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ひだまりの約束  作者: 久遠 睦


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第14話 赤提灯の夜

夜は、繁華街から離れた小さな居酒屋に入った。

駅の裏手の細い路地に、赤提灯がひとつ、揺れている店だった。引き戸を開けると、炭の匂いと、焼き魚の脂の匂いが迎えてくれる。カウンターが八席。奥に座敷が一つ。壁には、手書きの品書きが何枚も貼られ、日焼けして茶色くなっている。白い割烹着の女将が、「いらっしゃい」と短く言った。会社の先輩に教わった店だと、健太は言った。静かで、料理がいいらしい。

二人は、カウンターの端に並んで座った。

美咲は、一杯だけ、冷酒を頼んだ。お酒は強くないし、店の仕込みのことが頭にある。健太は、ビールの小瓶を一本。グラスを軽く合わせると、澄んだ音が小さく鳴った。「乾杯」という言葉を、二人とも口にしなかった。ただ、グラスを持ち上げただけだ。それだけで十分だった。

出てきた料理は、素朴で、丁寧だった。出汁巻き玉子、鰯の梅煮、筍の木の芽和え。美咲は、一口食べるたびに、少しだけ職業病のような目になる。火の入れ方、塩の加減、出汁の取り方。健太が、それに気づいて笑った。

「いま、頭の中で、採点してるでしょう」

「してません」

「してます。顔に出てます」

「……ちょっとだけ」

そう白状すると、健太は声を立てて笑った。店の隅の常連らしい老人が、ちらりとこちらを見て、すぐに視線を戻した。

最初は、仕事の話だった。

健太は、ぽつぽつと話した。今の会社のこと。この街の拠点には、自分を含めて五人しかいないこと。取引先の中小企業を回って、経営の数字の見方を教える仕事だということ。毎日、色々な店や工場を訪ねる。そこで見る人たちの顔が、今の自分には、ありがたいのだと。

「大きな会社を相手にしていたころは、数字は、ただの数字でした。でも、ここでは違う。小さな工場の社長さんが、僕の出した数字を見て、黙って頷いてくれる。その頷きの重さが、前とは全然違うんです」

「重さ」

「ええ。この数字を信じて、明日、判断してくれる人がいる。……それを裏切ったら、取り返しがつかないって」

彼は、グラスの縁を指でなぞった。

「自分で始めた会社は、共同経営者の不正と、妻の出奔で、立ち行かなくなりました。持分を整理して、去りました。転勤、という言葉で片づけると簡単ですけど、履歴書にはいろいろ書けないことがあります」

グラスを置く。その音が、ほんの少し重かった。

「だから、今のところは、人の下で働くのが、気楽なんです。何かあっても、全部を自分が背負わなくていい。……情けないですか」

「情けなくないです」

美咲は、すぐに答えた。

「人の下で働くのも、立派な仕事です」

「ありがとうございます」

健太は、少し安心したように息を吐いた。それから、美咲のほうを向いた。

「美咲さんのことも、聞いていいですか」

「私の?」

「ええ。……あの嵐の夜、僕だけが話してしまったので」

美咲は、冷酒のグラスを両手で包んだ。

冷たい液体が、手のひらの熱を奪っていく。あの夜は、話さなかった。話せなかった。ただ、「逃げてきた口です」とだけ言った。けれど今夜は、違う。資料館で、顔も名前も知らない女性の背中を見たあとだ。自分が一人で守っているのではないと、知ったあとだった。

「東京で、料理人をしていました」

言葉は、思ったより素直に出た。

「有名なお店でした。予約が取れない、とか言われる店で。……私、そこで、八年ほど働いたんです。師匠がいて。厳しい人でした」

師匠の名前を出すと、喉がこわばった。朝倉。その二文字を、三年ぶりに口に出すには、少し力が要る。しばらく言葉を探してから、続けた。

「新しい献立を任せてもらったんです。秋の椀物でした。仕込みから、何度もやり直して、四十回目の試作で、ようやく認めてもらえた。……蕪のすり流しでした。子どもの頃に母が作ってくれた味を、思い出して」

