第6話 閉店後の客
引き戸を、もう少し大きく開ける。男は一瞬、信じられないような顔をした。それから深く頭を下げて、敷居の手前で足を止めた。
「靴が……床が濡れてしまうので」
「いいですから。拭けば済みます」
「でも」
「入ってください。風が入ります」
美咲が体を引くと、男はようやく一歩、土間に足を踏み入れた。水を吸った革靴が、ぐじゅ、と音を立てる。彼は恐縮したように肩をすくめ、背後の戸を、両手で丁寧に閉めた。ひとつひとつの動作が、不思議なほど几帳面だった。閉めたあと、取っ手の下の掛け金まで、きちんと確認している。
雨音が、すっと遠のいた。
がらんとした店の中は、思いのほか暖かかった。厨房の奥のコンロの熱が、まだ空気に残っている。出汁と醤油と焼き魚の匂いが、時間をかけて木の壁に染みこんで、一日の終わりの店には、いつもこの匂いが満ちている。男は入口に立ったまま、それを深く吸い込んだようだった。それから、居心地が悪そうに、足元の水たまりを見下ろした。
足元には、すでに水の輪が広がっていた。美咲は厨房へ回り込み、洗い場の下から古い雑巾を数枚引き出して、入口の土間に敷いた。
「ここに立っていてください。足の下に」
「すみません。本当に」
「謝らなくていいです。ただ、床が滑ると危ないので」
そう口にしたあとで、それは半分だけ本当の理由だと、美咲は思った。残りの半分は、男の肩が小刻みに震えているのが、さっきから気になって仕方がなかったことだ。濡れた服の下で、体が冷え切っているのが見て取れた。けれど、そう言ってしまうと、自分が彼に関心を持っているという事実を認めてしまう気がした。親切に理由をつけておかなければ、自分の心のほうが落ち着かなかった。
美咲は棚の奥から、古いタオルを数枚持ってきた。客用ではなく、自分用に洗っておいた、少し色の褪せたものだ。ふんわりした新しいタオルは、一枚もこの店にはなかった。
「これ、洗ってありますから」
「そんな、悪いです」
「いいですから」
男は、タオルを受け取るとき、一瞬ためらった。指先が触れ合いそうになって、ほんのわずか、手が引かれる。受け取ったタオルを、彼は顔にあてるのではなく、最初に鞄の表面に当てた。まず、鞄を拭いた。それから、自分の髪を。
美咲は、その順番を見ていた。
「傘は?」
「駅を出たときは降ってなかったんです」
男は申し訳なさそうに笑った。笑い方がぎこちなかった。口の端だけが先に上がって、目がついてこない。長いあいだ、人前で笑うことを忘れていた人の笑い方だった。見慣れない土地で道に迷った人の顔だ、と美咲は思った。道に迷っているだけなら、まだいい。けれど、この人はそれだけではない気がした。
「駅からここまで、ずっと走ってきたんですか」
「ええ。……途中で一度、道を間違えて。商店街の入口が二つあるなんて、知らなくて」
「あの駅は、出口を間違えると、ぐるっと遠回りになるんです」
「そうなんですか。何も知らないものだから」
男は少し黙り、濡れた前髪をタオルで押さえながら続けた。
「この街には、まだ来たばかりで」
最近、という言葉を使わないところが、几帳面だった。美咲は小さく頷いて、それ以上は訊かなかった。何をしにこの街へ来たのか、どこから来たのか、そんなことを知る必要はなかった。ただ、雨が弱まるまでのあいだ、この人をここに置いておく。それだけでいい。そう決めると、少し気が楽になった。
男は、話しながら、店の中をゆっくりと見回していた。黒光りする梁、古い柱時計、使い込まれたカウンターの木目、小上がりの座布団。視線は、どこにも長くとどまらず、けれど何も見逃さないように動いていた。数字を見る人の目だ、と美咲は思った。ものを見て、それが何でできていて、どのくらい手が入っているかを、無意識に測ってしまう目。
「古い家ですね」
「もとは米屋だったそうです」
「手が入ってる。……ずいぶん、時間がかかったでしょう」
褒められたのだ、と分かるまでに、少しかかった。「ええ、まあ」と答えて、美咲は目をそらした。他人にこの店を評価されることに、まだ慣れていなかった。
「靴、脱いでください」
「え」
「足元がぐしょぐしょでしょう。そのまま座っていたら、冷えます。ちょっと待ってください」
美咲は帳場の奥の棚から、新聞紙の束を引っ張り出した。篠原が野菜を包んで持ってくる、朝刊の古いやつだ。四枚、五枚と重ねて揉みほぐし、柔らかい団子状にして、男の前に置く。
