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ひだまりの約束  作者: 久遠 睦


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第5話 戸を叩く影

夜の営業は、昼とは別の店になる。

暖簾を出すと、街灯がまだ点かないうちから、仕事帰りの客が一人、二人と引き戸をくぐってくる。昼の客は短い時間でさっと食べて帰っていくが、夜の客は箸を持つ前に、一度ゆっくり息を吐く。その息が、店の中の空気を少しずつ柔らかくしていく。美咲は、この時間の店のほうを好きだと感じる日もあった。ただ、今日は、息を吐きたいのは自分のほうだった。

五時半に開けて、最初の客は、いつもの印刷会社の二人連れだった。生姜焼きと、鯖の味噌煮。焼き場に立ちながら、美咲は何度か、棚の方向を意識した。見えないはずの雑誌が、棚の奥の帳簿の下から、じっとこちらを見ている気がした。そのたびに、フライパンの音に意識を戻した。

「美咲ちゃん、今日、元気ないね」

カウンターの端で、印刷会社の年配のほうが言った。ちゃん付けで呼ぶのは、この人くらいだ。

「そう見えますか」

「見えるよ。味噌汁が、いつもの半歩手前の味だ」

美咲は、お玉を持ったまま黙った。それから一口、味見をした。確かに、わずかに出汁が薄い。いつもなら迷いなく足す一握りの鰹を、足し忘れていた。

「すみません、すぐ」

「いやいや、これはこれでうまいよ。ただね、美咲ちゃんは、そういう日があってもいいと思ってさ」

彼は笑って、箸を動かした。叱られたのではない。頭では分かっていても、胸の奥のどこかが、小さな針で突かれたように痛んだ。味噌汁を作り直して出した。客は「だから、こっちのほうがうまいって言ってないよ」と笑ったが、味が戻ったことは、舌の上ですぐ分かったようで、満足そうに頷いた。

七時半を回った頃、向かいの豆腐屋の奥さんが、片手に紙袋を提げて入ってきた。作業用の前掛けをしたままだった。

「これ、明日の分の厚揚げ。うちの人が、揚げすぎちゃってね」

「いつもすみません」

「いいのよ。それより、あんた、今夜は早く閉めなさいな。雷が来るってラジオで言ってたから」

「はい、もう少ししたら」

「一人なんだから、無理しないで」

奥さんは念を押すように言って、帰っていった。「一人なんだから」という言い方が、不思議と棘に聞こえなかった。心配されるのは、少し照れくさい。けれど、この街で三年暮らして、心配されることにも、少しだけ慣れてきた。

午後七時。二組目の客が帰り、店の中がほんの少し静かになった。

その隙に、美咲はエプロンのポケットから携帯電話を取り出し、天気のアプリを開いた。雨雲の画像が、黄色い塊となって南西から近づいてくる。魚屋の青年が言っていた、夜は崩れるという予報だった。ただし、画面の中の塊は、思っていたよりも大きかった。縁の部分が黄色から橙に変わり、中心は赤に近い。到達予想は八時半頃。画面を指で押すと、小さく雷のマークが現れた。

画面を伏せて、美咲は厨房の壁にもたれた。ほんの数秒の休息のつもりだった。

こういう時間に、考えてしまう。名前のこと。名前を持たない料理のこと。ここで出している鯖の塩焼きは、誰の名も付いていない。鯖を焼いたのは美咲で、塩を振ったのも美咲だが、それを食べる人は、料理人の名前など気にしない。気にしないで食べて、満足して帰っていく。それでいいはずだった。だから東京を出たのだ。

それなのに、今日の自分は、まだ名前にしがみついている。

情けない、と思った。三年かけて手放したつもりのものを、雑誌一冊で拾い直している。誰かが「悔しかったね」と言ってくれたら、この胸は少し軽くなるのだろうか。そんな言葉を待っている自分がいること自体が、いちばん悔しかった。

