第17話 伝票の順番
恋人になったからといって、ひだまりどころの朝が遅くなるわけではなかった。
美咲は五時半に起き、米を研ぎ、魚に塩を当て、開店前に出汁を取った。六時十分に篠原の軽トラックの音が聞こえ、七時前に豆腐屋の「おはよう」が飛んでくる。窓の外では、いつもの老人が犬を連れて通り過ぎ、新聞配達のバイクが角を曲がる。同じ時刻に、同じ音がする。その一つひとつを、美咲は、この三年間と同じように、体で受け取っていた。
変わったのは、ほんの小さなことだった。
朝の厨房で、携帯がふと光る。画面には、短い一行。『おはよう。今日は暑くなるみたいです』。それを見て、美咲は小さく笑い、出汁の鍋に視線を戻す。返事は、昼休みにまとめて打つことにしている。急いで返す必要はない。返さなくても、怒られない。その安心が、一日の底に、柔らかく敷かれている。
健太は昼間、自分の会社に出勤した。夜に来る日もあれば、仕事の都合で一週間顔を合わせないこともあった。来る日は、たいてい閉店の三十分前だった。引き戸の前で、段差の手前の足音が止まらずに越えて、暖簾をくぐる。「ただいま」とは言わない。「こんばんは」でもない。ただ、窓際の端の席に、黙って座る。美咲も、「いらっしゃいませ」とは言わない。湯呑みを置いて、「今日は鯖ですよ」と言う。それが、二人のあいだの挨拶になった。
日曜の午後、健太が店の棚を直すのを手伝った。
カウンターの奥、食器を収めている木の棚が、去年の梅雨から、少したわんでいた。棚板が真ん中で沈んで、皿を重ねると、きしりと音を立てる。いつか直そうと思いながら、後回しにしていた。美咲が、新しい棚板を買って、古い板を外そうとしていたとき、健太がちょうど店に来た。
「手伝います」
「自分でもできるんですけど」
そう言うと、彼はねじを持ったまま、手を止めた。
「俺は、どうしたらいいですか」
その聞き方に、美咲は、くすりと笑った。
「そこを、押さえていてください」
「ここですか」
「もう少し左」
二人で棚板を持ち上げると、思ったより重かった。無垢の杉板で、一枚が二人分の体重ほどもある。ぎしぎしと軋む古い金具を外して、新しい板を渡す。ねじを、一本ずつ締めていく。ドライバーを回す美咲の手元を、健太が両手で板を支えながら、じっと見ていた。
「一人じゃ無理でしたね」
彼が言った。
美咲が睨むと、彼は、すぐに言い直した。
「俺も、一人じゃ無理でした」
美咲は、思わず吹き出した。それにつられて、健太も笑った。笑うと、肩の力が抜ける。ドライバーを持つ手が、軽くなった。板が水平に収まり、最後のねじを留め終えたとき、二人は、棚の前に並んで立って、仕上がりを眺めた。まっすぐな、新しい板が、古い木の壁に馴染んでいる。
常連の田中は、その棚が新しくなったことに、すぐ気づいた。
翌日の昼、いつもの席に座るなり、田中は目を細めた。
「誰が直したんだ」
「手伝ってもらったんです」
美咲が答えると、田中は、鯖をほぐしながら、「よかったな」とだけ言った。
何がよかったのか、尋ねるのは野暮な気がした。美咲は、お茶を注ぎ足した。田中の顔は、鯖に向いたままだった。けれど、その口元が、ほんの少しだけ、緩んでいるのが見えた。三年前に奥さんを亡くしたこの人は、毎日ここで昼ごはんを食べる。そうして、少しずつ、他人の幸せを、受け取れるようになったのかもしれない。
「うちのやつも、昔、よく棚を直させたもんだ」
ぽつりと、田中が言った。
美咲は、手を止めた。
「俺は不器用でな。板を斜めに付けて、全部ずれた。……それでも、あいつは、文句ひとつ言わなかった」
「いい奥さんだったんですね」
「うるさい女だった」
田中は、鼻で笑った。それから、湯呑みの縁を指でなぞった。
「うるさいけど、いなくなると、静かすぎる」
それ以上、田中は何も言わなかった。美咲も、何も言わなかった。ただ、鯖の皿に、焼きたての大根おろしを、少しだけ多めに添えた。
夏が深まるにつれて、店の窓辺のひだまりは、短くなっていった。
高くなった太陽は、床まで届かずに、窓枠のあたりで止まる。九月になれば、また、少しずつ、床に降りてくるだろう。それまでは、光は、窓の外で待っている。それでも、窓際の端の席は、いつも、誰かのために空いていた。
ある夕方、閉店後の店で、健太が携帯を構えた。
「写真、撮ってもいいですか」
「何のですか」
「このお店の。夕方の、光の入り方が、すごくきれいで」
窓から差し込む橙色の光が、カウンターの木目を、なめらかに照らしていた。美咲は、少しためらってから、頷いた。
