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ひだまりの約束  作者: 久遠 睦


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10/12

第10話 借りた傘

話を聞きながら、美咲はカウンターと客という境界線が溶けていくのを感じていた。

彼の物語は、他人事とは思えなかった。信じていた人に裏切られ、築いてきたものをすべて失い、誰も知らない場所へ逃げてきたこと。その痛みも、再生への渇望も、鏡に映した自分の姿を見ているようだった。細部は違う。けれど、輪郭が、よく似ていた。同じ型の傷が、違う人間の体に、それぞれの場所に刻まれている。そういう感覚だった。

この瞬間、彼はただの客ではなく、同じ傷を持つ一人の人間として、彼女の前に座っていた。

言ってしまおうか、と思った。

私も、同じなんです。東京の店で、自分の料理を盗まれて、誰も味方になってくれなくて、逃げてきたんです。誰にも言ったことのない話を、この人になら、言えるかもしれない。喉の奥まで、言葉が上がってきた。

けれど、その言葉は、舌に乗る直前で、止まった。

今夜は、彼の夜だと思った。彼が、はじめて他人に話せた夜。そこへ自分の傷を差し出せば、彼の話が薄まってしまう気がした。話は、等価交換ではない。差し出された話は、差し出された分だけ受け取ればいい。返礼のように自分の話をするのは、受け取ったものを、軽くしてしまうことだと、美咲は思った。

代わりに、短く言った。

「私も、逃げてきた口です」

健太が、顔を上げた。

「東京から。……それだけ、です」

「それだけ、で十分です」

健太は、低く言った。それだけ、で。その言い方が、どれだけ多くの意味を含んでいるのか、美咲は分かった。聞かない、という優しさを、彼もまた、知っている人だった。

「どうして、この街に?」

少し間を置いて、健太が尋ねた。さっきの彼女の沈黙を、読み違えない訊き方だった。

「地図で、選んだんです」

「地図で」

「知らない街の名前を、端から眺めて。駅の名前が、きれいだったから」

健太は、一拍おいて、小さく笑った。

「僕は、希望の欄に、一番遠いところを書きました。名前なんて、見てもいなかった」

「じゃあ、私のほうが、ましですね」

「ええ。ずっと」

二人で、少しだけ笑った。笑い声は、すぐに雨音に吸い込まれた。

「でも、決めてから、迷いました。バスで着いた日の夕方、駅前の不動産屋に入ったら、窓口の人に言われたんです。『この街に、何のご縁で』って」

美咲は、カップの縁を指でなぞった。

「縁なんて、ありませんでした。『地図で選びました』って言ったら、笑われました。……でも、その人、帰りがけに古い物件の資料をひと束、渡してくれたんです。『縁は、これからできますから』って」

「いい人ですね」

「ええ。それが、今の家でした」

あの日の資料は、今も、帳場の引き出しの奥にしまってある。角が折れて、コピーの文字が薄れている。もう見返すこともないが、捨てる気にはなれなかった。

初めて一人で泊まった晩のことは、よく覚えている。電気もガスも通っていない家で、寝袋にくるまって、天井の梁を見上げていた。窓の外で、風が戸を揺らした。そのたびに体が強張った。誰かが入ってくるのではないか、という怖さではない。誰も入ってこない、という事実が、あまりにも静かで、かえって眠れなかったのだ。

「それで、朝になって、近所の乾物屋のおばあさんが、様子を見に来てくれたんです。『人が住むのかい』って。『はい』って答えたら、『なら、出汁は引いてるかい』って」

健太が、小さく笑った。

「出汁の話から入る人なんですね、この街は」

「そうなんです。私が何者かは、誰も聞かなかった。出汁を引いてるかどうかだけ、聞かれた」

言ってしまってから、美咲は気づいた。それが、この街を好きになった、いちばんの理由だった。

二人のあいだに、ふたたび沈黙が落ちた。けれど、先ほどまでの沈黙とは、質が違っていた。重くない。気まずくもない。同じ場所に立ち、同じ方向を見ている人間の、隣り合った静けさだった。

「話してくれて、ありがとうございます」

美咲は、そう伝えた。

健太は、小さく笑った。笑いながら、少し眉を下げた。

「俺ばかり話して、すみません」

そう言ってから、彼自身が、はっとした顔をした。「僕」が、いつの間にか「俺」になっていた。気を張っていた膜が、いつの間にか溶けていたのだ。慌てたように口を押さえかけて、それから、決まり悪そうに目を伏せた。美咲はそれに気づいたが、何も言わなかった。ただ、その変化を、黙って受け取った。

