第18話 名前と顔
八月の最後の週、昼の営業が終わりかけたころ、咲さんが珍しく、味噌汁を飲み干したあとも席を立たなかった。
いつもなら、五十分の昼休みを一分も無駄にせず、小走りで市役所へ戻っていく人だ。それなのに、その日は、空になった椀を両手で包んだまま、カウンターの上を見つめていた。美咲は、洗い物の手を止めずに、横目で窺った。
「あの、美咲さん」
「はい」
「お願いがあって」
咲さんは、鞄の中から、薄い冊子を一冊、取り出した。A4判の、中綴じの小さな冊子だった。表紙には、市のマスコットキャラクターと、「広報」という二文字。美咲は、濡れた手をエプロンで拭いて、それを受け取った。
「私、今月から、広報課に異動になったんです」
「そうだったんですか。おめでとうございます」
「おめでとう、なのかどうか。……窓口よりは、怒られなくて済みそうですけど」
咲さんは、苦笑した。それから、姿勢を正して、続けた。
「それで、来年度から新しい連載を始めることになって。『まちの台所』っていうコーナーなんですけど。この街で、長く愛されてきたお店とか、地元の人が通ってるお店を、店主さんの言葉で紹介するっていう企画で」
美咲は、嫌な予感がした。
「その第一回に、ひだまりどころさんを、ぜひ、と思って」
胸の奥で、冷たい水が、ぽたりと落ちた。
「私が、毎日通っている店だし。それに、この店は、駅から少し離れているのに、いつも常連さんでいっぱいで。どうしてなのか、ずっと知りたかったんです。写真と、インタビューと、お店の歴史と。……店主さんのお名前と、お顔も、載せたいって」
お名前と、お顔も。
その二つの言葉が、耳の奥に、鈍く響いた。「灯庵」の名前が、雑誌に載っていた日の、白い椀の写真が、脳裏に蘇った。誰かの名前が、誌面に載る。誰かの顔が、記事に写る。その横に、自分の料理が並ぶ。それは、誰もが欲しがる栄誉のはずだった。けれど美咲の胸には、栄誉ではなく、凍えるような怖さが広がった。
名前を出す。
顔を出す。
それは、「ここにいる」と、世界に知らせることだった。誰も自分を知らない街、という安全が、そこで終わる。そして、もうひとつ、もっと底のほうにある恐れがあった。名前を出した自分の料理を、また誰かが、自分のものだと言ったら。
「……ごめんなさい」
気づくと、口が動いていた。
「今は、まだ」
咲さんの顔が、一瞬、曇った。それから、すぐに、笑顔に戻った。
「いえ、いえ。無理にとは言いません。急な話でしたし」
「そういうわけじゃないんです。お店を紹介してもらえるのは、ありがたいと思ってます。でも、名前とか、写真とか、そういうのは……」
言葉が、続かなかった。
咲さんは、冊子を美咲の手から受け取り、鞄にしまった。そして、少し迷ってから、言った。
「締め切りは、来年の春なんです。まだ、半年以上あります。だから、待ちますね」
「え」
「もし、気が変わったら。いつでも」
それだけ言って、咲さんは席を立った。千円札をカウンターに置き、いつものように、小走りで戸口へ向かう。引き戸に手をかけたところで、振り返った。
「美咲さんのお味噌汁、私にとっては、世界でいちばんおいしいんです。それを、もっと多くの人に知ってほしいって、思っちゃったんです。……ごめんなさい」
その声は、真剣だった。美咲は、何も答えられなかった。咲さんが、ぺこりと頭を下げて、引き戸を閉める。足音が、小走りに遠ざかっていく。
店の中が、しんと静まった。
田中が、カウンターの隅で、爪楊枝をくわえたまま、こちらを見ていた。何も言わない。けれど、その目は、全部分かっているように見えた。美咲は、背を向けて、洗い場に戻った。水を出す。茶碗を洗う。水の音が、思考を隠してくれた。
