第13話 資料館の椅子
最初のメッセージは、修理した換気扇の写真だった。
その夜、閉店後の厨房で、美咲は何度も携帯電話を持ち上げては置いた。それから、大野が磨いてくれた換気扇の羽根の写真を撮り、画面の中の「健太」という二文字を選んで、短い文章を打った。
『換気扇、静かになりました。ありがとうございました』
送信ボタンを押す瞬間、息を止めた。送ったあとで、別の言葉のほうがよかったのではないかと、すぐに後悔した。「静かになりました」は、報告として素っ気なさすぎないか。「ありがとうございました」は、丁寧すぎないか。画面を伏せて、洗い物に戻った。五分後に、携帯がかすかに震えた。
『よかった。今度は脚立に一人で上らないでください』
文字だけなのに、声の調子が分かる気がした。美咲は「できることは自分でします」と打ち、読み直して、消した。代わりに、少し迷ってから、こう送った。
『今度は下で押さえてもらいます』
送ってから、胸の奥で何かが小さく跳ねた。画面を見つめたまま、立ち尽くした。すぐに返信が来た。
『喜んで。得意です、押さえるの』
美咲は、思わず声を出して笑った。誰もいない厨房に、自分の笑い声が響いた。そのことが可笑しくて、もう一度笑った。
それから、毎晩のように、短いやりとりが続いた。
今日は何を食べたか。仕事で何があったか。駅前の桜がもう散ったこと。健太のマンションの隣に、野良猫が住み着いたこと。美咲の返信はいつも短く、健太の文章は、いつも少しだけ長かった。夜の十時を過ぎる頃、携帯が鳴らなくなると、それは、彼がもう眠ったという意味だった。そのことを、美咲は三日で覚えた。
返信が来ない夜は、ほんの少し、さみしかった。けれど、そのさみしさを、責めるつもりはなかった。そういう夜があっても、朝になれば、また米を研げる。それが、東京にいた頃の自分との、大きな違いだった。
休日に会う約束が決まったのは、最初のメッセージから一週間後だった。
きっかけは、小さな話題だった。健太が、この街にある郷土資料館について尋ねた。駅の掲示板で、特別展のポスターを見たという。美咲は少し考えてから、「行ったことはあるけど、最近は」と答えた。それは、半分嘘だった。この街に来て三年、一度も行ったことがなかった。ただ、あのポスターの前で足を止めた日のことを、ふと思い出した。
彼の返事は、こうだった。
『よかったら、一緒に行きませんか』
文字を見た瞬間、息が止まった。
店のカレンダーを見る。壁にかけた、仕入れ業者がくれた味気ないカレンダー。赤いペンで丸をつけた日が、いくつか並んでいる。水曜には、仕入れの予定がある。魚屋と、乾物屋と、市場での買い出し。火曜は、定休日だ。いつもなら、その火曜に帳簿をつけ、買い出しの下準備をして、一日が潰れる。けれど、水曜の朝に早起きすれば、火曜の午後は空けられる。
そこまで考えてから、美咲は気づいた。
自分は、断る理由を、探していない。
断るための言葉は、頭の中にいくらでも浮かぶはずだった。忙しいから。店があるから。一人でいたいから。ずっとそう言ってきた。けれど今、探しているのは、行くための段取りだった。帳簿をどう動かすか。仕込みをどこで取り戻すか。それは、ほとんど、答えがもう出ているということだった。
『行きます』
短く打って、送信した。すぐに、返事が来た。
『ありがとう。楽しみです』
その夜は、米を研ぐ手が、いつもより少しだけ速かった。
火曜の朝、美咲は鏡の前に立った。
着ていくものが、ない。それに気づいたのは、箪笥の前に座ったときだった。三年間、この店で暮らして、着るのは調理の白衣と、ジーンズと、色の褪せたカットソーばかりだった。外出用の服は、東京にいた頃のものが、段ボールの底に畳んだまま眠っている。取り出して広げると、防虫剤の匂いがした。
紺色のカーディガンと、生成りのブラウスを選んだ。ベージュのスカートは、少し丈が短く感じたので、やめた。代わりに、細身の黒いパンツにした。鏡の中の自分を見る。背筋を伸ばす。顔が、少し白い。口紅は、一本だけ持っていた。三年前に買ったまま、ほとんど使っていないもの。引き出しの奥から出して、軽くのせた。色は、思ったより濃かった。ティッシュで押さえて、薄くした。