「濡れた靴は、この新聞紙を詰めておくと、朝までにずいぶん乾くんです。奥まで入れてください」
男はその紙の団子を、まじまじと見つめた。それから、ゆっくり腰を屈め、革靴の紐をほどいた。靴の中は水がたまっていたらしく、脱ぐと、土間にぱしゃりと音がした。靴下まで色が変わっていた。恥ずかしそうに、片足ずつ靴を持ち上げ、新聞紙を丁寧に詰めていく。踵のほうまで、一つずつ指で押し込むやり方は、几帳面というより、癖に近かった。
「こういうの、子どもの頃に母がやっていました」
男が呟いた。
「雨の日、帰ってくると、母が新聞紙をくしゃくしゃにして、僕の靴に詰めてくれた。何も言わずに。……今も、できるんですね」
最後の一言は、美咲に言ったのではないようだった。ただ、口をついて出てしまった独り言だった。美咲は聞こえなかったふりをして、厨房へ戻った。
やかんに水を張り、火にかける。ほうじ茶の茶葉を急須に入れる。いつもは自分のために淹れる分と、客に出す分を別々に作るのだが、今日は、一人分だけだった。湯が沸くのを待つあいだ、美咲はコンロの火を見つめていた。青い炎が円を描き、その縁がかすかに揺れている。背中で、男が靴下を絞る、小さな水音が聞こえた。そのささやかな音が、なぜか店の中に、自分以外の人間がいることを、はっきりと知らせてきた。
三年間、閉店後のこの店で、他人の気配を感じたことは一度もなかった。
その気配は、少しも嫌ではなかった。それが、少し怖かった。
お茶を注いだ湯呑みを、盆にのせてカウンターへ運ぶ。男は、まだ入口の土間のところで、落ち着かない様子で立っていた。濡れた靴下のまま板の間に上がるわけにもいかず、かといって、どこにも座ってよいと言われていないから、動けずにいる。
「そんなところに立ってなくて、座ってください」
「でも、床が」
「雑巾、敷いておきましたから。カウンターのほうなら土間続きなので、気にしないで」
美咲は、いちばん近いカウンターの席を指しかけて、ふと手を止めた。入口に近い端の席は、田中の指定席だ。夜の店でも、そこは不思議と他の客が座らなかった。反対側、窓に面したいちばん奥の席は、これまた誰も座らない。美咲自身、どうしてその席が空いたままになっているのか、よく分かっていなかった。ただ、そこだけが、どこか、誰かのために取ってあるような空気を持っていた。
「どこでも、お好きなところに」
結局、そう言うしかなかった。
男は店内を見渡し、迷うように視線を泳がせてから、カウンターの奥、窓際のいちばん端の席に、身を縮めるようにして近づいた。椅子の背に手をかけ、「ここで、いいですか」と小さく訊く。
美咲は、自分でも驚くくらい、ほんの少しだけ間を置いてから頷いた。
「どうぞ」
男は椅子を引き、鞄を膝の上に置いたまま、静かに腰を下ろした。窓の外は、雨が白い線になって流れ落ちている。街灯の光が、窓ガラスに滲む。彼の濡れた髪から、一滴、雫がカウンターの木目に落ちた。美咲は湯呑みを彼の前に置いた。白い湯気が、二人のあいだに細い柱を立てた。
男は両手で湯呑みを包み、顔を近づけた。湯気が眼鏡のない顔を撫でていく。長い睫毛にまだ水滴が残っていた。
「……あたたかい」
独り言のように、彼はそう言った。それからはっとして、「すみません、いただきます」と頭を下げ、一口含んだ。喉仏が静かに上下するのを、美咲は見ないふりをして、布巾でカウンターを拭いた。
店の中に、二人きりの沈黙が落ちた。
思えば、閉店後の店に客を入れたのは、これが初めてではなかった。
一年目の冬、終電を逃したという酔客が、戸を叩いたことがある。美咲は、鍵を開けなかった。「もう終わりました」と、磨りガラス越しに言った。酔客は悪態をついて遠ざかり、足音は路地の角で消えた。その夜は、一睡もできなかった。凍えているかもしれない、と思った。けれど同時に、開けなくてよかった、とも思っていた。どちらも本当で、どちらも自分を許してくれなかった。
以来、美咲は、閉めた戸の内側で起こることだけを自分の責任にして、外で起こることは外のこと、と線を引くようにしてきた。冷たく見えるかもしれない。けれどそれは、一人で店を続けていくための、ぎりぎりの工夫だった。助けきれないものまで抱え込めば、自分が先に折れる。東京で、そのことを骨身に染みて学んだ。
今夜、その線を、美咲は自分で越えた。