「どうぞ。私は、写らないでくださいね」
「分かりました」
健太は、慎重に角度を探して、シャッターを切った。画面を確認し、満足そうに頷く。それから、画面を操作して、どこかへ送信した。
「友人に、送ってもいいですか。……学生の頃からの友人で、森本っていうんですけど。唯一、今も連絡をくれる奴で」
「どうぞ」
「いい店を見つけたって言ったら、行きたいって、しつこいんです」
「お代は、ちゃんといただきますよ」
「伝えておきます」
健太は笑って、携帯をポケットにしまった。
森本は、口が軽い男ではない、と彼は言った。ただ、昔から、警戒心があまりなくて、誰にでも人当たりがいい。それだけの男だと。美咲は、それをそのまま聞いた。もちろん、疑う理由はなかった。写真一枚、友人に送るだけのことだ。
その小さな動作が、後になって、どれほどの重みを持つことになるのか。このときの二人には、まだ、知る由もなかった。
初めて言い争ったのは、混雑した金曜日だった。
お盆を過ぎたばかりの、蒸し暑い日だった。夕方から、団体の予約が入っていた。商店街の組合の会合の後の、十二人。常連の席が埋まるころに、さらに飛び込みの客が三組。厨房は、ほとんど戦場だった。美咲は、焼き場と鍋場を行き来しながら、レールに並べた伝票を、目だけで追っていた。
健太は、その日、七時過ぎに店に来た。
いつもの席に座るつもりだったのだろうが、満席だった。美咲が「ごめんなさい、今日は」と言うと、彼は「手伝います」と言って、洗い場に回った。その手際は、思ったよりも悪くなかった。皿を洗い、拭き、棚に戻す。流れが止まらない。美咲は、ありがたいと思った。ありがたいと思いながら、焼き場に集中していた。
事件は、八時過ぎに起きた。
美咲が、裏の冷蔵庫に魚を取りに行って、戻ってきたときだった。厨房のレールに並んだ伝票の順番が、変わっていた。
左から右へ、時間順に整然と並んでいる。見た目は、美しかった。きちんと整列している。けれど、美咲の頭の中の順番とは、まるで違っていた。火の入るのに時間がかかる煮魚が、後ろに回っている。五分で焼ける生姜焼きが、先頭に来ている。味噌汁は、途中に挟まっていた。
「あの」
美咲は、声をかけようとした。けれど、そのとき、もう次の注文が入っていた。
「美咲さん、さばの塩焼き、二つ入りました」
「はい」
返事をしながら、レールを見た。どれから手をつければいいのか、一瞬、分からなくなった。頭の中で組み立てていた順番が、崩れている。慌てて並べ直そうとしたが、客席から、次の声が飛んでくる。「すみません、お味噌汁、まだですか」。一人の客に、料理を出すのが、遅れた。三分か、四分。けれど、そのわずかな遅れが、美咲の胸に、冷たい針のように刺さった。
閉店後、団体客が引き上げて、店が静かになってから、美咲は健太に言った。
「伝票には、触らないでください」
自分の声が、思ったよりも低く出た。健太は、洗い終えた布巾を絞っていた手を止め、振り向いた。
「え」
「伝票の順番、変えましたよね」
「ああ。……効率が悪そうに見えたから」
彼は、悪びれずに言った。それが、かえって、胸に刺さった。
「時間順に並べたほうが、見やすいと思って。レールの端にあった伝票が、くしゃくしゃになってたし、順番もばらばらだったから」
「ばらばらじゃないんです」
「え?」
「この店の順番には、理由があるんです」
美咲は、自分の声が震えているのが分かった。怒鳴りたいわけではなかった。けれど、止められなかった。
「煮魚は二十分かかる。焼き魚は十二分。生姜焼きは五分。味噌汁は、いちばん最後に温め直す。だから、火の入る時間の長いものから先に並べているんです。時間順にしたら、全部が逆になる」
健太は、黙った。
「見やすくなんか、してくれなくていいんです。……私には、あの並び方が、見やすいんです」
そこまで言って、美咲は唇を噛んだ。言い過ぎた。分かっている。彼は、善意でやってくれたのだ。忙しい厨房を見て、少しでも楽にしたいと思った。それだけだ。それなのに、止まらなかった。三年間、一人で築いてきた手順を、他人の手で崩された。その事実が、体の奥の古い警報を、鳴らしていた。
「俺が、邪魔だったんですね」
健太が、低い声で言った。
その声は、落ち着いていた。けれど、その下に、深い傷が沈んでいるのが分かった。邪魔。その言葉が、彼の中で、何を呼び起こしたのか。美咲は、気づいた。会社の中で、居場所を失った記憶。自分の手を、誰にも必要とされなかった記憶。
「そういうことじゃない」
美咲の声は、大きくなった。