「……何やってるんだろう」
独り言をつぶやいて、鏡から目をそらした。それでも、玄関を出る前に、もう一度だけ鏡を見た。
資料館は、川沿いの高台にあった。
元は小学校だった木造の校舎を、市が改装して使っているという。白い漆喰の外壁と、瓦屋根。校庭には桜の木が一本あり、花はもう散って、若葉が風に揺れていた。入口の前に、健太が立っていた。薄いグレーのジャケットに、白いシャツ。スーツ姿ばかりを見ていたから、少し違う人に見えた。美咲に気づくと、彼は小さく手を上げた。
「こんにちは」
「こんにちは」
どう挨拶すればよいのか分からなくて、二人とも、同じ言葉を繰り返した。そのことがおかしくて、同時に、口元が緩んだ。
火曜の午後の資料館は、ひっそりとしていた。
受付には、白髪を小さくまとめた女性がひとり座っていて、入館料の二百円を受け取ると、しわだらけの手で、色褪せたパンフレットを二部、差し出した。「ごゆっくりね」と言った声が、廊下の奥にすっと吸い込まれていく。靴を脱いで、スリッパに履き替える。木の床が、歩くたびに、ぎしり、と鳴った。
展示室は、かつての教室だった。
天井が高く、窓が大きい。窓からの光が、黒板の跡のある壁に、四角い影を落としている。壁には、白黒の写真が、規則正しく並んでいた。昭和三十年代から四十年代にかけての、この街の商店街の写真だった。
魚屋と靴屋が隣り合う通り。現在は駐車場になっているあの場所に、かつては、人々が肩を寄せ合うようにして行き交っていた。写真の中の人々は、みな、よく笑っていた。もちろん、笑っていない人もいる。けれど、笑顔を隠さない時代の人々の顔というものが、そこにはあった。前掛けをした八百屋の店主、割烹着の女性たち、自転車を押す少年。商店街のアーケードの下を、冬の光が斜めに差し込んでいる。
「ここ、昔は、こんなに賑やかだったんですね」
健太が、写真の前で言った。
「そうみたいです。私が来たときは、もう、シャッターの通りになっていて」
「美咲さんは、この街の、生まれじゃないんでしたね」
「ええ。……でも、この写真を見ていると、知っているような気がします」
美咲は、そう言ってから、自分の言葉に少し驚いた。見知らぬ時代の、見知らぬ人々の笑顔を見て、懐かしいと感じる。それは、不思議な感覚だった。
順路に沿って、ゆっくりと進む。農具の展示、古い電話機、学校の教科書。健太は、一つ一つの展示を、丁寧に見ていった。説明書きを、端から端まで読む。そういう見方をする人だった。美咲は、その少し後ろを歩きながら、彼の背中を見ていた。数字を追う目と、同じ目で、昔の暮らしを追っている。
奥の展示室の、壁の角に、ひときわ大きな写真があった。
彼女は、立ち止まった。
「……あ」
声が、出た。
商店街の、通りの一角を写した写真だった。昭和四十年代の初めごろだろうか。木造の二階建ての建物が、ずらりと並んでいる。その中の一軒、角から二軒目の古い家の軒に、見覚えのある梁が見えた。太く、黒光りした、一本の梁。
「どうしました?」
「ここ。……うちの店です」
健太が、顔を寄せた。写真の下には、小さな札がついていた。『昭和四十一年 商店街の風景』。美咲は、写真の中の建物を、指でなぞるようにして見た。
「改装する前は、米屋だったって、聞いていましたけど。……本当に、そうだったんですね。『米』って書いてある看板が、ここに」
「本当だ。看板の位置は、今と同じだ」
健太が、感嘆の声を上げた。今の店には、看板はない。暖簾と、小さな木札があるだけだ。けれど、軒先の同じ高さの場所に、確かに、四角い看板がかかっていた。美咲は、梁を見上げて毎日過ごしていた自分の日々が、その写真と、一本の線でつながっていくのを感じた。
写真の端に、ひとりの女性が映っていた。