引き戸の隙間から、風が入ってくる。昼間とは匂いが違う。湿った土と、鉄と、遠くの雨の匂いだった。

店の前の路地は、昼間の熱をまだ抱いていた。その熱が、雨の最初の一滴で、一斉に匂い立つのだろう。三年間で覚えた、嵐の前の街の匂いだった。

遠くの屋根が、ひとつずつ暗くなっていくのが見えた。雨が来る前に、雨の足音が先に来る。トタン屋根を叩く最初の一粒、二粒。それが連なって、やがて街全体を覆う低い唸りになる。その唸りが、少しずつ、こちらへ近づいてくるようだった。

「そろそろ来るかね」

戸口から顔を出したのは、向かいの商店街の靴屋の主人だった。さっき昼にも来たのに、また店の前で足を止めている。作業着の袖を肘までまくり上げ、片手にシャッターの鍵束を持っていた。

「今夜は早仕舞いにするよ。この膝がね、昼過ぎから言うこと聞かないんだ」

「膝の天気予報は当たりますもんね」

「当たるとも。当たらなくていいときにばかり当たる」

空は、さっきまで青の残っていた西の端まで、ほとんど鉛色に塗り込められていた。商店街の向こうの屋根が、一枚の黒い影になっている。街灯が、ぽつ、ぽつ、と点きはじめた。

「こりゃ降るな」

「お互い、気をつけましょう」

靴屋は片手を上げ、ガラガラと自分の店のシャッターを下ろしに戻っていった。金属がアスファルトを噛む音が、通りに長く響く。その音を背に、美咲は店先の植木鉢を、ひとつずつ軒下へ寄せた。パンジーの紫が、街灯の下で濡れたように暗く見える。雨が降る前の、息を詰めたような静けさがあった。

店に戻ると、最後の客が勘定を済ませているところだった。二人連れの若い女性で、窓際の小上がりでゆっくり食事をしていた。

「ごちそうさまでした。あの、お味噌汁、おかわりって頼めますか」

「もちろんです。まだ少し残っているので」

椀に注ぎ足すと、女性は両手で包むように持ち、香りを吸い込んだ。連れの友人が「そんなにおいしい?」と笑った。「うん。なんか、疲れてた体の真ん中が、ほどける感じ」。その言葉を、美咲は厨房の奥で聞いていた。体の真ん中がほどける。誰にも名前を残さない、その一言を何より嬉しいと思う自分が、たしかにここにいる。さっき雑誌の中にいたもう一人の自分と、同じ人間なのかどうか、分からなくなった。

八時二十分。女性たちは傘を持っていないのを気にしながら、足早に駅の方角へ消えていった。

最後の客が出たあと、客席側の電灯を落として、厨房の手元灯だけを残す。店じまいの合図だった。明るい店が暗くなると、梁の黒がいっそう深くなって、家そのものが息をひそめるように見える。三年間、毎晩見てきた眺めなのに、今夜は、雷の青白い光が窓から差し込むたびに、その輪郭が一瞬だけ浮かび上がって、見知らぬ場所のようだった。雨樋を流れる水の音が、夜の底でごうごうと鳴っている。

最後の客が出て行ったあとの店は、嘘のように広かった。美咲は、洗い場に積まれた食器を見て、ひとつ息を吐いた。それから暖簾を外すために、戸口へ向かった。

戸を開けると、湿った風が真正面から吹きつけてきた。

遠くの空が、ぱっと白くなった。数秒遅れて、雷鳴が地面を這うようにして届く。ずしん、と低く、体の奥まで響く。戸口のガラスが、びりびりと震えた。さっきまで鳴いていた虫の声が、ぴたりと止まっている。

暖簾を外して腕にかけ、店の中に戻ろうとしたとき、空気がひとつ、深く沈んだ。

次の瞬間、ばらばらと大粒の雨が、路面に落ちた。最初の数粒はアスファルトに黒い点を打っただけだった。けれど数える間もなく、点は線になり、線はたちまち壁になった。バケツをひっくり返したような激しい雨が、街を叩きつけた。