その夜、美咲は、健太にその話をした。
閉店後のカウンターで、健太が、味見係の仕事として、新しい漬物を食べているときだった。美咲は、ぽつりと、昼間のことを話した。名前を載せる、顔を載せる、という話。咲さんが待ってくれると言ったこと。
健太は、箸を置いて、黙って聞いた。
「俺は、読みたいって思います」
聞き終えてから、彼は言った。
「美咲さんが、どんな顔で、どんなことを話すのか。それが、街の人に読まれる。……いいことだと思う。素直に」
美咲は、うつむいた。
「でも、それは俺の都合で。美咲さんが、決めることです」
顔を上げた。
健太は、真っ直ぐに美咲を見ていた。昔、あの嵐の夜に見た、焦点の合わない眼ではなかった。
「怖いんですよね。名前を出すのが」
「……はい」
「東京の人に、見つかるのが?」
「それも、あります。でも、それだけじゃなくて」
美咲は、言葉を探した。カウンターの木目を、指でなぞる。
「名前を出したら、また、誰かに取られるんじゃないかって。……そんなこと、ないって分かってるんです。この街の広報誌の、小さな記事ですよ。誰が取るんですか、って話で。でも、体のほうが、先に怖がってて」
「分かります」
健太は、短く言った。
それから、少し考えて、続けた。
「もし、載せるとしたら、条件をつけたらどうでしょう」
「条件?」
「取材の前に、聞かれることを教えてもらう。原稿は、掲載前に自分で確認する。写真も、選ばせてもらう。どこを、誰の言葉として載せるのか、全部、美咲さんが決める。……そういう契約にするんです」
美咲は、目を瞬いた。
「契約」
「口約束じゃなくて、紙に書いて。誰が、何を、どこまで決めるか。それが分かっていれば、怖さは、少し減るんじゃないかと思って」
彼の言葉は、いつもの、数字の人のものだった。けれど、その根底には、美咲がかつて、持てなかったものがあった。口約束で、すべてを奪われた経験。それを、紙で、手順で、取り戻そうとする知恵。
美咲は、思わず、笑った。
「そういうの、得意ですね」
「契約書は、得意です」
「味見係なのに」
「兼任です」
二人で笑った。笑ったあとで、美咲は、言った。
「でも、今は、まだ、いいです」
「はい」
「いつか、気が向いたら」
「はい」
彼は、それ以上、勧めなかった。急かさなかった。ただ、頷いた。その頷きが、「決めるのは、美咲さんです」という言葉の意味を、行動で示していた。
美咲は、棚の上の、帳簿の束を、見上げた。その下に、まだ、あの雑誌が挟まっている。藍色の線の、白い椀の写真。いつか、あれを、捨てられる日が来るのだろうか。それとも、別の形で、向き合う日が来るのだろうか。
料理は誰のものでもない。店のものだ。
その言葉は、今も、耳の奥に残っている。けれど、少しだけ、意味が変わって聞こえた。この店は、確かに、自分のものだ。けれど、同時に、それを守ってくれた人たちのものでもある。米屋のおばあさんの店先に座った人たち。田中のように、毎日通ってくれる人たち。咲さんのように、この味を必要としてくれる人たち。
店のもの、とは、そういうことなのかもしれない。
師匠の言葉は、悪意で使われた。けれど、言葉そのものには、別の読み方がある。誰かの手柄を奪うための理屈ではなく、誰かの居場所を、みんなで守るための、約束として。
美咲は、まだ、答えを出せなかった。ただ、その言葉を、前とは少しだけ違う重さで、胸の中に置いた。
帰り際、健太は「次の火曜、空いていますか」と尋ねた。
「何かあるんですか」
「夕飯を作ります。うまくできるかは別ですが」