店先に、小さな椅子を並べている。五、六脚。割烹着の袖を肘までまくり上げ、膝を軽く曲げて、椅子を運んでいる最中のようだった。顔は、半分だけ見えた。笑っているのか、真剣な顔なのか、判別できなかった。ただ、背中の線が、とてもやわらかかった。
「この人、誰でしょうね」
健太が、言った。
「分かりません」
美咲は、そう答えた。靴屋の主人の言葉が、耳の奥で蘇った。昔はな、米屋のばあさんが店先に椅子を出してた。通りかかった年寄りが、茶ぁ飲んで、休んでいく。何を買うでもなくな。その「ばあさん」が、この人なのだ。顔も名前も分からない、けれど確かに、あの場所で、お客を待っていた人。
写真の右下の隅、椅子のそばに、半ズボンの少年がひとり座っていた。丸刈りの頭に、小さな帽子。片手に、紙袋を提げている。口を大きく開けて、何かを食べていた。
「こちらの写真が、お気に召しましたか」
気づくと、受付にいた白髪の女性が、すぐ後ろに立っていた。ボランティアのガイドらしい。柔らかい笑顔で、写真を見上げている。
「この女性、どなたかご存じですか」
美咲が尋ねると、女性は首を横に振った。
「さあ。名前までは、記録が残っていないんです。ただ、この通りのことを覚えている人たちに聞くと、みなさん、同じことを言うんですよ。『米屋のおばあさんの店先は、いつも誰かが座っていた』って」
「誰かが、座っていた」
「ええ。何かを買うわけじゃなくて。お茶を一杯、いただいて、少し休んで、帰っていく。だからか、あのお店の前を通ると、不思議と、足が止まったそうです」
美咲は、息を詰めた。
「それから、この少年はね」
ガイドの女性は、写真の隅を指でさした。
「今も商店街で靴屋さんをやっていらっしゃる、岡本さんですよ。小さい頃、あのおばあさんによく、飴をもらっていたそうで。何度お話を聞いても、そのことを話すときだけ、目が潤むんです」
健太が、驚いたように美咲を見た。美咲は、笑った。笑いながら、目の奥が熱くなっていた。
あの靴屋の主人が。大股で、どすん、と段差を踏みしめる、あの人が。飴をもらって、口を大きく開けて、笑っている。
店を守ってきたのは、自分だけではなかったのだと、急に思った。
この古い家は、美咲が来るずっと前から、誰かの居場所だった。顔も名前も知られていない一人の女性が、毎日、小さな椅子を並べ、通りかかった人にお茶を出していた。そのうえに、いま自分が立っている。自分が一人で守ってきたと思っていた静けさは、実は、誰かが築いた静けさの続きだった。
「……ありがとうございます」
美咲は、ガイドに頭を下げた。女性は、にこにこと笑って、受付のほうへ戻っていった。
健太は、何も言わなかった。ただ、美咲の隣に立ち、同じ写真を、しばらく黙って見ていた。慰めも、感想も、口にしなかった。それが、ありがたかった。写真の中の女性は、相変わらず、椅子を運び続けている。その手が、止まることはない。
資料館を出たとき、空は、少し傾いていた。
校庭の桜の枝に、若葉が風に揺れている。川面が、夕日の色に染まりはじめていた。二人は、並んで坂道を下りた。足音が、ほんの少しずれて、また揃った。
帰り道、健太が、車道側へ移った。
自然な動きだった。何も言わず、さりげなく、美咲の右側から左側へ。通りの端を歩くとき、車が来る方向を、自分の体で遮るように。
「そんなに気を遣わなくて大丈夫です」
美咲は反射的に言い、すぐ後悔した。口調が、思ったよりも強かった。
健太が、立ち止まった。
「嫌でしたか」
「違います」
慌てて、首を振った。
「こういうのに、慣れていなくて」
健太は、彼女の顔をまじまじと見て、それから、静かに言った。
「じゃあ、次からは聞きます」
「いちいち聞かれるのも困ります」
「難しいな」
二人は並んで、笑った。笑いながら、美咲は思った。この人とのやりとりは、いつも、少しだけ不器用で、ほんの少し遠回りで、それなのに、どこか間違っていない気がする。正解を出そうとするのではなく、その場その場で、一緒に考える。その過程そのものが、心地よかった。
その夜、美咲は三年ぶりに、東京の話を声に出すことになる。




