第12話 脚立を押さえる手
そのとき、脚立の脚が、動かなくなった。
大きな手が、脚立の側面を押さえていた。健太の手だった。いつの間にか、そばに来ていた。足音は、聞こえなかった。彼は何も言わず、美咲を見上げもせず、ただ、脚立が揺れないように、じっと支えていた。
それ以上は、何もしなかった。腕を伸ばして彼女の腰を支えることも、「危ない」と叫ぶこともなかった。ただ、脚立を押さえた。その手が、そこにある。揺れが止まる。それだけだった。
美咲は呼吸を整えて、ネジを外した。カバーが外れ、中の羽根が見えた。羽根の軸に、油の汚れと埃が、びっしりと固まっていた。
「たぶん、これです」
「掃除すれば直りそうですか」
「分かりません。でも、掃除はできます」
健太は何も言わず、脚立を押さえ続けていた。美咲は、油の染みた埃を指で拭い取り、布で羽根を一枚ずつ磨いた。十分ほどかかって、ようやく取り終えた。カバーを戻そうとして、元通りにネジを留めようとしたが、ネジの数が合わなかった。一本、足りない。
美咲は脚立を降りた。
健太は、手を離した。脚立がかすかに軋んで、静かになった。
「本当に、一人で直すんですね」
「直ったら、ですけど」
美咲は掌のネジを見つめた。一本、床で拾った小さなネジ。どこに戻すのか分からない。先ほど外すとき、順番を覚えていなかった。仕舞い込んだ自尊心と、無力感と、ささやかな意地。それら全部が、小さなネジの形で、掌に載っていた。
「知り合いの修理業者を、紹介できます」
健太が、そっと言った。
「前の会社の取引先で、飲食店の設備を見ている人です。腕は確かで、料金も正直です。でも」
彼は一度、言葉を切った。
「決めるのは、美咲さんです」
美咲は、顔を上げた。
自分に選ぶ余地を残した申し出だった。助けるとも、助けないとも言わず、道だけを、そこに置いておく。拒んでもいいし、使ってもいい。どちらを選んでも、責められない。その差し出し方が、東京で自分を取り巻いていた人々の、「いいからやらせろ」や、「無理するな」とは、まるで違っていた。
「番号だけ、教えてもらえますか」
その一言を口にするまでに、妙な勇気が要った。声が少しだけ震えた。健太は小さく頷き、手帳を取り出して、さらさらと電話番号を書き、一枚破って渡した。
翌朝、紹介された業者が来た。
大野という名の、日焼けした中年の男だった。無口で、手が速かった。換気扇のカバーを外し、羽根を回し、軸受けの部品を見て、「ここが磨耗してますね」と一言だけ言った。部品を交換し、ネジを締め、試運転をして、十五分で終わった。ごうごうという音は消えて、静かな風の音に変わった。足りなかったネジは、最初から別の場所の部品だったと、大野は笑った。
料金は、想像していたより安く済んだ。
「健太さんの紹介なら、少しまけときますよ」
「健太さん、ですか」
「ええ。あの人は、いい人だ。前の会社のとき、うちの請求書を、一番丁寧に見てくれた」
美咲は、大野の背中を見送りながら、その言葉を反芻した。いい人だ。そう言う人間が、ここにも、一人いた。
礼をしなければ、と思った。換気扇のことも、脚立のことも、大野を紹介してもらったことも。借りをそのままにしておく性分ではない。何を返せばいいのか、一晩考えて、結局、いつものやり方に落ち着いた。翌朝、いつもより早く起きて、弁当を作った。おにぎりを二つ、卵焼き、鯖の味噌煮の端、胡瓜の浅漬け。小さな二段の弁当箱に詰めて、布で包んだ。渡す口実は、いくつも考えた。余ったから。試作だから。どれも嘘のようで本当のようで、結局どれにも決められないまま、弁当は冷蔵庫の隅に収まった。
その日の夜、美咲は携帯電話を取り出した。
健太に、礼の短いメッセージを書こうとした。「換気扇、無事に直りました。ありがとうございました」。打ち終えて、送信する直前に、指が止まった。それから、一文字ずつ、消した。個人的に連絡を取る理由はあった。けれど、その連絡先は、まだ知らない。教えてもらったのは、大野の番号だけだ。次に来たときに言えばいい。そう思った翌日、彼は来なかった。
三日目の夕方も、来ない。
美咲は、客に出すお茶を淹れながら、何度か引き戸を見た。来ない人を、待っている。その事実を、自分に認めたくなかった。店を始めてから、誰が来るかを心待ちにすることはあっても、来ないことで調子を乱したことはなかった。田中が来ない日は、何かあったのかと心配したが、それは、心配だった。待っているのとは、違う。
けれど今は、違った。
段差の前で止まる足音を、無意識に聞き分けようとしている。段差を越える足音のたびに、心臓が一拍、遅れる。違う人間だと分かると、肩の力が抜ける。そのたびに、安堵と落胆が、同時に来る。
こんな自分を、美咲は知らなかった。
三日目に、弁当は自分で食べた。冷蔵庫の隅で冷えた卵焼きは、少し甘すぎた。次に作るときは、砂糖を減らそうと思った。次、という言葉が自然に出てきたことに、苦笑した。
「美咲さん、最近、機嫌いいですね」
昼の混み合いが過ぎたころ、咲さんが、味噌汁を飲みながら言った。
「そうですか」
「そうですよ。いつもより、ちょっとだけ、声が高いです」
「気のせいでしょう」
「いえ、絶対そうです」
咲さんは、にやりと笑って、箸を動かした。美咲は返事をしないまま、お盆を拭いた。声が高い。そんなことを、言われるとは思わなかった。恥ずかしくて、それでいて、どこかくすぐったかった。
