第13話 錆犬の歌
◇◇◇
「はあ、はっ、はあっ……は……」
オルトラは息を切らして、ひたすらに森の中を走り抜けていた。
『早く来い。早く来い。早く来い――』
錆犬の遠吠えがより激しく、不安定に揺れ、荒れ狂っている。
そんな片割れの遠吠えを聞きつけて、オルトラは小高い丘の上にある花畑へと駆け付けた。
しかし、それはもう花畑と言うにはあまりにも無残な光景だった。
見渡す限りの花草は枯れ果て、その中心は真っ赤な海が広がっている。その赤い海のそばに、錆犬へと変身したクルアハが佇んでいた。
全身の毛を針のように逆立て、牙を剥き出しにするほどに口吻へと皺を寄せたクルアハは、地を這うような唸り声を上げている。
そんな片割れの異様な姿も目に入らず。オルトラはふらふらと歩み寄ると、赤い海へと「ばしゃり」と水音をたてて両膝を落とした。
「……あ……?」
オルトラの口の端から、間の抜けた声が漏れ出る。
目の前の赤い海からは、もう随分とオルトラの鼻に慣れてしまった匂いがした――アルシャの匂いだ。
これは、アルシャの血だ。
血の海から、オルトラは己が創り出した小さな鋼の足を拾い上げる。鋼の足は、アルシャの足は、ばらばらに砕かれていた。
(何だ、これは)
オルトラの世界から、色が消える。音が消える。ただひたすらに、オルトラの脳を、魂を支配したのはアルシャの血の匂いだった。
(……ふざけるな)
アルシャの顔が、痛みを感じるほどにオルトラの視界で点滅する。
『……いき、たい! わたくし、あなたたちといっしょにいきたいわ!』
『その魔法は平和をもたらす、とってもやさしい魔法よ。わたくし、オルトラの魔法がだいすきになったわ』
『みて、みて、みて! オルトラ、クルアハ! わたくし、あるいてる! 錆犬みたいにはしれるわ!』
『どこにもいかないでね。オルトラ、クルアハ』
『もし、オルトラとクルアハが迷子になってしまったら……わたくし、お歌をうたうように吠えるわ』
『わたくしのお歌をきいて、わたくしを迎えにきてね。オルトラ』
『わたくし、いっしゅんたりともひとりぼっちになるのはいやよ』
『だから、迷子にならないでね。オルトラ』
アルシャの柔い声が、鼓膜の裏側を激しく叩く。
「……ア……」名前を呼ぼうとした。しかし、呼べなかった。
オルトラはそこでようやく、己が今まで一度もアルシャの名前を声に出して呼んだことが無かったことに気が付いた。
渇き切った喉が張り付く。
まばたきを忘れ、呼吸をも忘れる。
アルシャの血の匂いが脳を焼き、腸を煮え滾らす。
あれは、誰よりも寂しがり屋で甘えん坊な、エルフなのだ。
あれは、己とクルアハが居ないと、独りで眠れもしないのだ。
あれは、クルアハがいちいち抱いてやらないと、ぐずるのだ。森も歩けないのだ。
あれは、オルトラが粥を食べさせてやらないと、食べ物も碌に食べないのだ。
あれは、エルフといえど、まだ小さな女の子なのだ。
それだというのに。
あれは血の海をも作り出すほどに傷つけられ、頬を林檎のように赤らめて大切にしていた足も奪われ、ひとりぼっちになっている。
そんなこと――決して許されない。決して赦さない。
誰だ。あのエルフから何もかもを取り上げたのは。
「――!」
気が付けばオルトラは、音にならぬ声で、絶叫していた。
オルトラの足元がたちまち錆び付き、枯れた花畑を一瞬にして錆の砂漠へと変貌させた。
花畑の丘が、錆色に崩れて大地に穴をあけ、沈下していく。
(ど、こだ……何処だ何処だ何処だ何処だ! 何処にいる……!)
