第11話 戸の前で止まる足音
あの雨の夜から二週間、健太は三度店に来た。
一度目は、嵐から数えて五日目の午後だった。昼の混雑が引いて、暖簾を下ろした直後のことだ。
その日、美咲は朝から、妙に足音に敏感になっていた。ひだまりどころの引き戸の前には、段差がひとつある。石を一段、置いただけの小さな上がり口だ。常連客は慣れているから、音も立てずに越えていく。田中は、いつも靴の踵を少し引きずる。靴屋の主人は、大股で、どすん、と一段を踏みしめる。咲さんは小走りで、段差を跳ぶように越えてくる。何年も毎日聞いているうちに、美咲は戸の前に立った人間の足音で、誰が来たのかを当てられるようになっていた。
五日のあいだ、聞き慣れない足音が来るたびに、手が止まった。
たいていは、道に迷った観光客か、チラシ配りの人間だった。それなのに、自分が戸のほうを見てしまうたびに、心の中で小さな舌打ちをした。待っているのではない。ただ、足音を聞いているだけだ。そう言い聞かせていた。
その足音は、段差の手前で、止まった。
暖簾は、すでに外してある。札は「準備中」だ。それなのに、引き戸の向こうに、人の気配が立っていた。入ってよいかどうか、迷っている。三秒、四秒。それから、こつ、と控えめに、ガラスが鳴った。
美咲は、手に持っていた布巾を置いた。
引き戸を開けると、予想したとおりの男がそこに立っていた。
スーツは、あの夜とは違う色だった。濃紺の、きちんと仕立てられたもの。髪は整えられ、顔色もだいぶよくなっている。ただ、目の下の影だけは、まだ完全には消えていなかった。片手には、畳んだ黒い傘と、もう片方の手には、小さな紙袋を提げている。
「すみません、まだ閉店中なのは、分かっているんですが」
「傘を、返しに来てくださったんですか」
「はい。……借りたままにしていたら、落ち着かなくて」
健太は傘を、両手で捧げるようにして差し出した。畳み目がきちんと揃い、留め具まで丁寧に留められている。借りた当時より、きれいになって戻ってきた、と美咲は思った。
「それと、これを。つまらないものですが」
紙袋の中に入っていたのは、駅前の和菓子屋の包みだった。小さな箱に、桜餅が四つ。美咲は受け取りながら、少し戸惑った。四つ。一人暮らしの女に贈るには、多すぎる数だ。けれど、それを数える彼の指先を想像すると、ふいに、可笑しくなった。きっと迷ったのだ。二つでは少なく思えて、三つでは中途半端で、四つにした。
「ありがとうございます。傘は、そんな、わざわざ」
「いえ。約束でしたから」
彼は、少し息を整えた。それから、真面目な顔で言った。
「今日は、ひだまりを、見に来ました」
美咲は、時計を見た。午後二時十八分。窓の外には、春の高い日が照っていた。
「ちょうど、いい時間です」
男を、店の中へ通した。
二週間前の夜とは、まるで違う店だった。窓から差し込む光が、床の板の目を、一本一本浮かび上がらせている。窓際の席の足元に、座布団一枚ぶんほどの、四角い光のかたまりが落ちていた。空気の中を浮遊する細かな塵が、その光の中だけで、金色の砂のように輝いている。
健太は、入口で立ち止まった。
それから、ゆっくりと、足音を殺すようにして、光のそばへ近づいた。まるで、触れたら消えてしまうものを、見るような歩き方だった。窓の下で足を止め、彼はしばらく黙っていた。それから、そっと、靴の先を、その光の中に入れた。
「……あたたかい」
いつか聞いた言葉だった。あの夜、湯呑みを持って、独り言のようにつぶやいた言葉。けれど今日のそれは、あの夜よりも、ずっと深いところから出てきた声だった。
美咲は、厨房の入口に立ったまま、その背中を見ていた。
ひだまりの中に立つ男の姿は、思っていたよりもずっと、この店に馴染んでいた。まるで、前からそこにいたように。いや、そうではない。そこだけが、この二週間、空いていた席だったからだ。その事実が、胸の奥で、ことりと音を立てた。
「いい名前ですね。本当に」
「ありがとうございます」
「ここに座っても、いいですか」
「どうぞ」
彼が座ったのは、窓際の、いちばん奥の席だった。あの夜と同じ席。
「お食事は?」
「まだ、です。……昼を食べそこねて」
「賄いで、よければ」
「いえ、今日は、ちゃんとお客として」
健太は、きっぱりと言った。それから、少し照れたように付け足した。
「お金を払って、食べたいんです」
