第62話 知の峻嶺 (しゅんれい)
――魂の混融
看板の心と俺の心をリンクさせて、壊れてしまった看板の心を癒すとミシャは言う。
そのために、心の世界を模倣した疑似空間を用意する必要がある。
そこは……俺と看板のイメージが交差する場所だそうだ。
ミシャはちらりと勇者と魔王を見た。
そして、僅かな沈黙を挟み、右手の手のひらを開くと――ポンっといった感じで焦げ茶色の本を生み出した。
「そちらのお二人には、本の姿がわかりやすいでしょう」
この謎の言葉に、俺も勇者も魔王も首を捻る。
ミシャは本を開いた。
すると次の瞬間には――
「「「――っ!?」」」
真っ黒な床と、透明な半球状の天井に覆われた施設内に立っていた。
突然の出来事に、メルを除く俺たちは軽いパニックを起こす。
「な、何が起こったんだ!?」
「もしや、空間の魔法!?」
「いや、勇者。魔力を感じない。おそらく、それとは別系統の力だろう」
俺たちの取り乱す姿に、ミシャは小さな会釈と共に謝罪を交えた。
「驚かせてしまい、申し訳ありません」
「ミシャ、これは? もしかして、科学的な転送みたいもの?」
「いえ、今のは転送でも空間を操る魔法でもありません。ただ、移動を省略しただけです」
「移動を省略?」
ミシャは本を開き、ゆるりと語る。
「世界を一つの物語と仮定し、この本に封じます。そして、任意のページを開くと、そこから物語が始まるということです」
この説明に対して、俺は理解に苦しむが、勇者と魔王は各々それなりの解釈で受け止めたようだ。
「なるほど、移動の省略。本の中には移動した事実はあるけど、その部分を読み飛ばして、読みたい場所から読み始めたってわけだね。つまり、この場所に移動した場面から」
「だ、だがこれは、世界を外側から俯瞰する者の力ではないか!? 言わば、神の御業!!」
二人の驚愕を前に、ミシャの端正な輪郭が、ほんの少しだけ和らぐ。
「ふふ、そう受け取ってしまうのは仕方ありませんね。ですが、この程度であれば、私たち低次元存在でも十分に届く、知の範疇なんですよ」
「私たちにも? いや、そこにたどり着くまでに、一体どれだけの知識を積めばいいんだ?」
「連邦――神に匹敵する知と力を持つ、我々と同じ存在……なんともはや、言葉もない」
この話についていけない俺は、メルに助けを乞う。
「メル……」
「そうですね、リョウさんにわかりやすく説明すると、動画サイトのシークバーでしょうか」
「シークバー?」
「例えば、10分先の場面に合わせてシークバーを押す。すると、動画は10分先から始まりますよね?」
「うん、そうだね」
「ですが、リョウさんが視聴しなかった9分間の動画が存在しない、というわけにはなりませんよね?」
「そりゃね」
「今回は移動に費やしてた9分間を省略して、移動が終えた10分の場面から動画が見始めた、という状況です」
「……はい」
「ただ、視聴する存在とは違い、リョウさんたち自体が動画の世界にいる存在……視聴者は9分の内容を把握できませんが、リョウさんの記憶には、その9分の記憶が宿っていますよ。少し前を、思い返し見てください」
「少し前……」
メルに言われた通り、あの広場からの場面を思い起こす。
「…………うわ、ほんとだ! 歩いてここに向かっている記憶がある!! 途中で魔王が自動ドアに興味をもって、勇者と話していた記憶がある!!」
魔王が透明なガラスのような自動ドアの前でしゃがみ込み、
『これならば油圧を使い、床を踏むということで再現できそうだな』
と、言っている傍で勇者が、
『そんな面倒な機構を使うより、魔石の反応を利用して、動かせばいいじゃないか』
と、話していた記憶がしっかり残ってる!!
記憶があるはずなのに、記憶があると認識できない妙な感覚。
俺はそれに吐き気を覚えた。
「うぷっ、なんか気持ちが悪い」
「慣れないうちは、記憶に混乱をきたしますからね。ですけど、脳への深刻な影響などはありませんよ」
「そうなの、メル? じゃあ、問題ない力なんだ?」
「はい……もっとも、猫の一族とは相性の悪い力ですので、私個人としてはあまり好まない力ですが」
そう言って、メルはちらりとミシャを見た。
ミシャはシャープな眉と眉の間に皺を生む。
彼女の感情表現は分かりにくいが、あの皺は申し訳なさで生まれたものだと思う。
俺は場の空気を変えるようにふ~っと息を吐き、ミシャへ話しかけた。
「移動の理屈はもういいや。ここで何をすればいい?」
肩に背負った看板を見上げ、すぐにミシャへ視線を戻す。
「看板を救うために……」
この言葉を受け取り、ミシャはただ静かに、こくりと頷いた。
――その後、透明な天井と黒い床に挟まれた施設内に俺と看板だけを残して、みんなは外へ出ていった。
この部屋で、俺と看板の心を繋ぐらしい。
天井からミシャの言葉が降ってくる。
「では、看板さんを中央の床へ。そこにくぼみがありますので」
言われた通り、部屋の中央へ。
くぼみがある。ここに看板を突き刺せってことらしい。
そこへ刺そうとしたが、わずかに押し返されるような感触があった。
だから、力を込めてぐっと押し込む。
――あのさ、リョウ。僕は君と違って繊細なんだからね――
そんな嫌味を描くこともなく、看板は冷たく沈黙したまま……。
一瞬だけ、柄を握る手に力が籠る。
すると、現実へ引き戻すように、再びミシャの声が降ってきた。
「今から看板さんの心にアクセスして、彼の心象風景を表します。リョウさんはそこに現れた看板さんと接触してください」
「接触してどうすればいい?」
「それはあなたが考えることです。迷い、歩みを止めてしまった友へ、あなたがどう向かい合うのか……それは、第三者が介入すべきことではありません」
一見、冷たく突き放したアドバイスのようにも思えるが、道理なのかもしれない。
重く、深い問題のただ中で、通りすがりの誰かから『がんばれよ』と声を掛けられても何も響かない。
それが善意の塊であったとしても……俺たちの時間を、その人は知らないのだから。
「……わかった。俺が思うようにやるよ」
「それでは、準備をいたしますので少々お待ちください。準備が終え次第、心象風景が現れますので、リョウさんは心の準備を」
「心と向き合うための心の準備か。フフ、皮肉ってわけじゃないけど、ちょっと小気味いいね。よしっ、いつでもこい!」
看板をじっと見る。木目には何も浮かばず、ささくれだった表面があるだけ……。
そこには無駄に煽ったり、急に距離を詰めてきたり、とても冷たい言葉を放ったり、冗談を描いたりしていた看板の姿はない。
でも――
(すぐにお前を目覚めさせてやるぜ。また話せるようになったら、今まで黙ってた分、めちゃくちゃ話してやるから、覚悟しとけよ!!)




