第2話 双子の錆犬
◇◇◇
「君だけは逃げろ。オルトラ」
穏やかな低音の声が、己を――オルトラを呼ぶ。
耳元で、己の片割れ――クルアハが「僕を捨て置いていけ」などと暗にほざいている。
オルトラは思いがけず、返事の代わりに盛大な舌打ちを鳴らした。今は片割れに、いつもの如く文句も悪態も皮肉も、何かを吐き捨ててやる余裕すらなかったのだ。
オルトラは必死になって、己と背丈も顔も全く同じ、双子のきょうだいの肩を担いで、彼を引き摺るように走る。
走って、走って、走って、ひたすらに走る。
背後からは、地響きのような馬蹄の音と足音が迫ってくる気配がした。その気配が振り返ったすぐ先にあるのか、遥か遠くにあるのかすら、今のオルトラにはわからない。
自身の〈左腕の魔法〉を以て、追っ手である人間の軍勢に巨大な鉄塊を落としてきたので、それなりに距離は稼げているはずだが、それでも焦燥は拭えない。
気が付けばオルトラたちは、平原を抜けて森の入り口に差し掛かる場所を駆けていた。
視線をぐるりと回すと、森の木々に隠れるように佇む遺跡と化した古い砦を見つける。オルトラは思考を巡らせる間もなく、駆ける足をその砦に向けていた。
「オルトラ、僕のことはいい。君は先に行け。僕もすぐに追いつくから」
クルアハが、またのろのろと大嘘を喋り出す。オルトラは無視した。
「お祖母様と母上からも、きつく言い付けられていただろう。何があろうとも、〈錆犬〉の血だけは次代に繋げと。これは僕ら一族の掟だ。放棄することなど許されない、鉄の掟であり役目。役目を果たしてくれ、オルトラ」
オルトラが肩を担いでやらないと歩けもしないくせに、よく回る口だ、とオルトラはクルアハを忌々しく思った。こんな時でも片割れには腹が立つ。
それでもオルトラはクルアハに構わず走り続ける。目指す砦はもう目の前だ。そこでクルアハを休めて、止血を施し、すぐに森へ入るべきだろう。
「錆犬の血を、絶やしてはいけないよ。オルトラ」
倒れ込むように、オルトラとクルアハは砦へと入る。オルトラは肩に担いでいたクルアハを地面に引き下ろし、仰向けに寝かせると、激しく咳き込んで喉に溜まっていた血を吐き出す。
「ごほっ、げほ! はあ、はあっ、はっ……! いい加減、黙、れ……クルアハ……!」
そこでようやく、オルトラは片割れへと応えた。声は嗄れきっていて、鉄の味がする。不快で堪らないが、己のことはどうでもいい。それよりも、己を庇って矢傷や刀傷を負ったクルアハの応急処置が最優先だ。
オルトラは霞む視界を何とか凝らしながら、横たわっているクルアハの身体に触れる。そこでオルトラは、呼吸をするのを忘れた。
僅かに開かれたクルアハの青い目に、光が無い。触れた身体が、微動だにしない。呼吸の音が微塵も聞こえない。
「あ……?」
オルトラは間の抜けた声を低く漏らしつつ、クルアハの胸に片耳を当てる。鼓動はあった。しかし、その鼓動は瞬く間に弱く、か細くなってゆく。オルトラの全身に、霜が降りたような悪寒がぞわりと這った。
途端にオルトラは手早く止血処置を開始する。
〈左腕の魔法〉で鉄を生み出し、クルアハの傷口を焼いて止血をしようとしたが、オルトラの体力が底を尽きかけていたために、魔法は使えなかった。オルトラは「クソが!」と己を罵って、布での止血処置に切り替える。
オルトラは嗄れた声を振り絞り、クルアハを呼んだ。
「おい……おい、クルアハ。こんなところで寝ている場合か? おい起きろ。クルアハ」
オルトラは片割れを呼ぶ。
「おい、クルアハ。おい……おい!」
何度も呼ぶ。喉が引き攣れて、激痛が走っても、叫ぶ。
「……てめぇ、死ぬ気か? いい加減にしろ。死ぬことなど、許さねぇ。絶対に許さねぇからな。こんな所で死にやがったら、殺す。呪ってやる。おい聞いてんのか、クルアハ!」
片割れを呼び戻そうと、叫び続ける。
「ふざけるなよ! クルアハ! てめぇ独りで、楽になろうとしてんじゃねぇ!」
オルトラの怒号が、地を揺らしそうなほどに響き渡る。それでも片割れは――クルアハは応えない。オルトラの片割れは、絶対にオルトラの声にはいつでも応えるというのに。
オルトラは、どんどん己の視界が真っ黒な闇に呑み込まれていくような感覚に陥り、唇を鋭い犬歯で嚙み千切りながら、項垂れた。
『泣いているのか? 錆犬王の片割れ』
不意に、すぐそばで女の声が凛と響いた。
オルトラは俯いていた頭を弾かれたように上げ、女の声がした方を振り向く。
「錆犬王」とは、かつてのオルトラとクルアハの名の一つだった。それが何故、今になって見知らぬ女に呼ばれる?