健太は、黙って聞いていた。相槌を急がなかった。

「その料理が、お客さんの前で紹介される日に。……師匠が、『この一品は、私が考えたものです』って、言ったんです」

言葉が、喉に引っかかった。

「私の目の前で。私が、盆を持って、後ろに立っていたのに」

「……」

「その場で、何も言えなかった。抗議も、できなかったんです。あとで問い詰めても、『料理は誰のものでもない、店のものだ』って言われて」

美咲は、冷酒をひとくち含んだ。味は、ほとんどしなかった。

「私が頑張ったって言えば、わがままだと思われるのが、怖くて」

店の奥で、炭の爆ぜる音がした。女将が、鰯を網の上でひっくり返している。じゅう、と脂の焼ける音が、遠く聞こえた。

「それだけじゃなくて」

言葉が、止まらなくなった。

「一緒に働いていた後輩が、いたんです。真帆っていう、二十二歳の子で。私が仕込みを教えて、あの一品の作り方も、全部見せていた子で。……その子は、全部、見ていたんです。師匠が、私の料理を自分のものだって言った瞬間も」

美咲は、グラスを置いた。

「責めたいわけじゃないんです。二十二歳の見習いに、料理長の言葉を遮れって言うほうが、無茶ですから。……でも、あの子が、何も言わなかったことが、ずっと胸に残ってて。一言でいい、『悔しかったですね』って、誰かに言ってほしかったんです。それだけでよかったのに」

彼女は、自分の声が、わずかに震えていることに気づいた。

「恋人だった人にも、仕事を辞めればいいと言われました。そんなに揉めるなら、辞めればいいって。私があの厨房で踏ん張っていた意味なんて、聞いてもらえなかった」

口にして、はじめて分かった。

それが、ずっと悔しかったのだと。

師匠に盗まれたことよりも、後輩が黙っていたことよりも、いちばん深く刺さっていたのは、味方であるはずの人が、「やめればいい」と言ったことだった。その一言が、自分の八年間を、なかったことにした。ゼロにした。そのことが、ずっと、胸の底で冷たく固まっていたのだ。

「あの嵐の日」

美咲は、ぽつりと言った。

「ちょうど、昼間に、その店が載っている雑誌を見たんです。偶然、お客さんが忘れていって。……写真に、私が選んだお椀が載ってました。名前は、どこにもなくて」

「その日、僕が来たんですか」

「ええ」

美咲は、笑った。

「いちばん、人を入れたくない日でした。もう閉店したから、断ろうと思ったんです。でも、あなたの顔を見たら、できなかった」

健太は、何も言わなかった。ただ、静かに、美咲を見ていた。

「それはひどいですね」

一度だけ、そう言った。それきり、慰めを重ねなかった。「頑張りましたね」とも、「その師匠は最低だ」とも、言わなかった。長い沈黙が、二人のあいだに落ちた。炭の匂いと、遠くの笑い声と、グラスの中の氷の音だけが、そこにあった。

その沈黙のなかで、美咲は気づいた。

何かを言われることを、期待していなかった。慰めも、助言も、いらなかった。ただ、聞いてもらえたこと。それだけで、胸の底に固まっていた何かが、ほんの少し、緩んだ。

「でも」

長い沈黙のあとに、健太が口を開いた。

「美咲さんは、店を始めた」

「そうですね」

「誰かに認められるためじゃなく、自分の料理を出すために」

美咲は、箸を置いた。

自分にそんな立派な理由があったとは、思わない。ただ、もう一度やってみたかっただけだ。午前三時の台所で、味噌汁の味がしたあの夜。もう一度、料理をしたいと思った。それだけだった。けれど、それを他人が、そんなふうに言葉にしてくれることが、不思議だった。立派だと言われたわけでもない。ただ、事実を、並べてくれただけだった。

「いつもそんなに前向きなわけじゃないです」

「俺もです」

健太は、グラスを持ち上げた。

「前向きな日は、年に数日くらい。あとは、前を向いたふりをしてるだけで」

美咲は、吹き出した。それから、笑いながら、気づいた。目尻が少し、濡れている。慌てて指で拭った。それを見ていた健太は、何も言わず、自分のグラスに目を落とした。

それで十分だった。

会計を済ませて店を出ると、夜風が冷たかった。

四月の終わりの夜は、昼間の暖かさが嘘のように冷える。駅へ向かう道は、人通りがまばらで、街灯の光が路面に黄色い円を並べていた。美咲は、風に肩をすくめた。薄手のカーディガンでは、少し足りなかった。

「寒いですか」

健太が聞いた。

「少し」

彼は、上着を差し出さなかった。そのことに、美咲は、気づいた。差し出されていたら、きっと、断っていた。「大丈夫です」と言って、ますます肩をすくめていた。それを、彼はもう分かっているのだ。