「話すのは、悪いことじゃないです」

自分の口から出た言葉に、美咲は驚いた。

誰かに向けたはずの言葉が、自分の耳にも新鮮だったからだ。話すのは、悪いことじゃない。そんなふうに考えたことは、東京を出てから、一度もなかった。話せば傷つく、話せば奪われる、話せば裏切られる。そう思って、三年間、誰にも自分のことを語らずに暮らしてきた。それが唯一の安全だと信じていた。

それなのに、今、目の前の男は、すべてを話した。そして、何も奪われなかった。何も壊れなかった。

窓の外で、雨がやんだ。

いつやんだのか、分からなかった。気づけば、軒先から落ちる雫の音だけが、残っていた。窓ガラスには、店内の灯りが映っている。カウンターに並んだ二人の影と、湯気の立たなくなった二つのカップ。濡れた路面には、街灯が長く伸びて、その向こうの空が、ほんの少し明るくなっていた。雲が割れて、月が、その縁だけ覗かせている。

男は、ふと窓に目をやった。

「やみましたね」

「ええ」

「……帰らなきゃ」

その声に、わずかな名残惜しさが混じっているのを、美咲は聞き逃さなかった。同時に、自分の胸のなかにも、同じ種類の感情があることに気づいた。帰ってほしくない、というのとは違う。けれど、この夜が終わってしまうことが、少しだけ惜しいと思った。

健太は椅子から立ち上がり、カウンターに掛けていた上着を取った。まだ湿っていたが、先ほどのびしょ濡れの状態に比べれば、ずっとましになっていた。鞄を抱え、靴を履く。詰めていた新聞紙を取り出すと、紙は濡れて、灰色に変色していた。それを丁寧に畳んで、ごみ箱に入れる。几帳面な人だった。

「お会計を」

「いいんです。今夜は、お代は結構です」

美咲は反射的にそう言った。

「それは困ります」

はじめて、相手の声に強さが混じった。美咲は、目を瞬いた。

「ちゃんと払わせてください。食べさせてもらって、珈琲まで淹れてもらって、タオルも、新聞紙も、……何もかも。ただで済ませたら、僕は、ここに来る資格がなくなってしまう」

また「僕」に戻っていた。けれど、その声には、先ほどまでの気弱さがなかった。そこには、立場とか体面とかではない、もっと根のほうにある、譲れない何かがあった。彼は財布を取り出し、紙幣を数えた。

「生姜焼き定食、おいくらですか」

美咲は短く頷いた。

世話を焼かれることを負担に感じるのは、自分だけではないのだと気づいた。施しを受けるのではなく、対等に払うこと。その尊厳が、彼にとっては、今夜、何よりも守りたいものだった。そして、自分もまた、そういう人間だった。誰かに無条件に与えられることを、負債のように感じてしまう人間。

「千円です。……お味噌汁と、ご飯がついて」

「安すぎませんか」

「うちの定食は、それが定価なので」

男は、千円札を一枚、カウンターに置いた。それから、財布の中をもう一度のぞき、もう一枚、千円札を取り出した。

「珈琲は、サービスだとおっしゃいましたけど」

「はい」

「これは、サービスじゃない分です」

美咲は、その千円札を押し返そうとして、やめた。受け取らなければ、彼の誇りを傷つける。だが、受け取れば、珈琲は商品になってしまう。迷って、結局、一枚だけをレジに入れ、もう一枚を、そっと彼の方へ戻した。

「珈琲代は、次に来たときに、お願いします」

男は、戻された紙幣を見つめた。それから、顔を上げて、ほんの少し口元をほころばせた。

「次、ですか」

「……ええ、次です」

言ってしまってから、美咲は、自分が何を約束してしまったのか、気づいた。

「じゃあ、また、来てもいいですか」

戸口で、健太が念を押すように尋ねた。

「お客さんは、誰でも来ていいんです。営業時間内なら」

「営業時間内、ですね」

「昼は十一時半から。夜は、五時半から」

「覚えました」

彼は、まじめな顔で手帳を取り出し、書き留めた。その仕草が可笑しくて、美咲は目をそらした。

引き戸を開けると、雨上がりの夜の匂いが、店の中へ流れ込んだ。

濡れたアスファルトの匂い。土と、草と、遠くの川の匂い。雲は完全には晴れていないが、ところどころに星が覗いている。街灯の下の水たまりが、小さな銀色の円を作っていた。さっきまでの嵐が、嘘のように、静かな夜だった。

美咲は、傘立てから、一本の傘を引き抜いた。

店の名前が入った、古い黒の傘だった。客が置き忘れて、そのまま何年も預かっている傘が、他にも何本か傘立てに刺さっている。そのなかから、いちばん丈夫そうなものを選んだ。

