第15話 旦那に任せりゃ
夏に向かう川沿いは、夕方になると、風がよく通った。
五月の終わりから六月にかけて、二人は火曜の定休日に、散歩をした。ときどき、食事をした。忙しい週には会わなかった。それが、暗黙の約束になっていった。美咲の店が閉まるのは火曜だけで、健太の仕事は平日の昼間にある。会える時間は、限られていた。限られているからこそ、会う日は、少しだけ特別な形をとった。
会わない日も、健太からの連絡が来るかどうかで一日が決まるわけではなかった。
そのことに、美咲は、ひそかに驚いていた。東京にいた頃の自分は、携帯が鳴るかどうかで、その日の気分が変わった。鳴らなければ、不安になる。鳴れば、安心する。その波のなかで、自分という人間が、小さな舟のように揺れていた。けれど今は、違った。連絡がない日は、ただ、連絡がない日だった。彼は彼の仕事をしていて、自分は自分の仕事をしている。それぞれの日常が、別々に流れている。その上で、ときどき、交わる。
そういう関係でいられることに、美咲は安堵していた。
火曜の午後、二人は川沿いの遊歩道を歩いた。堤防の上には、背の高い草が風に揺れ、水面には、午後の光がきらきらと砕けている。ところどころ、釣り人が糸を垂らしていた。子どもが自転車で走り抜けていく。犬を連れた老人が、「こんにちは」と声をかける。健太も、美咲も、同じように「こんにちは」と返した。
ときどき、立ち止まって、川を眺めた。
言葉は、少なかった。それでも、沈黙が重くなることはなかった。足音が、二人分、少しだけずれながら、同じ方向へ進んでいく。その音が、いつのまにか、心地よい拍になっていた。
ある日、河原のベンチに座っているとき、健太が言った。
「最近、考えていることがあるんです」
美咲は、缶のお茶を持つ手を止めた。
「小さな飲食店を、支援する仕事を、やってみたいと思っているんです」
彼の目は、川面を見ていた。
「今の会社で、いろんな店を回っていて、気づいたんです。小さな店ほど、帳簿のつけ方も、経営の計画も、全部、自己流で。それなのに、料理は、驚くほどおいしい。……もったいないなって。数字の見方さえ、少し手伝えば、続けられる店が、もっとあるのに」
「手伝う、というのは」
「帳簿の数字だけじゃなくて、人手不足とか、仕入れの癖とか、季節による波とか。そういうことまで、店の人に聞いて、無理のない経営計画を、一緒に考える仕事です」
彼は、そこで、少し言葉を切った。
「独立したいんです。でも、今度は、誰かと勢いだけで始めたくない」
美咲は、川面を見た。
きらきらと光る水の上を、小さな鳥が一羽、滑るように飛んでいった。夏の予感のするような、白い雲が、川の向こうの空にゆっくり浮かんでいる。しばらく考えてから、美咲は、川面から目を離さずに言った。
「それなら、お店の人が嫌だと言ったときに、引き下がれる人になってください」
健太は、驚いた顔で、美咲を見た。
「良い案でも、うちの店には合わないことがあります」
美咲は、言葉を選びながら続けた。
「数字が正しくても、お客さんの顔が消えてしまう案は、嫌です。たとえば、回転率を上げるために、カウンターの席を減らして、テーブルを増やしたほうがいいって言われても。……田中さんが座る席がなくなったら、私は、その計画を受け入れられません」
健太は、すぐには答えなかった。
黙って、川を見ていた。長い間、そうしていた。美咲は、言い過ぎたかもしれないと思った。数字の専門家に、素人が口を出すようなことを、言ってしまった。けれど、撤回する気持ちにはなれなかった。それは、彼女が三年間、この店で学んだことの、いちばん大事な部分だった。
「……田中さんの席」
やがて、健太が呟いた。
「確かに、あれは、数字には出てこない席ですね」
「そうです」
「でも、あの席がなくなったら、店の空気が変わる。数字には出ないけど、確実に、売上にも響く」
「そうなんです」
「それを、数字にするのが、僕の仕事なのかもしれない」
彼は、小さく息を吐いた。それから、ゆっくり、美咲のほうを向いた。
「ありがとうございます。今の話は、すごく大事なことでした」
「いえ、素人の意見ですから」
「素人じゃないです。美咲さんは、その店の、専門家です」
その夜、携帯に、メッセージが届いた。
『今日の話、考えています』
たった一行だった。美咲は、それをしばらく見つめた。それから、営業ノートを開いた。仕入れの数字と、翌日の献立を記した、日々の記録のノート。その余白に、鉛筆で、その一行を書き写した。
『今日の話、考えています』