「仕事を手伝ってくれるのは、うれしい。本当に。……でも、私が決める前に、変えないでほしい」
健太は、エプロンを外した。それを、きちんと畳んで、洗い場の縁に置いた。
「分かりました」
とだけ、彼は答えた。
そして、いつもより早く帰った。引き戸の閉まる音が、静まり返った店に、いやに大きく響いた。
美咲は、その場に立ち尽くした。それから、ふらふらとカウンターの椅子に座った。胸が、締めつけられるように苦しかった。自分が、大切にしているものを守ろうとしただけなのに。どうして、こんなに、苦しいのだろう。
翌朝、美咲は、伝票の束を数え直した。
前夜の分を、一枚ずつ、丁寧に広げる。くしゃくしゃになった紙の皺を伸ばしながら、昨夜のことを、順に思い出した。健太が洗い場を回してくれたおかげで、閉店後の片付けは、普段より一時間早く終わった。彼の助けがなかったら、団体客の皿は、一人では洗い切れなかっただろう。伝票を並べ直したのも、慌ただしい厨房を見て、役に立ちたいと思ったからだ。
それでも、注文の流れを変えられるのは、困る。
両方、本当だった。
彼の助けがありがたかったことも。自分の領分を侵されて、怖かったことも。どちらも嘘ではなくて、どちらか一方を消すことはできない。その二つが、同じ胸の中で、同時に存在していた。
昼過ぎに、健太が店に来た。
開店前の静かな時間帯だった。引き戸の向こうで、足音が、一度だけ止まった。それから、ゆっくりと、戸が開いた。美咲は、カウンターの内側で、顔を上げた。
「昨日は、ごめんなさい」
彼は、戸口に立ったまま、言った。
目の下に、薄い隈があった。眠れなかったのかもしれない。美咲も、同じ顔をしているのだろう。
「言い方がきつかった」
美咲も、そう謝った。声が、かすれていた。
それだけでは、また同じことが起こると思った。謝って、許して、元に戻る。それで済ませたら、次にまた、同じ場所でつまずく。この人と、本当に隣に立ちたいなら、それでは足りない。美咲は、言葉を選んだ。
「ここは、私の店です」
健太が、頷いた。
「でも、あなたがいないと困ることも、増えてきました」
言いながら、自分で驚いていた。それは、事実だった。団体客の夜、洗い場に彼がいて、助かった。棚の板を押さえてくれる手が、ありがたかった。一人で全部やると決めていたのに、いつの間にか、彼の不在が、見えるようになっていた。
「だから、何をお願いするかは、一緒に決めたい」
言い終えると、健太の顔から、緊張が抜けた。大きく息を吐く。「はい」と、短く答えた。
二人は、カウンターの端に並んで座り、裏紙を一枚、広げた。
店の領収書の裏側の、白い紙だった。美咲が、ボールペンを持って、真ん中に線を引く。左側に「頼めること」、右側に「私が決めること」。
閉店後の洗い物。棚の修理。買い出しの運搬。それらを、左に書いた。仕入れ先の変更、献立の決定、伝票の運用。それらを、右に。美咲の字は、小さくて、少し右上がりだった。健太は、それを横から見ながら、時折、頷いた。
「これで、いいですか」
「はい」
健太は、ペンを借りて、紙の端に、一行書き足した。
「味見係」
美咲は、その文字を見た。それから、顔を上げて、健太を見た。彼は、真面目な顔をしていた。冗談なのか、本気なのか、分からない顔。
「採用」
美咲は、その四文字の上に、赤いボールペンで、丸をつけた。
健太が、ぱっと笑った。その笑顔を見て、美咲も笑った。昨日の夜から胸にあった重たいものが、すっと軽くなる。完全には消えない。また、似たようなことが、起きるかもしれない。それでも、その手順を、二人で決められた。その事実が、確かな足場になった。
その夜、美咲は新しく試作した大根の煮物を、健太に出した。
「少し甘いかもしれません」
白い小鉢に、飴色に煮えた大根が、三切れ。柚子の皮を、細く刻んで添えてある。健太は、一口食べて、首を傾げた。咀嚼して、飲み込んで、もう一度、傾げる。
「俺は好きですが、常連さんはどうでしょう」
美咲は、思わず笑った。
以前の彼なら、正しい答えを出そうとしたかもしれない。「おいしいです」と言い切るか、「少し甘すぎるかも」と指摘するか。どちらも、答えとしては、間違っていない。けれど今の彼は、「自分は好きだが、他の人はどうか」と、保留した。彼女が客の顔を考える余地を、残している。
「田中さんには、少し甘いかな」
「そう思います」
「じゃあ、みりんを減らして、もう一度」
「味見係に、お任せください」
健太が、胸を張った。
その平穏に最初の影を落とすのは、一冊の薄い冊子だった。