オルトラの音無き絶叫が世界を錆び付かせてゆく。
しかし、それは一瞬にして遮られた。
「オルトラ!」
オルトラを呼ぶ声と共に、オルトラの額に凄まじい衝撃と激痛が走った。
オルトラの色無き視界には火花が散り――気が付けば、目の前には額から血を流した片割れ、人型に戻ったクルアハの顔がある。
珍しく、常なる無表情が崩れて、目を血走らせた凄まじい剣幕だった。
それを認識した途端、唇の端に生温い液体がぼとぼとと流れ落ちてくる。血の味だ。おそらくクルアハと同じように、額から垂れ流しになっているのだろう。
そこでオルトラはようやく我に返り、己がクルアハの石頭によって頭突きを喰らったのだと理解した。
いつのまにかオルトラの肩を掴んでいるクルアハの鋼の手が、鈍痛を伴って骨肉へと食い込む。
「いいかい、オルトラ。今は心を乱している場合じゃない。アルシャの血から、魔封じの鎖の痕跡を感じた。おそらく彼女は魔法を封じられ、何もできないまま連れ去られている。早急に救出に向かうべきだ」
「……!」
オルトラは目を瞠る。クルアハが、掴んでいるオルトラの分厚い肩を強く揺らした。
「僕が鼻でアルシャの匂いを追跡する。魔封じの鎖の所持からして、敵は十中八九、大陸連合だ。軍勢を率いている可能性が高い。つまり――」
「俺の錆の魔法で、敵を殲滅する。軍勢相手の戦術はそれしかない。そういう策か」
オルトラの確認の問いに、クルアハがようやくほっとしたように息を吐いて、小さく頷いた。
「……ああ。落ち着いたかい?」
「おありがたくもな……悪かった」
「気にすることはないよ。君に頭突きしたおかげで、僕も頭が冷えた。それより、オルトラ。錆の魔法を使う覚悟は?」
クルアハが目を細めて、淡々と問う。オルトラを窺うように。
オルトラは視線を漂わせながらも、抑揚のない声で語り出した。
「錆の魔法を使えば使用地域一帯が錆び付き、未来永劫、錆で呪われた大地になる。そうなれば、俺たち錆犬は人間共だけでなく、他の異人類にも憎まれるだろう。だが……」
オルトラは青い眼差しを燃やして、真っ直ぐにクルアハを見据えた。
「たとえ錆犬の血が途絶え、世界に憎まれようとも。あいつを捜し出すためなら、俺はどんな手段も厭わない――文句あるか」
オルトラは牙を剝き出しにして、「異論は認めない」とでも主張するようにクルアハを睨む。
それにクルアハは、いつもの無表情を微かに綻ばせた。
「ふふ。奇遇だね。きょうだい――僕も全く同じことを考えていた」
クルアハはオルトラの肩を叩くと、すぐさま立ち上がって再び錆犬へと変身する。
「さあ、乗って。一刻も早く、あの子を迎えに行こう」
「わかっている。飛ばせ、クルアハ!」
駆け出したクルアハの背へ、オルトラは軽やかに跨る。そうして二人は、失われた魂の片割れを捜し求めるかのように、風の如く走った。
オルトラとクルアハはアルシャの匂いを辿って、森を少し抜けた先にある平原に辿り着く。
そこには蔦で覆われた古城が聳え立ち、古城の前には軍勢がひしめいていた。
オルトラは目を細めて古城と平原を見渡すと、確信を持って呟く。
「あの城だな」
アルシャはあの古城の中に居る。オルトラの呟きに、クルアハも頷いた。
「ああ。兵の数は二千といったところかな」
「はっ。お誂え向きの数じゃねぇか」
「そうだね。一人、千人殺そうか」
「相変わらず血の気が多いことで、狂犬殿」
「いけそうかい?」
「……少し待て」
クルアハに制止の声をかけると、オルトラは深呼吸をして目を閉じた。
オルトラは錆の魔法を顕現させる前に、アルシャの言葉を思い出す。
『魔法は、心よ。心をしずめて。歌をうたってみて? 音楽は原始の魔法。歌をうたえば、心がさだまって、魔法もじょうずにつかえるわ』
刹那。
自然と頭に歌が浮かんだ。否。魂に焼き付いているようだった。
オルトラは歌う。心で詠う。魂が燃えるままに。
オルトラはひたすらに想う。酷く渇いている心が、求めるままに。
アルシャを想う。アルシャを捜して歌う。遠吠えを上げる。
『瞬かぬ星は無い
朽ちぬ星は無い
天照す君は星々を統べ
君は宙の王
時空漂いし君は生きとし生けるものを統べ
君は息吹の胎
我ら双月と成りて
巨いなる君を追おう
彗星たる僕は君の熱が欲しい
星屑たる僕は君の呼吸が欲しい
いざや凍てつけ
いざや錆びつけ
天地 片割れ 籠む血潮
我が遠吠えに従え』
オルトラはゆっくりと閉じていた目を開ける。
錆犬の青い瞳が、閃光の如くきらめいた。
もう、迷いも、躊躇いも、何もない。
「行くぞ」
「ああ――血祭りといこうか」
二人は一心同体となって、戦場に躍り出た。
まるで一匹の獣の如く、二人は戦場を駆ける、走る、吹きすさぶ。
二人がすれ違った兵たちは、尽く錆色と化してゆく。己が何をされたのかも理解できぬまま、気が付かぬままに、皆錆屑となって散ってゆく。
クルアハはその強靭な鋼の爪で道を切り開き、錆犬の巨大な顎を以て敵を潰した。
クルアハに跨るオルトラは器用に錆の魔法を操り、瞬く間に兵だけを錆び付かせてゆく。歌を口ずさめば、アルシャを想えば、心の揺らぎは消え失せた。
この戦場にて断末魔は響かない。
聞こえるとすれば、それは錆犬たちの息遣いと、彼らの駆ける足の小気味よい音だけだった。




