第58話 壊れた心
――光が見える。
あの先には草原が……。
ああ、とても懐かしい。
頬を撫でる風に、草の香りが――――って、そんな郷愁を味わっている暇なんてない!
両サイドから体をギュッと圧縮されたような息苦しさを味わいながら、渦の空間を突き抜けていく。
毎回渦に入る度に、体がぐにょぐにょしてたのは、この圧迫感を避けるためだったのか?
「ぐえええええ!」
あとちょっとで、光に触れる――
「ダハッ!」
ペッと、唾を吐かれたように渦から飛び出した。
勢いは全然衰えず、地面を車輪の如く転がっていく。
「ぐべべべべべべべ!!」
地面の凹凸に足が引っ掛かり、一度バウンドしてから地面に叩きつけられた。
「げふっ……」
遠くから聞き覚えのある声が響く。
「大丈夫かい、リョウ!」
「少年! メル、回復魔法を!」
「はい!」
幸い、大きな怪我はなく、メルの魔法のおかげですぐに傷は癒えた。おのれ~、アスカめ~。
俺はゆっくり立ち上がり、メルに礼を述べる。
「ふ~、ありがとうメル」
「いえいえ、どういたしまして」
「リョウ、いったい君に何があったんだい?」
「尋常ではない帰還であったぞ」
「え~っと、説明すると長くなるんで――それよりも看板は!?」
辺りを見回す。
近くの地面に突き刺さっていないし、誰も看板を手にしてない。
この問いかけに勇者と魔王は沈痛な面持ちを見せ、メルが俺の反応を窺うようにそっと答えを返してきた。
「今から、案内します。ですが、気をしっかり持ってくださいね……」
――――
メルに案内されて、俺のベッドが置いてある場所まで戻ってきた。
そこには、斜めに傾いた看板が刺さっている。
俺は看板へ声をかけた。
「看板……」
「 」
しかし、返事はない。
沈黙を表す「……」の表示すら浮かぶことなく、温かみを失った木目があるだけ……。
「看板? おい……看板? 看板!!」
看板は何も答えない。ただ、無音。
後ろからメルの声が届く。
「リョウさんがいなくなってからしばらくして、看板さんは何も語らなくなってしまいました」
「メル? 看板に何が起こったんだ!?」
メルは答えず、スッと視線を逸らした。
勇者は唇を噛むように口を閉ざし、魔王が惑いを見せながらも、答えを返してくる。
「看板は……貴様を傷つけてしまったことを、とても後悔していた」
「後悔?」
「ああ、とても深くな。我々が何を話しかけようとも、自分が悪い、自分が悪いと責め続けていた」
「そんな……」
「しばらくすると、看板の表面に砂嵐のようなものが表れ、その中に言語と思われる様々な文字や記号が浮かび、その文字の一つ一つが弾けて、ついには沈黙してしまった。その後は、どんなに話しかけようが刺激を与えようが、この状態なのだ」
俺はゆっくりと看板へ顔を向ける。
そして、そっと表面に触れるが、カサカサで、古びた木材を触っているかのようで、何の反応も示さない。
「看板……そんな、何が起こって……?」
勇者がぼそりと呟く。
「戦場でこういった者を何度か見たことがあるよ」
「勇者?」
「心が……重みに耐えきれなくなると、幼児のように泣く者がいた。叫ぶ者もいた。その真逆に、糸の切れた人形のようになってしまう者もいた」
「糸の切れた人形……看板は、看板は……」
俺はもう一度看板の表面に触れて、そのまま縋るように膝を落としていく。
「壊れてしまった、っていうのかよ……? そんな、そんな、そんな馬鹿なことあるかよ!」
俺は立ち上がり、勇者へ強く反発した。
「こいつはなぁ! めちゃくちゃ冷たい奴なんだぞ! 俺のことなんてなんとも思ってない! ポイントを集めさせたいだけの機械みたいな奴なんだ! それなのに……壊れる? あは、アハハハハ!」
俺は片手で顔の半分を隠して、笑い声を上げ続けた。手のひらを濡らして……。
「アハハハハ、こいつが俺を傷つけたことを後悔するはずがない! こいつはそんな奴じゃない。俺のことをただの道具と――」
――あの看板もまた、少年を模倣した存在――
アスカの言葉が、鋭い杭となって心を穿つ。
……看板も、管理者に利用される存在。
そう、看板には人格の核となる心がある。それは、俺と同じ少年を基にした――心が……。
「……くそっ! くそくそくそ! くそったれがああああ!!」
俺は頬を伝う雫を拭い去り、看板を見つめたままメルへ声をかけた。
「メル!」
「は、はい、なんでしょうか?」
「回復魔法で看板を元に戻せないのか?」
「それは……残念ながら。外傷であれば可能でありましょうが、心は。それに、看板さんは無機物ですので――」
「無機物じゃねぇ!」
「リョウさん?」
俺は看板を抱きしめる。
「こいつにも……心があったんだ。なのに俺は――冷徹な敵だと思い込んでいた。同じ、利用される存在だったってのに」
俺は三人へ振り返り、縋る声を生む。
「何か、方法はないか? 看板を元に戻せる方法は? メル、心を癒す魔法はないのか?」
「あるにはありますが……」
「だったら――!」
勇者が言葉を差し込む。
「すでに行ったんだよ、リョウ」
「……え?」
「だけど、魔法では届かなかった」
勇者が顔を伏せる。
隣に立つ魔王は一度表情を歪めるがすぐに正し、俺をまっすぐと見据え、こう答えを返した。
「看板には心があった。それは確かだ。だが、我々とは違い、肉の生き物ではない。そのため、魔法が届かないのだ」
「そん……な……」
俺は全身から力が抜け落ち、その場にへたり込んでしまった。
「わかり合えるかもしれない……そう思っていたのに」
たくさん話をするつもりだった。看板が何を考え、何を思っているのか? 俺が何を考え、何を思っているのか?
だけどもう、それは行えない……。
充血した瞳の奥に、看板の姿を宿す。
「ずっと警戒して、お前のことを知ろうとしなかった。俺と同じ心を持つ存在なのに。兄弟のような関係なのに……俺は、お前のことを何も知らない」
俺が知ってる看板。
俺を監視して、誘導し、見守る存在。
それだけだ……。
――いや、思い出せ。まだ何かあるはずだ!
こいつはポイントを管理していた――だから何だってんだ!
こいつはポイントさえ払えば、いろんなものを生み出せた――そんなの今、必要なことか!?
こいつは俺を守るためにシールドを張っていた――バカか、俺は! そんな情報に何の意味が……いや!
顔を上げて、看板の姿を見る。
「異星人の偽の神が言っていた。女神も言っていた。そして、看板自身も言っていた。看板は、看板には」
――連邦の技術が使われている――
「メル!」
「は、はい!」
「猫の一族は空間を管理する一族なんだよな」
「ええ、そうですが……」
俺は手をそっと、看板の頭に置いて、メルを真正面から見つめる。
「メルの魔法で、連邦に行くことは……できるのか?」
言われるがままに誰かを救ってきた俺は、初めて自分の意思で、救うために世界を越える――。




