思った。唇を噛んだ。けれど健太は、怒らなかった。ゆっくり首を振った。

「分からなかったことにしたかったのかもしれません」

その一言が、美咲の胸に刺さった。責める言葉は、そこにはなかった。ただ、自分の鈍さを、自分で受け止めようとしている声だった。そのことがかえって、痛々しかった。

美咲もまた、気づいていた違和感を、いくつも見過ごしてきた。忙しいから返事が遅いのだと。仕事だから約束を破るのだと。会社の付き合いだから、帰りが遅いのだと。自分で作った説明にしがみついて、現実を見ないようにしていた時間が、彼女にもあった。そして、その説明が崩れたとき、足元の床がなくなるのを感じた。

健太は、続けた。

「そのあとは、事後処理でした。取引先に事情を説明して、預かっていたお金を、できる限り返して。契約を整理して、人を辞めてもらって。……会社を畳むのに、半年かかりました。僕は、持っていた株を全部手放して、そこを出ました」

「それで、今のお仕事に」

「以前、取引のあった会社が、声をかけてくれたんです。事情を知っていて、それでも来てくれと。……ありがたかった。でも、半年ほど働いてみて、思ったんです。東京にいる限り、どこへ行っても、あの人たちの影がある。昔の仲間も、共通の知り合いも、みんな、僕の顔を見ると、何かを言いたそうな目をする」

彼は、ふっと力なく笑った。

「だから、地方の拠点への異動を、自分から願い出ました。誰も、僕のことを知らない場所へ」

その言葉に、美咲の胸が、強く脈打った。

誰も、自分を知らない場所。

さっき、彼が呟いた言葉が蘇る。知らない場所のほうが、歩きやすいこともありますね。あれは、通りすがりの感想ではなかった。何度も、何度も、胸のなかで繰り返してきた言葉だったのだ。

「人を信じるのが、怖くなったんです」

健太の声は、静かだったが、底知れない痛みが滲んでいた。カップを持つ手が、わずかに震えている。

「誰かと一緒に何かを始めるのが、怖い。相手が、悪い人かどうかじゃない。僕に、見る目がなかったってことだから。……あいつのことを、僕は十五年、見ていたのに。結局、何ひとつ、見えていなかった」

彼は、顔を上げた。

濡れた髪は乾きはじめ、頬の影が、先ほどよりも深く見えた。それでも、その目には、まだ消えていない何かがあった。

「でも、今は、少しずつですけど……。またいつか、自分の力で何かを始めたいと思っています」

一語一語、噛みしめるように言った。

「やり直したいんです」

その言葉は、三年前の美咲が、誰かに言ってほしくて、とうとう言えなかった言葉だった。


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