雨は、屋根の瓦を叩くというより、屋根ごと打ちつけているようだった。古い家の梁が、低く唸った。雨樋から溢れた水が、軒先から滝のように落ちて、地面で砕ける。街灯の光が水の膜の向こうで滲み、通りの輪郭が溶けていく。三年間、何度も嵐を見てきた。けれど、これほど激しい雨は、初めてだった。

美咲は慌てて店の中に飛び込み、引き戸を閉め、鍵に手をかけた。

鍵はまだ、半分しか回っていなかった。

引き戸の磨りガラスの向こうで、何かが動いた。人の形をした影だった。雨の白いしぶきの中に、黒い輪郭がひとつ、軒下に飛び込んでくる。同時に、ガラスの表面を、こつ、と指の関節が一度だけ叩いた。強くはない。許可を得ようとするような、遠慮がちな音だった。

美咲は鍵から手を離した。

閉店の札はもう返してある。暖簾も外した。灯りだってさっき、客席側は落としてしまった。外から見れば、この店は完全に今日の営業を終えているはずだった。それでも、影は立ち去らなかった。叩いたあと、動かずにそこに立っている。雨音だけが、ガラスの向こうでごうごうと響いていた。

少し迷って、引き戸を拳ひとつぶんだけ開けた。

風が、一気に吹き込んだ。冷たい水の粒が頬に当たり、足元の土間に斜めに入り込んでくる。その風のなかに、男が立っていた。

年の頃は三十代半ば。背は高いほうで、痩せていた。仕立ての良さそうなスーツは、雨で見る影もなく濡れそぼっている。肩から袖口にかけて色が一段濃くなり、裾からは絶え間なく水が滴っていた。前髪は額に張りついて、顎の先から雫が落ちている。傘は持っていない。その代わり、彼は黒い薄型の鞄を、上着の内側に抱え込むようにして押さえていた。自分の体は濡れ放題のまま、その鞄だけを、守ろうとしていた。

「すみません、まだ……大丈夫ですか?」

男の声は、雨音にかき消されそうなほどか細かった。

ごめんなさい、もう閉めたんです。

その言葉は、舌の上まで用意されていた。美咲は毎日、それを口にすることのできる立場にいた。営業は終わった。店は、もう彼女だけのものになる時間だ。誰にも邪魔されない、三年かけて作り上げた一日の終わり。そこへ見知らぬ男を迎え入れる理由は、どこにもなかった。まして今日は、昼間に雑誌を見てしまった日だった。他人の事情に心を割く余裕など、本当に、残っていなかった。

けれど、口は動かなかった。

男の顔を、見てしまったからだ。

疲れている、というだけの顔ではなかった。長い時間、一人で何かを抱えて歩いてきた人の顔だった。目の下に薄い影が溜まり、頬の線が少し痩けている。濡れた睫毛の向こうで、焦点の合わない眼が、店の奥の暖かい光をぼんやりと見ていた。何かを期待しているというより、期待しないように努力している眼差しだった。それは、東京の部屋の鏡の前で、毎朝見ていた自分の顔によく似ていた。

その背後で、空が白く裂けた。

一瞬あとに、地面を揺らすような雷鳴が落ちる。男の肩がびくりと跳ね、鞄を押さえる腕に力が入った。それでも彼は、逃げなかった。ただ、軒下に半分だけ身を寄せたまま、答えを待っていた。軒の幅は狭く、横殴りの雨が、背中にも足元にも容赦なく吹き込んでいる。このまま立たせておけば、風邪をひくどころでは済まない。

「ご迷惑なら、軒下だけでも借りられれば」

男は、そう付け加えた。

その控えめな言い方が、美咲の迷いに最後の重さを乗せた。この嵐の中に、この表情の男を追い返すことは、どうしてもできなかった。

「……どうぞ」

自分の声が、意外なほど静かに出た。

「雨宿りだけでも、していってください」

閉めたはずの戸を、美咲は、自分の手で開けてしまった。


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