第8話 金継ぎの椀
男は、最後の一粒まで食べ終えた。
茶碗の底に米が残っていないことを確かめるように、箸の先で縁をなぞる。それから、箸を箸置きに揃えて置いた。皿をほんの少し手前に寄せて、両手を膝の上に載せる。食べ終わったあとの所作にも、やはりどこか几帳面さがあった。誰かに躾けられた人の仕草だった。
「ごちそうさまでした。……助かりました」
絞り出すような声だった。たかが生姜焼き定食に対する礼にしては、あまりに重い言い方だった。美咲は「いえ」とだけ答えて、空いた食器を下げた。流しに置く。水を出す。その音で、なんとなく、彼の沈黙に紛れ込めた気がした。
男は上着のポケットから、携帯電話を取り出した。
濡れてしまったのか、画面を何度か拭いてから電源を入れる。ぱっ、と青白い光が男の顔を照らした。通知が、堰を切ったように並んでいくのが、斜めからでも見えた。数十件はあるだろう。振動が、カウンターの木を小さく震わせる。男は画面を見つめたまま、微動だにしなかった。
その様子を、美咲は流しの前から見ていた。
彼は携帯電話を、そっとカウンターに置いた。それから、画面を下にして、伏せた。
その仕草を見た瞬間、胸の奥に古い痛みが走った。スマートフォンを伏せる、あの動き。東京の部屋で、付き合っていた男が話の途中で見せた、あの動き。話を終わらせるための動きだった。けれど、目の前の男の手は、少し違った。伏せたあと、彼は電源ボタンを長く押して、画面を完全に消した。それから、携帯電話を、ポケットの奥に押し込んだ。
「いいんですか」
思わず、声が出ていた。
「え?」
「連絡が、たくさん来ていたみたいですけど」
男は少し驚いた顔で美咲を見て、それから曖昧に笑った。
「大丈夫です。……仕事の連絡と、あとは、どうでもいいやつなので。今夜はもう、見ないことにします」
どうでもいいやつ、と言うには、その声に、疲れが滲みすぎていた。美咲はそれ以上追わなかった。ただ、伏せて、切って、しまい込む。その動作に、彼なりの意思を感じた。誰かの話を聞くために、自分の端末を切る。今ここにいるために、向こう側を閉じる。あの男には、できなかったことだった。
伏せる、という動作に、美咲はもう一つ、思い出すことがあった。
東京の部屋で付き合っていた男は、美咲が灯庵の話を切り出すたびに、携帯を伏せた。最初は、たまたまだと思っていた。けれど、ある夜、彼女が「今日、また皿を取り上げられて」と言いかけたとき、彼はスマートフォンの画面を伏せて、ベッドに背を向けた。「疲れてるんだろ。寝よう」。優しい声だった。優しい声で、話を終わらせられた。
その夜から、美咲は職場の話を、彼にしなくなった。話さなければ、伏せられることもない。そうやって、一つずつ、言わないことが増えていった。言えないのではなく、言わない。自分でそう決めたと思っていた。けれど、決めさせたのは、あの動作だったのだと、今は分かる。
目の前の男の指は、同じ動作をして、違う意味を持っていた。
急に、部屋が静かになった。雨音が少し遠のき、屋根を叩く粒が、ぱらぱらとまばらになっていく。
「ここは、お一人で?」
男が訊いた。皿を下げ終えた美咲に向けて、少し控えめな調子で。
「ええ。三年前から」
「全部、お一人で」
「大工さんに頼んだのは、屋根と水回りだけです。あとは、休みのたびに」
「それは、すごい」
男は、梁を見上げた。電灯の光を受けて、飴色に光る太い木が、天井を横切っている。
「僕は、自分の手で何かを直したことが、ないかもしれません。ものも、人間関係も、会社も。直すより先に、壊れてしまうか、壊されてしまうかで」
その言い方は、ひとりごとのようだった。美咲は、まな板を拭く手を止めた。
「直したと思っても、直ってないこともありますよ」
思いがけず、そんな言葉が口をついた。