美咲は、笑いをこらえながら頷いた。この人は、そういう人なのだ、と思った。借りたものは返す。食べたものには払う。受け取ったものには、必ず、同じ重さの何かを返さなければ気が済まない。几帳面で、不器用で、少し頑固な人。
その日は、鯖の味噌煮を出した。余っていた昼の定食の残りだったが、温め直して、盛りつけを丁寧にした。健太は、ゆっくり食べた。ひだまりの足元で、時折ちらりと窓の外を見ながら。お会計のとき、彼はあの夜の珈琲代として、五百円玉をカウンターに置いた。美咲が「そんなつもりでは」と言いかけると、彼は静かに首を振った。
「次に来たときに、と言ったのは、美咲さんです」
「……そうでした」
「だから、今日は、次です」
理屈になっていないその言い方に、美咲は思わず声を出して笑った。笑ってから、自分の声が店の中に響くのを聞いて、はっとした。こんなふうに笑ったのは、いつ以来だろう。
桜餅は、その日のうちに片づけなければならなかった。
四つのうち一つは、彼が帰ったあとで、自分で食べた。道明寺の粒が、塩漬けの葉の香りを吸って、ふっくらと柔らかい。店で出す菓子は作らないから、人の買ってきたものを味わうのは、少し新鮮だった。二つ目は、夕方、向かいの豆腐屋の奥さんに持っていった。「あら、いい人でもできたの」と言われて、「お客さんからです」と答えたら、奥さんは「ふうん」と、いかにも信じていない顔で笑った。三つ目は、夜の営業で、田中の席に置いた。「甘いもんは、医者に止められてる」と言いながら、田中は結局、葉を剥いて、口に入れた。
四つ目は、閉店後に、窓際の端のカウンターに、湯呑みと一緒に置いてみた。自分でも何をしているのか分からなかった。誰もいないその席に向かって、美咲は小さく「いただきます」と言い、一人で食べた。味は、少し、塩が強く感じられた。
翌日の昼、咲さんが、カウンターの端に残った桜の葉を見つけて首をかしげた。
「美咲さん、桜餅、食べました?」
「いただきものです」
「どなたから?」
「……お客さんです」
咲さんは、それ以上は訊かなかった。ただ、味噌汁の椀を持ち上げる前に、口元が、にまにまと緩んでいた。
二度目は、それから三日後の夕方だった。夕方の仕込みが始まる直前、美咲が出汁の昆布を水から引き上げようとしていたときに、段差の手前の足音が止まった。
「すみません。お客じゃなくて、通りがかりで」
「通りがかる場所じゃないですよ、ここは」
「そうなんです。通りがかりじゃないんです」
健太は、観念したように笑った。駅前の大通りから一本入った、決して立地が良いとは言えない路地。わざわざ曲がらなければ、前を通ることはない。美咲は何も言わず、小上がりの座卓を指した。
「五分だけなら、お茶をどうぞ」
「五分、でいいですか」
「五分過ぎたら、手伝ってもらいます」
「それは困りましたね。僕、野菜の皮むきは、下手なので」
そんなやりとりをして、五分のお茶を飲んで、彼は帰っていった。帰り際、段差の前でまた、足音が一度止まった。振り返って、小さく会釈をした。美咲は仕込みの手を止めずに、軽く頷いた。それだけのことだった。それなのに、その夜の味噌汁は、いつもより味がまとまった気がした。
翌日の昼、田中は鯖を食べながら、ぼそりと言った。
「昨日の夕方、あんたの店の前を通ったら、背の高い男が出てきた」
「お客さんです」
「お客が五分でお茶か」
「お茶の五分です」
「ふん」
田中は、それ以上は何も言わなかった。ただ、湯呑みを持ち上げたとき、口元が少しだけ動いた気がした。笑ったのか、咳をしたのか、美咲には分からなかった。分からないふりをして、お茶を注ぎ足した。
三度目は、小雨の日だった。
昼の営業が終わりかけの、一時半。引き戸が開く音がして、雨粒を払う気配があった。顔を上げると、傘を畳んだ健太が立っていた。肩が少し濡れている。美咲は思わず「また降りましたね」と声をかけた。
「すっかり雨男ですね」
「雨宿りできる場所を、覚えてしまったので」
健太は以前と同じ、窓際のいちばん奥の席に座った。冗談らしい冗談を言ったのは、初めてだった。美咲は伝票に日替わり定食と書き、急に恥ずかしくなって「今日は鯖の味噌煮です」と付け足した。
そのとき、入口に近いカウンターの隅の席から、咳払いがひとつ聞こえた。
