第4話 逃げてきた台所
店を出てからの半年を、美咲はほとんど覚えていない。
付き合っていた男とは、辞めてから二か月で別れた。「そんなに揉めるなら、辞めればいい」と言ったのは彼だった。実際に辞めた美咲を見て、彼は少し安心した顔をした。それがいちばん堪えた。
別れの日、彼は荷物を引き取りに来た。「君は、頑張りすぎるんだよ」。美咲は受け取った合鍵を掌に握り、言い返さなかった。玄関の戸が閉まるまで、彼は一度も振り返らなかった。
ワンルームの部屋で、食べるものを選ぶことができなかった。コンビニの栄養食品と、水と、眠れない夜。包丁を握ろうとすると指先が冷たくなって、まな板の上に落とした。何を口に入れても、灰を噛んでいるような味しかしなかった。一度、実家の母から電話が来て、近況を聞かれ、「忙しいだけ」と答えた。母は「ちゃんと食べてるの」とだけ訊いた。「食べてる」と嘘をついた。
ある夜、午前三時に、突然目が覚めた。空腹だった。冷蔵庫には、味噌と、しなびた長ねぎと、買ったまま忘れていた豆腐が一丁だけあった。美咲は鍋に水を張り、煮干しの粉をひとつまみ入れて火をつけた。味噌を溶き、豆腐を手のひらで崩して落とし、長ねぎを小口に刻んだ。レシピも技術も要らなかった。誰にも見せるつもりのない、誰にも評価されない一杯だった。
椀に注いで、立ったまま飲んだ。
熱かった。味が、した。塩気と、豆腐の甘さと、ねぎの青い匂い。舌の上で、はっきりと味がした。美咲はその場にしゃがみ込んで、声を出さずに泣いた。灰ではなかった。ちゃんと、味がある。自分はまだ、食べ物の味が分かる。
翌朝、不動産の情報を調べはじめた。誰にも見られない場所へ。誰の評価も受けない台所へ。そしていつか、誰かのために、こういう一杯を出せる場所へ。
美咲は雑誌を閉じ、裏返して棚に置いた。
水を一杯飲み、店の窓を開ける。
外では部活帰りの高校生が自転車を押して歩いていた。制服のシャツの袖が風にふくらんでいる。女の子が何かを言い、男の子が笑って自転車のベルを鳴らした。ありふれた午後の路地。誰も彼女の過去を知らない街。そのことが救いになる日と、心細さになる日がある。
エプロンのポケットから携帯電話を取り出し、検索窓に「灯庵」と打った。見るべきではない、と指は知っていた。それでも親指は止まらなかった。
予約サイトの評価は四・八。口コミは数百件を超えていた。いちばん上に表示されたものを開く。『蕪のすり流しが忘れられない。子どもの頃、具合の悪い日に飲んだ味噌汁を思い出した。料理長は天才だと思う』。別の投稿も、その次も、同じ一皿に触れていた。『あの椀だけは、また食べに行く』『一口で泣きそうになった』。星の数は、どれも満点だった。
美咲は画面を見つめたまま、動けなかった。
美咲は携帯の画面を伏せた。
買い物に出ることにした。体を動かしていなければ、思考がまた同じところをぐるぐると回り始める。仕入れ用の買い物袋を肩にかけ、暖簾の下をくぐって外へ出た。
商店街は、午後三時半の気配をしていた。シャッターを半分下ろした店と、まだ開いている店が、歯の抜けた櫛のように並んでいる。靴屋の主人は店の前で、ミシンの針を取り替えていた。「おや、どこへお出かけで」「豆腐と、乾物を少し」「そりゃ結構」。それだけで会話は終わった。この距離感に、この三年間どれだけ助けられたことか。誰も、彼女の過去を問わなかった。誰も、彼女の過去を知らなかった。
乾物屋で、昆布と干し椎茸を買った。店番の老婆が、秤の針を睨みながら言った。
「あら、今日は顔が硬いね」
「そうですか」
「そうだよ。目の下がね」
美咲は微笑んでみせたが、老婆は笑い返さず、昆布を包む手を止めた。
「顔が硬い日はね、出汁を引き直すといいよ。うちの人がそう言ってた。味が決まらない日は、たいてい自分の腹が決まってないんだって」
