第88話 慈愛
美しい手が土と泥に穢されようとも、地面を殴るのをやめない王子の母。
俺は彼女の手を握った。
「それ以上は、もう……」
「離しなさい! あなたのような若輩に何がわかる!? 腹を痛め、わたくしのすべてを注ぎ込んできた存在が奪われたのです! この悲しみの、何がわかるというのですか!!」
「……正直、その痛みはわからない。でも、一つだけはっきり言えることがある」
「……なんですか?」
「それは、あんたの願いが一つだけ叶ってるということだ」
「わたくしの願いが……?」
困惑と怒りの色が交わる、歪んだ表情を見せる彼女へ、俺はさらなる怒りと混乱を投じるかもしれないと思いつつも、その願いを口に出した。
「息子は幸せだった。この一点だけは、あんたの願いとして叶っている」
風がぴたりと止む。
母は一瞬眉を吊り上げたかと思うとすぐに降ろし、力なく頭を落とした。
「――っ!? クッ、あ……あの子はわたくしと共にいるよりも……幸せ…………だったの、ですね……」
そのまま彼女は言葉を消し去った。その沈黙は、心と体に物理的な重みとなってのしかかってくる。
それに耐えきれず、俺は頬を掻きつつ、曖昧ながらも言葉を振り絞る。
「え~っと、俺にはまだ、愛ってのはいまいちわからない。でも、おそらくだけど、大切にしたいよりも、大切に思うことが大事なんじゃないかな?」
「思う?」
「うん。大切にしたいってなると、ついつい色んなことに口を出してしまう。守ってあげたいからね。でもそれだと、いつまでたっても守られていて、一人では歩めない」
「……わたくしがいるから大丈夫です」
「そうだね。でも、ずっとあんたが一緒にいられるわけじゃない。人には、避けられない別れがある。だからこそ、支えるのではなく、ほんの少し背中を押すだけに留めておくんだ」
「…………支える役目は、あの女だというわけですか?」
「いや、少し違う」
「では、なんだというのです」
「支え合うこともあるけど、それ以上に二人とも自らを選択し、そして共に歩むことのできる存在なんだ」
「……わたくしと息子とは違い、対等な存在、と言うのですね」
「まぁね。で、それを信頼し、見守り続けることが愛。母の愛、なんじゃないかなぁ?」
「それが、『大切に思う』、ですか?」
「……うん」
我ながら手探りの回答で、自信なげな返事をしてしまった。
王子の母は、静かに首を横に振った。
「そのように割り切れるほど、愛は単純ではありません」
「あ、うん。そうかもね……」
「ですが……」
彼女は立ち上がり、膝についた土埃をはたく。
「あなたの言うとおりでしょう」
「え?」
「あの一点、息子が幸せだったという点は……それならば、そう、それで……」
涙を流し始め、自分自身を抱きしめる。
「それでよかったと思うしかない! わたくしの中にある、息子を大切にしたいと思う心は、消えない。大切にしたい、ひたすらあの子を。でも――これは――愛ではなく――」
――母のわがまま
彼女の言葉に看板がピクリと反応を示すが、何も描くことなく沈黙を保つ。
母は下弦の月を見つめ、小さく呟いた。
「闇夜の空に浮かぶ月はどうして、あれほどまでに孤独なのでしょうか?」
「……そうだな。でも……優しい光で道を照らし出してくれる」
「……フッ、いいでしょう、多少は気が晴れました。燻る心残りと共に、ここから去りましょう。ですが、最後に一つだけ」
「なに?」
「あなた、生意気な男ね」
「え?」
「では、ごきげんよう」
王子の母は微笑みを浮かべ、夜風に揺れるまつげをそっと閉じて、闇へと溶けるように去っていった。
俺は最後の言葉に首をひねる。
「生意気ってどういうこと? ガキが愛を語りやがってみたいな? なぁ、看板、どう思う?」
「…………もう、我慢しなくてもいいよね?」
「なにが?」
「ほら、さっき、『母のわがまま』って言ったでしょう。それって『ママのわがママ』って駄洒落になるよね!!」
「…………」
「ふふ、笑ってくれてもいいよ。ドヤァ」
「看板、今からお前をボコすけど、これは愛だから、しっかり受け取ってくれよ」
「なんで!? それって虐待でしょう!!」
「やかましいわ! こっちが真剣に悩んでるときに、なにを馬鹿なこと考えてんだよ、チョップチョップ――っ!? か、固ぇ」
「馬鹿だなぁ、君は。僕は連邦製の素材で作られてるんだよ」
「いたたた、クッソ、愛の教育的指導も満足にできないのか!!」
「それは愛じゃなくて暴力、フフ」
――看板
自分の手を押さえて痛みに悶えるリョウを見つめる看板。
(見守る愛――愛・寛容・贖罪・独坐。君の世界が形作られていくね。汚染率は――いや、リョウの創生率と表現すべきかな。その数字は132%。それはもう、誰も見たことがない世界……)