「柱を磨いても、芯のほうが傷んでたり。見えるところだけ新しくしても、湿気が回ってきたり。……一年かけたのに、去年の梅雨に、また床がたわんだんです」
「それでも、また直した」
「他にやることもなかったので」
男が、ふっと笑った。今度の笑みは、先ほどのぎこちないものと違って、目の端まで届いていた。笑うと、少しだけ幼い顔になる人だった。
「毎日、こういう料理を?」
「毎日です。日替わりと、定番と。……昼は、おかげさまで、そこそこ混みます」
「毎日、同じことを続けられるのは、強い人だと思います」
「強くはないです」
美咲は思わず、首を振った。
「止まるのが、怖いだけなんです。手を動かしていないと、考えてしまうので」
言ってしまってから、しまった、と思った。初対面の、名前を知ったばかりの男に、何を言っているのだろう。けれど男は、聞き流さなかった。笑うのをやめ、真剣な目で彼女を見た。そのまま、静かに頷いた。
「分かります」
それだけだった。「そんなことないですよ」とも、「えらいですね」とも言わなかった。分かる、と言った。その一言が、なぜか、何百もの慰めの言葉より、深いところに届いた。
止まるのが怖い、という感覚を、美咲は、店を開ける前の三か月で覚えた。
改装の最中、日が暮れて手を止めると、がらんとした家の静けさが、一気に押し寄せてきた。電気は半分しか通っておらず、懐中電灯の光が、壁に自分の影を大きく映した。その影を見ているうちに、東京の厨房の声が、聞こえてくる気がした。「もっと速く」「違う」「やり直せ」。聞こえるはずのない声だった。だから、手を止めないようにした。朝から晩まで、床を磨き、壁を塗り、柱に鉋をかけた。夜、疲れ果てて布団に倒れ込むまで、頭の中に声が入り込む隙を、与えなかった。
その習慣は、店が軌道に乗ってからも抜けなかった。休みの火曜に、帳簿をつけ、買い出しをし、翌週の献立を考えるのは、仕事熱心だからではない。何もしない時間が、怖いからだ。そのことを、田中は見抜いていた。だから、「店を閉めるのと休むのは違う」と言ったのだ。
今夜、初めて会った男に、その怖さを言い当てられるように、「分かります」と言われた。大げさな言葉ではない。ただの同意だ。それなのに、三年間、誰にも触れられなかった場所に、手が届いてしまった。
「この味噌汁、出汁は何を使っているんですか」
話題を変えるように、健太が尋ねた。
「昆布と、鰹節です。昆布は、前の晩から水につけておくだけで」
「前の晩から」
「お料理は、前の日から始まってるんです」
健太は、空になった椀を見つめた。
「母の味噌汁とは、違うんです。具も、味噌も。でも、同じ種類の味がします。何て言ったらいいか……帰ってきた、って、体が思う味」
美咲は、布巾を持った手を止めた。そんな言葉を、客から聞いたのは、初めてだった。うれしい、というより、怖かった。この人は、ずっと帰る場所を持たずに歩いてきた人なのだ。その事実を、味噌汁一杯から読み取ってしまった自分が、いたたまれなかった。
カウンターの上に、品書きの短冊が立てかけてあった。店の名前の入った、小さな木札もある。男はそれに目を留めた。
「ひだまりどころ」
声に出して読む。美咲は、頷いた。
「いい名前ですね。誰が決めたんですか」
「私です」
「どうして、ひだまり?」
いつもなら、笑って、はぐらかす質問だった。屋号の由来を聞かれるたびに、「なんとなく」と答えてきた。誰にも本当のことを話したことはなかった。それなのに、美咲は、窓のほうを見て、言った。
「午後になると、そこの窓辺に、ひだまりができるんです。床に、座布団一枚ぶんくらいの。……改装の最中、一人で床を磨いてたら、そこだけ妙に明るくて。ここで休めばいいって、体が先に思ったんです」
「へえ」
