第16話 次は、怒ってください
健太は、何かを言いかけて、口を閉じた。それ以上は、何も言わなかった。帰り道の会話は、少なかった。足音だけが、二人分、規則的に続いた。けれど、その拍は、いつもよりも、わずかにずれていた。
駅で別れるとき、健太は、小さく言った。
「また、連絡します」
「はい」
美咲は、軽く頭を下げた。それだけで、背を向けた。
家に帰り、美咲は小さな鍋を洗った。
昼のうちに、仕込んでおいた煮物の鍋だ。冷えた煮汁の脂が固まって、白い膜になっている。スポンジを押し当てて、ごしごしと擦る。洗剤の泡が、手の甲を流れる。何度も、何度も、手が動く。
気づくと、同じ言葉を、繰り返していた。
「怒っていない」
口の中で、小さく。「怒っていない、怒っていない」。それは、呪文のようだった。繰り返すほどに、嘘が、はっきりと浮かび上がってくる。
怒っていた。
本当は、怒っていた。遅れたことより、待っていた自分が情けなかった。
自分から会いたいと言い、期待をして、朝から浮かれて、駅の改札で一時間も立っていた。その期待が外れたことを、認めるのが、怖かった。認めてしまえば、自分が、彼に何かを求めていることを、認めることになる。求めて、裏切られる。そのパターンを、美咲は、知っていた。東京で、何度も、繰り返した。
「怒っていない」と言えば、安全だった。求めていないふりをすれば、傷つかない。そうやって、三年間、生きてきた。
その安全さが、今は、息苦しかった。
鍋を洗い終えて、水を止めた。静けさが戻った。蛇口から落ちる雫の音だけが、規則的に続いている。美咲は、濡れた手を、エプロンで拭いた。それから、携帯を手に取った。画面を見つめる。何も、来ていない。
彼もまた、あの駅で別れたあと、どんな気持ちで帰ったのだろう。
「怒ってるなら、そう言ってください」。あの声は、穏やかだったけれど、どこか、懇願するような響きがあった。彼は、恐れていたのかもしれない。また、自分が誰かを失うことを。また、言葉にされないまま、離れていかれることを。
そう思うと、胸が、じんと痛んだ。
自分の沈黙が、彼を傷つけた。それは、嘘をついたのと同じことだった。
翌朝、まだ空が白みきらないうちに、美咲は健太に電話をかけた。
米を研ぎ終え、出汁の鍋に火を入れたところだった。厨房の窓の外は、うっすらと青い。鳥の声が、ひとつ、ふたつ。携帯を耳にあてると、呼び出し音が、二回、三回と鳴った。切ろうか、と思った。こんな時間に、非常識かもしれない。けれど、四回目で、つながった。
「……もしもし」
眠そうな声だった。いや、眠れていなかった声だ。
「おはようございます。美咲です」
「おはよう、ございます。……どうしたんですか、こんな時間に」
「昨日のことで」
電話口の向こうで、息を呑む気配がした。美咲は、鍋の火を弱めた。それから、手の中の携帯を、強く握った。
「昨日、本当は怒っていました」
言った。
言ってしまった。心臓が、早鐘のように鳴っている。短い沈黙が、電話口に落ちた。長くはなかった。一拍か、二拍。けれど、その間に、美咲の頭の中で、あらゆる最悪の想像が駆け巡った。呆れられたかもしれない。面倒な人だと思われたかもしれない。やっぱり、言わなければよかった。
「そうだと思いました」
健太の声は、静かだった。責める色が、なかった。
「でも、言えなかったんです」
美咲は、続けた。喉が、からからに乾いていた。
「怒っていないって言ったほうが、楽だったから。待っていたことも、情けなかったことも、全部、見せたくなくて。……私のほうが、先に好きになってるみたいで」
言ってから、顔が熱くなった。
耳の先まで、火がついたように熱い。厨房の暗がりに、一人で立っているのに、誰かに見られているような気がした。電話の向こうが、しんと静まり返った。聞こえるのは、自分の鼓動と、鍋の中で出汁が小さく揺れる音だけだった。
「それは」
健太が、口を開いた。
「競争なんですか」
その声は、少し困ったようで、少し笑っていた。
「……え」
「いえ、すみません。真面目に聞いてるんです。どっちが先に好きになったかって、競争なんですか」
美咲は、言葉に詰まった。それから、じわじわと可笑しくなった。そうだ。そんなこと、競争ではない。先も後も、ない。同じ場所に、同じように立っているだけだ。
