第7話 賄いの生姜焼き
男は、窓際のいちばん奥の席で、身を縮めるように座っていた。
彼の周りの床には、雨水で小さな水たまりができている。濡れた上着はカウンターの背もたれに掛けさせたが、シャツの襟もとはまだ湿っていて、時折、寒さに耐えるように顎を引いた。いつもは客たちの和やかな話し声で満たされている店内が、今は激しい雨音と、美咲が厨房で立てる物音だけが響く、重たい沈黙に支配されていた。
美咲は、その席のことを考えていた。
窓際の端。常連の誰もが、なぜか座らない席。男はそこへ、迷いもせずに腰を下ろした。偶然だと分かっている。ただ、入口から遠く、いちばん人目につかず、背中を壁に預けられる席を、傷ついた人間は本能的に選ぶ。自分もそうだった。この店を開けた最初の夜、客のいない店で、彼女は最初にその席に座ってみたのだ。いや、座ろうとして、結局、座れなかった。座ってしまえば、自分が客になってしまう気がして。
それ以来、そこは空いたままになっている。
彼が何も知らずに、その席に座っている。そのことを、美咲は黙っていることにした。
湯呑みのお茶を飲み干した男は、カウンターに両手をついたまま、動かなかった。眠ってしまったのかと思った。けれど、よく見ると、視線は厨房の奥、出汁の鍋のあたりに向いている。何も考えていない眼差しではなかった。何かを必死に思い出そうとして、うまくいかないでいる眼だった。
そのとき、静寂の底で、小さな音が鳴った。
くう、と、情けないほど素直な音だった。
男が、凍りついた。耳まで赤くなり、慌てて腹の前で腕を組み直す。その仕草があまりにも不器用で、美咲は思わず口元が緩むのを堪えた。笑ってはいけない、と思った。笑えば、彼のこの小さな恥を、もっと大きくしてしまう。
「すみません。……昼から、何も食べていなくて」
「お昼から?」
「朝も、あまり」
男は、消え入りそうな声で白状した。美咲は布巾を置いた。それは、料理人としての条件反射に近かった。目の前に、空腹の人がいる。そこに食べ物があるかないかは、判断の余地を持たなかった。
「何か、召し上がりますか」
「いえ、もう閉店なのに、そんな」
「閉店です。お店としては」
美咲は少し考えてから言った。
「でも、賄いなら出せます。お客さんには出せませんけど」
男は目を瞬いた。意味を測りかねているようだった。それから、ゆっくりと頬のこわばりを解いて、頭を下げた。
「お願いしても、いいでしょうか」
「苦手なもの、ありますか」
「ありません。……何でも食べます」
その答えが、あまりにも早すぎた。反射のように、一拍の迷いもなく出てきた。美咲は一瞬だけ笑った。笑ってから、しまった、と思った。男が不安そうな顔をする。
「いえ、ごめんなさい。何でも食べる人の答え方じゃなかったから。たいていの人は、少し考えるんです。辛いのは苦手とか、生の魚はちょっととか」
「ああ」
男は、恥ずかしそうに頭をかいた。
「何か選ぶのは、今、あまり得意じゃなくて。選んで間違えるよりは、何でも食べますって言ってしまったほうが、楽なので」
美咲は、その言葉を胸の奥に静かにしまった。何も言わなかった。ただ頷いて、冷蔵庫の前に立った。
扉を開け、中の様子を確かめる。もう片付けを終えたあとだから、品書きの食材はほとんど残っていない。棚の奥に、朝のうちに炊いて小分けにしたご飯が三つ。刻み置きの生姜がタッパーにひと握り。豆腐が半丁。わかめの戻し汁。それから、閉店後の自分の夕食用に残していた、豚肉が一人前。冷凍にもしていない、今日のうちに使わなければならない肉だった。売り物としては少し心もとない。それでも、何か温かいものを出したかった。
豚肉のパックを取り出しながら、美咲は思った。自分の夕食になるはずだったものを、この男に出す。それは「親切」と呼ぶには、あまりに素朴な事実だった。冷蔵庫の中に食べ物があって、目の前に空腹の人がいる。ただ、それだけのことだ。それなのに、体の奥の誰かが、驚いていた。他人のためにこんなに素直に手を動かす自分を、見たのは久しぶりだと。
「じゃあ、生姜焼きにしますね」
「あ……ありがとうございます」
「五分くらいかかります。お茶、もう一杯どうぞ」
急須から湯を注ぎ足し、彼の前に置く。男は、湯呑みを両手で受け取り、深く頭を下げた。