傘立てには、客の忘れ物が三本、持ち主を待っていた。誰も取りに来ない傘は、いつのまにか、この店のものになっていく。その中から、いちばん手に馴染んだ一本を選んだのは、自分でも不思議なほど、迷いのない動作だった。貸す、ということは、返ってくることを信じる、ということだ。三年間、誰にも傘を貸さなかったのは、そのせいだったのかもしれない。

「また降るかもしれませんから。持っていってください」

「いえ、そんな。駅までなら、もう降らないでしょうし」

「返しに来てください。……いつでも」

健太は、差し出された傘を見つめた。戸惑うような顔のあとに、小さな息が漏れた。それは、笑いにも似ていたが、笑いよりもずっと柔らかいものだった。

「借りたものは、返さないといけませんね」

「はい」

「そのときは、ひだまりを見に来ます」

美咲は、言葉を返せなかった。その代わり、小さく頷いた。

健太は傘を受け取り、深く頭を下げた。顔を上げたとき、その表情は、店に入ってきたときとは、少し違っていた。大きく変わったわけではない。けれど、何かが、ほんの一ミリだけ緩んでいた。目の下の影が、さっきより浅く見える。口元の線が、わずかに柔らかい。

「おやすみなさい」

「おやすみなさい。気をつけて」

男の背中が、夜の通りを遠ざかっていく。傘を畳んだまま、片手に提げて、もう片方の手で鞄を抱えている。歩き方は、まだ少し不安定だった。濡れた靴が重いのだろう。それでも、歩幅は一定で、急いでもいなければ、躊躇してもいなかった。靴が水を踏む音が、ぴちゃ、ぴちゃ、と遠ざかっていく。商店街の角を曲がるとき、一度だけ、彼は振り返った。

美咲は、戸口に立ったまま、小さく手を上げた。

彼も、傘を持った手を、軽く上げた。それから、角の向こうへ消えた。

足音が聞こえなくなっても、美咲はしばらく、その場に立っていた。夜風が、頬を撫でた。濡れた植木鉢のパンジーが、街灯の光を浴びて、ゆるやかに揺れている。

店の中に戻る。

戸を閉め、鍵をかける。今度は、きちんと、最後まで回した。

静寂が、帰ってきた。

いつもと同じ、閉店後の店だった。出汁の匂いと、木の匂いと、冷えたコンロの金属の匂い。柱時計の秒針の音。それなのに、何かが違っていた。空気の密度が違う。部屋の隅々にまで、さっきの時間の余韻が残っているようだった。カウンターの窓際の席には、飲みかけの湯気の消えたカップが、二つ並んでいた。

美咲は、その片方を手に取った。男が使ったほうだ。縁に、わずかに、唇の跡が残っている。底に、褐色の液がほんの少しだけ、残っていた。

洗わなければ、と思った。

けれど、手が動かなかった。蛇口をひねりかけて、やめた。カップを両手で持ったまま、しばらくそこに立っていた。窓ガラスに映る自分の姿が見えた。背が少し曲がっていて、髪が少し乱れている。三年前、この店を開けた最初の夜に、同じ窓に映っていた女よりも、ずっと疲れている顔だった。けれど、その目は、ほんのほんの少し、違うものを映していた。

カップを、そっと元のカウンターに置いた。洗うのは、明日の朝にしよう。そう決めた。

今夜、自分は掟を破った、と思った。

この静けさを、誰にも壊させはしない。そう誓ったのは、わずか数時間前のことだ。それなのに、見知らぬ男を店に入れ、食事を出し、珈琲を淹れ、胸の奥の扉を、ほんの少し、開けてしまった。守ってきたものは、壊れたのだろうか。

美咲は、考えた。そして、答えが出ないことに気づいた。

壊れてはいない、と思う。扉は開いたが、中身は、何も奪われていない。むしろ、これまで閉じ込めていた空気が、ほんの少し入れ替わったような感覚があった。換気扇を回したあとの厨房のように、息がしやすかった。

けれど同時に、怖かった。

一度開けた扉は、もう、完全には閉まらない。そのことを、彼女は知っていた。

二階へ上がる階段の途中で、美咲は足を止め、振り返った。窓際の席に、さっきまで男が座っていた席に、街灯の光が、斜めに落ちていた。夜の光は、ひだまりではない。けれど、誰もいないその席は、いつもよりもほんの少しだけ、あたたかそうに見えた。

「……傘、返しに来るかな」

独り言が、静かな店に落ちた。

答えは、なかった。ただ、遠くで、雨上がりの蛙の声が、ひとつ、鳴いた。


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