『ようやく、〈揺り籠〉を破る者が現れたか。久しいな。待ちわびたぞ』
女は、梟の羽角ような長い耳をしていた。金色の髪をしていた。おそらく人間ではない――人間ではないのならば、敵ではないはず。
そう覚束ない思考を回しつつも、女を見上げるが、その顔は逆光でよく窺えない。女の背後から、目が眩むほどの七色の光が迸っていたからだ。
女は一歩片足を引いて、光の源を片手で指し示して見せる。そこにあったのは、巨大な球体状をした黄金の寄生木。
オルトラは現在の状況が何一つ把握できず、茫然と女と黄金の寄生木を見比べる。そんなオルトラに、何故か女は微笑みを浮かべたようだった。
『さあ、寄生木の〈揺り籠〉を破れ。さすればそなたの願いが叶うことだろう』
その言葉を最後に、オルトラがまばたきをした瞬間、女の姿は煙の如く掻き消えた。
まるで白昼夢でも見ていたかのような心地だ。
(クソが……遂に、幻覚でも見え始めたか? 嗚呼、だが……幻覚でも、夢でも、いい)
オルトラは夢見心地で立ち上がると、七色に光り輝く寄生木へと歩みを進める。
そうして、黄金の寄生木へと手を掛けた。
(神でも、夢でも、幻覚でも……何でもいい。あの馬鹿を……クルアハを。この地獄に、引き戻せ……!)
オルトラが力の限り寄生木を掻き分けて、寄生木の〈揺り籠〉を割り開いた。
すると、迸っていた光が噴水の如く天高く舞い上がり、寄生木の中から、ころんと何かが転がり出てくる。
そこでオルトラはようやく我に返って、後方へと飛びずさった。
「……何だ……!?」
オルトラは寄生木から転がり出て来た何かへと、すぐさま短剣を向ける。
そこにあったものを目にして、オルトラは瞠目せずにはいられない。それは――眠れる少女だった。しかも、両足が無い。
歳は十つにも満たないくらいだろうか。とにかく小柄で、下手をすれば齢五つほどにも見える。亜麻色の髪に、白雪のような柔肌。幼さをより引き立てている丸い眉。紛れもなく幼気な少女。
だが、一番に目をついたのは――梟の羽角の如く長い耳。その自慢の長耳を彩るかのように、様々な耳飾りが少女の寝息と共にしゃらんと揺れている。
ふとオルトラは、幼少の頃に祖母から聞いた、太古の御伽噺を思い出す。
(天地の声を聴くための、長く大きな耳……魔法を創り出した、我ら異人類の祖。神代の時代を生きた古代種――〈エルフ〉、か……?)
そこまで思い至った時。
オルトラの足元で丸まって眠っていた少女が、身じろぎをした。オルトラは思いがけず更に後退る。すると、少女がむくりと上体を起こした。
「んん……むぅ……あれ? わたくし、どうして〈揺り籠〉のおそとに……? 〈揺り籠〉の封印が、よわまったのかしら……」
亜麻色の長い睫毛が震え、少女の目が開かれる。
その瞳は、まるで梟のような。黄昏時の陽光を煮詰めたような、橙色の瞳をしていた。
オルトラの、海よりも空よりも果てしない、青色の瞳とは正反対の色だった。




