第9話 初めての喧嘩、初めての一歩
アルシャは何日も何日も練習して、ようやく立ち上がる事には成功した。
だがどうしても、一歩を踏み出してすぐに止まって座り込んでしまう。そこからなかなか進歩しない。
オルトラとクルアハによって、保存食はどんどん増えていく。
クルアハにも手伝ってもらって幾度となく練習するが、それでもアルシャは歩けなかった。
そうしてとうとう、出発の日。
出立直前になっても歩く練習を止めないアルシャに、クルアハが視線を合わせるように跪いて、静かに諭す。
「アルシャ。歩行練習は次の滞在地でやろう。無理のし過ぎも禁物だ。少し、足が腫れてきているだろう?」
クルアハの心配そうな声に、アルシャは明るく笑って首を横に振る。
「わたくしはだいじょうぶよ。だからおねがい、もうすこしだけ……」
「お前、歩く気ないだろ」
不意にアルシャの声を遮ったのは、深いため息を吐き出したオルトラだった。
オルトラの棘がある言葉に、一瞬だけアルシャは身体を固くするが、すぐにオルトラを振り向いて、いつも通りの明るい顔で首を傾げて見せる。
「どうして? わたくし、あるきたいわ。だから、たくさんれんしゅうをして……」
「それは練習になっていない。見ていればお前、一度も転びもしてないじゃねぇか。一歩を踏み出して、転びそうになったらすぐに座り込む。歩こうって気概を微塵も感じねぇな。それとも、そんなに転ぶのが恐ろしいか」
オルトラの強い言葉に、クルアハが何か言いかけるが、すぐにオルトラが「しばらく黙ってろ」と睨んで牽制する。
鋭い棘があるものの、しかし事実には違いないオルトラの言葉に、アルシャは顔を俯かせて、きゅっと両手で己の衣服を握りしめた。
「こわい、わ……」
アルシャはか細い声を、ぽつりと絞り出す。心の内でアルシャは「いけない」と焦った。それでも――止められなかった。
「そう。わたくし、こわいの……ころんだら、いたい、でしょう? いたいのは、こわい。こわいとわたくし、泣いてしまうかも、しれない。泣いてしまったら、オルトラもクルアハも、わたくしのことを置いていってしまうかもしれないわ」
気が付けばアルシャは、一生口に出すつもりがなかったはずの言葉を次々と零していた。
「今までであってきた人、みんなそうだったもの。わたくしが泣いたら、みんないなくなってしまうの」
千年も前からずっと、アルシャの心の深奥にひた隠していたはずの不安、不信、恐怖が、負の感情が、嫌でも溢れ出してしまう。
アルシャはもう、自分が何を口に出しているのか、わからなくなっていた。
「いや……いやよ。オルトラとクルアハに置いていかれること。それだけはぜったいに、いやなの」
「は……くだらねぇ」
そんなアルシャの溜まりに溜まっていた負の感情を、誰にも見せてはいけない激情を一蹴したのは、オルトラだった。
アルシャは思いがけず弾かれたように俯いていた顔を上げて、オルトラに強い眼差しを向ける。
「! くだらなくなんて、ないわ……!」
「くだらねぇんだよ。お前のその思考の全てが」
「!」
アルシャの心が、「ばちん!」と爆ぜた。
アルシャはかっとなって立ち上がると、激情のままに駆け出す。しかし、何度か転んだ。それでも痛みも恐怖も何もかもを忘れて、転ぶ度に起き上がりながら、アルシャはオルトラへと掴みかかった。
「オルトラは、なにもわかってないわ。なにもしらないの! 置いていかれることは、すごく、すごく……こわいことよ!」
「お前のことなんざ知るか。その恐怖とやらもどうでもいい。だが、一つだけ解っていることがある」
オルトラはただ真っ直ぐに、曇りのない青い眼差しで、アルシャを貫いた。
「お前をあの揺り籠から連れ出したのは、俺たちだ。お前が泣き喚こうが何しようが、俺たちはお前を引き摺ってでも連れて行く。お前を連れ出した時から、そう決めている」
予想だにしなかったオルトラの強い言葉に、青く鋭い眼差しに撃たれて、アルシャは大きく目を瞠ると、身体を石のように固まらせてしまう。
「だからくだらねぇんだよ。お前のその無駄な思考は」
「……」
そう言って、オルトラがアルシャの手を振り払う。
アルシャは石のように固まって、ぽかんとしたまま立ち尽くしていた。
そこにクルアハが鼻から細く息を吐き出して立ち上がり、アルシャへと歩み寄ってくるとその亜麻色の小さな頭を撫でる。
「つまり。オルトラはこう言いたいんだよ――アルシャ。僕たちが君を置いていくことなど、万が一にもあり得ないとね」
クルアハによるオルトラ言語の通訳に、アルシャは茫然としたまま目をしばたたかせる。
「そう、なの……?」
「ああ。オルトラと全く同じことを考えていた、双子の僕が言うから間違いない。それと、おめでとう。アルシャ」
「え?」
「君、歩けるようになれたね。凄いよ」
そこでアルシャはようやく我に返って、はっと己の義足を見下ろした。
アルシャは確かにその義足で――立っている。立っていた。いつの間にかアルシャは立てるようになっていて、アルシャは目と口をぽかんと開けたまま、その場をくるくると回って歩いてみる。しかも、歩けるようにもなっていた。
気が済むまで歩いたアルシャは、ゆるゆるとオルトラとクルアハを振り向いて、ぱあっと頬を赤らめながら叫んだ。
「あ、あるけた……わたくし、あるいているわ! みて、みて、みて! オルトラ、クルアハ! わたくし、あるいてる! 錆犬みたいにはしれるわ!」
アルシャは再びその場をくるくると駆け回る。それを見たオルトラが呆れたように目を伏せて、鼻を鳴らした。
「錆犬ほどではねぇだろ」
「オルトラのおかげね! ありがとお、オルトラ! それと、ひどいこといってごめんなさい、オルトラ……!」
アルシャが飛びつく勢いでオルトラに駆け寄ると、オルトラが嫌そうに顔を歪めて身体を仰け反らせる。
「おい近づくんじゃねぇ。謝るな気色悪い。お前が勝手に癇癪起こして、勝手に無様に何度も転けて、勝手に歩けるようになったんだろうが」
「それが、オルトラのおかげ! そうよね、クルアハ!」
「うん。そうだね」
眩しい笑い顔を迸らせ、いつまでも楽しそうに走り回るアルシャ。
それを視線だけで追いかけながら、クルアハが隣にいる片割れへとひそひそと声をかける。
「流石だね、オルトラ。きっと、あの子の心は豊かになった」
「別に。ただ……」
オルトラもクルアハと同じく。元気に走り回るアルシャをひたすらに目で追いながら、独り言ちるように呟いた。
「子どもは癇癪起こして、泣いて、無駄に走り回るのが仕事だろうが」