理由は、よく分からなかった。ただ、この言葉を、どこかに残しておきたかった。数字ではなく、味でもなく、ただの言葉。誰かが自分の話を聞いて、持ち帰って、考えてくれている。その事実が、嬉しかった。
ノートの端に書かれたその一行は、日が経つにつれて、少しずつ、他の言葉が増えていった。『明日は雨らしい』『桜餅、おいしかった』『猫が、また来た』。それらの言葉は、仕入れの数字や献立の記録に、混ざっていった。
梅雨入り前の蒸し暑い晩のことだった。健太は仕事帰りに店へ寄り、閉店後のカウンターで資料を広げた。小さな飲食店向けの経営計画のひな形を、自分なりに作っているのだという。美咲は洗い場で片づけをしながら、時々、手元を覗いた。三十分ほどして、静かになった。振り返ると、健太がカウンターに突っ伏して眠っていた。ペンを握ったまま、ノートの上に頬をつけて。
美咲は、手を拭いて、そっと近づいた。肩が、規則正しく上下している。目の下に影がある。何日も、まともに眠っていなかったのかもしれない。小上がりの隅から薄い毛布を持ってきて、その肩にかけた。起こさなかった。
向かいの席に座って、彼の寝顔を見た。眠っている人間の顔は、驚くほど子どもに近い。眉間の皺がほどけ、口元が少し開いている。この店で、客が眠ったことは、一度もなかった。眠ってもいい場所だったのだ、と美咲は思った。いつのまにか、そうなっていた。
十二時を回った頃、健太がびくりと目を覚ました。
「……すみません、寝てました」
慌てて体を起こし、毛布に気づいて、さらに慌てた。
「いい寝顔でした」
「忘れてください」
「無理です」
美咲が笑うと、健太は耳まで赤くなった。それから、毛布を丁寧に畳み、小上がりの隅に戻した。畳み目が、きちんと揃っていた。
その数日後、田中が、昼の客が引けても席を立たなかった。
「あのお兄さん、最近来ないな」
「火曜と、ときどき夜に」
「そうか」
田中は、湯呑みを両手で包んだ。この人が、自分から誰かの話を始めるのは、珍しかった。
「うちのやつはな、この店が開く半月前に逝ったんだ。改装してるのを、二階の窓から見ててな。『あそこ、何ができるんだろうね』って言ってた」
美咲は、お玉を持ったまま、動けなくなった。
「開いたら、行ってみようって。……結局、俺が一人で来た。それから、毎日だ」
「田中さん」
「だから、あんたの味噌汁を飲むと、思い出さなくて済む日と、思い出す日がある。近頃は、思い出す日のほうが多い。悪い意味じゃない」
田中は、湯呑みの底を見た。
「誰かと食うメシは、いいもんだ。……それだけ、言いたかった」
それだけ言うと、爪楊枝をくわえて、いつもの顔に戻った。美咲は、返事の代わりに、湯呑みに熱いお茶を注ぎ足した。田中の「それだけ」が、ときに誰よりも長い話になることを、この三年で知っていた。
その翌週のことだった。
昼の営業が終わりかけた頃、いつもの印刷会社の年配の客が、爪楊枝をくわえたまま、窓際の端の席のほうへ顎をしゃくった。
「あの席に、最近よく、背の高い人が座ってるね」
「お客さんですよ」
「そりゃ、お客さんだろう。でもな、美咲ちゃん」
彼は声を落とさなかった。悪意はなかった。この人は、悪意なく何でも口にする。
「あれだけ通ってくる男なら、いっそ店を手伝ってもらったらどうだい。帳簿とか、力仕事とか。いい人なんだろ。一人でやってたら、そのうち倒れるよ。結婚でもして、旦那に任せりゃ、楽になる」
カウンターの中で、美咲は鯖の皮目を返していた。返す手は止まらなかった。止まらなかったが、心臓のあたりが、すっと冷えた。
「任せる、ですか」
「そうそう。女一人の店ってのは、見てて危なっかしいからさ」
「ありがとうございます。考えておきます」
自分の口から出た声は、完璧に穏やかだった。相手は満足そうに頷き、勘定を置いて帰っていった。
閉店後、美咲は暖簾を握ったまま、しばらく動けなかった。「任せりゃ、楽になる」。悪意のない言葉は、悪意のある言葉より深く刺さることがある。三年間、この店を一人で立ち上げて、守ってきた。その全部が、「旦那に任せる」の一言で、ひっくり返される気がした。東京の男の声が、重なった。波風を立てないほうがいい。そんなに揉めるなら、辞めればいい。
その夜、健太から「明日、寄ってもいいですか」とだけ届いた。返事を打っては消し、打っては消した。結局、「どうぞ」とだけ返した。
翌日の午後に来た健太に、美咲は、いつもより少し硬い声で言った。
「この店のことは、私が決めます」
唐突だった。健太は湯呑みを持ったまま、きょとんとした。
「……はい」
「帳簿も、仕入れも、席の並べ方も。手伝ってもらうことは、あるかもしれません。でも、それは私が頼んだときだけです」