美咲は少し驚いた。健太が料理をするとは、聞いたことがなかった。いつも店で食べるか、買ってきたものを食べていると言っていた。彼女は、笑いながら答えた。
「失敗したら、食べに行きます」
「どこへ」
「ここへ。うちの店へ」
自分の知らない味を、誰かが用意してくれる。そのことが、思いのほか楽しみだった。
火曜日の夕方、美咲は、健太の住むマンションを初めて訪れた。
駅から歩いて十五分、川を渡った先の、四階建ての古い建物だった。エレベーターはなく、階段を三階まで上がる。外廊下の突き当たりのドアの前で、美咲は、一度立ち止まった。手に提げた紙袋の中には、買ってきた桃が二つと、ミニトマトの小さなパックが入っている。何も持たずに行くのは落ち着かなくて、商店街の八百屋で、篠原に選んでもらった。「彼氏のとこかい」と、冗談めかして聞かれたので、「違います」と否定して、すぐ後悔した。
インターホンを押すと、慌ただしい足音がして、ドアが開いた。
「いらっしゃい」
エプロン姿の健太が、そこにいた。
左手には、おたまを持っていた。顔が少し紅潮していて、額に汗が滲んでいる。エプロンは、百円ショップで買ったような、薄いブルーのものだった。紐が前で蝶結びになっていて、それが縦に曲がっている。美咲は、思わず笑いそうになって、唇を結んだ。
「入ってください。散らかってますけど」
部屋に入ると、まず目に入ったのは、壁際に積まれた段ボール箱だった。
三つ、いや四つ。ガムテープで閉じられたまま、整然と積み重ねられている。ひとつの箱には、「書類」と、油性ペンの角ばった字で書いてあった。別の箱には「冬物」。この街に来て、五か月が経つはずなのに、荷解きが終わっていない。
リビングには、小さなテーブルが一つと、椅子が二脚。ソファはない。テレビもない。本棚には、数冊のビジネス書が並んでいるだけだった。カーテンは、白い無地のもの。壁には、何も掛かっていない。生活の匂いが、ほとんどしなかった。
彼は、いつでも、ここを出ていける準備をしている。
そう思った。意識的ではないのかもしれない。けれど、荷物を解かないまま、五か月を過ごす。それは、ここに根を下ろすことを、体のどこかで避けている人の暮らし方だった。かつて、美咲自身が、東京の部屋でそうだった。あの部屋には、結局、最後まで、写真の一枚も飾らなかった。
美咲は、そのことを、口には出さなかった。
「座っててください。もうすぐ、できます」
「手伝いましょうか」
「だめです。今日は、俺の番です」
健太は、台所へ戻っていった。小さな台所に、ステンレスの鍋が一つ。ガスの青い火が揺れている。ぐつぐつと煮える音と、スパイスの香りが、狭い部屋に満ちていた。美咲は、椅子に座って、その背中を見た。長い背中が、不器用そうに鍋を覗き込んでいる。時折、おたまで中身を混ぜては、首を傾げる。分量を計るために、スマートフォンのレシピの画面を何度も確認している。その真剣な横顔が、愛おしかった。
十分後、テーブルに、皿が運ばれてきた。
カレーだった。
白いご飯の脇に、茶色いルーがたっぷりかかっている。じゃがいもが、ほとんど溶けていた。にんじんは、まだ少し硬そうだ。肉は、鶏のもも肉らしいが、大きさがまちまちだった。見た目は、お世辞にも、整っているとは言えない。
「いただきます」
美咲は、スプーンを取った。
健太は、自分のぶんを運んでくると、向かいの椅子に座って、じっと美咲を見た。期待と不安が、半々の顔だった。美咲は、一口、口に運んだ。
噛んだ。
スパイスの香りが、鼻に抜ける。ルーは、少し辛かった。じゃがいもの甘みと、鶏の脂が、舌の上で混ざる。にんじんの硬さが、歯に当たる。塩気は、やや強い。お世辞にも、上手とは言えなかった。