「あの」
「はい」
男は少し迷って、それから、名前を言いかけた。
「僕は——」
苗字が、舌に乗りかけたようだった。ほんの一瞬、口が開き、息を吸い込んだところで、彼は止まった。言葉を飲み込むように、唇を結ぶ。それから、ゆっくりと吐き出した。
「健太です。……健太、といいます」
苗字を名乗らなかった。名乗れなかったのかもしれない。理由は分からない。ただ、その空白に、美咲は何かを見た気がして、深く追わなかった。
「美咲です」
「美咲さん」
「はい」
「突然、ご迷惑をおかけしました」
「いいえ」
美咲はそう答えて、フライパンに手を伸ばした。名前を交わしただけで、見知らぬ他人が、ほんの少しだけ違う顔になる。それが、ふしぎだった。
コンロに火を入れる。青い炎がフライパンの底を舐め、鉄の匂いが立ちのぼる。ごま油を垂らすと、細い煙が一筋あがった。
豚肉を焼く前に、美咲は生姜をすりおろした。刻み置きではなく、わざわざ新しいものを一かけ出して、皮ごと擦る。指先にひんやりした繊維の感触が残り、辛みを含んだ香りがつんと鼻を刺した。醤油と酒とみりん、そこに少しの砂糖。小鉢でたれを合わせ、味を見る。いつもより、ほんのほんの少し甘くした。雨で冷え切った体には、強い塩気よりも、角のない甘さのほうがやさしい気がした。
薄切りの豚肉を、フライパンの中央に一枚ずつ広げる。じゅう、と音が弾けた。
その音が、静まり返った店の中に、くっきりと響いた。雨の音に負けないほど、生き生きと。肉の縁が白く縮み、脂が透き通って、少しずつ焼き色がついていく。玉ねぎを加える。しんなりするまで、菜箸でほぐしながら、転がす。甘い匂いが立ちのぼり、フライパンの上で生姜とたれが泡立ちながら絡んでいく。
背中に視線を感じた。
振り返らなくても分かる。男が、美咲の手元を見ている。無遠慮な眼差しではなかった。ただ、静かに、目で追っているだけだ。調理をしている人間の手は、見ていて飽きないものだと、美咲も知っている。見られることが、苦ではなかった。東京の厨房では、誰かに見られることは、評価されることと同じ意味だった。一挙手一投足が採点の対象で、少しでも乱れればすぐに叱責が飛んだ。けれど今、この背中に注がれている視線には、採点がなかった。ただ、食べ物ができあがっていく過程を、ぼんやりと眺めている人の、安らいだ眼差しだった。
たれを回し入れる。ぱっ、と湯気が上がった。醤油の焦げる香ばしい匂いが、店中に広がった。
皿に盛りつける。肉の下に千切りのキャベツを敷き、脇に残り物のトマトを二切れ添える。ご飯は電子レンジではなく、小さな蒸し器で温め直した。ふっくらと湯気を上げる白いご飯を、茶碗に丁寧によそう。味噌汁は鍋に残っていた分を温め直し、豆腐とわかめを足した。立ちのぼる湯気に、出汁の香りが戻ってくる。
盆に載せ、カウンターへ運ぶ。
「どうぞ。あり合わせですけど」
男は深く頭を下げ、ゆっくりと箸を取った。
指が、わずかに震えているのが見えた。箸先が、最初に狙いを定めるまでに、一瞬の迷いがあった。それから、肉を一枚つまみ、ご飯の上に載せて、口に運ぶ。噛む。飲み込む。美咲は、カウンターの内側から、それを見ていた。
まるで、何年もまともな食事をしていなかったかのように、一口一口を確かめるように、丁寧に食べる男だった。急がず、がっつかず、ただ、噛み、飲み込み、また箸を動かす。その間も、彼の顔から、寂しげな表情が消えることはなかった。けれど、箸が止まることもなかった。
「おいしいです」
一口目を飲み込んでから、男が言った。
店の客なら毎日言う言葉だった。けれど、その日の一言には、少し違う響きがあった。褒めているというより、まだ味が分かる自分に驚いているようだった。舌が、塩気を、甘さを、油の温かさを、きちんと受け取ることができる。そのことを確かめるように、彼はもう一度、ゆっくり噛んだ。
美咲は、胸の奥を静かに掴まれた気がした。
あの夜と同じだ、と思った。ワンルームの台所で、午前三時に、立ったまま飲んだ一杯の味噌汁。熱かった。味がした。灰ではなかった。ちゃんと、味があった。あのとき、自分が感じたことと同じものを、この見知らぬ男が、いま、目の前で感じている。そう思ったとき、喉の奥が、じんと熱くなった。
「急いで食べなくていいですよ」