四日目の昼も、来なかった。
五日目は、定休日だった。休みのあいだ、美咲は帳簿をつけ、買い出しをし、翌週の献立を考えた。ふと気づくと、手が止まっていた。窓辺のひだまりが、ゆっくりと床を這っていくのを見ていた。誰も座っていない、窓際の端の席。そこだけが、いつもより、少し広く見えた。窓際の端の席の座布団を、美咲はその週、二度も干していた。誰も座らないのに。気づいて、苦笑した。
その日の買い出しで、乾物屋の老婆に会った。
「あら、今日は顔が柔らかいね」
「そうですか」
「そうだよ。この前は、石みたいだった」
老婆は、昆布を量りに載せながら、にやにやと笑った。美咲は、返す言葉を探して、結局、財布を出した。顔が柔らかい、と言われて、嫌な気がしなかった。それが、いちばん困ったことだった。
「出汁は、引き直したのかい」
「……はい。それで、うまくいきました」
「ふうん。やり直しも、悪くないだろ」
老婆は、昆布の包みを紙袋に入れて、口をくるくると巻いた。何の話をしているのか、お互いに分かっているようで、分かっていなかった。
ようやく木曜の閉店間際、引き戸が、そっと鳴った。
段差の手前で、足音が止まった。
美咲は、手にしていたお玉を落としそうになった。一拍、二拍、置いてから、できるだけ平静を装って、戸口のほうを見た。
健太だった。
スーツの襟が、少しよれていた。目の下に、薄い隈があった。顔色は悪くない。ただ、あの嵐の夜よりも、さらにどこか、擦り減ったような疲れが滲んでいた。
「すみません。ご無沙汰してしまって」
「いえ。……お仕事、大変なんですか」
「ええ。ちょっと、報告書の件で」
彼は、疲れたように笑って、窓際の端の席に腰を下ろした。美咲は黙って、新しい湯呑みを出し、お茶を注いだ。熱いお茶を、両手で包んで、健太は目を閉じた。
「報告書を、一から作り直していました。数字は合っているんです。間違いはなかった。ただ、上司に言われたんです。誰に何を伝えたいのかが、抜けていると」
「誰に、何を」
「ええ。……読む人のことを、考えていなかったみたいで。数字を並べて、正確に書いて、それで十分だと思っていた。でも、上は、そこからどういう判断をすればいいのかを、知りたかったんだそうです」
美咲は、少し考えてから、言った。
「お客さんに説明するみたいに書いたら、どうですか」
「どういうことです?」
「うちの、今日のおすすめを、考えてみてください」
美咲は、黒板のほうを指した。今日の日替わりは、鰆の西京焼きだった。
「原価だけ言われても、食べたくならないでしょう。『この魚は、いくらで仕入れて、これだけ利益が出ます』って言われても。……でも、『今日は脂がのってます』とか、『この味噌に漬けて三日おいたんです』って言われたら、食べたくなる」
健太は、目を丸くして、美咲を見た。それから、口元をほころばせた。
「それは、分かりやすい」
「数字は、同じなんです。でも、伝え方が違う」
「……確かに」
彼は、カウンターの端に肘をつき、顎に手を当てた。何かを考えている顔だった。それから、不意に、声を出して笑った。
「すごいな。僕は、十年以上、数字の仕事をしてきたのに。定食屋さんに、報告書の書き方を教えてもらうとは」
「教えたわけじゃ、ないです」
「いえ、教えてもらいました」
健太は、真っ直ぐに美咲を見た。その目は、あの嵐の夜に見た、焦点の合わない眼とは違っていた。まっすぐに、見ている人の目だった。
閉店後、彼は鯖の味噌煮の定食を食べ、静かに箸を置いた。会計のとき、美咲は会計票を渡す手を、止めた。
胸の中で、何かが鳴っていた。
言うなら、今だ。そう思った。言わなければ、また、あの宙ぶらりんの数日間が始まる。
「あの」
自分の声が、少し上ずっていた。
「連絡先、交換しませんか」
健太が、顔を上げた。
「業者さんの件も、ちゃんと、お礼を言いたくて。換気扇、直りましたし。……それで、あの、お店の電話に、かけてもらってもいいんですけど」
言い訳が、長くなった。自分でも、おかしいと思った。顔が、熱かった。目を、合わせられなかった。会計票を持つ指先が、小さく震えている。
健太は、少しの間、黙っていた。それから、ポケットからスマートフォンを取り出した。
「俺も、聞いていいのか、迷ってました」
その声は、思ったより、近かった。
美咲は、顔を上げた。健太は、画面を見つめたまま、頬をかすかに染めていた。「俺」と言った。あの夜以来、彼が「僕」ではなく「俺」で話したのは、これが二度目だった。
番号を交換する。画面に、彼の名前が表示された。「健太」とだけ。苗字は、登録されていなかった。美咲も、自分の名前を「美咲」とだけ打ち込んだ。画面の上で、二つの名前が、並んだ。
その文字を、何度も見返さず、美咲は携帯をエプロンのポケットへしまった。すぐ見返したくなる自分を知っていたからだ。
健太は、立ち上がった。
「それじゃあ、また」
「はい。また」
引き戸を出ていく背中を、美咲は見送った。段差の前で、足音は、止まらなかった。
一拍も、迷わず、越えていった。
そのことに気づいて、美咲は、小さく笑った。不規則だった足音が、いつのまにか、この店の拍に、ほんの少しだけ、揃いはじめていた。