「違います」
「そうですよね」
「違うと、思います」
「じゃあ」
健太の声が、少し近くなった。
「次は、怒ってください」
美咲は、携帯を握る手に、力を込めた。
「怒っていいんです。待たされたら、待たされたって。遅れたら、遅れたって。連絡がなければ、ないって。……俺は、言ってもらえたほうが、ずっと楽です。言ってもらえないほうが、怖い」
彼は、そこで少し息を継いだ。
「それから、俺も、先に連絡します。遅れるときは、遅れる前に。トラブルがあっても、一行でいいから。昨日は、それができなかった。連絡する余裕もないほど慌ててたのは本当だけど、それも言い訳です。……すみませんでした」
朝の光が、窓の隙間から差し込んでいた。
美咲は、胸の奥から、息を吐いた。長い、長い息だった。肺の底に溜まっていた何かが、一緒に抜けていく気がした。昨日の夜から、胸に積もっていた石が、ほどけて、小さくなっていく。
「……はい」
「はい?」
「次は、怒ります。ちゃんと」
「ありがとう」
健太が、笑った。電話越しの笑い声が、耳の奥に温かく響いた。
「それと、美咲さん」
「はい」
「電話、嬉しかったです。こんな時間にかけてくるなんて、思わなかったので」
「……非常識でしたか」
「いえ。ものすごく、美咲さんらしいです」
その言葉の意味を、聞き返そうかと思った。けれど、やめた。朝の厨房で、顔が赤いまま、小さく笑った。電話を切ったあとも、しばらく、携帯を耳にあてたまま、立っていた。通話の終わった画面に、「通話時間 六分四十二秒」と表示されている。たった六分。それなのに、昨日一日分の重さが、ほどけていた。
出汁の鍋の中で、昆布が静かに揺れている。
美咲は、火を止めた。鰹節を入れ、待つ。一番出汁の澄んだ香りが、厨房を満たした。
梅雨が明けたのは、七月の初めだった。
その週の火曜日、二人は丘の上の公園を訪れた。街を見下ろす高台にある、小さな公園だ。ベンチが三つと、藤棚が一つ。花の季節はとうに過ぎて、棚には濃い緑の葉が重なり合っている。夕方の風が、坂道を上ってきた二人の汗を、涼しく撫でていった。
「ここ、来たことありますか」
健太が尋ねた。
「一度だけ。店を始める前に、この街を見て回ったときに」
「どう思いました?」
「小さな街だなって。……でも、屋根が、きれいだなって」
美咲は、柵に手をつき、眼下を見下ろした。夕日が、瓦屋根の波を、橙色に染めている。川がその間を縫うように流れ、遠くの山並みが、薄い紫色に霞んでいた。商店街の屋根も見える。その中に、ひだまりどころの、少し黒ずんだ瓦が見えた。
暮れかけた空を背に、健太が立ち止まった。
何かを言おうとして、口を開き、閉じた。そのまま、しばらく、言葉を探していた。夕日が、彼の横顔を斜めに照らしている。眉間の皺と、固く結ばれた口元。緊張している、と美咲は思った。数字を扱うときの彼とは、まるで別人のような、不器用な表情だった。
「美咲さん」
「はい」
「俺、あなたのことが好きです」
風が、止まったように感じた。
美咲は、足元の小石を見た。公園の砂利の中に混じった、白っぽい小さな石。予感していた言葉だったはずだ。この数週間、何度もその可能性を考えてきた。それなのに、実際に耳にした瞬間、胸の中で何かが、急に静かになった。嬉しさよりも先に、深い静寂が来た。
ああ、と思った。
この静けさは、恐れではない。長い間、閉じていた部屋の窓を、ようやく開けたときの、あの空気の入れ替わる感覚だった。
「また誰かを好きになったら、前みたいに、自分を見失うかもしれないと思ってました」
健太が、続けた。
言葉を、一つひとつ選ぶように、ゆっくりと。
「あいつのことも、妻のことも、全部、自分が見えてなかったからだって。人を好きになると、その人のことしか見えなくなって、肝心なことが、見えなくなる。そういう人間なんだって、思い込んでたんです」
「……」
「でも、美咲さんと会ってると、違うんです。一緒にいるときの俺は、格好つけずにいられる。失敗した話もできる。遅刻して、謝って、怒られても、怖くない。むしろ、怒ってもらえたことが、嬉しかった」
彼は、小さく笑った。