田中だった。いつもの指定席で、さばの塩焼きを食べ終えて、爪楊枝をくわえている。田中は、健太のほうをじろりと見て、それから、何も言わずに湯呑みを持って席を立った。自分の指定席を離れて、窓際のほうへ歩いてくる。美咲は、驚いた。店を始めて以来、田中があの席を離れたことは、一度もなかった。
田中は、健太の隣の席にどかりと腰を下ろした。
「お兄さん、ここの味噌汁は、飲んだら忘れられんだろう」
「え、あ、はい」
健太が頷く。
「そうですね。仕事で疲れていても、ここへ来ると食べられるんです」
その言葉を、美咲は厨房の内側で聞いた。
客に褒められ慣れていないわけではない。「おいしい」も「また来ます」も、毎日のように聞く。けれど、食べられる、という言い方が、美咲の心に残った。おいしい、ではなく、食べられる。食べることさえ、苦しくなる日がある人の言葉だった。田中が「ふん」と鼻を鳴らした。
「食えるうちは、まだ大丈夫だ」
それだけ言って、田中は湯呑みを傾けた。健太は、不思議そうに目を瞬いた。田中の亡くなった奥さんのことを、彼は知らない。けれど、その一言が、人生の何かをくぐってきた人間の、短くて重い証言であることは、どうやら伝わったようだった。
「はい。……そう思います」
二人の男は、並んで黙って、湯呑みを傾けていた。美咲は、その光景を見ながら、静かに鯖の味噌煮をよそった。窓際の光は、今日は雨雲に遮られて出ていない。それでも、二人の背中のあいだにだけ、ほんの少し、あたたかい空気が滞っているように見えた。
その日の閉店後、健太は食器を下げるのを手伝おうとした。
「お客様ですから」
美咲が言うと、彼は小さく笑った。
「それ、毎回言いますね」
押しつけがましさのない声だった。
「毎回、手伝おうとなさるからです」
「毎回、断られるからです」
美咲は盆を持ち上げたまま、つい笑った。健太も笑った。笑ってから、美咲は急に、同じ場所に立つ他人の「手が空いている」ことを、これほど久しぶりに意識している自分に気づいてしまった。
数日後、換気扇から、いつもと違う金属音がした。
開店前の仕込み中だった。ごうごうと回る羽根の奥から、何かが擦れるような、ぎい、ぎい、という耳障りな音が聞こえてくる。耳を澄ますと、回転のたびに音が重なっていく。止めると、音は消える。美咲は修理業者に電話をかけた。繁忙期で、訪問は早くても来週だと言われた。
「来週って、それまで換気扇なしで営業ですか」
「すみません、こちらも手一杯で」
電話を切って、美咲は大きく息を吐いた。それから、調理場の隅から、脚立を引っ張り出した。
埃のたまったカバーを、ドライバーで外す。壊すつもりはなかった。ただ、中を見れば原因が分かるかもしれないと思ったのだ。ネジを一本、二本と外して、手のひらに載せる。三本目が、固くて回らない。力を込めたとき、手のひらのネジが滑って、床に転がった。からん、と乾いた音が、店中に響いた。
ちょうどそのとき、引き戸が開いた。
健太だった。
ちょうど昼前の仕込みの時間で、まだ暖簾も出していない。それなのに彼は、スーツ姿で、鞄を提げて立っていた。出勤の途中に寄ったらしい。美咲が脚立の上で、換気扇のカバーを手に持ったまま固まっているのを見て、彼は目を丸くした。
「何をしているんですか」
「見れば分かるでしょう。店を直してます」
思いがけず、刺々しい声になった。言ってしまってから、美咲は唇を噛んだ。ただ、止まらなかった。換気扇の故障と、業者の電話と、ネジの転がる音と、そこに現れた、あまりにもタイミングの悪い男。それら全部が、一度に重なった。
健太は脚立の下で、立ち止まった。
「工具、持ちましょうか」
「一人でできます」
「でも」
「できるんです。三年間、そうやってきたので」
彼は、少し考えるように黙った。反論も、押しつけもしなかった。その沈黙のあとで、「分かりました」と言った。
「落ちそうになったら、呼んでください」
それだけだった。
健太は鞄を床に置き、脚立から二歩ほど離れた壁際に立った。腕を組んだわけでもなく、ただ、手を体の横に下げて、美咲を見上げていた。その視線が、背中に刺さる。見守られている、という事実が、重たかった。一人でできると言った以上、一人でやらなければならない。そう思って、美咲は意地になって、三本目のネジに力を込めた。
指が滑った。
脚立が、ぐらりと揺れた。足元の板がたわみ、重心が後ろへ傾く。一瞬、視界が天井の梁を向いた。ひやり、と背中に冷たいものが走った。
落ちる、と思った。