雨が激しかったから、ではない。男の顔が昔の自分に似ていたから、でもない。そう言い切れる自信がなかった。ただ、気がつくと戸を開けていた。理由は、後からいくらでも付けられる。けれど、体が先に動いたという事実だけは、どの理由よりも正直だった。
屋根を打つ雨の音が、梁の中で反響している。トタンの庇を伝う水が、一定の間隔で、ぽた、ぽた、と土間に落ちる。その規則的な音のあいだに、柱時計の秒針が、小さく割り込んでくる。三つの音が重なり合って、静けさを作っていた。
他人と同じ部屋にいながら、何も話さずにいられる。それは、美咲が長いこと忘れていた種類の時間だった。居心地が悪くないことに、居心地の悪さを覚える。そんな矛盾した感覚のなかで、彼女は布巾を握り直した。
雨は一向に弱まる気配を見せなかった。ごう、と風が鳴るたびに、窓がかたかたと揺れる。雷はいったん遠のいたようだったが、空の底ではまだ低い唸りが続いている。時計の秒針の音が、いつもより大きく聞こえた。美咲は布巾を握りしめたまま、何を話せばいいのか、分からなかった。客と店主なら、会話の型がある。「いらっしゃいませ」「いかがでしたか」「ありがとうございました」。けれど、客ではなく、店主でもなく、ただの人間として向かい合う場面での言葉を、彼女はもうずいぶん長いこと、手放していた。
「この街には、最近?」
やっと口をついて出たのは、そんな、当たり障りのない言葉だった。
「ええ。まだ道も分からなくて」
男は答えてから、湯呑みの縁をそっと指でなぞった。それから一度、言葉を切った。雨音が、その沈黙を埋める。
「知らない場所のほうが、歩きやすいこともありますね」
ぽつりとこぼれた声は、答えというより、窓の外へ向けた呟きのようだった。
美咲は振り向かなかった。振り向けなかった。喉の奥で何かが小さく引っかかったからだ。知らない場所のほうが、歩きやすい。その一文は、まるで三年前の自分が口にした言葉をそのまま拾い上げられたように、耳に残った。誰も自分を知らない。誰も過去を知らない。だから、一歩ずつ踏み出せる。この街で彼女が見つけた唯一の救いを、この見知らぬ男が、何の脈絡もなく言い当ててしまった。
「……そうですね」
やっと答えた声は、思ったより低かった。男は驚いたように美咲を見て、すぐ目を伏せた。それ以上は何も言わなかった。それでよかった。
ふいに、店の電灯が、ちかり、と瞬いた。
二人同時に天井を見上げる。ちかり、ちかり。蛍光灯のかすかな唸りが一段高まり、次の瞬間、遠くで空が割れる音がした。耳の奥を掴まれるような雷鳴だった。灯りが一度、ふっと落ちかけて、すぐに戻った。ほんの一秒にも満たない闇のなかで、窓ガラスが白く光り、カウンターの上に、二人分の影が長く伸びた。
男の肩が、跳ねた。湯呑みの中のお茶が、小さく揺れた。
「大丈夫ですか」
「……すみません。雷、あまり得意じゃなくて」
彼は照れ隠しのように笑った。さっきよりも、ほんの少し笑い方がましになっていた。美咲は「大きかったですね」とだけ言って、自分も湯呑みに口をつけた。手が少し震えていた。雷のせいなのか、他の何かのせいなのか、自分でも分からなかった。
そのとき、見てしまった。
湯呑みを持つ男の左手の薬指に、細い白い帯のような跡が残っていた。日焼けした肌の中で、そこだけがぽつんと、一本の線のように色が薄い。指輪を、長いこと嵌めていた人の指だった。そして、その跡が、まだ新しいということも、美咲には分かった。外してから、そう時間が経っていない。皮膚が、まだ、そこにあったものを覚えている。
美咲は目をそらした。
聞いてはいけないことを、聞かないままでいる。それが、この店で三年間守ってきた、ただ一つの礼儀だった。誰が何を抱えてここへ辿り着いたのか。それを知ろうとしないことが、傷ついた人間にとっての、一番の優しさであることを、彼女はよく知っていた。
聞かないことは、冷たさではない。聞かれたくないことを、聞かれないまま過ごせる夜が、人にはある。美咲自身がそうだった。だから今夜は、この人にもそういう夜を渡そうと、決めた。
男は何も気づいていないふうに、再び湯呑みを両手で包んだ。窓の外で、雨が少しだけ細くなった気がした。けれど、まだ止む気配はない。
雨宿りだけ、のはずだった。
それなのに、彼女の胸のどこかで、閉じたはずの扉が、ほんのわずか、軋んだような音を立てた。