「……引き直したら、決まりますか」
「さあね。でも、やり直したってことは残る」
老婆は紙袋の口をくるくると巻き、小さな手で渡してくれた。袋の温もりが、手のひらに残った。もう亡くなったという老婆の夫のことを、美咲は思った。昆布を削る手つきの、誰にも真似できない静かさのことを。
商店街の端の掲示板の前で、足が止まった。市の広報や子供会のお知らせ、不用品の譲ります、といった紙が、画鋲で幾重にも留められている。その真ん中に、少し色褪せたポスターがあった。『市立郷土資料館 特別展 昭和の商店街 四月一日〜六月三十日』。白黒の写真が一枚、大きく刷られていた。魚屋と靴屋が隣り合う通り。人々が笑って歩いている。
あの通りは、今、駐車場になっている。
美咲はしばらくそのポスターを眺めていた。行ってみたいと思ったわけではない。ただ、昔の写真の中で、誰かが確かにそこにいて、笑っていたという事実が、今日の自分には少しだけ眩しかった。
帰り道、橋の上で足を止めた。川面は午後の光を細かく砕いて運んでいた。欄干に手をつくと、鉄がほのかに温かい。下流で白鷺が一羽、じっと水を見つめている。何かを待っているのか、何も待っていないのか、ただそこに立っている。美咲はその鳥を、長いあいだ見ていた。
「あんたも一人かい」
誰にともなく呟いて、少しおかしくなった。白鷺は振り向かなかった。ひと息、羽を広げ、音もなく向こう岸へ移っていった。
店に戻ると、裏返した雑誌は、棚の同じ場所に伏せたまま置かれていた。見ないようにしながら、美咲は夕方の仕込みを始めた。味噌を溶き、里芋を下茹でし、米を研ぎ直す。手を動かしていると、心の水面が少しずつ平らになっていくのが分かる。
野菜室の奥に、先週篠原が「試しに」と置いていった春蕪が三つ残っていた。しなびてはいない。白い肌が張りつめて、青い茎の根元に土の匂いがまだ付いている。美咲は無意識にそのひとつを手に取り、皮をむき、おろし金を出していた。
気づいたときには、ボウルに白い雪のようなすりおろしが溜まっていた。
手を止める。その白さを、しばらく見つめた。この蕪を鍋に落として、白味噌を溶いて、焼き葱を添えたら、あの椀の中身ができあがる。四十回目の試作の味。あの夜、誰もいない厨房で、一人で泣きながら食べた味。それをいま、誰も見ていないこの店で、作ろうとしている。
美咲は、おろし金をそっと置いた。
作れば、あの人の一皿になる気がした。師匠が客の前で語った言葉が、鍋の中に溶けていく気がした。これは自分のものだと言い切れる日が来るまで、この料理は、棚の奥にしまっておく。そう決めて、すりおろした蕪はふきんに包んで冷蔵庫に戻した。捨てることは、できなかった。
夜の営業を前に、棚の雑誌を手に取った。資源ごみの袋に入れてしまおうと思った。持ち上げたところで、手が止まった。あの藍色の線をもう一度だけ見たいと、ほんの一瞬思った自分に気づいた。捨てるのは、いつでもできる。美咲は雑誌を帳簿の束の下に差し込み、見えない場所へ押しやった。
五時を過ぎる頃には、さっきまでの動悸はほとんど収まっていた。
店の中を見渡す。
ここには、誰も彼女を傷つける者はいない。この地方都市には、彼女の過去を知る者はいない。川のせせらぎや鳥の声が聞こえるこの街の穏やかな空気は、東京の絶え間ない喧騒とは対極にあった。ここで彼女は、自分の手で、自分のための聖域を築き上げた。一人でいること。それは、彼女が戦って勝ち取った平和の証だった。
この静けさを、誰にも壊させはしない。
彼女は固く、そう誓っていた。
誓いというものが、どれほど簡単に試されるものか。この時の美咲は、まだ知らなかった。五時二十五分、彼女は暖簾を手に取り、夜の営業のために、戸口へ向かった。外の空は、昼間よりも少しだけ重たい色をしていた。




