第89話 自分が自分であるために
王子の母は、心残りを裡に秘めつつも、愛の新たな形を知り、帰る。
俺は看板を片手に、扉のノブに手をかけるが……。
「あと、何回扉が現れるんだ? 俺が訪れた世界に関係あるとしたら、あとはどうなる? 地球やミュールの世界を含めると、行く場所が増えるし」
「それはないと思うよ。クエストのために訪れた世界じゃないから。これに加えて、ギャンブルの世界もないと思う」
「あそこはもう、やるべきことはやったからな。あとは……血の世界? あれが来られると何をすればいいかさっぱりだな。全部ミュールが片付けたようなもんだし」
「そうだね。あの世界の問いは存在しないと思っていいよ」
「あれは俺に何をさせたかったんだ?」
「命の選択」
「命?」
「あの生命体は星そのものエサとしている。そんな存在を助けるかどうか。でも、悩む前にミュールが解決しちゃったし」
「ミュールの管理下で、二度と食べさせない感じになったもんな。となると……残ってるのは、二つの世界か」
二世界――そのうち一つは、俺にとって、とても重苦しいもの。
ノブに置いた手のひらにジワリと汗が滲み出て、指先は硬直する。
でも――
(逃げても仕方がない。いや、逃げるわけにはいかない。これは管理者の問いのためじゃなくて、俺が自分自身と向き合うために必要なこと……)
「行くぞ、看板」
「リョウ」
「なんだ?」
「僕がいる。だから、一人で悩まないで」
「ふふ、ああ、そうだな。それじゃあ、開けるぞ」
一度、硬直した指をほぐし、再びノブに手を置いて捻った。
音もなく扉が開くと、先に広がる光景はお菓子の世界。
スポンジの大地に綿あめの雲。キャンディの花が咲き、チョコの川が流れる。
「この世界は…………久しぶりだな、女神」
彼女の姿は、腐り果てた姿ではなかった。
月光を溶かし込んだような白銀の髪。透き通るほど白い肌に冷気を纏い、甘いお菓子の香りさえも凍てつかせる。
瞳に星霜を湛えた美貌は、もはや人の領域を超え、この世のあらゆる色彩を霞ませてしまうほどに鮮烈――だけど、以前のような神々しさを感じない。
彼女は短い言葉ながらも、自己存在を否定する重い言葉を纏う。
「私は……神をやめた」
「――え!?」
女神は揺らりと手を動かし、そっと自身の胸に置いた。
そして、己の心臓を潰すかのように、徐々に手を閉じていく。
その仕草と同じくして、語気も強さを増す。
「その選択しかなかった。零の空間。全知の共有。安寧の場所。満ち足りた場所――だが! 自我を失う! 一なる存在となり、真の神として還るが……それは、それは――私ではない!!」
「女神?」
「……神の座を失おうとも、私が私であるために、私はここにいる。私が私として始まるために、貴様を殺すこと」
「俺を殺すことで始まる? 看板、彼女は何を?」
「……意味のない行為だよ。でも、彼女の中で君の命を奪うことで、一つの区切りがつくんだろう」
「そんな区切り、やめてほしいんだけど……」
「そうだね、感情優先の道理を纏わない行為。ふふ、まるで人間のようだ」
「――黙れ! 貴様らなどと同列に扱うな! 無知蒙昧な連中め!!」
女神はスポンジの地面を蹴りつけ、穴の開いた場所につま先を捩じり込む。
「与えた、望むものを。だが、奪い合う。授けた、知恵を。だが、争う。戒めた、過ちを……しかるを、人間は私に弓を引いた!!」
ねじ込んだ足を大きく振り払い、スポンジケーキを激しく散らばらせる。
「神の意に逆らい、あまつさえ、神を超えようとする者がいる。認められぬ。認めてたまるものか! 我らが我らであるのは、完璧であるため! であるのに、アスカのような神がいる! 寛容という詭弁の下で放置する神が!!」
――その頃、光の階段の前では
「へっくしょん! ふむ、誰かがワシの噂をしておるの?」
「いえいえ、噂じゃなくて、思いっきり名指しされたじゃないですか」
敷物の上で紙コップにお茶を注ぎながら、ミュールは巨大なモニターをチラ見する。
アスカたちはここで、リョウと看板の成り行きを見守っていた。