男が箸を取ってから、美咲はそう言った。
なぜか、自分にも聞かせるような口調になった。男は箸を止め、少し驚いた顔で美咲を見た。それから、小さく頷いた。
「はい」
それだけだった。それ以上は、お互い何も言わなかった。美咲は、それ以上何も尋ねなかった。聞かなければ話さなくて済むことがある。彼女自身、何度もその沈黙に助けられてきた。
男は、味噌汁の椀を両手で持ち上げた。ふうふうと吹いて、一口含む。目を閉じて、しばらくそのまま動かなかった。喉が、ゆっくり上下した。椀をカウンターに置いたとき、目尻がうっすらと濡れて見えたのは、湯気のせいだったかもしれない。美咲は、見ていないふりをして、布巾を絞った。
「この椀」
しばらくして、男が言った。指先が、椀の縁に走る細い金の線をなぞっている。
「割れたものを、直したんですか」
「ええ。金継ぎで」
「きれいですね。……直したところが、いちばんきれいに見える」
美咲は、意外な顔をして彼を見た。そんなふうに言われたのは、初めてだった。店の器の大半は、欠けたものを直したものだ。客の誰も、その線の意味を口にしたことはなかった。
「割れたままなら、捨てられていたものです」
「捨てなくて、よかった」
男は、椀を手の中でゆっくり回した。金の線が、電灯の光を拾って、小さく瞬いた。彼が何を思ってそう言ったのか、美咲には分からなかった。ただ、その言葉は、器のことだけを指してはいない気がした。
その音だけが、店の中に響いていた。
箸が茶碗に触れる、小さな硬い音。味噌汁をすする、かすかな息。それは、客の食事の音として毎日聞いているはずなのに、今夜は、ひとつひとつが輪郭を持って耳に届いた。他人が食べる音は、ときに耳障りで、ときに安らぎになる。母が台所で立てていた包丁の音を、子どもの頃の美咲は、布団の中で聞いていた。あの音と同じ種類の安心が、そこにあった。
東京の厨房では、食べる音を聞いたことがなかった。皿が下げられる音と、怒号と、水の音ばかりだった。作った料理が、誰かの口の中でどうなっているのかを、考える余裕はなかった。いま、目の前で、料理が人の体に入っていく。その当たり前のことが、あまりに静かで、あまりに確かで、美咲は目を逸らせなかった。
手持ち無沙汰になった自分に気づく。いつもなら、客の食事中に、立ち話をすることがある。田中さんとの冗談、咲さんの愚痴、靴屋の主人の世間話。けれど今夜は、何も話すことがなかった。話さなくても居心地が悪くなかった。こんなことは、初めてだった。
美咲はふと思いついて、小さな丼を取り出した。冷蔵庫からもう一人前、残っていた味噌汁と、ご飯を取ってくる。温め直して、盆に載せ、カウンターの内側の丸椅子に座った。
自分のぶんの夕食だった。
開店した日のことを、ふと思い出した。三年前の春、暖簾を初めて出した朝、客は誰も来なかった。昼になっても、午後になっても、引き戸は一度も鳴らなかった。夕方、ようやく一人目の客が来た。作業着姿の中年の男が、道に迷ったと言って、水を一杯だけ飲んで出ていった。美咲は、空いたグラスを洗い場に運んで、立ったまま、少し泣いた。悲しかったわけではない。誰かが、この店の戸を開けた。それだけのことが、体の奥に響いた。その響きを、今夜、思い出している。
温めたばかりのご飯の湯気が、頬にあたる。客には熱いものを熱いうちに出せるのに、自分の夕食はいつも冷めている。そのことに気づいたのは、つい今日の昼のことだ。それなのに、今、手の中の丼は、じんわりと熱かった。
黙って、一口食べた。
出汁が、舌の上に広がる。あたたかさが、喉から胸のほうへ降りていく。誰かと向かい合って食べる食事は、こんなに味が濃かっただろうか。向かい合ってはいない。男は窓のほうを向いて座り、美咲は厨房の内側にいる。二人のあいだには、カウンターという境界がある。それでも、同じ時間に、同じ湯気の匂いを嗅ぎながら食べているというだけで、食事の味が違った。
雨は、少しだけ弱まっていた。
屋根を打つ音が、太い束から細い糸に変わっていく。軒先から落ちる雫の間隔が、少しずつ、開いていった。
窓ガラスを伝う水が、細い川になって流れていく。
男が最後の一粒を食べ終えるのを待っていたように、彼のポケットの中で、何かが震えはじめた。