けれど、美咲は、もう一口、食べた。
「どうですか」
健太が、おずおずと尋ねた。
美咲は、スプーンを置いた。目の前の男を見つめた。緊張で、肩が上がっている。唇が、わずかに結ばれている。この人は、いつも、正確な数字を出す人だ。間違いのない答えを、出そうとする人だ。その人が、今、不揃いな具材のカレーを、不安そうに差し出している。
「おいしい」
言ってから、それが本当だと分かった。
「じゃがいもが溶けてますね」
「あ、やっぱり。煮すぎました」
「にんじんは、少し硬い」
「ですよね。時間配分を間違えて」
「塩は、ちょっと強いです」
「やっぱり」
健太は、頭を抱えた。美咲は、笑った。
「でも、おいしいです」
もう一度、そう言った。
「うまくできてないのは、分かってます。でも、ちゃんと、おいしいです。……誰かが、私のために、作ってくれたから」
健太の目が、わずかに潤んだ。彼は、慌てて、スプーンを口に運んだ。それから、「ほんとだ、塩強い」と呟いて、笑った。涙を誤魔化すように。
美咲は、黙って食べ続けた。
自分の知らない味だった。誰かが用意してくれた、自分のためだけの食事。それは、思っていたよりも、ずっと、胸に沁みた。東京にいた頃、誰かに料理を作ってもらった記憶は、ほとんどなかった。付き合っていた男は、料理をしなかった。自分は、料理人であることに誇りを持ちながら、料理を作ってもらうという喜びを、知らずにきたのだと思った。
食べ終えて、二人で皿を洗った。
並んで立つ流し台は、狭かった。肩が触れる。水の音と、皿の触れ合う音が、規則的に続く。健太が洗って、美咲が拭く。無言のまま、リズムが合っていった。拭き終えた皿を、棚に戻す。棚の中は、ほとんど空だった。皿が、三枚。マグカップが、二つ。
「食器、少ないんですね」
「引っ越してから、買い足してなくて」
「今度、一緒に選びましょうか」
そう言ってから、美咲は、はっとした。それは、「ここで暮らすための食器を」という意味だった。健太も、気づいたようだった。耳が少し赤くなった。
「……ぜひ」
小さな声で、彼は答えた。
そのとき、テーブルの上の携帯電話が、ぶるりと震えた。
画面が、光る。健太の目が、一瞬、そちらに向いた。表示された数字の羅列を見て、彼の表情が、わずかに固まった。登録されていない番号だった。ほんの一瞬だった。けれど、美咲は、見逃さなかった。
「出なくていいんですか」
「ああ……いいんです。知らない番号なので」
彼は、携帯を伏せた。
「最近、たまにあって。間違い電話とか、勧誘とか」
美咲は、頷いた。それ以上は、尋ねなかった。ただ、その伏せ方が、以前、喫茶店で見たものとは、少し違うことに気づいた。電源を切るのではなく、ただ裏返す。まだ、決めきれていない動作だった。
けれど、その夜は、それ以上、考えなかった。
部屋の窓の外で、虫の声が鳴いていた。夏の終わりの、細く澄んだ声。カーテンの隙間から、街灯の光が、床に薄い線を引いている。台所の水道の水滴が、ぽたり、ぽたりと落ちる。美咲は、健太の隣に座り、麦茶の入ったグラスを両手で包んだ。
幸せだった。
その言葉を、心の中で、呟いた。幸せ、という言葉の味を、舌の上で確かめるように。それは、甘いだけではなかった。少し、塩気が強くて、少し、煮すぎていて、少し、硬い。完璧ではなかった。けれど、確かに、あたたかかった。
手を伸ばして、健太の指に触れた。彼は、何も言わずに、握り返した。
窓の外の虫の声が、ひときわ高く、夜に響いた。
その幸せを、戸の外から見ている目があったことを、美咲は、まだ知らなかった。