「自分を見失うどころか、自分が、少しずつ戻ってくる気がするんです。美咲さんの前にいると」
美咲は、小石から目を上げた。
夕日を背にした健太の顔は、逆光でよく見えなかった。ただ、その輪郭だけが、金色に縁取られている。
「私も」
声が、かすれた。咳払いをして、言い直した。
「私も、健太さんの前だと、嫌なことは嫌だって言える気がします」
言葉にしてみて、それが本当だと分かった。東京にいた頃は、嫌だと言えなかった。言えば、居場所を失う気がして。けれど、この人の前では、不思議と、言えた。怒っていたことを、電話で打ち明けられた。待たされて悲しかったと、伝えられた。それは、小さなことのように見えて、美咲にとっては、大きな跳躍だった。
健太は、少しの間、黙った。それから、口を開いた。
「俺を信じてほしい、とは、簡単に言えません」
美咲は、顔を上げた。
「信じられない日も、あると思うので。……俺自身、また誰かを信じるのが怖いのと、同じように」
彼は、少し笑った。自分の弱さを、隠さずに差し出す笑い方だった。
「だから、信じてほしい、じゃなくて。そのときは、黙っていないで、話したいです。信じられなくなったら、信じられないって、言ってほしい。俺も、言います。……そうやって、少しずつ」
胸の奥で、何かが、ことり、と音を立てた。
信じてほしい、という言葉は、これまで何度も聞いた。東京で付き合っていた男も、そう言った。師匠も、似たようなことを言った。信じてほしい。任せてほしい。ついてきてほしい。それは、相手に委ねることを求める言葉だった。けれど、この人は、違う。信じられない日があることを前提にして、それでも、話そう、と言っている。信頼を要求するのではなく、信頼が揺らいだときの、手順を差し出している。
それは、言葉にならない問いに対する、彼なりの答えだった。
この人を信じていいのか。また、傷つくことにならないか。その問いは、美咲の胸の底に、ずっと沈んでいた。言葉にしようとしても、形にならなかった問い。それに、彼は、「約束」ではなく、「方法」で応えようとしていた。
美咲は、彼の手を見た。
夕日の中で、骨ばった指が、体の横に下がっている。店を守るために固くしてきた、自分の手と、よく似た手だった。爪が、きれいに切りそろえられている。几帳面な手。働く人間の、手。この手が、あの夜、脚立を押さえてくれた。この手が、新聞紙を丁寧に靴に詰めた。この手が、湯呑みを包んで、「あたたかい」と呟いた。
「私も、好きです」
言い終えると、恐れていたほど、景色は変わらなかった。
風が吹いた。藤棚の葉が、ざわざわと揺れた。下の道路を、バスがゆっくりと曲がっていく。遠くの川面が、夕日の最後の光を反射して、一瞬だけ、白く光った。何も、変わらない。世界は、昨日と同じ形をしている。ただ、隣で、健太が息をつくのが聞こえた。長い息だった。ずっと止めていた息を、ようやく吐き出した人の音だった。
二人は、しばらく、手をつながずに歩いた。
公園を出て、坂道を下る。夕焼けの空が、次第に紫色に変わっていく。街灯が、ぽつぽつと点きはじめた。足音が、二人分、石畳に響く。その距離は、肩が触れそうで触れない、微妙な間隔だった。
坂の途中、美咲が先に指を伸ばした。
自分でも、驚いた。体が、先に動いた。彼の小指のあたりに、自分の指先を、そっと触れさせる。健太が、はっと息を呑んだのが分かった。それから、少しの間があって、握り返された。
大きな手だった。乾いていて、温かかった。
その手の温度に、答えを急いだわけではないと思えた。彼は、待ってくれていた。美咲が、自分から指を伸ばすのを。自分の意思で、握り返せるように。選ぶ余地を、最後まで、残してくれていた。
美咲は、前を見たまま、歩いた。
街の灯りが、少しずつ近づいてくる。ひだまりどころの、黒ずんだ瓦屋根も、薄闇の中に浮かんでいた。あの屋根の下で、自分は三年間、一人で暮らしてきた。その同じ屋根が、今は、少しだけ違って見えた。
つながれた手のあたたかさが、腕を伝わってくる。
言葉にならなかった問いは、まだ、完全には答えを得ていない。けれど、跳んでみようと思った。着地する場所が、見えなくても。握られた手が、そこにあるから。
跳んだ足元に地面が本当にあるのかを、夏はまだ教えてくれなかった。