その代わり、彼は歩幅を落とした。美咲の歩く速さに合わせて、ゆっくりと。

「温かいもの、飲んで帰りますか」

彼女は、頷いた。

駅前のベンチの横に、自動販売機があった。夜の光に、赤いボタンが並んでいる。健太が、小銭を入れた。「どれがいいですか」と聞かれて、少し迷ってから、ほうじ茶を選んだ。彼は、ブラックの缶珈琲を一本。取り出し口から出てきた缶は、手のひらに熱いほどだった。

二人は、ベンチに並んで座った。

缶を両手で包むと、冷えた指先に、じんわりと熱が戻ってくる。しばらく、どちらも話さなかった。駅のホームから、終電の少し前の電車の音が、かすかに聞こえてくる。遠くで、犬が一度吠えて、止んだ。夜空に、薄い雲がかかっていた。ところどころ、星が覗く。

誰かと一緒にいながら、自分の返事を考える時間があることが、心地よかった。

話さなければいけない、という圧力がない。沈黙を埋めなければいけない、という焦りもない。ただ、隣に誰かがいて、同じ方向を向いて、缶の熱を感じている。それだけの時間。東京にいた頃の自分は、こういう沈黙を、知らなかった。沈黙は、いつも、誰かの不機嫌の前触れだった。

「今日は、ありがとうございました」

美咲は、缶を見つめたまま言った。

「楽しかったです。……資料館も。居酒屋も」

「俺もです」

健太が、小さく言った。

「こんなに、一日が早く終わったのは、久しぶりでした」

それから、彼は少し笑った。

「終電、まだ大丈夫ですか」

「私、この街に住んでるんです」

「あ、そうでした」

二人で笑った。笑ったあとで、美咲は、立ち上がった。

「それじゃあ、ここで」

「送りますよ」

「大丈夫です。店は、歩いて十分ですから」

「じゃあ、せめて、角まで」

結局、角まで二人で歩いた。商店街の入口で、足を止める。シャッターの降りた通りに、街灯が一つだけ、灯っていた。

「おやすみなさい」

「おやすみなさい」

美咲は、背を向けて歩き出した。三歩、四歩。振り返ると、健太は、まだそこに立っていた。美咲が振り返ったことに気づくと、軽く手を上げた。彼女も、手を上げた。それから、また歩き出した。

店に戻ると、二階の窓だけが、暗いまま待っていた。

鍵を開け、中に入る。電気をつけずに、土間を歩く。暗闇のなかでも、どこに何があるのか、体が覚えていた。厨房の電気だけをつけて、手を洗った。それから、棚から昆布を取り出した。

帰宅後、美咲は翌日の出汁を取る昆布を水につけた。

いつもと同じ手順だった。鍋に水を張り、昆布を静かに沈める。一晩置けば、朝には、昆布の旨味がじんわりと水に溶けている。毎晩、これをするのが、習慣だった。その習慣が、今夜は少しだけ違うものに感じられた。誰かと会ってきた一日の終わりに、いつもの手順に戻る。それは、日常に戻ることというより、日常が、少し広がったことを確かめる作業のようだった。

エプロンを外しかけたとき、ポケットの中で、携帯が震えた。

画面を見る。

『今日はありがとうございました。また会えたらうれしいです』

健太からだった。

美咲は、しばらく、その文字を見つめていた。「うれしいです」。その四文字が、画面の中で光っている。

すぐ返事を打った。

『私もです』

送信ボタンを押して、息を吐く。送ったあとで、言い足す必要はないと思った。「また」とか、「ぜひ」とか、「楽しみにしています」とか。そういう言葉は、いらない。「私もです」の一言で、全部伝わる気がした。

携帯を伏せて、カウンターに置く。

伏せたまま、手を離した。自分で伏せたその動作を、美咲は、少し不思議な気持ちで眺めた。かつて、あの男が、同じ動作をした。話を終わらせる動きだった。けれど今の自分の手は、違う意味で、携帯を伏せていた。この言葉を、大切にしまっておくために。今夜はもう、これで十分だから。

窓の外で、風が鳴った。

柱時計のねじを巻く。かちり、と音がして、秒針が、また動き出した。

幸せが続くことを、美咲は、まだ怖がらずに信じていられた。


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