言ってから、自分でも刺々しいと思った。健太はしばらく黙っていた。それから、湯呑みを置いて、言った。
「誰かに、何か言われましたか」
美咲は、唇を噛んだ。図星だった。
「……旦那に任せれば、楽になる、って」
「それは、嫌ですね」
健太は、あっさりと言った。慰めでも、弁解でもなかった。
「俺は、美咲さんの店を、任されたいと思ったことはありません。決めるのは、美咲さんです。脚立を押さえた日から、それは変わってません」
美咲は、息を吐いた。
「ごめんなさい。あなたに当たりました」
「当たられてません。教えてもらいました」
健太は、小さく笑った。
「この店の、領分を」
その言葉の選び方が、可笑しかった。笑ってしまってから、胸の中のざらつきが、静かに沈んでいくのが分かった。この人は、線を引かれても、線の内側に入ってこようとしない。引かれた線を、そのまま地図にしようとする。そういう人なのだと、美咲は思った。
しかし、二人の間に、まったく擦れ違いがなかったわけではない。
六月の第二火曜日、梅雨の晴れ間だった。
その日は、駅前で待ち合わせて、少し遠くの町まで電車で出かける約束をしていた。河口にある小さな市場で、海産物を見て回る予定だった。美咲は、朝から楽しみにしていた。仕込みを早めに終わらせ、帳簿も前日のうちに片付けておいた。約束の時刻は、午前十時。美咲は、九時四十五分に、駅の改札前に着いた。
十時になった。
健太は、来なかった。
携帯を確認する。メッセージは、来ていない。「遅れています」の一言も、なかった。美咲は、改札の横の柱にもたれて、待った。電車が一本、行ってしまった。次の電車は、三十分後だ。十時十五分。十時半。人の流れが、右から左へ、また左から右へ、通り過ぎていく。
十時四十五分に、ようやくメッセージが来た。
『すみません、仕事でトラブルがあって、動けません。終わり次第、すぐ行きます』
美咲は、画面を見つめた。それから、ゆっくりと息を吐いた。
『大丈夫ですよ。ゆっくり来てください』
そう返した。送ったあとで、何が「大丈夫」なのか、自分でも分からなくなった。駅前の喫茶店に入る。奥の席に座り、珈琲を注文した。窓から、改札口が見える。時々、視線がそちらへ吸い寄せられた。
一時間が過ぎた。
珈琲は、とうに冷めていた。二杯目を頼んだ。それも、減らなかった。窓の外の人々が、笑いながら通り過ぎていく。自分だけが、時間の流れから、取り残されているような気がした。胸の中に、小さな石のようなものが、ひとつ、ふたつ、沈んでいく。それは、怒りというより、もっと冷たくて、小さくて、重いものだった。
十二時前、健太が喫茶店に駆け込んできた。
スーツのまま、息を切らして。額には汗が滲み、ネクタイが少し曲がっていた。美咲の顔を見るなり、深く頭を下げた。
「本当に、すみません。連絡も、遅くなってしまって」
「いえ」
美咲は、笑ってみせた。
「仕方ないですね。お仕事ですから」
自分の声が、思ったよりも軽やかに出た。それが、かえって不自然だった。健太は、顔を上げて、探るように美咲の目を見た。
「待たせましたよね」
「そんなに待っていませんよ」
「一時間以上、でしたよね」
「ちょっと、本を読んでいたので」
本など、持っていなかった。バッグの中には、財布と携帯と、ハンカチしか入っていない。それなのに、そう言った。嘘をついたことに、自分でも驚いた。健太は、それを見抜いたのかもしれない。眉を下げて、重ねて謝った。
「本当に、ごめんなさい。こんな日に限って」
「いいんです」
「次は、必ず」
「大丈夫ですから」
「ごめん、もう一度、ちゃんと」
何度も謝られると、今度は、そんなに謝られることが、嫌になった。
謝罪の言葉が、重なるたびに、胸の石が、一つずつ増えていく。彼の申し訳なさそうな顔を見るたびに、自分が責められているような気がした。「待たせた」という事実と、それに対して「怒る権利」が、自分にはあるのだろうかという迷いが、混ざり合っていた。怒るほどのことではない。ただの遅刻だ。仕事なら、仕方ない。そう自分を納得させようとするほど、石は、重くなる。
結局、市場へは、行かなかった。昼を過ぎて電車に乗っても、着く頃には、閉まっているからだ。二人は、近くの食堂に入って、昼食を食べた。味は、あまり分からなかった。会話は、ぎこちなかった。
「怒ってるなら、そう言ってください」
食堂を出て、川沿いの道を歩いているとき、健太が言った。
声は穏やかだった。けれど、その穏やかさが、かえって、追い詰められた気持ちにさせた。足が、止まった。
「怒っていません」
美咲は、そう答えた。
嘘だった。