「そういう場所を、誰かに差し出したかった。……それだけです」
男は黙って、窓辺の床を見た。今は夜で、光はない。ただ、街灯の黄色が、濡れた木の床に、細い影を落としているだけだ。それでも彼は、そこに何かを見ているように、長いあいだ目を離さなかった。
「晴れた日の午後に、来てみたいな」
ぽつりと、彼は言った。
「ひだまり、見てみたい」
美咲は、返事をしなかった。できなかった。「ぜひ」と言ってしまえば、約束になる気がした。「営業時間は十一時半から」と言えば、事務的すぎる気がした。結局、何も言えないまま、布巾を絞り直した。
時計が、九時半を指していた。
閉店してから、一時間近く経っている。普段なら、とうに二階へ上がって、湯に浸かっている頃だった。それなのに、美咲の足は、厨房から動かなかった。帰ってもらうべきだ、と頭では思う。雨は小降りになり、あと十分もすれば止むかもしれない。駅までの道は、教えてあげればいい。傘は貸してもいい。そうして、彼が戸口をくぐれば、今日という一日は、いつもと変わらない顔をして終わる。
けれど、彼女はそのどれも口にしなかった。
やがて、男のほうから、小さく言った。
「あの、すみません。……もうほんの少し、ここにいても」
「どうぞ」
即答だった。自分の声の速さに、美咲自身が驚いた。男も、少し驚いたような顔をした。それから、安堵したように、肩の力を抜いた。
「雨が止んだら、帰ります」
「急がなくていいですよ」
同じ言葉を、今夜、二度目に言った。一度目は、食事の前。二度目は、居場所の話だった。
美咲は、新しいお湯を沸かすために、やかんを持ち上げた。その手が、少しだけ、かすかに震えている。理由が分からない。恐怖ではなかった。ただ、長い間使っていなかった筋肉を、不意に動かしたときのような、慣れない疲労感があった。誰かのために、深く心を動かしたこと。誰かの存在を、拒まずに受け入れたこと。
カウンターの向こうの男を、改めて見た。
窓の外の街灯が、彼の横顔に黄色い光を落としている。濡れた前髪が少し乾き始めていて、額の生え際に、細い皺が一本、刻まれている。三十代半ばの顔にしては、年を重ねすぎている影が、頬の下に落ちていた。それでも、シャツの襟は几帳面に折り返され、袖口のボタンはきちんと留められている。都会的な洗練された雰囲気だった。仕立ての良いスーツ、磨かれた革靴、手入れされた爪。どれも、きちんとした暮らしの名残だった。けれど、その洗練の内側で、何か大切な芯の部分が、ぽっかりと抜け落ちているように見えた。
深い孤独が、その身にまとわりついていた。
都会の洗練と、底なしの孤独。そのアンバランスさが、彼女の心を妙にざわつかせた。自分と同じ種類の孤独ではない、と思う。自分の孤独は、選び取ったものだ。けれど彼の孤独は、奪われたものの形をしていた。何かを失って、まだその穴の大きさを測りきれずにいる人間の、立ち姿だった。
この人は、一体何を背負ってこの街に来たのだろう。
問いは、喉元まで上がってきて、そこで止まった。聞かない。聞いてはいけない。それが、この店の流儀だ。そう自分に言い聞かせて、美咲はやかんを火にかけた。
青い炎が、やかんの底を包む。
ふと、思った。ほうじ茶ではなく、もう少し、ちゃんとしたものを淹れてあげたい、と。体の芯から温まるような、苦味と香りのある、本物の一杯を。棚の奥には、自分のためにだけ取ってある豆がある。東京を出る前に、最後に通っていた珈琲屋の主人が、「持っていきなさい」と分けてくれたものだ。ひとりで飲むのが、もったいなくて、まだ半分以上残っている。
それを使う時が来たのかもしれない、と、美咲は思った。
使う、という言葉を、心の中で繰り返した。残しておくのではなく、使う。誰かのために。
手が、棚の奥へ伸びた。




