第95話 本当の望み
――あんたたちが本当にしたいことはなんだ?――
短くとも明確な問い。
闇の中に溶け込み、その姿を見ることはできないが、俺の目の前にいるだろう、男性らしき存在が声を上擦らせる。
「それは……決まっている。お前を八つ裂きにしたい! 私たちから安寧を奪い、痛みを与えたお前が憎い! 憎い!」
闇が揺らぐ。その揺らぎは俺の視線よりも少し高い位置にあった。
彼が漏らした声の震え。
それは自分の感情に戸惑いと苦しみを滲ませるもの……。
「憎しみが……胸を焦がす。穏やかだった心は失われ、怒りが心を満たす! これを拭い去るためにはお前を――!!」
「……本当に、そうなのかな?」
彼の背後から、女性の声が届いた。
微かな大気の振動が肌に当たり、男性が後ろを振り向いたと感じることができる。
「君は、何を言おうとしている?」
「わたしたちは、意識が希薄な存在だった。仄暗い意識の中、感情も希薄で、ただそこにいる」
「ああ、そうだ。私たちは闇に身をゆだね、束縛などなく、揺蕩う存在」
「ええ、そうであるのに、孤立した存在であるのに、全てを包み込む闇が、わたしたちを一つにしていた」
「そうだな……そうだった。私たちという存在は不分明でありながら、闇というつながりで鮮明だった…………」
闇の世界に、流れ星よりも短い静寂が満ちる。
しかし、女性はその調和を破り、美しい不協和音を言葉の先へ置いた。
「でも……微睡みを与えてくれた闇を失った。それは、なぜ?」
「何をわかり切ったことを! そこの男が――」
「ううん、違う」
彼女の優しくも強い否定に、男性は苛立ちを隠さない。
「ああ、わかっているとも! 我らが創造主のいし――」
「それも違う」
「――っな? では、なんだと言うんだ?」
闇が涙を流す。
見えざる存在が言葉という形を得て、俺の心の中に女性の姿を映し出す。
「強い感情を得てしまったから。光に身を焼かれたとき、わたしたちは恐怖を知った。恐怖から憎悪を覚えた。皮肉にもそれが、わたしたちに強い自己意識をもたらした。その意識が、憎悪こそが、今のわたしたちの苦痛の正体」
「あ……」
男性は言葉を失い、大気がわずかに揺れる。
そよ風が頬に当たると、女性の声が俺のそばで響いた。
「感情はあなたたちのような光の存在にとっては、とても大切な心でしょう。でも、わたしたちにとってはあまりにも濃い心。その濃き重さに、耐えられる存在ではないの。わたしたちは……」
さらに一歩、声が近づく。
「わたしたちの願い。本当に望むもの。それは……希薄な意思と穏やかな闇です」
彼女の言葉に触れて初めて、俺は自分が想像もしなかった思いの存在に気づかされた。
(自分を確立しないことを望む種族。そうか、そういった存在もいるのか……)
不意に、看板に蛍光色の文字が走る。
「だったら、リョウにそれを求めればいいんだよ。そうすれば、君たちもリョウも――」
「やめろ、看板!」
「どうして、これが最適解なんだよ?」
「ああ、そうだな。でもな、それだと謝罪じゃない」
「え?」
「交渉になってしまう……」
彼らに望むものを与え、俺は罪意識を忘れる。それでは意味がない。俺自身が納得できない! そう、俺自身が……。
(フフ、俺って厄介な奴だなぁ)
看板の言うとおり、最適解を選べば解放されるというのに、それを選ぼうとしない。
それは何故か――被害者と加害者という立場で、彼らと交渉を行いたくないからだ。自分が有利な材料を持ち出して交渉を行いたくない。
俺が望むのは、対等な会話だ。




